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2011年7月 1日 (金)

消費税とうとう10%

夜中にかなり降っていたが、夜が明けると雨は止んでいる。
いくらか涼しい朝である。

消費税を10%にすることが決まった。数年先までに段階的にということである。
敢えて、混乱を招こうという訳か。国民の人気をおもねって情けない政治家どもだ。
消費が増えなくては税も増えない。所得税も増えない。所得が増えなくて消費が増えるのだろうか。
そこらあたりをどう考えているのかな。

来月から宮島の水族館が復活する。動物園、植物園と近所に皆出そろう訳だ。
この老人にもこのあたりなら出かけられる。ありがたいことだ。
人の多くない日に、たっぷりと時間をかけて見たいものだ。

午後遅く内藤内科に行く。食欲がなく下痢をしたなどと言って、腹の具合を打診してもらう。異状はないといわれる。
夏は食欲がだれでもなくなるから、塩、砂糖にレモン汁を混ぜたものをこしらえて飲めとその処方を教えてくれる。
家内は梅焼酎を飲めというが同じようなものだな。
珍しく外来が少なくすぐ終わる。
夏はみな動くのもいやなんだな。

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2011年7月 2日 (土)

you tubeなるもの

朝7時気温24度、今日はいくらか暑くなりそうな雰囲気である。曇って入るが明るさが違う。
ネットで天気予報を見ると、最高気温40度とあり、やっぱりとがっかり。
終日裸で暮らすことなりそうである。

パソコン雑誌でyou tubeの紹介記事が載っていたので、隅から隅まで読む。
若者に凄い人気らしい。ツィッターが人気だと聞いてたかが、これはケータイ側の話で、パソコンでは単純過ぎて図体にふさわしくないなと思っていたが、you tubeなら丁度いいだろう。
最近は本格的な動画まで扱えるとか。短編映画くらいなら見終えるわけだ。

忙しい時代だから、寸刻みの生活がかかった人には無理だが、いや、夜寝ないつもりなら誰でも可能ということか。
ちょっと覗いて見ると、世界全国はもちろんどんなテーマでもかまわない。画像になるものはことごとく見られる。
専門のカメラマンのものでなくても、普通の人たちが簡単に日常のことを乗せている。
誰でも出来るということがいい。

もうブログも追いつかなくなるな。
伝搬速度がまるで違う映像を駆使するのだから。

北朝鮮でもいずれ鎖国して隠していることも、隠し仰せることができなくなるだろう。
見せたくない恥部は一般国民が一番見たがっている。かくも簡単に人目に曝されるのだから。

午後足の爪が布団に引っかかって困るので、その爪先を取り除こうとしていたところ、腰を無理に曲げすぎてギクッとくる。
いわゆるギックリ腰である。もう痛くて動けない。
とうとうサロンンパスを貼ってもらって寝込む。
自動車の運転も出来ないので家内は歩いて買い物に出なければならない。
老人は何が起こるかやはりわからない。

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2011年7月 4日 (月)

空襲被害補償など今更止めてくれ

朝5時40分突然ザァーと雨の音、驚いてカーテンを引く。まもなくパッと止む。
又寝床に戻る。7時起床、気温25度。少し涼しいかな。

昨日からの腰の痛みは少なくなったが、どうかすると腰が抜けた状態になる。
階段を下りる時が特に怖い。右足が突然なくなった状態になる。手すりを捕まえていないと転び落ちる筈である。
ときどきひやりとさせられる。

今朝の新聞を見ると、太平洋戦争の空襲被害という見出しで、援護法制定への動きなどと書いている。
何を今更である。私のように当事者で生き残っているものはそう多くはないだろう。その当時生まれても居なかった子孫まで対象にするとあっては、全く馬鹿げているとしかいいようがない。

すっかり運命を狂わせられたものばかりである。戦争当事者だから応報があっても仕方がないと心得るべきである。
それでも平均的でなかったからと言われればそうかもしれいが、これを立証する手段は皆無である。
平地に波乱を生ずるようなものであるから止めた方がよい。

先日も広島県知事が原爆被害者について、その補償の権利発言に物議を醸したやに聞くが、私は補償を貰えることの特権をありがたく思う必要はあると思っている。戦争被害は原爆だけではない。
国民は皆その補償のため税金を払っているのである。被害を受けたものでも除外はされない。
私自身も軍役に徴せられた代価として、僅かな恩給を給せられている。
青春時代を放棄させられ、家屋敷も破壊しつくされたが、その代償と思って自己満足している。
今となっては、この老耄への一掬の涙とでもいうべく、ありがたい限りである。
その一方私とて、それを所得に加算されて、各種の税金など負担させられている。貰い放しでは決してなさそうである。

今更空襲被害など持ち出さないで欲しい。
現実の世界はそれどころではないのでは。それらの対策こそ万全を期して欲しい。

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2011年7月 5日 (火)

若き日の日記より

古い日記をひもどいて見る。
就職で満洲にに行く直前の学生最後の年のものである。
私の時代は否応無しに兵役というのがあった。しかも折しも戦争たけなわの時であった。
自ずから青春時の覚悟も、いずれ臨むべき戦場を見てやろうと言う、現在とはまるで意気込みが違っていた。

思いがけず一年前事故死した妹に関連した記載があった。
そして亡き母の手紙も書き写していた。
昭和15年1月17日
夕食を終えて帰途、ふと妹がピアノ教則本を送ってくれと云っていたのを思い出した。風呂に入って後、街へ出て堀楽器店へ行く。
どうもあの白粉をこてこてと塗り付けて壁の様な顔をしている店主マダムは気に食わないが仕方がない。「ピアノ教則本がありますか。あのソナチネとか云う?」て問うとあると云う。次ぎが気に食わない。「2円50銭ですよ」と脅かしゃがる。
高いなあと嘆息でもつこうものなら、お帰りなさいとでも云いそうな顔である。面が憎いから「ええ、いいです」と歯牙にもかけぬ素振りをして見せる。

が内心驚いた。えらい高いものを金も送らずにしゃあしゃあと買ってくれとはよくも吐かした妹めと何となく金が惜しい気持である。仕方がないから本をちょっとぱらぱら捲って買うことにした。包装さして所書きをすると澄まして出てやった。ほんとにピンからキリまで憎いやつである。

昭和15年3月7日
満洲へ行くのも後十日余り。愈行くとなると予想外に準備とか、片付けて置くべきことが多いのに驚く。そしてそれが為に何となく不安を感ずることが偶ある。
ぷいと山口へ行くように気軽に行けぬものかなどと思ってみたりする。又関釜連絡を20日頃から割り当てにするとか。こんな事が出ると又ひどく不安さが加わる。海外へ自由に往来出来る様な
日が来ないものかと歯がゆい気持である。
 週末試験第2日の2月20日。この日は嬉しい日だった。即ち会社からは赴任案内状を送ってくれるし、試験は良く出来たし、又母から為替百四十円也と手紙が来たのであった。母からの手紙は全く久しぶりであるし又父亡き後の僅か一人の親の手紙でもあるし、学校生活最後の手紙でもあると思われてひどく心を打たれた。これを写し取って記念としたい。

一筆
 お手紙有がとを 其後はげんきにべんきょとの事私しも安心致ました 次に私方一同無事にてはたらいて居りますから御安心下さい
 大ぶんさむさもおろかになりましたが でもかぜをひかぬよをにしても をべんきょもすこしになったのですから大いにどりょくしてさい後のしけんにうんとよいせいせきでそつきょをして下さい 母はそれをたのしみにまって居ります。又父上もくさばのかげでおまえのそつぎょをまって居られる事で有ましょを もう少しのそつぎょがまたれなかったかと思へば私だんねんでなりませんがそれもやくそくならしかたが有ません もう思まいとをもってもなんにかにつけてはすれる事ができません(註:父は昨年11月23日病死していた)
 今年のしょ月つはなんともいへぬ正月をしました はかもしげの事へいしょにしてたてました 二百二十三円か々りました びょきからほうじで一千円か々りました お金が大へん入りました じせつがらでたかいのでしかたが有ません 
金は送りましたからうけとりて下さい 其金一百四十円送りました うけとりて下さい どうかいりよをならしかたがないがむだなとこへつかはぬよをにして下さいよ どうかからだにきよつけてうんとどりょくしてよいせいせきでそつぎょをして下さいよ 父と母とう一しょと一年でした
                                    さよなら
                                     母より

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2011年7月 6日 (水)

もう少しましな大臣はいないのか

大陸の空気が南下して来てるのかいやに涼しい。午前7時の気温は22度である。
肌シャツ1枚では寒い。
今朝鹿児島辺りは大雨らしいが、2、3日前伝えられた梅雨前線はなかなか去っては呉れないようだ。

初代復興大臣が止めたとか、私は聞いていないが不適切発言があったとか。
管総理の責任だと皆言っている。
ぼんくら生徒ばかりを担任している、よかよか教師の様である。
500人も居る生徒が駄目なら、民間から引き抜いたらどうなのか。少しはましではないのか。

管総理に止めてもらっても、代わりがいるのか。今更小沢は嫌だよ。腐敗天国になって世界の物笑いになるばかりだ。

今が出番だと中国が軍事力まで誇示し始めた。アジアの風雲急と言うべきか。
大正末期日本が軍備拡張を唱えて、勢いを増し始めた頃によく似ている。
日本は結局墓穴を掘ったが。
南沙諸島が中国の領海内だというのは、どう考えてもおかしい。どんな地図を描いているのだろう。
沖縄のすぐ北に油田を掘ったり、妙な地図を考えてるらしい。太平洋にも領海権があると思ってるようだ。

永らく鳴りを潜めていたが、この国も”元”という世界を震撼させた時代があったのだから、前科がないとは言えない。

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“小川の辺”はやはり娯楽映画か

大陸の空気が南下して来てるのかいやに涼しい。午前7時の気温は22度である。
肌シャツ1枚では寒い。
今朝鹿児島辺りは大雨らしいが、2、3日前伝えられた梅雨前線はなかなか去っては呉れないようだ。

初代復興大臣が止めたとか、私は聞いていないが不適切発言があったとか。
管総理の責任だと皆言っている。
ぼんくら生徒ばかりを担任している、よかよか教師の様である。
500人も居る生徒が駄目なら、民間から引き抜いたらどうなのか。少しはましではないのか。

管総理に止めてもらっても、代わりがいるのか。今更小沢は嫌だよ。腐敗天国になって世界の物笑いになるばかりだ。

今が出番だと中国が軍事力まで誇示し始めた。アジアの風雲急と言うべきか。
大正末期日本が軍備拡張を唱えて、勢いを増し始めた頃によく似ている。
日本は結局墓穴を掘ったが。
南沙諸島が中国の領海内だというのは、どう考えてもおかしい。どんな地図を描いているのだろう。
沖縄のすぐ北に油田を掘ったり、妙な地図を考えてるらしい。太平洋にも領海権があると思ってるようだ。

永らく鳴りを潜めていたが、この国も”元”という世界を震撼させた時代があったのだから、前科がないとは言えない。

午後映画「小川の辺」を見に行く。
筋は小説同様単純で、映画はそれ以上に丁寧に説明を加えているから、非常に判りよい。
藤沢小説の描く、武家社会の理不尽な厳しさを、余すところなく描写している。
只それだけと言ってもよい。
兄弟同様に育てられた新蔵という下男を介在させた事により、残酷な兄妹の殺し合いが防げたことが、この話の結末に希望を与え、悲劇に終わる事から救った。
観客は皆ミーハーだから、いそいそと満足して帰って行った。
山田洋次監督のやはり佳作と言ってよいだろう。風景描写はすばらしかった。

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2011年7月 7日 (木)

長男の幼き日懐古

家内が七夕などと口走るが、この土砂降りでは気分が出ないよなあ。
昔でいえば節句の一日だが、母がどの節句でも、餅をついたり団子をつくったり、ままごとみたいにご馳走付を作って、子供たちを喜ばせたのだが、長男の私はまたやったかと長ずるに従って、何だか疎ましくうれしがった記憶は残っていない。
なにやかやと手伝わされるのが嫌だったからかも知れない。

私は長男だから赤子の時は大事にされたのであろうが、物心ついてからは父にも母にも怒られてばかりで、いい印象は残っていない。
餅でも寿司でも、親戚などへの配り役は皆私だった。
遠いところは1里以上もあったから、自転車もなく自分の足で歩くだけのお使いだから、うれしい訳がない。
1カ所などという事は先ずない。5、6ヶ所から10ヶ所ということもあった。私一人がお使いだから、なさけなかったなあ。
竹やぶの中にあった親戚に使いにやらされた時、山犬の群れに囲まれてぞーっとしたことは忘れられない。奴らは鼻がいいから、木の枝をひろって追っても、逃げるどころか数を増して追っかけて来た。
もう14、5歳になりかけていたから、襲われはしなかったが、もう少し小さい時なら完全にやられていただろう。
昭和初期の狐も狸も家の回りには沢山うろついていた時代だから。

資源ゴミを捨てる日だが、この雨では袋に入れたり大変だから、用意した段ボールや図書類は一旦倉庫に戻す事にする。
回収業者もかなわんだろうからな。

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2011年7月 8日 (金)

孫の欧州留学

朝から26度と暑い。もう本格的だ。
腰の調子は相変わらずで、ストンとした脱力感がひどく、そろそろとしか動けない。
始めて味わう気持ち悪さである。
格別痛い訳でもないし、医者に聞いたって仕方がない気がするので、目下医者に行く気はない。

階段の上がり下りがだんだん難しくなって来た。
が、窓からのそよかぜはいい気持ちだし、扇風機の風も涼しくて効果的で、階下のベッドに引っ越す気にはまだなれない。
横着だよ、俺は。

家内は今日も又目医者に出かける。予後が大変ならしい。
暑くなると外出もどうでもよくなる。出かけるのか億劫そうである。

孫の欧州留学が9月に決まったらしい。いよいよで緊張している事だろう。1年というのだから、短くはないな。
岩倉遣欧使節に従った14、5歳の少女たちと比べたら随分楽な筈だが、彼女たちも多数にまぎれてまだよかったかな。
女の子でも自由にあの欧州まで勉強に行けるなんて、ほんとに時代が変わったのだなあ。
私も長生きしたおかげで、こんな事まで見届けられる。幸せすぎるよ。
それにしても圭さんが転勤したし、急にどたばたと娘も大変だな。大切な時期だから。気力を振りしぼってがんばってほしい。

今11時51分中国新聞より中国地方の梅雨明け宣言が出たとiPhoneの着信ベルが鳴りメッセージが届けられる。
お知らせはありがたいが、気ぜわしい時代になったもんだなあ。

サンフレッチェが勝ったよというメッセージは至極ありがたいのだが。欲が深いな、俺は。

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2011年7月 9日 (土)

緊縮財政は今あり得ないか

今朝も6時現在26度。昨夜は風があったので、蒸し暑さはあまり感じなかった。
しかし扇風機はヨッピテ掛け放しにはなった。

昨夜HNKのテレビでいろいろ噂の絶えなかった坂本龍馬暗殺説の決定版とも思われる、確証が現れたということで、この放送を録画したくなったので、NHKオンデマンドに会員登録をした。2週間以内ならオンデマンド録画が出来るらしいので。

新撰組がやったとか、西郷隆盛がやらしたとか、噂が絶えなかったが、やはり会津侯松平容保の命令で、京都見廻り組佐々木只三郎以下が、確かな情報を掴んで切り込んだ事に間違いないらしい。
龍馬が薩長倒幕密約斡旋に尽力した情報がすでに所司代側から京都守護職に洩れていたという事だった。

しかもそれが味方であるべき土佐藩側かららしい。もっとも藩主山内容堂は幕府寄りの殿様で、坂本らの行動を苦い顔で見ていた筈だから、同士討ちの可能性なきにしもあらずだった。
あの勤王一枚岩の薩摩でも寺田屋事件という同士討ちを起こしている。
不可解なようでも、やはりちゃんとした理由があったのである。

オンデマンドで検索したが出て来ないので、再放送がないか番組を検索するとBSで明日の昼やるというではないか。
そちらを早速タイマー設定をしておく。今頃は便利だなあ。

今早々と送られて来た文芸春秋をめくり読んでいる。
石原慎太郎と藤原正彦の対談「日本人よ、自らの剣で運命を切り拓け」を先ず読む。
1000兆円の国債に、貯蓄が1000兆円と藤原は釣り合ってるから大丈夫なように言う。しかし石原は日本の貯蓄伝説は過信されてるなどと口を濁して賛成しない。
景気の良い二人だがなかなか一気には盛り上がらない。

別のページに行くと、浜口雄幸の話が出てくる。緊縮政策で日本国内が大不景気に落ち入り、憤激をかって井上蔵相ともども暗殺されてしまった。私の小学生時分のことだった。
浜口は死の直前動かぬ身体で国会に登壇し国民に詫びた。
その英雄的行為も国の財政を命を賭けて守った行為に他ならない。

1000兆円もある借金を、今の政府はどうする術も持ち合わせない。
支出をなしにして緊縮財政に持って行くなど夢物語である。
世が世なら総理の命は何人も必要となるはずである。

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2011年7月10日 (日)

あわれ、老いのよすぎか

なんとか朝もやの中から、日の光が届き始めた。むっとした熱気すら伴って。
梅雨も上がったし、猛暑が間もなく到来する事だろう。今朝も気温は26度と変わらない。
朝早くから小鳥たちのさえずりが森の中程にぎやかである。小鳥を追いいためる子供の減少が相対的に小鳥たちに安心感を与えているのであろう。
猪、鹿、猿などの野生が人里を怖がらずにうろつき始めたと同じである。
押せば引く、引けば押される、自然の摂理は浅はかな人智の及ぶところでは無い。

寝たり起きたりの毎日だが、腰痛のおかげでそれすらもスムースにさらさらとは実行出来ない。
一々苦痛が伴う。こうしてある日突然起き上がる事も出来なくなるのだろうか。

何日ぶりの青空だろう。
10時半昼寝からさめて窓越しに空を眺めると美しい紺青の空がのぞいている。
梅雨の去った事が正に実感出来る。

家内が上がって来て、買い物に出たいがいけるかと問いかける。
車ぐらい運転出来るだろう。出来るよと軽くうなずく。日曜で人が多いだろうが、と、ちょっと困った風情。

11時を過ぎて楽々園に出かける。ここは駐車場が沢山あるから休日でも大丈夫だ。
本屋で文庫本を1册購入。
12時過ぎ食事はしないで帰宅。
かんかん照りの中、暑気疲れをしたようで食欲もない。
また横になると眠くなる。

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2011年7月12日 (火)

馬鹿な老いの繰り言

朝5時半に目覚めて何だか眠れない。テレビのスイッチを入れBS1にチャンネルをあわす。
イタリアの金融危機を伝えている。ギリシャ、ポルトガルに続いて、イタリアとスペインも危ないという。
日本と同じように、税金をとるというとすぐ人気が落ちて、政権が維持出来なくなる。勢い国債を増発する。
金利を上げなくては買ってもらえない。借金はどんどん雪だるまになる。
返済不可能である。
金が有り余って、外債を買い漁っている中国のような国が沢山あればいいが、世界はそんな国ばかりではない。
日本もそのうち外債に頼らなくてはならなくなるだろう。今の政権なんかばらまきばかり考えて、尻拭いを子供手当を出した後世代にお返しさせるつもりらしい。破綻は目に見えている。
正に人ごとではない。

誰が考えたか高速道路を無料にする、造成費の回収が済んでも居ないのに只にして、その借金を一般国民の税金に肩代わりする。馬鹿げていてお話にもならない。
今度の大震災でも、復興するには10兆円もかかるという。朝野をあげて真剣に考えろと言いたい。
総理を変えたら魔法の宝箱でも出てくるというのか。

電力問題でも、太陽光でも、風力でも、高速道路みたいにやる気を出して、国を挙げて実行すれば実現出来ない事はない。
頭をひねっていては何も出来ない。要は泥をかぶっても断行する意力だけだ。
それを実行出来る人材が居ないとなるともはやなにをかいわんやである。

昼寝からさめると、掛けっ放しのDVDがモーツァルトのフルートとハープの協奏曲を演奏している。楽しそうないい曲だなあ。なんだか頭がすっきりする。
雑念はもういい。つまらぬ頭でいろいろ考えてもろくな事にはならない。

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2011年7月14日 (木)

病院の待ち時間

午前4時過ぎ目覚める。まだ深夜放送をやっている。
腰の痛さがきになるし、ビデオカセットは捨てなければならないし、広島総合病院には行く日だし、あれやこれや気になって眠っては居れない。とうとう起き上がってしまう。

夜明けになるや、腰の痛いのをだましだまし、ともかく用意したビデオカセットのゴミ袋を台車に積み込んで、ゴミ置き場まで運ぶ。家内が私がやるから置いておけというのを、こればかりは俺が巻いた種だからと思いつつ意地を通す。

少し早いが食事を終えるとすぐ、病院に出かける。
昨日車を降りるとき、腕の皮膚をこすってまくれ傷の血がにじんでいるの先生に見つけられ、治療をせられることにる。
水で洗い洗剤で更に洗い、手荒い治療に思わず悲鳴がでる。
薬をつけるというから、いいからとことわる。それでもガーゼや包帯と大げさである。
おまけに中性脂肪値が高いから、もう一度血液検査をして帰れと命令される。
飲み薬を変えなければならないかもしれないからと。前回から二月にもならないのにと思うが、仕方がない。

どれも待ち時間が長く、おいそれと済む訳には行かない。すっかり時間を取られて、帰宅したのは10時半頃。
ドアを開けて家に入ると、家内は心配して長女のところに電話の最中。どうかしたと思ったらしい。

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2011年7月15日 (金)

解放された妻の一日

昨日の疲れが残ったか、目覚めがおそくなった。
相変わらず腰が不安でスムースに動けない。このまま朽ちて行きそうな感じだ。

家内はどこかへ出て行った。たまには一人でゆっくりショッピングを楽しみたいのだろう。
私も付いて歩いて、待たせられるばかりはごめんだ。

家内は裏の上野さんの奥さんと一緒になり、広島市内まで行ったそうである。
帰りは今度は松浦さんと出会い、誘われてお宅まで邪魔をする。

話し相手というものは女には特に良いものらしい。
夕餉はすっかり楽しそうである。

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2011年7月16日 (土)

熱中症が怖い

朝6時半青空とは行かないまでも、わずかにうす雲がかかるだけで陽光がまぶしい。
気温すでに27度。蒸し暑くなりそうである。
全国的に熱中症が大変らしい。外に出て働くもの、高校球児の野球大会らは特に発生が著しいとか。
家の中に居ても老人などはやられるらしいから、家内はせっせとお茶を飲ませてくれる。

午後の昼寝をたっぷり取って、2時半からまたパソコンに向かう。
カンカン照りだからベランダから熱気が舞い込み、さすがに今日は扇風機も効果が乏しい。
好きな音楽も却ってうるさくなるもんだな。今やってるのは”火の鳥”だからよけい悪いようだ。

今朝やがて捨てる予定のビデオからDVDに”たそがれ清兵衛”をダビングする。見ているとさすがによい。
筋が違っては居ないかなと、本を引っ張り出して読み直す。大分違っている。
最後まで見るとやはり他の作品と混ぜてあるようだ。
ときどきこんなのがあるので騙される。しかし無理なくつながれて良い作品に仕上がっている。
山田監督の手腕だな。

最初は帳簿役だったが、途中倉庫係になって、殿様から臭いと注意される。ちょっと変だなとも思ったが、昔のお城勤めのことなど一般観客に判る筈がない。そうなんだと思って見るしかない。
時代劇はここらが面白いところだ。文句をいうなど言う方が馬鹿げている。
それしても先般見た”武士の家計簿”は史実に忠実に描かれていて、それでいて面白かった。大変な傑作だったな。

パソコンに向いてる時は忘れているが、燃えるような熱気に気づいた途端、病気になった気分だ。
あきらめて下に避難する、熱中症がこわいぞう。

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2011年7月18日 (月)

なでしこジャパン遂に世界制覇

朝から蒸し暑く気温28度。
早朝から女子サッカーの決勝戦で眠れない。
とうとう延長戦に入っても、両者1点づつ加えて、2-2のままPK戦に入る。
日本のGK海堀の絶妙なセーブで3-1で勝利をもぎ取ってしまった。
世界の場での優勝は日本サッカー界始めての快挙である。歴史の浅い女子チームがいち早く駆け上ってしまった。

誰かが小さな身体でと言った。
決勝の相手はドイツもスエーデンもアメリカも皆大きかった。大人と子供の試合としか見えなかった。
事実馬力も違っていて、シュートの強さは素人目にも桁違いだった。
この強いシュート力を自在に発揮させては、日本に勝ち目はない。
細かなパスをつないで全員で押し上がり、混戦の中をお得意のパスを通すだけだった。
最後のアメリカ戦も勢いでは負けても、ボール支配率では勝っていたのでは。
大和撫子の意気は凄い。男はますます頭が上がらなくなるな。

夜が明けるまで熱心に見ていたので、いくらか体調がおかしくなり、嘔吐しそうなので、食事を抜いて再度ベッドに潜り込む。
10時半まで熟睡して、起き上がる。
家内の買い物を手伝って、昼飯はやっといくらか食べる。
テレビを見たくらいでこれだから、もう生きてる値打ちはない、情けない事だ。

台風6号が四国沖を北上中でここらも風がだんだん強くなっている。
今のところ小雨程度だからこちらはまだ害はない。

選手たちは悪い時に帰ってくる。それが一番心配だ。

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2011年7月19日 (火)

なでしこ凱旋

家内を斉藤眼科に送る、眼底検査があるとか。
台風の影響で風が強い。突風気味に時々強く吹く。銀行に立ち寄って帰宅。
丁度折よく浄化槽の点検に来る。中に蚊がたくさん発生していたとか。
空気の圧縮ポンプが機能が落ちているから、あと1、2年で更新しなければならないという。
お前のところで2003年に付けてもらったのだが、そんなに寿命が短いのかと聞くと耐用年数は7年だという。
どこ製だというと問うと、フィリッピン製だと言う。こんな簡単なポンプなどは日本では作らんのだろうな。
それでは仕方がないなとあきらめる。

なでしこ達が無事帰ってくる。空港は大変なにぎわいだ、
台風より一足早かったからよかった。11時間でドイツから帰れるんだという。文明のおかげだな。

やっぱり大きくはないが大したもんだな。荷物を乗せた車を押し乍ら、ちょろちょろ出てくる。
このちょろちょろが案外大きい男でも女でも苦手なんだな。
しかし吹っ飛ばされながらよくやった。疲れるのはいっしょだから、頑張れる方がやはり強かった。
遠くから拍手を送ったよ。

昼前には家内が帰宅する。
別状はなかったらしいが又2週間先に来いと言われた由。いつまで続くのか目医者通いは。

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2011年7月20日 (水)

悪魔の死への誘い

台風6号は何の害をもたらすことなく北東に去った。
近畿以東は大雨で気の毒である。東北は又の災害で慰める言葉も出ない。
天の神はあくまでも非情である。

今朝は気温は27度とまあまあ、風の余波があるから涼しい。
恵まれた環境に涙さえこぼれる。

水戸君から見舞い状をいただく。わたしは億劫なのと体調不良で出す気がしてないのだが、貰った以上お返事はしなくてはならない。彼も何年も癌と戦っていて、万全では無い。それでも暑中見舞いが書ける。気力がしっかりしている証拠だ。
残り少ない中の学友の一人だ。健康を祈る。

午後になると、いつものようにかんかん照りの真夏日。
扇風機3台でなんとかしのぐ。裸で居られるのがよい。
しかし頭脳が麻痺されて、ブログに書こうとするような思いはまるで浮かばない。

10歳のとき近くの遊水池で水浴びしていたとき、屯兵衛樋門の深みにはまって、溺れてしまい危うく死ぬるところであった。一緒に遊んでいた従弟が大声を上げて人を呼んでくれた。
海水を一杯飲んでずぶずぶ沈んで行く自覚があった。途端大きな腕が身体が抱え上げた。
馬鹿者が!危ないじゃないか、こんなところで遊ぶな!
一喝が私を何年も海から遠ざけた。そして90歳を過ぎた。
従弟はもう十数年も前この世を去ったのに。

夏になると、やはり子供の水死は絶えない。自然現象というべきか。
悪魔の誘いだとも言う。

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2011年7月21日 (木)

おっちゃんはまだ迷っているのか

台風一過しても冴えない日が続く。
まだ物足りないと言いたげな空である。

昨夜不思議な夢を見た。遊んでいる仲間におっちゃん(おにアクセント)がいるのである。
まだ盆には早いがどうしたことだろう。引き取り手がないと原爆記念碑の過去帳に書いてあるので、行く先を案じてさまよっているのだろうか。

彼の事はこのブロッグにも4度も主題として書いている。
私の日記帳にも戦前には何度の何度も出てくる。1945年8月6日姿を消してからもう逢う事はない。
墓もないから逢いに行く所は原爆記念碑だけである。
これも滅多に行く事はない。人が多いから嫌なのである。
でも面影は焼き付けられて忘れ得ない。

2006.7.19に書いたブログを思い出してみよう。
「先日のブログで書きながら気づいた事がある。正木よしお即ちおっちゃんのことである。(”お”にアクセントがある。)
あの中で書いた様に、彼は小学校高等科を卒業して就職、私は3年後中学、専門学校と進学の道を行き、何年も郷里から離れた。
当然お互いが交わる機会はうんと減っていた。
しかし彼は私がうちに戻っている時、飄然と私の前にしばしば現れた。
私の記録している日記にも、忘れて思い出せないものが度々出て来る。
専門学校1年のときの夏休みに、自分のものでもない他所のダブのポンポラを揚げて、二人でうなぎを取ったなど全然覚えがない。しかし自分の日記にちゃんと書いている。
泥棒したことである。焼いて食べたのであろうか。そこまでは書いてない。
正月休みにはよくやってきたことは憶えている。彼だけでなくその他の滅多に来ない友人たちでもよく訪ねて来て、友人たちの鉢合わせになったりした。田舎の事だから人恋しいのである。しかし彼は5歳も年長のすでにおじさんに近い。

昭和15年の元旦に新天座に映画を見に連れて行かれた。何を見たかは書いてないからわからない。しかし彼は給料取り、私はまだ学生、当然かれのおごりだろう。
現在の様に電話や携帯などという便利の交際手段はない。手紙は返事を聞くまでには1週間以上掛かって間に合わない。いきおい訪ねるのが手っとり早いというわけである。
彼は春休み、夏休みなどによく現れた。
しかし昭和15年も暮れに、軍隊に入るため1週間前に満洲新京の会社から帰郷した年末31日に彼が私を広島に連れ出し、自分の職場まで案内し、初日の出を宮島の弥山頂上で拝もうと、引っぱり歩いた行動はどうしても不思議である。
もちろん家族には私の帰国を知らせていただろうから、そちらから情報を入手したのであろうが、広島に通っている身でいつ知ったのであろうか誰に聞いても分からなかった。
彼も最後の別れなどとは思っていなかっただろうし、原爆など考えた事もなかっただろう。
小さいときから肉親の如く育んだ私への思いがそうさせたとしか思い様がないし,霊感などというものが働いたのであろうか。」
つづいて2006年7月13日のブログを読んでみよう。
「正木よしおさん
幼時の想い出がほとんどだから日取りなどは定かではない。彼の名前も漢字がどれになるか、聞いた事がないのでわからない。
私が気づいたときは、彼の家族は私のうちの別棟の納屋に住んでいた。
従って、両方の屋根がくっついて居て,その下に大きな通路があり、井戸も風呂も共用していた。
もちろんこの通路の両側には扉があって夜分は閂で閉ざされる。国道に面した扉は開き戸で、庭に面した扉は格子の引き戸だった。
子供には境界はないので、勝手に行き来していた。時には食事も彼のうちでよばれたりした。
小学校入学より先か後かも分からない。がともかく私より5つ年上のよしお(私は”おっちゃん”と呼んでいた)さんは何かにつけて私の先生であった。
彼には私が”おばさん”と呼んでた彼の母親と姉と兄がいた。おばさん以外は私には遠い存在だった。(もっとも姉は既に嫁ぎ、兄は町の商店に奉公していて、同居はしていない)
いつもおっちゃんのけつについてその真似事をして、育ったようなものであった。
彼は物凄い読書家だった。その小遣いはほとんど豆本(手帳程度の大きさの講談本)に費やされたのではないかと思われる。読み終わると、私にくれて新しいのを駅まで行って売店で買い、又読み始めるの繰り返しだった。
大きな声で読まされた、そして内容を教えてくれた。
友達はいなかったのではと思う。彼が誰かと遊ぶことなど気づいた事がない。
こうして私が4年になった頃彼は高等科を卒業して何処かに就職(確かおばさんの伝手で帝人岩国工場だったと思う)し、私の父が帰国して来たので、納屋を明け渡して貰い、彼ら一家とはお別れした。
おっちゃんもやさしかったが、おばさんはもっとやさしかった。私をミーちゃんと猫を呼ぶ様な声で呼んだ。
この事は後に昭和14年8月21日の日記に、随筆風の思い出記として長文を書き残している。
この中でおばさんのご主人は戦争で亡くなっておられ、人絹工場で働きながら3人の子を育てて居られたことが記されている。
うちに居られた当時が一番苦しかった時代ではなかろうか。
ともあれ彼と道はすっかり別れて、彼は職場に、私は中学,専門学校と進み、どちらかというと私は彼を殆ど顧みる事などなかった。それでも夏休みなど彼が水泳に誘ったり、うなぎをよそのダブ(養魚場)に取りに行ったり、したことが日記に出て来る。
私が学校が休みになるとひょっこり現れて、遊びに誘ったらしい。
昭和15年1月1日彼は例によって年賀に訪れて、私を近くの新天座という映画館に誘い出した。
その年の暮れ12月31日入営のため満洲から帰郷していた私を誘い出し、広島に連れて行った。
彼はどこでどうしたのか、勉強して広島市役所の建築設計の仕事に就いていた。
休みの役所の中の職場に案内し、やりかけの設計図のかかった設計机を示して得意げに説明したりした。
彼がこの職にたどり着いた道のりは知らないが、正規の学校も出ずにここまで来た彼に敬意は払わずにはいられなかった。
彼は彼から見れば、いつまでも子供の殻を付けた私をおとなにさせようと思ったのか、その帰路飲みに行き、夜になって小網町の遊郭に連れて行かれた。
宮島の弥山に登り初日の出を拝もうという段取りの、待ち時間としてであった。
二度と生きて今生で会う事はないと思ったかどうか、彼のにじみ出る好意を甘んじて受け従う私だった。
予定取り山に登り、日の出を待った。
暗闇の中を上り下りするので足をくじいたりして大変だった。
しかし、彼とはこれが永遠の別れとなった。
5年後私が中支戦場をうろついているころ、彼は昭和20年8月6日8時15分原爆で還らぬ人となった。
兵役は免れていたのだろうが、戦は戦場だけではなかった。
爆弾投下前、相生橋付近を歩いていたのを見た人がいたと、後日おばさんから聞いた。」


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2011年7月22日 (金)

7月22日深夜便でのシミヌキの話

先ほどまでラジオ深夜便で八王子のクリーニング店主で鈴木昭一さんとおっしゃる84歳の方が、シミヌキこそ究極のクリーニングであると、事故の経験談を話されていた。

私自身1965年から69年までクリーニング店を経営した経験があるので、興味深く最後まで傾聴した。
シミヌキ作業は雇ったクリーニング師数名がやってくれてたから、私が差配をやくことはあまりなかったが、実際に持ち込まれた中には従業員の手に負えないものも勿論沢山あったりして、放っては置けないこともあった。

仕方がないから懇意にしていた当時市内第一のホテルのクリーニング部長によく相談に行ったものである。
素人の私が習ってもうまく行く訳がないので、お願いして実際にやってもらったりした。
この人はまもなくホテルを辞めて、クリーニング店を始められたので、難しいものは皆そこに持ち込んだ。

深夜放送を聞くと、パリのクリーニング業界からでも、日本着のシミ抜きの教えを乞いに来られるくらいだから、大変な苦労をなさった所謂その道名人の職人さんらしい。
日本着というのは、数百万円もするものから、由緒があってかけがえのないものまで、高価珍重品の代名詞でもある。
シミヌキなどとなると、普通のクリーニング師の手に負える代物では無い。パリでも困るわけである。

シミヌキとはやはりそうだったのかと、今思い当たるふしが数限りなくある。
私自身後にクリーニング師の免状を取り、実地に仕事をしてみたが、雑な頭ではとてもこなすことの出来ない奥の深い作業ではあった。
今夜の鈴木さんはおそらく日本きってのシミヌキ名人とも称すべき方であろう。江戸時代以降の八王子という土地柄が必然的に生み出したシミヌキ名人かも知れない。

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2011年7月23日 (土)

60歳代の仕事は楽しかった

朝の気温25度、ちょっと涼しいかな。
昨夜はなぜかよく眠れた。湿度が低く、比較的涼しかったせいかもしれない。
腰の調子は相変わらず良くない。このままだとどこにも行く事はできない。
もう旅行はお預けだな。戦場で敵に包囲網を狭められて動くに動けぬ状況に似ている。

昨日はクリーニング業をやったことを書いたが、今日は洗浄剤販売をした経験を語る事にしよう。
1980年に以前に勤めていた会社の大進産業の社長から、うちの会社へ戻って来て、もう一度手伝わんかと誘われ、家業は家内に任せ入社する。家業と行っても鍵の機械複製専業で、数店舗のコントロールだけである。余暇にもちろん私も見てやれた。

大進産業での仕事はボイラーやクーラーの水回りに溜まるスケールや錆、塵芥などの洗浄である。
季節仕事で春から秋に掛けての仕事が大半で、相手は大きな事業所ばかりである。
最初その洗浄剤メーカーに出張し1週間教育を受けてから始まった。この教育は全国から集まりかなり大掛かりのものだった。
仕事の内容は事務屋だった私の経験とは全く無関係な化学知識を駆使しなければ出来ないものだった。
早速高校用の化学参考書などを数冊買って来てそれを読む事から始めた。

昔旧制中学校の化学の時間を思い出し乍ら勉強した。
幸い戦後10年ばかり勤めた地元の農協に在職していたとき、職掌がら農薬などの取り扱いが頻繁で、その専門知識を必要とした。県の主催で、ある時講習会が行われ、1週間ばかり受講し、最終試験に合格して毒劇物取扱者試験に合格した。

この毒劇物取扱い資格が今度の仕事に役立った。洗浄剤には劇薬が沢山含まれていたし、管理の責任を監督官庁から追及されるもので、もちろん管理者が居なければ取り扱い不可能であった。

仕事の内容は面白かったなあ。地元のデパート、電力会社、或は商社などをいれたビルのクーラー設備の洗浄は楽しく、効果が目に見える作業であった。大きなガソリンスタンドなども遠方までも出かけたりした。
下関の水族館や山口仁保の電信基地の設備なども泊まりがけで出かけて指導した。随分大掛かりなものであった。

ただ体力のない私一人で20キロ入りの薬品を20個ぐらいビルの屋上まで運ばなければならない時などはさすがに参った。
エレベーターを利用しても最上階までしか上がらず、屋上へは階段を一段一段1個づつ運ばねばならなかった。
もちろん普段は助手か別に作業員がつくのだが、折悪しく誰もいないときもあって、責任者は私だから進行を中止する訳には行かない。

1987年にメーカーの営業体制が変更し、私個人への委託業務となった。
1989年もう体力に限界を感じ、作業を手伝ってくれてた原田氏に権利ごと委譲した。
季節仕事だし、注文仕事だから、まことに不安定な仕事で、営利事業とは言えない。
しかし仕事自体は特異な、喫緊ともいえるものである。
故障が排除された事業所の喜びは、医者が患者の病気を摘除したように、金銭を超えた嬉しいものであった。

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2011年7月24日 (日)

ライオンにバージョンアップした

最近はよく夢を見るが、経験したことがないような完全な幻想の世界である。
マラソンを走ったり、高い崖を飛び降りたり、したこともないことを軽々とやってのける。
格別願望しておった訳でもない事をどうして夢に見るのだろう。

今朝も涼しくて明け方は気持ちよい。
6時からのNHKのドレスデン管弦楽団の演奏を聞き乍ら離床する。
今日も無事に過ごせますように。

午前7時気温23度。

新聞報道では中国で高速列車の脱線事故とあって、ここら付近での出来事かと一瞬驚く。中国が違っていた。
追突事故だともある、だとすると運転操作室の操作ミスとも受け止められる。全くの初歩ミスである。
基本プラグラムとその操作が100%うまく行かないと高速鉄道は運転出来ない筈である。
中国は先進国に仲間入りするには、ここらの基本がしっかりしてないと、日本の原発事故を笑えないぞ。

平和の国ノールウエイで都市のど真ん中で爆発が起きた。右翼思想の犯人らしい。
どこの国にも狂人はいる。法律があっても人のこころに蓋はつけられない。

昨日OSX10.7(ライオン)に有料バージョンアップする。最初の日には世界で1000,000件を超えたというから相変わらずの人気である。私は遠慮して翌日にしたのだが、結構アップデート開始までに時間がかかった。まだまだ多いらしい。

日本ではアップルの人気はそれほどには無いと感じているのだが、中国では大変ならしい。昆明では偽のショップまで出来ているとか。かの国は大きいからなあ。良い事も悪い事も独り占めといったところだ。

操作に格別変わった事はないが、インテルオンリーになったらしく古くから使っていたCopyPaste Xが使えなくなって、こちらも今CopyPaste Proをインストールしたところだ。簡単に入力出来たのでよかったが。

記憶力が抜群に良くなった感じがする。
ネット内の操作が楽だ。
ことえりもやたら大きな窓を出して誘導してくれる。
おせっかいのやき過ぎだと嫌う人も出てきそうだ。
老い先短いのにこれほどまでと思ったりするのだが、新人を獲得しなければ成長がないから企業ともなると大変なんだなと同情したり。

17年前インターネットに入るのに、様々な設定をしてやっとこさ入っても電話料を気にし乍らのネット操作だった。
現在の様なスイッチを入れさえすれば誰でもネットイン出来る、想像もしてなかった。
記憶容量もワープロにくらべて多かったので、ネットインしても保存がしやすいからとの理由でパソコンを買ったのだったが、最初のMacintosh plusは容量1MBもなかったと思う。何KBだったか憶えていない。
今使っているMacMiniが320GBだから、お話にもならない。

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2011年7月25日 (月)

人違い

朝早くから雷鳴しきり、7時前とうとうざーっと降り始める。気温は23度といくらか涼しい。
今朝の朝刊につけて、4ページ大の広告で太平洋戦争というDVDの発売が知らされた。
早速申し込む。
私の一生を塗込めたこの戦争(私は大東亜戦争という)の記録はなんとしても残しておきたいから,仮に失望する様なものであろうとかまわない。

今朝の深夜便の天野祐吉の隠居話は面白かったな。あっちこっちと話の帳尻の合わない正に隠居放談、うまいのかへたなのかよくわからない。こんなのもいいか。
対談者の山田太一が天野祐吉に電車で間違えられたから始まる二人がよく似ているということ、ラジオでは顔かたちまではわからない。確かめ合うところがまたおかしい。

雨がざーっと来たので、家内が庭木の水やりに悩んでいたのが解消された。私もほっとした。
私は腰のせいで思うように動けず、家内もリウマチで痛がるし、二人併せても半人前以下の現状では、庭木の世話どころではない。
天の恵みに頼るしかないようだ。

支那の故事に出てくる仙人は空気を吸って生きてたが、私らは年金を吸って生きている。
似た様なものかも知れない。さすれば私ら夫婦はさしづめ現代風の仙人か。
仙人ともなると超能力を持っていたらしい。とすればやはり違うな。

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2011年7月26日 (火)

左目の手術日確定

あまり蒸し暑くなかったせいか、少し寝過ごす。目覚めたのは7時12、3分だった。
新聞も家内に取って来てもらって、すぐ食卓へ。
入営前年即ち昭和15年の元日おっちゃんに誘われて新天座に映画を見に行った、と私の日記にあるのを思い出して、新天座とはどこにあった映画館かと家内に問いかける。
今はもう一つも残っていない映画館、時代は変わったものである。

おっちゃんはその年の大晦日また突然ふわりと現れて、満洲から帰国したばかりの私を広島に連れ出し、自分の職場に案内してその製図卓を見せ、夜半550mの宮島弥山の暗闇の山道を登攀し、初日の出を拝ましてくれた。
この年が大東亜戦争勃発の年昭和16年だった。
私がその年まもなく満洲関東軍に入隊し、戦後帰還したときには、おっちゃんは原爆で地上から消されていた。
不思議なえにしとかいいようがないが、来世には再会するなどということがあるのだろうか。

11時広島総合病院眼科で手術前の精密検査を受ける。その結果正式に8月10日左目から手術してもらう事になる。
3日間入院しなければならない。
家内もよくなったからまあいいとして、予後がいろいろと面倒なようだ。なによりもばい菌が入ることを恐れなければならない。
なにもすることのない老人だから、じーっとしておればよい。別にたいしたことではないだろう。

2時間ぐらいで終わる。
帰路、ひとみを開く薬のせいで、自動車の運転が難しく困った。慣れた道だから問題は無かったが、

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2011年7月27日 (水)

独立自動車第31大隊の陣中日誌はどこに

朝7時強く降り始める。気温は24度だが、薄着ではすこし寒い。
千代が8月になって来るという。別に頼んだ訳ではないが、ブログを読んで心配になったのかもしれない。
心配はかけないようにと気をつけてはいるのだが、つい自然にでるうめき声が届くのであろうか。

寝てばかり居ると、書く事がなくなり、頭の中を掃除するように、探し回る事になる。
乏しい頭の中だなあ。歴史に残る奴らはここら辺が違うのだろう。

今日の受信メールの中に、先日書いた”人違い”というブログの中で、太平洋戦争の写真集のDVDを申し込んだことを載せたことに関心を抱かれた30女性がおられた。
こんな若い人でもかとちょっと驚いた。

私は今頃になって気になっている事が起きた。
実は私一個人の恥多き人生記録を、自身のために残しておきたいと最近になって思いついた。
その資料集めと思って、先ず手始めに所属した部隊の陣中記録を、探し始めた。
結局どこにもなかった。私の友人だった部隊副官が折角戦地から所持して持ち帰った、陣中日誌を確か帰還途中に二日市で列車から途中下車して、軍の終戦本部に届けた筈だが、どこかに消えてなくなったらしい。
なんでもまとめて消却してしまったらしいともいう。
私は取りあえずその記録の大要を、帰還船の中で小さな手帳に書き写して持ち帰った。
副官と同期の友達だったから可能だった。
今考えてみると、この記録こそが、私のそして部隊の野戦記録の唯一ものとなった。

しかし帰還した兵員数は判っても、個々の人名は判らない。ましてや住所年齢などはどうしようもない。
細かい戦地記録に至っては無に等しい。
十年前に私が書き残した「私の軍隊生活」が唯一のものかも知れない。

先日ブログにも書いた「武士の家計簿」のごとくくだらんようでも、熱心な研究者の手に掛かれば珠玉の輝きを増す。
うっかりすれば、ゴミとなり、灰と化したかもしれなかった。

「私の軍隊生活」の中の独立自動車第31大隊のことについても、沢山のメールを戴いている。当事者だけでなくその子孫など係累ももちろん含まれる。
もう隊員だった人は百歳を前後する人ばかりである。生存者は少ないだろうが、出来たら助けていただきたい。
中には私のように物好きな人もいるだろうから小さな声でも出すしかない。

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2011年7月29日 (金)

堅苦しい機械だ、パソコンは

昨夜はとうとうインターネットに繋がる事なく一夜あけた。もちろんブログを書くどころではない。
自分の生活に繋がる重要な部分だという事がよく分かった。

今朝の気温25度、幾分蒸し暑い。
外の空気はすがすがしいが、日が昇るともういけない。

今朝NTTから何らかの対応がある筈なので、家内が長女のところに入院の保証人印判を貰いに行くのをてつだえない。
9時半家内一人で出かける。

電話がかからぬ間、ルーターのマニュアルを読んで、初期化する事にする。
昨日ニフティのアドバイスによるものである。
ゆっくり丁寧にやったから、15分くらいかかったかもしれないが、無事それで一件落着、ネットに入る事ができた。
電話も普通に掛かるし、問題はなさそうだ。
やれやれである。

やはり老人のやることは手抜かりがあるのだなあ。
どうやら新しいルーターの初期パスワード入力が少し違っていたらしい。スペルミスでもあったのだろう。
今度は数字を並べたから間違いなかった。

もう昼になるがどこからも電話はかからない。忘れ去られたらしい。もう終わったからこれでいいが。

泰山鳴動して鼠一匹、昨日一日中苦しんだにはなんだったのか、ことさらあげつらう気にはなれない。
どこにもだまっている事にしよう。

パソコンを扱ううちには、こんなことは数多い。
不思議に堅苦しい機械である。

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2011年7月30日 (土)

長生きするにもモトデがいる

今丁度午前6時、目が冴えて眠れないので起き上がる。
ベランダの寒暖計は23度を表示している。だいぶ涼しい。
目の調子が大分悪い感じ、パソコンの文字が日に日に見辛くなってきた。
やっぱり手術のタイミングだな。

28日にひかり電話に変換したわけだが、今日からやっと本来の状態に帰ったことになる。
考えてみると、IP電話はほんとに邪魔者だった。使いもしない電話に電話料を何年も支払ったわけだ。
iPhoneもそういえば我が家ではほとんど使う事はない。昨日始めて家内は外出先からうちへ電話して来て嬉しそうな声を出していた。やっとケータイを使ったと嬉しかったのだろう。
家内が言うように、iPhoneは私のおもちゃみたいなものかもしれない。今のところ電話とは言えないようだ。

IP電話の時々やってくる無言電話からは免れそうだが、さあどうだか先の事はまだわからない。
ひかり電話は停電のときは通じないそうだから、いつだったか台風で2日間通じなかったときに困ったと同じ状況になる訳だが、今度はケータイがあるから大丈夫だという。
保険料を払っている様なものだな。

iPhoneにするため取りやめたPHSもそれまで10年間電話料を毎月¥2200.払い続けた。
これまた高い保険料だった。

人生には無駄はつきものというが、これだけ長く生きられたのだから、やはりモトデがかかるということか。

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