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2011年9月 1日 (木)

天の功徳

驚く程はっきり見える文字、まず日記を書くことから驚きが始まった。
うす雲が掛かって見えた文字も輪郭がこれほどはっきりしたものとは思わなかった。もう数年来慣れ親しんだ文字から蘇生した思いである。

試しに側においてあるコンサイス英和辞書をパラパラめくっても、文字に何らかの違和感もない。学生時代に帰った趣である。

昨日はちょっとしくじったなあ。よく見えるようになって浮かれ過ぎ、注意力が散漫になったのであろう。
幸い骨折などはなかった。これがあると人生一巻の終わりだったのだが。
怪我も大したものではなくて、2週間もあれば完治するだろうとの医師の宣告だった。
油断大敵、人間よくあることである。心すべきことにこそ。

今思い出すと、不思議に思うことがある。
手術のことだが、まず最初の左目の時は、ときどき凄く痛む瞬間が何度かあった、城壁の様なイメージが2、3度浮かんで見えた。そして20分と聞いていた手術時間が30分は優にかかった感じがした。今回の右目の場合はさほど痛むことはなかった、イメージは谷間の古い民家や、山の木立がえんえんと続く光景などだっだ。そして今度は後で確かめたのだが45分かかったと告げられた。
同じ機械で、同じ医師スタッフで、同じ場所で、どうして眼の左右で違いが出るのであろう。

通院と入院とどちらがどうだろうと考えたりする。
家内は通院を再三繰り返している。しかも片眼が終わっただけである。私は入院2度、合計6日間で一応左右とも済んだ。
ただ予後の診察を考えると、同じ様なものかも知れない。
どちらにしろ厄介な、時間のかかる病気である。私の伯父は手術の失敗でとうとうめくらになり、数十年の余生を不自由に暮らした。
先年亡くなった、同い年の義弟も、別の原因だったが盲目になり、永い間病床に喘いだ。
私には誠に身近なところに控えた怖い病気である。

おかしな一日だ。日光のきびしい朝だったのに、昼過ぎには驟雨があっという間に通り過ぎ、洗濯物を濡らし、寝茣蓙も台無しにしてしまった。そのうち又日ざしが戻り、昼寝を終わってみるとまた雷鳴が轟き、雨雲が覆っている。
一日の行方はまだわからない。いや、3時6分またもやざぁっーと降り出した。
雷鳴もいっそう大きくなった。
一時間ぐらいいい潤いだった。すっかり涼しくなっていい気持ち。有り難い天の功徳ではある。

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2011年9月 2日 (金)

台風来ても医者通いは止められず

台風12号の影響で昨日から雨がひどくなり、今朝は風も強くなった。
家内は今日東広島市民病院行きを急遽取りやめ、来週に繰り延べしてもらう。
台風が直撃して来るかも知れない。老人のこと無理は避けた方がいい。

朝子が9日にベルギーに向かうことになったという。
もう逢えぬことになるかも知れないと思うと寂しい。私の一番末っ子の孫、かわいい子には旅をさせろと昔から言う。
無事志を果たして欲しい。
私の親たちも皆一度は海外に行き何年も苦労した。私も6年間戦地で生死の間をさまよった。
若き日通り抜けるべき、我が家の宿命かも知れない。

午前中せいこう外科に出かけたが、待ち時間1時間以上といわれたので、午後に回し、内藤内科に行く。
前立腺がんについては総合病院から手紙が来ている、よかったねといわれる。

午後4時せいこうに行き腕の治療をやっていただく、今度は客がいなくてすぐ終わった。
台風で雨風が強く、通院には難儀だから午前中に集中したのであろう。
車で走る分なら何のこともない。

損害保険会社に電話で連絡して、保険料の請求用紙を送ってもらうよう頼む。
折角高い保険料を払っているのだから、軽くても治療費ぐらいは出してもらわなくては損だからと、電話したのだが、快く了承し送ってくれることになった。

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2011年9月 3日 (土)

幸運の女神

今朝7時、気温28度と高い。台風12号はまだ四国沖に迫って上陸をためらっている。
室戸岬より高知よりの海岸である。時速10キロぐらいというのだからほぼ歩行速度。
四国山脈は高いから越えあぐんでいるのかも知れない。
どちみち中国にやってくるのは明日になりそう。

今朝は風は時折吹くが、雨はもう大分長く止んでいるようだ。
ベランダにはつゆも湿り気も残っていない。
大雨警報が出ているが、信じ難いくらいだ。このまま消滅してくれれば助かるのだが。水もこれくらい溜まればいいだろう。
鳥取の東郷池は水があふれて周辺を水浸しにしているという。

各地の風水害情報が続いている間、ただ聞いているだけでここらは雨も殆ど降らず風も時折だけで、何だか気味悪いほど変な感じである。
日ざしさえこぼれている。
おかげでゆっくり昼寝を済ましたところだが、まだ台風の中心は高松にも達していないらしい。

ゆっくり北上する台風に被害は増大する一方らしいが、こちらはどうやら進路を外れたらしく、日ざしは時間を追って強くなり、もう雨の気配は遠のいてしまった。
岡山付近にでも渡ってくるのだろうが、もう圏外になるのか。午後4時西の方から青い空がどんどん広がっている。
なんとなく助かったなという気がする。

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2011年9月 4日 (日)

中国の世紀になるのかな

朝7時気温26度、雲は多いが帯状の晴れ間が諸処に顔を出し、好天気は間違いなさそうだ。
もう風もない、台風は日本海に去ったようだ。

昨日のニュースに中国のある富豪がアイスランドに観光施設を作るといって、アイスランドの国土の0.3%の土地を購入したとの記事が載っていた。そこまでいったかと驚く。
古来中国は上には上、下には下と、世界中比類なき格差のある国である。
共産中国でも結局どうにもならなかった。

私は7年間彼らの国で生活した。いくらか知ってるつもりである。
戦後観光で出かけるたびに大変化を遂げる国民性にいつも驚ろかされて来た。
中国の漢民族こそがやはり人類最強最優秀の民族と思っている。

日本の商社がいつかやって、物議を醸したように、ニューヨークの5番街あたりを、中国の富豪が買い漁りしたら面白いだろうなと思ったりする。国の経済力なんていうものは、そうした現実をふまえないと案外理解出来ないものだ。
ユダヤ人がアメリカの経済を事実上支配しているので、ユダヤ人の真価を高からしめているが、中国人は世界を股に掛けている。
私は個人の経済力といえば中国人に軍パイをあげたい。

尻や頭の打撲の跡も、何となく感じなくなった。自分の眼の届くところでないので確認のしようがないが、もう痛みはかけらも残っていない。
腕の傷はまだまだである。ようやく出血が止まったかなといったところだ。触ると痛い。治療が難儀だが、今日は幸い休日で医者も私も一休みだ。

台風は去ったがやはり暑いことに変わりはない。まだ災害が続いている地方はほんとに気の毒だ。日本も結構広い国なんだな。

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2011年9月 5日 (月)

医者ばかりとの付き合いとは情けない

気温ちょっと下がって25度、台風一過して秋深まるの図である。
今日医者2カ所に通わなければならない。時間の調整が難しく、結局午前、午後と分けることにする。どちらも待ち時間がながく予定が出来ない。

今朝の新聞を見ると、円高を利用して外国企業を買収するケースが急激に増大していると書いてある。
昨日書いたように中国企業でもアイスランドに広大な土地を買収したりしている。金があれば当然なすべきことではある。
日本もいつだったか北海道に外資が土地買収を進めていると報道された。
平和な国際関係が齎す当然の結果である。

ただ日本の海外進出は一面国内の産業空洞化を免れ得ない。利害相半ばすというところか。
政治の要路に立つものたちの頭の痛い問題ではある。果たして今回の新政権に依存していいのか、国民自身の考え方を問われるところである。

家内も夕方近く医者に行く。もう医者との縁は切れそうには無い。
無事に平然と生きて行くことはこの歳になるともうあり得ないのか。いやでも国保のお世話にならなければならない。
老人が出しゃばるのはもう止めなければならない。

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2011年9月 6日 (火)

介護が出来る人


今朝7時始めて気温20度と秋の気候になる。正に清涼の気いっぱい満ちている。
今度の台風で死者、行方不明者併せて91名となった。まだ北海道に大雨が移っているので終わった訳ではない。
思いがけない大災難となった。
四国中国の真ん中を縦断するなどというのは始めてではないか。
被害の中心が紀伊半島というのも始めてではないが、この台風でとはちょっと奇異な感じがした。
私の地方は雨も少なく、風も涼しい程度で、またもや幸運に恵まれた。

なでしこ・ジャパンは難敵オーストラリアを1-0で下した。優勢ではあったが柄の大きいオーストラリア勢全く怖い存在であった。ロングボールが不正確だったから助かった。正確にFWの頭を狙われたら危なかった。
日本は先の選手権もいつも巨人に挟まれた小人の戦いに映ったが、その慣れもあったのかも知れない。
足下を転がす素早いパス回し、やはり作戦があるものだなあ。

野田内閣が発足した。人気投票が70%とは驚いた。
やっぱり国民は馬鹿だなあ。俳優選びのような気持ちなのだろう。
相手の自民が今腰が抜けてるから、実行を急ぐことだな。

家内の幼友達の高木さんが昨夜電話して来て、家内と長話をしていた。
最近彼女はその姉とその母を相次いで見送ったという。老母は107歳だったという。
看病疲れか、彼女自身も得体不明の病気にかかり、しばらく静養していたという。
未だに逢いたくても体調が回復できないから、先に延ばしたいとのことだったと私に話してくれる。
彼女は生涯を何人もの親族の看護に尽くして、その人生を終えんとしている希有の人である。
結婚する暇もなかった。自分の最後はどうなるのだろう。

八十数歳にしてなお人の世話をする。過酷な運命と言わずしてなんだろう。
えらい人だなあ。

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2011年9月 7日 (水)

老人のブログは面白くないだろう?

とうとう20度を割って、今朝の温度は18度と涼しい。
秋たけなわということか。
立ちくらみが少なくなった。やはり血管のゆるみ加減が変わってくるのだろうか。

このライオンというOSは私にとっては分が過ぎた気がしてならない。
音楽の取得は永年使っているソフトTOASTでは新しい#11でも、トラブルになってどうにもならない。
Power PCの入っている古いマックでなんとか処理している。毎日何時間もやってる作業だから使えないとなると全く困っちゃうなである。
手回しが良過ぎて却って不便である。Snow Leopardにとどめるべきだった。

午前11時前せいこう外科に出かける。肘の傷が化膿している。右腕はほとんど治りかけているのに。
傷の場所によってやはり治癒速度が違うらしい。

どこの病院でも待ち時間にはiPhoneを取り出して、ネットインしたり、本を読んだりしているので、老人のこと何をしているのかといくらか気になるらしい。看護婦連中がいろいろ尋ねてくれたりして煩わしい。
今日は蔭の方で隠れてやっていたのだが、やはり駄目である。手を添えてもらわなくてもいいのだが、転んだ怪我だから、信用してくれないのは仕方がないかな。

私のブログへのアクセス数が8月に入って30%も増えた。しかも早朝に多い。暑くて眠れない人が多いのだろうか。
若い時は私も夜更かしは得意な方だったが、今はもういけない。昼も夜も寝てばかりで、若い日のもとをとっている。
ということからどうやら若い人がよく侵入し始めたということかな。

私のブログはだらだらと長く、愚痴めいていて面白くも何ともないだろうが、それでも老人とはと疑惑の眼で眺めたくなるのか。

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2011年9月 8日 (木)

なでしこジャパン辛うじて引き分ける

今朝は21度と普段に戻っている。この辺の2、3度は感覚に随分違いがあるものだ。
明日は朝子が鹿島立ちするので、昨日電話で励まして置いた。今日は成田に一泊して明日の午出発すると聞いている。
彼女が凱旋するまで私の寿命が持つであろうか。
今年の現在の体調では甚だ心もとない。
でも再会は何んとしてでもしたい。成長した姿が見たい。

一日一日薄氷を踏む思いの毎日だが、誰しもが歩む道筋であろうか。末期的症状とはこんな気持ちを言うのだろう。
がんの宣告でも受けて、予定された死期をベッドの上で静かに待つのであれば、覚悟も決まってよかろうが、私のようにはっきりしないで、うろうろとくだらぬ思いに取り付かれて、待つ身も辛く、馬鹿げていて笑いたくなる。
友人たちは最後の日をどうして暮らしているのだろうか。
私は修業がまだまだ足りないらしい。

今朝はカセットテープの残り2袋をゴミ捨て場に捨てに出かけた。5、60米のところまでヨロヨロと歩く。
行きは手に荷物がぶら下がっていたからまだ安定がよかった。帰りはあちらへふらふら、こちらへふらふら、思わず失笑してしまった。もうまともに歩くことも出来なくなった。

両腕のけがから9日目である。老人の怪我はやはり治りが遅い。
風呂にもまともに入れない。洗面は眼の手術で禁止されていたが、1週間過ぎたので今は手の先でちょろちょろと顔を洗っている。
身体は一人ではどうしようもない。頭を下げて家内に洗ってもらうことになってしまった。
夫婦だから遠慮はいらないわけだが、満身乾癬や外傷であざだらけ皺だらけ、やはり気が引けるものである。
家内に改めて嫌われたのではないかと心配である。

なでしこジャパンと北朝鮮の一戦、これはもう危ないと終始手に汗を握らせられた。
若い力は恐ろしい、平均年齢20歳の若い北朝鮮に走り回されてほとんどシュートチャンスがなかった。
オウンゴールの拾いものの得点も、すぐ集中攻撃で返された。よくも引分で済んだものである。

次は地元の中国である。簡単には行かないだろう。
何が起きるか判らない。幸運を祈るだけだ。

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2011年9月 9日 (金)

人間の運不運

又台風14号の接近で、紀伊半島方面は大雨になるらしい。土砂崩れで出来たダムが崩壊寸前という。雨でも降れば又大災害である。哀れとしかいいようがない。東北といい紀伊といい、安全とは言い難い場所に住まねばならぬ人たち、といって災害はどこにも来る。災害列島日本である。逃げ場はない。
私も今は安全と思っているが、いつ天変地変に襲われるか判ったものではない。いずれ我が身かと思う他はない。

なでしこジャパンは中国がオーストラリアに負けてくれたので、次を戦わずしてオリンピック出場を決めた。
3回連続というから立派なものだ。ともかく本舞台に出なければ始まらない。ロンドンが楽しみだ。

男子はホーム&アウエイだから、まだ4試合残っている。何とも言えない。男女ともと行きたいね。

今日は中国では重陽(ちょうよう)の節句と言う。所によっては祝賀行事が行われる。中国に7年居たからいくらか知っている。
4百余州広い中国のどこへ行っても大変いい季節であった。

家内は広島市内の病院へリウマチ診察を受けに、私は近所のせいこう外科へ傷の手当を受けに11時前後に家をそれぞれ出る。
私はポケットを探ると一文無しである。はてなどこで落としたんだろうと探したがわからない。
仕方が無いから近くの銀行のATMから金を出して行く。
診察を終わって金を払うとき、受付の女性が昨日金を落とさなかった?と聞く。
あなたがいた場所からお札を掃除の人が見つけたという。
iPhoneをポケットから出す時に付いて出たらしい。
私は昔から財布は持たない主義だから、裸銭をズボンの左ポケットに入れて、どこに行く時でも持ち歩いている。
だから時々免許証や最近はiPhoneついて出ることがある。大抵気づくのだがときに気づかないことがある。その時はもう縁切れでしかたがない。
もちろん後で出てくることは先ずない。
もっとも小銭の場合は音がするし、ころころ転がるから眼につく。大抵人が教えてくれるのだが、お札の場合は無愛想だから誰も気づかない。

たまたま病院で心がけの良い人ばかりだったから、私を特定して探し出してくれた。
幸運だった。
たまにはこんなこともあるのだなあ。

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2011年9月11日 (日)

孫との通信

一昨晩、夜中に朝子ら姉妹のメールのやり取りが、iPhoneから入って来る。
通信手段に使っているiPodがうちのiPhoneと同期しているからこんなことが起きる。
iPhoneと同期しているパソコン本体にも当然入っている。
当人たちはご存じないところが面白い。
朝起き抜けに朝子にメールを送っておく。時差7時間あるからまだ真夜中だろうが。

蒸し暑さのせいか少し気分が悪い。
腕の治療に出かけて1時間待たされたのが響いて、体調がよくない。
とうとう夕食はパン半切れとサラダを少々といったところで止める。いつもの半分だ。
風呂にも入らずにさっさとベッドイン。

今朝気温25度、真夏の朝が戻って来た感じ。
強い日差しは朝早くから、猛暑になることはもう間違いない。
朝子は無事ブリュッセルに着いたかしらと気になる。始めての欧州一人旅だからさぞかし大変なことだろう。
昨日こちらが出したメールはどうなったのだろう。音沙汰ない。日本語では駄目なのかな。

今日はどこの空港も厳戒態勢だろうから、旅行はしんどいな。しかしもう着いている筈なんだが。一度千代に聞いてみるか。

丁度10時頃千代から電話が入る。まだそちらにも連絡は入っていないらしい。もっとも学校の所在地まで鉄道旅行が待ってるので、それどころではないだろう。
千代のところへもロシアの空港からの連絡が最後で後は駄目らしい。

学校へ到着すればそれはそれで、用事はいくらでも発生する。
まあ気長く待つ以外になさそうだ。
親の気持ちは大変だろう。外野ががやがや言ってはいけないな。

もちろんパソコンも持って出かけたし、ケータイも国際式を持ってるし、通信にこと欠く様なことはあるまい。
いい時代だなあ。

16時頃千代から現地時間の午前7時ころ(14時)朝子が無事学校の寮についたとメールが入った由、安心。

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2011年9月12日 (月)

秋の気配未だし

朝の気温24度、すっかり晴れ上がり紺碧の青空、昨日よりもっと天気がよさそう。
予報では33度まで上がるとか。猛暑は治まりそうにない。

昨年も今頃暑かったようだから、この時期まだ残暑の時期というべきかも知れない。秋はまだまだだ。
新聞休日とあって、何か朝がものたりない。最近は毎日三度三度目薬を注すのが日課だから、やるべき仕事はちゃんとわきまえてはいるのだが、新聞が一つ欠けると老人は手持ち不沙汰が否めない。

ふと気がつくと蝉の鳴き声はちらとも聞こえない。いくら暑くても蝉の時期はもう秋になっているのか。
庭の片隅にある夏みかんやゆずの実が大きく膨らんで枝をたわめている。こちらはもう少しで秋だ。

午後3時せいこう外科に行く。午後1番乗りだったから、すぐ呼び込まれて治療を受ける。
右腕の一番広く皮膚がまくれて、出血の多かった傷が後一息のところまで治った。
まくれた皮膚を元通りに引き戻して、小さなテープ10本ぐらいで貼付けたのだが、いい方法があるもんだなと感心させられたが、先生がおっしゃる通り一番早くよくなった。
他の傷は深いので、自然に肉の盛り上がりをまたねばならない。
1カ所はまだ膿みが出ている。数日はかかりそうである。
老人は治りが遅いですねと問いかけると、仕方がないね、若い者なら2、3日で治る。もっともあんな怪我はしないがねとの返事。

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2011年9月13日 (火)

やはり故郷のことは気になる

昨日に増して日本晴れ。
好天気が続く。朝晩はめっきり涼しい。やはり秋。

家内専用のウインドウズパソコンも新聞の電子版はこれでないと見られないので仕方なく見る。
本紙を取っているのでほとんどは同じことだが、ただ地方版が本紙より多い。
特に郷里の山口県の動向が気になる。だから山口県関係だけ熱心に見る。

一昨年の妹の交通事故死もいち早く載ったと、紙上で見た義弟がその日のうちに電話して来た。
やはり郷里でのことは知っておくべきだとは、この時程痛切に感じたことはない。

どこの家庭でも親兄弟の居る郷里のことは出来うる限り知りたいと思っている。これは誰しも抱く人情というものだ。
札幌の友人でさえも、この地方の災害でもあると電話を掛けて来る。
東北の地震、紀伊半島の風水害、皆痛ましくて黙って見ては居られない。
知り人あれば声を掛けてあげたい。

今日も午後から医者通い。3時前に行く。誰もいない。照りつける日ざしのもとでは誰でも出歩くのは嫌と見える。
すぐ終わってまた明日というわけ。
かんかん照りで、日脚が長くなったので、部屋の中程まで届いて暑くてベッドにも入れない。
追い出されたように下の階に降りて、予備のベッドに横になる。

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2011年9月15日 (木)

熱中症か老人病か

昨日は怪我の治療が1カ所に縮まった。
肘だけになったがこれはもっとかかりそうだ。まだ痛い。

今日も快晴の日が続く。今朝の気温は14度。
8時広島総合病院皮膚科に行く。チガソンの量を半分に減してもらう。
帰りに血液検査。
帰路今度はせいこうへ寄る。
傷の治療と立ちくらみの原因を調べてもらう。
血圧が低すぎると言われる。貧血はないとのことで、前立腺の薬の副作用だろうとのこと。
夕方に呑むようアドバイスされる。

どこも順番が早く10時半には家に帰ることが出来た。
しかし暑いなあ。
シャワーを浴びてやっと平常心に戻る。

一寝入りして食事に起こされる。食欲がまるでない、口を付けたがどうしても食べられない。
とうとう半分は残す。
私も熱中症なのだろうか。
いや単なる老人病だろうか。

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2011年9月16日 (金)

孫留学しても慌てない

今朝の新聞を見ると、トップに公的年金の減額検討とある。とうとう来たかとの思いである。
そもそも厚生年金なるものは、戦時中インフレを押さえる目的もあって給与から天引きし、何十年も後の老後に戻してくれるという約束のいわば保険みたいなものであった。途中で死んだら僅かな慰労金がもらえるだけで、全く嫌な制度だった。
戦争はひどくなるし、どんどん死んで行き、老後など考えられなかった。

何十年も発ってなんとか日本国が生き残った。年金が嘘でなく貰え始めた。
今度は貰う人が多すぎるようになった。
私ならずともいずれ払えなくなるだろうし、払わなくなるだろうと意地悪く思っては居た。
所得税、住民税も上げるという。それでも足りないから年金を月二千円も減らすという。
まあ仕方がないだろう。現実呉れる方がまだ多いのだから。

しかしこれからの若い人は考えるだろうな。30年40年先日本という国、社会が変わらず存在するという保証はどこにもない。
関東東海大震災は目に見えるところまで近づいている。
日本の心臓を一撃されて、生きられるのだろうか。東北でもこんなに大変なのだから。

娘から電話が入る。朝子とはskypeを利用して40分ぐらい対面電話したという。
寮の部屋や外の風景までカメラを回して映してもらい、よく分かったと安心した様子。
同じ部屋の韓国の人もいい人らしく安心して勉強が出来そうな由。ただし日本からの留学生が多く、下手に交わると語学勉強に支障が出そうでもあるとの事、やはりどこにいても心がけ次第という事に変わりはない。

朝子はすでにあちこちと海外経験が深いだけに、ケータイなどもそれ用の設定をあらかじめしていたので、他のものが通じなくて困っている間に、学校当局との連絡その他皆彼女がすらすらとやってのけ、一日の長を発揮したらしい。
我が孫ながらあっぱれである。

私はskypeはまだその気はないが、最近gmailを増やしたし、niftyやmacもあるし、連絡にこと欠く事はない。

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2011年9月17日 (土)

孫女に期待する

ここのところ体調が今ひとつであまり元気が出ないところだが、朝子が留学を敢行した事は何と言ってもこの老耄の心の底に埋もれていた勇猛心のかけらをゆさぶってくれる。
行く末を見届けるところまでは、残念ながらあきらめているが、来年修業を終えて復学するくらいは見届けたい。ということはまだすぐ死ぬる訳に行かないという事である。

神が許すかどうか、ともかく今まで通り天に任す以外にない。
90年も生きて来たのだから、1年くらい間違ってもいいだろう。

小さい時はちょっと茶目っ気があった子だが、本を読むのが好きで、熱中して読んでいた。
近くに居ない子だから、よくはわからなかったが、学校の成績もいいし、going my way 左顧右眄する事がなく、まっしぐらに成長したようである。
女の子だからちょっと残念だが、今の世はチャンスは男と変わらないだろう。
要は心がけ次第だ。
今まで通り積極的に向かって欲しい。

夕方パソコンに入って見ると朝子からメールが届いている。
私の書いたメールの返事らしい。そつなく知りたい事を順序よく書いている。
環境の写真も貼付してある。便利がいいもんだな、国内も海外も変わる事なく意思が通ずるのだから。

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2011年9月18日 (日)

めまいやたちくらみ、もはや末期的症状か

沖縄の南に居座っている台風15号の影響で、この方面まで天気はよくない。
紀伊半島はまたまた大雨の被害が出そうである。
今朝の気温は24度とまあまあだが、長く続いた秋晴れも一休みと言ったところか。

昨夜朝子から貰った写真やメールのお礼を昨夜のうちに出しておく。見られたかどうか、時差もあるからわからない。

昨夜からめまいがちょくちょくあって気になる。始めてだからとまどう。
ベッドから立ち上がる時、椅子に座る時など瞬間目の前が近く遠くふわっと回転する。ものを掴む余裕はない。
テレビが時々やる瞬間的な画面転換の様な感じである。
立ちくらみとはちょっと感じが違う。
人生末期になるといろいろあるんだなあ。
覚悟はしているが、ある瞬間ばったりいくのかな。
こうして書き残しておくと、案外参考になるかも知れない。

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2011年9月19日 (月)

果たして老人は祝日の対象たりうるのか

老人の日ということのようである。
市の主催の会合があって招待を受けてると家内は言う。
家内一人出かけて私は出た事はない。あまり意味があるとも思われない。

孔孟の時代から年齢により区別し過ぎるが、格別意義が生ずるとは思われない。
孔子が四十にして惑わずなんて言うものだから、後世の凡人どもが迷よいに迷っている。
今時こんな無駄な浪費は止めた方がいい。

孫の留学で気がついたのだが、インドや中国の若者たちの留学数は凄いらしい。
留学先の大学の様子をうかがってみると、中国は4百人以上、インドも百人以上、その他多数の国が続いているが、日本の表示は見えない。ベストテンにも入らないのであろうか。

老人なんかに金を使うより若者の留学にでも使ってもらいたいものだ。
こんなことでは日本の未来はない。
明治維新当時の喧伝された欧米に学ぶ思想を思い出してもらいたい。
今の日本はもう外国に学ぶ事はないとでもいうつもりだろうか。

今ラジオが80歳以上が86万と伝えている。いい事か悪い事かわからないが、当事者としてはうれしいことではない。
実際は政府も国も困っているのではなかろうか。
世界中皆そうだから医学の進歩がもたらしたものだろうが。

現在は老成国ばかりが世界を牛耳っているおかげで、永い間爆発的なインフレなどは起きていない。
老人がはびこっていると浪費はしないが、景気の昂揚も起きない。
そこえ行くと今後中国やインドは危ないかも知れない。

今日の産経を見ると、中国の自動車保有台数が1億を越えて、世界第2位になったという。第3位の日本は7900万台というのだから、随分差を付けられた。インフレになっても国が大きいから余裕はあるだろうが。


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2011年9月21日 (水)

台風の当たり年か

台風15号の接近に伴い被害のひどさが伝えられる。しかし昨夜はかたことと風の音は一晩中続いたが、雨はほとんど降らなかったらしい。今朝見ると濡れた気配は見えない。気温も23度と少し高い程度。
不思議な様な気持ちである。
ここいらは台風の影響をちょっと外れているのかもしれない。12号もそうだったし、今度もそうだ。幸運というしかない。

台風の余波とみえる風は北風で、冷たく直接身体に当たると寒さを感ずる程。熱帯の風では無い。

中国の最近の政治の動きが明らかにおかしい。南シナ海の領有権主張、海軍の増強と西太平洋での軍事演習、そして今又三菱重工などへのサイバー攻撃、軍事優位をアジアに誇りたいのであろうか。まさか今時戦争を意図している訳でもあるまい。
もっとも台湾を国内の1省に収めたい念願は終始生き続けているだろうが。

古来漢民族は異民族を同化することの上手な民族である。長い歴史が証明している。
もし日本が先の大戦で大陸を支配していたら、いずれ蒙古や満州族と同じように日本列島もろとも同化したであろうにと、言った有名な中国人がいたことがある。

中国のとげはいつも白人がもたらす。現在はアメリカである。もっともアメリカはだんだん白く無くなりつつあるようでもあるが。
そのとげを排除するには今が良い機会と見たのであろうか。同盟国日本は今最弱の民主政権だし。
魚釣島はちょっと押しただけで、あのあわてふためきぶり。

台風はいよいよ東海地方あたりに上陸しそうな気配、予断を許さぬ強さが心配だ。

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2011年9月23日 (金)

自動車と運命を共にするのか

日本晴れが続く。一歩外に出ると気温15度、薄着したままでは寒い。
放射冷却現象かも知れない。
カーテンを開くと、朝の日ざしが部屋の奥深く射し込みまぶしい。

昨日は久しぶりに車で高速道を走った。百キロも出すとちょっと緊張する。今まで無かった気持ちである。やはり年齢のせいかな。
歩くよりは確かだと自分では思ってるのだが、他人から見るとそうは思っていないらしく。大丈夫ですかと心配してくれる。
自分では何度か転んだせいもあってか、歩くのにふらついてステッキをついてもどうも頼りにならない。
車はその点ハンドルさえしっかり保持すれば勝手によろめくことはない。よほど安心である。
うんと眼もよく見えるようになったし、死ぬまで運転はやめられそうにはない。
満二十歳から運転技術を叩き込んでくれた軍隊のおかげである。これも一つの運命というものだろう。

私は学校を卒業する際、満洲自動車製造株式会社を志望して受験した。
満洲重工業開発(株)の子会社で、もちろん独占的国策会社である。
ところが試験場で試験官から同社はまだ発足はしたが、会社の実態はまだ無い。同じ子会社の満洲鉱山会社に行ったらどうかと勧められた。無いものに行く訳に行かないから、お勧めに従った。これも運命だった。
その翌年徴兵されて軍隊に入ったら、出来たばかりの自動車聯隊に入れられた。間接的に望みを果たした事になった。これこそ不思議な運命だ。
運命のままもう70年自動車から離れられない。自動車と一緒に死ぬるのかも知れないと今は思っている。

午前9時、空をふり仰ぐと紺碧の雲一つ見えない。
正に秋分、真っ盛りである。

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2011年9月24日 (土)

私の行楽

今朝は白い雲があちこち見えるが、依然として好天気が続く。気温は昨朝と同じ15度。

猛暑が治まったからか、立ちくらみやめまいがこの数日起こらない。
起居動作も割と快調である。ちょっと変な感じである。階段を上がるとやはり息がせっつくことは変わりないが。

せいこう外科に腕の治療を受けに出かける。午前中、しかも連休の狭間とあって凄い客の量、1時間半待たされる。
今日で最後と言われる。後は自然治癒でよろしいと。
必要があれば家庭用の傷テープを貼れとの事。
それにしても長くかかった、今日が25日目だから、ほとんど一月。大怪我といってもおかしく無い。ちょっと転んだだけなのに。

ともあれなんとか治ったから良しとするか。

午デパートに行き食事と買い物に付き合わされる。もっともほとんどiPhoneで小説などを読みながら待つばかりだったが。
文芸春秋からインストールしていた戦艦大和の最後を伝える生き残りの証言集を改めて読み返す。
また太宰治の”人間失格”も読む。往来の激しい人ごみの中、我関せず焉で黙々と字面に目を走らす、その幾時間たるや知らず。
帰宅したらもう3時。涼しい日だったから人の多少は問題にならなかった。
家内は結構歩きつかれたらしい。
付き歩いたらひどい目にあったかもしれない。

今日も終日いい天気、行楽を満喫した人も多かったのでは。台風被害にあった人は悪いくじ運を引いた感じでその余慶を蒙る事は出来なかった。罪作りな神業ではある。

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2011年9月25日 (日)

こんなにいい天気なのに、老人のお笑い草

4日続く快晴、どうなってるんだと言いたいくらい。夜明けの気温少しさがって14.5度。

各地で渋滞が続いたらしい。気候は良いし皆どっと行楽地に繰り出したわけだろう。
間もなく紅葉のシーズンにつながる。しかしもう人並みに観光ツアーに加わる事は出来なくなった。情けない事だがしかたがない。
家内を巻き添えにするのは忍びないが、本人もリウマチで自信を失っているのでどうしようもない。

紺碧の空が美しい。珍しく連日続く。もう何年もこんな空模様にはお目にかかった事が無い気がする。
部屋に射し込んで来る日ざしも嬉しくなったこの頃である。
老妻もせっせと洗濯に忙しい。

今珍しく淡谷のり子のブルースの歌声がうちのスピーカーから流れ出ている。
昨日から掛け流しのDVDアルバムの中の一節である。そこら中の音楽を録音したものだから何が出て来るやら自分でも判らない。
時に落語も対談、民謡まで出て来る。朝起き抜けには中村紘子などの”大公トリオ”が目を覚ませてくれたのに。

午後2時薄い雲が出て来て、空をほとんど覆い尽くす。やっと快晴続きに終幕を引いたらしい。
休日もぼつぼつ終わるのだから、もう堪能した頃だろうし、幕引きもうまくあわせた感じでよかった。

山崎武夫さんの”ふるさとの歴史”を見ると、私が幼い時から言慣らして来た”えんげし”という山は”縁ヶ石”なる山らしい。
標高丁度百メートルとある。子供には遊ぶのにちょうど手頃の山だった訳である。
山名にまつわる故事来歴は別になさそうだ。何の意味か、誰が付けたか皆目分からない。

所有者があるのかしらないが、権現様があるのだから、部落共有だったかも知れない。
誰彼おかまいなく、松茸を探し、薪を集め、また遊びの場所でもあった。
山のはげ具合も当時は眺望にちょうど良く、走り回るにももってこいだった。
半世紀以上ご無沙汰しているのだから、今を語る資格は無いが。

因みに、すぐ近所に見える山容の美しい平家山は150mと書いてある。その北に連なる峰は1954年頃は私の所有であった。
当時の日記帳に資産目録の写しがあるが、山林:本谷416番地、地積3反8畝22歩、地価1万1千5百80円也とある。
十年後倒産して失い、現在は他人様のものである。

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2011年9月26日 (月)

墓掃除と墓に入る予定

今朝は気温18度と思いがけず後戻り。この辺りの気温の差が体温に関係大有りで、うっかりすると時期でもないのに風を引いたりして、体調を悪くするから気をつけないといけない。
昨夜は7時頃には寝床に入っていたから、形の上では12時間ぐらい寝た事になる。
おかげで寝る前くしゃみが出たりしていて風呂にも入らずに寝たが、もうなんでもない。

寝ながら本を読み、音楽を聴く、いつもながらのスタイルだが、11時過ぎには音楽も電気も消して、ぐっすり眠る事が出来た。
長い体験が自然と無理はさせない。90にして惑わずということかも知れない。

午前8時半薄い灰色の雲を通り抜けて、日ざしが弱々しく部屋の中まで入って来た。
朝食のとき妻が墓の掃除に行こうという。年に一度の我が家の行事である。無住の墓でも放っておけば草の根が怖い。

午前十時過ぎ出かけて、1時間ぐらいで終わって帰る。少し気分が悪くなったので昼飯は控える。
両隣の墓地がまだ墓が無く草地のままなので、それも境を接したとなりの事なので、草だけは始末せざるを得ない。
秋分の日にお参りされた殆どの墓に、花などが生けられたままで賑やかであった。

そういえば、今日もそちこちにお参りされている人たちが三々五々見受けられる。
家内は私が死んだ後歩いては参れないから、大変だとこぼしているが、一人で来なくても娘らを誘えば良い事で、そのぐらいの暇は取れるだろうと思っているが、今口に出していうことでもあるまい。
何時死ぬるのか予定がまだ立っていないんだから。

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2011年9月27日 (火)

周恩来を日中とも忘れてはならない

朝6時目が覚めたので起き出す。ちょっと生暖かいのでベランダの温度計を見る。
気温22度となっている。湿度が77%と高い。
なんだこりゃ。夏に戻ったか。

7時改めて玄関の温度計を見ると、19度となっている。これならおかしくない。
それでもやはり少し戻り気味の気配だ。

空はだんだん晴れ上がって、青い秋の空いっぱい。今日も天気は良さそうだ。
小沢の秘書公判が皆有罪となった。まだまだ続く裁判だろうが、何にしても金で動く政治はなしにしてもらわねば、一般国民はたまらない。民主政治とは金も時間もかかる。これが欠点といえるかもしれない。
だからといって国民は拙速を強いてはならない。

昭和の初め国民は短慮に急激な膨張政策の政府を後押しした。そしてあの大戦へ駆り立てた。
国民の拙速への傾斜が導き出した不幸であり、身から出た錆であった。(他人事のように言うが国民は勿論私自身を含んでいる)

一ヶ月近く掛かった腕の傷もすっかり治った。乾癬のかさぶたと重なり合っているから、傷跡は醜い。
老醜そのものである。昨夜は風呂の中で浸けて洗ったが痛くも何ともなかった。

秋深まるとともに気持ちもしゃんとしてきたのか、よろけたり、めまいしたりすることは少なくなった。
油断はならないが、急がなければいいだろうと、その気で暮らす事にした。
まあどうなることやら。

先日のテレビで周恩来のことをやっていた。私も尊敬している人物である。
文化大革命をよく忍従し通して、鄧小平を登用し今日の中国の隆盛を齎した名宰相と言って過言ではなかろう。
彼のおかげで日中の国交も回復し軌道に乗る事ができた。
どちらにとっても大恩人といってよい。
毛沢東そしてその四人組の天下になっていたら、今日の一枚岩どころが国家分裂でも起きていたかもしれない。
日本もそのとばっちりをまともに受けていたことだろう。

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2011年9月29日 (木)

戦場の不可解さ

夜明けが遅い。ひさしぶりに雲の厚い空、太陽も顔を出しにくいのだろう。
といって予報では雨には夕方までならないらしい。ところにより降るかもしれないと言った状況。
気温も21度と生暖かい。
東京の娘に家内が電話で様子をうかがったところ、朝子は元気ならしい。
どこも二人暮らしになり、賑やかさはまるでない。宿命というべきか。
煩わしくても赤ちゃんが居る時が一番賑やかで張りがあって人生の盛りだったと気づく。

これからはもう減るばかり、桑原々々。

戦史叢書の”広西の会戦”を今読みまくっている。
衡陽で3ヶ月も手コズッタのに、その後、あっというまもなく桂林、柳州が陥落した。しかも同じ日に。
この本を見てみると、敵将白崇禧は早くから逃げ支度をしていたようである。張本人はアメリカのスチルウエイ顧問らしい。
こんなのを読むと、小説よりも奇なりで、いろいろな教訓が含まれていて面白い。

何時だったか、他の戦争記事を読んでいるとき、夜退却して行く敵軍の中にまぎれて、我が軍の斥候がうまうまと敵中深く侵入したということがあった。その斥候は便衣を身につけ、中国語をしゃべり、あらかじめそれをもくろんだということだった。
戦国時代の戦いにはよくあったことらしいが、戦うものにもそのくらいの工夫はいつもあったということだ。

私の戦争にも不可解なことは多い。
終戦二日後即ち昭和20年8月17日の夜、軍命で長沙への復路の道を急いでいた。昼間は盛んに道路を挟む山々で銃声砲声がしきりであった。途中の南岳市では包囲され激戦中だった友軍警備隊を救援し,敵を撃退した。
その夜の宿泊地を求めて、前年の19年8月から12月まで宿営し宣撫地としていた花蕚郷板塘(軍秘匿名で広東橋と呼称していた)に夜9時頃辿り着いた。
こんな遅い真っ暗な時間に、部落の住民が張ったばかりのテントに多数やって来て、歓迎すると言って、民家に連れて行き、宴をはって供応してくれた。
そのとき彼らは日本は負けて、帰国しても米軍に占領され、家は無くなり家族もどうなっているかわからないだろうと口々に言った。だからこの地に留まれ、我々が協力してなんとかするとまで広言した。
私はそんな馬鹿な事があるかと怒って反論した。
私は部隊長から停戦になったとだけ聞いていて、敗戦なんて信じられんし、先ほどは敵と交戦し撃退したばかりだったし、信じる環境にはなかった。

翌日長沙に入って唖然とした。軍も部隊もすでに敵さんの待ち構える捕虜収容所に入れられ、迎えに来た久田部隊副官の指図で粛々と収容家屋に入る他は無かった。
事実はやはり敗戦だった。しかも無条件降伏だった。神風も何もありはしなかった。
呆然とまるで記憶に残らない数日を過ごした。

気がつくと、銃も剣も皆とられて、僅かに背嚢一つ背負って、とぼとぼと列となって公路につながっていた。

広東橋の住民たちは何故あの時すでに敗戦を知ってたのだろうか。勝利の喜びを出さずに、われわれを迎えむしろ歓迎してくれたのだろうか。
あの夜の遅い時間に、多数で迎えてくれたこともよくわからない。
この地に宿営する事は、敵を退けて警備隊の将兵たちを本隊に送り届けた後、もう暗くなり始めていた時刻、始めて私が決めたことだから。総数七十数名といえども私が最高指揮官だったのだから、私の知らないところで何があったのか。

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2011年9月30日 (金)

戦場の不可解さーつづき

夜来の雨は午前7時すでに上がっている。

昨日あんな事を書いたが、一つ、二つ思い当たることがないこともなかった。
一つは給養係をしていた犬養兵長の越権行為かもしれないこと。
彼は隊の給養を役目上取り仕切り、物資の購入などを通じ、住民との交流は緊密であった。
個人的にも村の長老から、彼の祖父が犬養首相という中国建国の父孫文の恩人でもあった事は駐留後まもなく知れ渡っていたので、黒瑪瑙の印鑑を彫ってもらったりしていた。
その関係で近くに居た村民が見つけて急報したのかもしれない。
もう一つは救急医療に熱心に従事していた池本兵長の線である。彼も一人で宣撫区域を歩き回り、有力な土地の親分と称する者と義兄弟になったとか噂されていた。この土地ではすでに知らぬ者はなかった。
彼が声をかけたか、或は見つけられて声をかけられたか、あり得る事ではあった。

ともかく隊の者全員が住民と実に懇ろになっていたことは間違いない。私も住民たちとしばしば個人的な交わりをしていたから。
所謂気心がすっかりあの4、5ヶ月の間に知れ渡っていたということだろう。

湖南省というところは、風土といい、人情といい、日本と誠に良く似ていた。私ばかりでなく他の部隊の兵たちからもよく聞いた話である。敵視される事はまるでなく、むしろ敵情をよく教えてくれ、友軍の救援、敵侵入の撃退などいちはやく行動を開始する事が出来たりした。隣県の花石県からは宣撫区域に入れてくれと使者が来た事すらある。

ついでに言うと、翌年2月から7月まで駐留した桂林郊外の周家村とはその部落住民との交流密度はまるきり違っていた。
どうしても彼らの輪の中には入れてもらえなかった。
末期には隣村に設置したアルコール工場が、ある日仏暁敵軍の包囲攻撃を受け、本隊から救援を出し撃退はしたが、両方とも戦死者をかなりの数出した。

苦しい事のみ多かった戦中生活にあって、今なお古里を感ずる程懐かしい土地ではあった。

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