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2011年7月 5日 (火)

若き日の日記より

古い日記をひもどいて見る。
就職で満洲にに行く直前の学生最後の年のものである。
私の時代は否応無しに兵役というのがあった。しかも折しも戦争たけなわの時であった。
自ずから青春時の覚悟も、いずれ臨むべき戦場を見てやろうと言う、現在とはまるで意気込みが違っていた。

思いがけず一年前事故死した妹に関連した記載があった。
そして亡き母の手紙も書き写していた。
昭和15年1月17日
夕食を終えて帰途、ふと妹がピアノ教則本を送ってくれと云っていたのを思い出した。風呂に入って後、街へ出て堀楽器店へ行く。
どうもあの白粉をこてこてと塗り付けて壁の様な顔をしている店主マダムは気に食わないが仕方がない。「ピアノ教則本がありますか。あのソナチネとか云う?」て問うとあると云う。次ぎが気に食わない。「2円50銭ですよ」と脅かしゃがる。
高いなあと嘆息でもつこうものなら、お帰りなさいとでも云いそうな顔である。面が憎いから「ええ、いいです」と歯牙にもかけぬ素振りをして見せる。

が内心驚いた。えらい高いものを金も送らずにしゃあしゃあと買ってくれとはよくも吐かした妹めと何となく金が惜しい気持である。仕方がないから本をちょっとぱらぱら捲って買うことにした。包装さして所書きをすると澄まして出てやった。ほんとにピンからキリまで憎いやつである。

昭和15年3月7日
満洲へ行くのも後十日余り。愈行くとなると予想外に準備とか、片付けて置くべきことが多いのに驚く。そしてそれが為に何となく不安を感ずることが偶ある。
ぷいと山口へ行くように気軽に行けぬものかなどと思ってみたりする。又関釜連絡を20日頃から割り当てにするとか。こんな事が出ると又ひどく不安さが加わる。海外へ自由に往来出来る様な
日が来ないものかと歯がゆい気持である。
 週末試験第2日の2月20日。この日は嬉しい日だった。即ち会社からは赴任案内状を送ってくれるし、試験は良く出来たし、又母から為替百四十円也と手紙が来たのであった。母からの手紙は全く久しぶりであるし又父亡き後の僅か一人の親の手紙でもあるし、学校生活最後の手紙でもあると思われてひどく心を打たれた。これを写し取って記念としたい。

一筆
 お手紙有がとを 其後はげんきにべんきょとの事私しも安心致ました 次に私方一同無事にてはたらいて居りますから御安心下さい
 大ぶんさむさもおろかになりましたが でもかぜをひかぬよをにしても をべんきょもすこしになったのですから大いにどりょくしてさい後のしけんにうんとよいせいせきでそつきょをして下さい 母はそれをたのしみにまって居ります。又父上もくさばのかげでおまえのそつぎょをまって居られる事で有ましょを もう少しのそつぎょがまたれなかったかと思へば私だんねんでなりませんがそれもやくそくならしかたが有ません もう思まいとをもってもなんにかにつけてはすれる事ができません(註:父は昨年11月23日病死していた)
 今年のしょ月つはなんともいへぬ正月をしました はかもしげの事へいしょにしてたてました 二百二十三円か々りました びょきからほうじで一千円か々りました お金が大へん入りました じせつがらでたかいのでしかたが有ません 
金は送りましたからうけとりて下さい 其金一百四十円送りました うけとりて下さい どうかいりよをならしかたがないがむだなとこへつかはぬよをにして下さいよ どうかからだにきよつけてうんとどりょくしてよいせいせきでそつぎょをして下さいよ 父と母とう一しょと一年でした
                                    さよなら
                                     母より

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