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2011年5月 1日 (日)

昔聞いた言葉「挙国一致」

昨夜から降り続く雨、朝小降りでも続いている。気温は16度。
東北人の鈍重さ、よく言えば重厚さが外国人の目には奇異に見えるらしい。大震災の被害にも取り乱した形跡が見えないと評判がよい。
反日的な中国人までが、日本人の良さを実感した褒め言葉を連ねているとのこと、おかげで軽薄な関西人までがほめられた気になっている。
草食人種の危機的状況下での特有の諦観の現れといえる。
同じ肉と言っても、鳥獣でなく、魚肉が圧倒的に多い島国の日本人だから、血の騒ぎ様が違う。

それにしても政府はまるでしどろもどろだが、人民はえらいなあ。火事場泥棒も少ないと聞いている。
一市一町まとまっての整然たる集団避難等、どこの国でも簡単に実行出来る行動とは思えない。
自己主張の強い欧米等では特に出来ない芸当だろう。

いいのか、悪いのか、人間以外の生あるものたち、放置されたまま、餓死するもの多数と聞くが、この際如何ともなし得ないだろうが、一掬の涙なくしては聞き得ない話である。
人類の横暴は今に始まった事ではない。いずれ何時の日かその報いを受ける事になるだろう。

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2011年5月 2日 (月)

敗戦の生き残りの負い目

朝の気温13度。
iPhoneは並の電話機とは違って応用動作が凄く多い。
容量をあらかじめ大きい方にしたので、写真を入れても、音楽を入れても、書物を入れてもまだまだ余裕が大きい。
操作は簡単だが指の動きが悪いので、繰り返しが多くなかなかスムースの動かせない。
何事も若くなくては駄目なようである。想像以上に何もかも老化してしまっている。

それでも徐々にうまくなっては来ているようである。
腹を立てないで、粘り強く努力すればそのうちなんとかなるであろう。

連休の谷間、なにか用事はなかったかなあと考えるが思いつかない。

iPhoneに読み込んだ書き物の中に、練習機の特攻で500kgの爆弾を抱えての重みで、敵駆逐艦に突っ込む直前に翼を波にさらわれて沈没、敵に捕まえられてしまった青木少尉、横山二飛曹の話等奇跡としか思われない話がある。現在も生存しておられるらしいが、凄い生き運である。しかし本人は生きながらえて同僚等に済まぬとの責任感の重さにうちひしがれ乍らのひそやかな数十年間であったらしい。

230万の英霊の事を考えると、生き運を自慢する事はむろん出来る訳がない。
考えようでは卑怯な振る舞いだったかも知れない。
敗戦の責任を感じて命を自ら絶った人も数多い。
その負い目は戦中派の特に兵士だったものには一生つきまとって離れない。

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2011年5月 3日 (火)

日本国土は果たして安全なのか

今日は憲法記念日だが、私ら夫婦の結婚記念日でもある、満61年経った。
寝起きはすっかり緩慢になったこの頃だが、なんとか起居動作に支障なく暮らせている。
私は乾癬、家内はリウマチともう宿痾といえるものに悩まされては居るが、さしあたり死につながる重病とはいえない。
眼も今年二人とも白内障で手術を受ける事になっている。
老人の自然発症的なものだから仕方がない。
思えば永くよくここまで来たものである。

過ぎ去ってみるとなんでもないようにも見えるが、とても人並みとは言えない波瀾万丈な人生だった。
その波乱の原因は全部私が作った、家内は終始私に振り回されて61年を生きて来た。
しかし当世風の離婚騒ぎなど我が家では無縁であった。
言い出す権利は家内だけにあったが、行使するそぶりも見せる事はなかった。
子供らもその意味では幸福だったのではと思ったりする。

私ら夫婦は年金以外の収入は何もない。財産も先祖からのものは私が皆失ったから、かろうじて家屋敷以外に何もない。
もし平和な日本でなかったらとても今のような長生きは許されなかったであろう。
国あっての私たちとも言える。

諸税や保険料等で2割は天引きされているが、まだ8割も残されている。今度のような国難とも言える大災害が発生してみれば、まだ1割や2割はそちらに取り上げられても仕方がないと思っている。
こんな時だから生活を切り詰めるぐらい何でもない事だ。
国の災害だから、政府ばかり追求しても仕方があるまい。国民全部で平等に負担するしかない。

日本の地勢を見ればすぐ気がつくことだが、日本列島沿いに何千米もの深い海溝が口を開けている。
二つの大陸がせめぎあっているのだそうである。
今度の地震はそのごく一部だという。

もう少し大掛かりに大陸移動が行われたら、日本列島はひとたまりもあるまい。
そうなったらもう仕方がないとすべきなんだろうか。
将来何時の日か必ず起こるとも言われている。

予測、対策やはり考えておかなくてはならないのでは。
干拓だけで国土を沖出しするのは、そもそも出だしが間違っているのでは。

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2011年5月 4日 (水)

孫一家の引っ越し

朝気温13度。高速道のラッシュが続いているようだ。山陽道が混んでるという。広島の先で43キロも繋がってるとか。東京近辺は当たり前だが、広島近辺で全国トップとは珍しい。フラワー祭りの影響でもあるのか。

今日は午前中二番目の孫のうちを訪問する予定にしている。先月末に引っ越しを終わったらしいと家内が聞いたので、便利がよい所というし、早く見ておかないと死に目に間に合わないと思って、行くぞと連絡をつける。

善は急げで、午前10時長女の案内で婿の車に乗せてもらい、孫のマンションを訪ねる。
まだ空き部屋がある二十数階のマンションの19階である。引っ越したばかりで、荷物がやっと片付いたところらしい。
広島のど真ん中で、夫婦の勤め先ともすぐ近くだし。子供の行く保育園は正に眼下にそっくり見える所。
本川に沿い、川向こうには住吉神社が鎮座ましまし、平和公園もすぐ眼下に望める。環境といい眺望といいすばらしい。
よくもこんないいところが都合良く手に入ったものだ。

新築だから、何もかも新しい装置が付き至れり尽くせりでうらやましい限り。
30そこそこの年輩で自力で買ったというのだから恐れ入る。ただ感嘆あるのみである。
老人だから遠慮せずぱちぱちとそこら中撮影して帰る
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2011年5月 5日 (木)

老人の悲憤慷慨

今朝も気温14度とあたたかい夜明けである。ただし、光芒はかけらもない。幾分薄くはなったが、それでも黄砂は空を覆い尽くしている。
もう人並みには動けないほど動作が鈍くなって、野球もサッカーも見に行くという訳には行かない。しかし外を見回してみて、一応の健康のありがたさをしみじみと感ずる。

昨日雅博さんが観音の方をドライブしてくれた。あまりの様変わりに驚いたが、県営グランドは野草生い茂り、わびしく人影もなくたたずんでいたり、飛行場は閉鎖されたまま巨体をもてあました風情に心悲しく横目に通り過ぎた。
何時の日か復興するであろうが、若き日の懐かしい思い出に繋がるものは今はなにもない。

光陰矢のごとく、流水流れて止まず、私自身はこの広島の復興は他の都市に後れをとっていると嘆いて来たが、その象徴とも言える放置された飛行場の姿はなんとしても情けない。活気盛んなる頃私もその利便のよさを謳歌した時期もあった。
国政にしろ、県政にしろ、人を得なければ、かくなるものか。
福岡や岡山など伺い見るとき、痛感せざるを得ないとするは私だけだろうか。

民衆は愚である。多数愚に引きずり回されては碌なことにはならない。民主主義とて絶対ではないと知るべきである。
何時の時代でもいやしくも政治を任されたものは、自己の信念に基づいて行動すべきである。ただ単に多数を頼みその利害だけで行動するものに迎合してはならない。

信念に反すれば、巨大なジャーナリズムといえども敵に回さなければならない。
無謀ではあったが、吉田、佐藤ら一二の総理にはその気概があった。それがなければ講和条約、沖縄返還の実現は難航したであろう。
未だに彼らは不人気な政治家であるが、役者ではないのだから人気等関係ない。百年以上も経って歴史が決める問題である。
古今の史実を見ればよくわかる。

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2011年5月 6日 (金)

フラワーフェスチバル

今朝も13度とあたたかい。5時起床、先日訪れた孫の居宅の写真等プリントする。
老人にもすっかりいい時期になった。生気がみなぎるをおぼえる。なかなかまだ死ねないな。

庭の松が少し元気がない。夏みかんも生気が見られない。昨夏の猛烈な暑さがこたえたのかもしれない。
となりのうちのよく手入れの行き届いていた松もこの冬を越せなかった。虫にやられたのかも知れないがやはり暑気の影響が大きかったのだろう。
うちの松は極楽寺山に登った帰途、谷間で実生えたばかりの松の子を持ち帰って庭に植えたものである。丁度この家を建てたばかりで庭先はまだ雑然としていた時だった。だからこの家の寿命と同じだ。
40年経っていないのだから、まだ若松と言ってよい。枯れて欲しくないのだが。

”コイ投打五月晴れ”などと新聞紙面が踊っている。ヤクルトも好調だが、カープも負けていない。どうした風の吹き回しか。
それとも新球場の方角がいいのかな。市の中心からすれば鬼門ではと思ったりするのだが。
ともかくも死に土産に優勝でもしてくれると申し分ないのだが。

広島の花祭りは珍しく雨に見舞われることなく、3日間をめでたく賑やかに終わった。私はテレビや新聞で覗き見しただけだが、東北の大震災の後の自粛ムードもあったからどうかと思っていたが、歴代3位の169万人の人出があったと地元新聞は報じている。もう30年以上も続いているとか、始まった頃を憶えているだけに今昔の感慨まことに深い。
当初はフラワーフェスチバルなんて、格好いいなと思っていたが、最近は舌が回りにくく言い辛い。花祭りでいいのではと思ったりしている。やっぱり日本語でないと未来永劫続かないのでは。

そこへ行くと”どんたく”とか、”ねぶた”とか、不滅の歴史が感ぜられてうらやましいな。

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2011年5月 7日 (土)

花の盛りは短いという

朝7時、気温17度。
昨日は立夏、初夏らしく明ける。
灰色の空は相変わらず、まだ黄砂が舞ってるのだろうか。日ざしは遮断され、拡散されてなかなか地上には届かない。

家内に誘われて植物園に出かける。5月ともなれば一斉に咲きそろって、園内は正に百花繚乱である。
見慣れない花も数多い。
来客数もラッシュというほどではないが割と多い。
くもが手を広げた感じの花が珍しい。名前は憶えられなかったが蜘蛛という意味だとあった。
蘭の盆栽展をやっていた。殆ど道楽仕事だろうが、見事なものである。

久しぶりに周辺の山道を歩く。ならなどの若葉が美しい。あいにく曇り空で、日に映える黄緑の光景までは見られなかった。
杖をたよりにほぼ一周したが、もう2、3年前の元気は無くなった。ちょっと急ぐとすぐ胸が苦しくなる。
心臓の老化は相当なものだなと自覚し乍らゆっくり歩く。

軽く食事をして帰路につく。
後何度植物園を訪れることが出来るだろうか。

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2011年5月 8日 (日)

昔の通信フォーラム記事を本にしたい

昨日の雨が夜半まで続いたか、庭先は濡れそぼっている。朝の気温は18度ともう初夏のものだ。

昨夜は思い立って、今書いているブログの前身とも称すべき、通信フォーラム投稿集を、日付順にばらばらに保存しているのを一つのファイルにするべく、整理を始める。一応印刷して形あるものにしておきたいからでもあった。
ブログは現在はプロバイダーの方で頼めば簡単に本にしてくれるので、毎年数冊の書籍化している。
これを自分で作ってみようと思った訳である。
日記フォーラムだけで111編もあるから、B5版にしたら何百ページにもなりそうである。
今のところこのフォーラムだけにしぼっているが、戦前戦中フォーラムや歴史フォーラム、広島県フォーラなどなど、探せば大分出てきそうである。

ブログを始めたのは私は2005年からだが、フォーラムの投稿は1997年に始まっている。
フォーラムの方が反応が早かったような気がする。
ブログが現在一日平均アクセス37件だとプロバイダーが教えてくれてるが、フォーラムは全一覧だからフォーラム入室者全員がアクセスするのだし、問題にならない。

目も悪いし疲れるのが早く、10時頃に打ち切った。当時は珍しかったせいか一つ一つにコメントも多く、私の作る本にはそれも入れたいので、1編といえども数ページに亘る場合がかなりあるようだ。

まあぼつぼつやるさ。

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2011年5月 9日 (月)

ビンラディンが公然と殺された

通信フォーラムで書いた投稿文を整理するために読み返すと、面白いことが沢山出てくる。
男女、年齢を問わずRE:コメントの多さが目につく。
良き時代だった、良き通信手段だったなと思わずには居られない。
会員相互の議論が率直で面白い。原爆論議はRE:コメントも多かったが、それだけに熱が入ってよかったな。

残念乍ら今のブログではこうした議論等は通らないのでは。システムに無理がありそうだから。
誰にでも公開されているようだが、実際は目につきにくい。見えなければ議論の対象にはならない。
悪く言えば”悪貨が良貨を駆逐する”たとえに当てはまりそうだ。

ビンラディンがアメリカ兵に殺された。アメリカ大統領はテレビで実況を見ていた。
同盟国ではこんな主権侵害的行動が許されるのだろうか。
アラブの論理でまた復讐的行為が続行されることになるのだろうが、いくら平和を叫んでも世界は安全にはならない。
リビアでも平気で武力介入が行われる。
国際平和は口だけか。
私には分からないことだらけだ。

畢竟多数の論理とはこうしたことなのだろう。そこへ行くと超多数国家中国、インドは次世代を担うホープだ。
これらが動き始めると簡単には行かないぞ。

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2011年5月10日 (火)

政府よ弱気になるな

昨夜はやく寝たものだから、今朝は5時前に目覚めてしまう。
そのまま起きて、昨夜の続きの通信フォーラムの整理を続ける。
全部読み乍らだから、時間がかかる。昼頃やっと半分終わる。
外は丁度起きた直後ざーと音を立てて降り出した雨が今も続いている。

昨日は哲郎君が6月4日に法事をやるが、出席するかと電話してくる。勿論出るよと返事する。
iPhoneにのぼしこんでるんだってという。私のブログを見てるらしい。
アクセス数が近頃倍増したわけだ。

浜岡原発の稼働停止が決まった。産業界に及ぼす影響は少なくないだろう。
火力発電が又発動するという。世界の期待に逆行するのか。
世界一高い塔を建てる技術を持ち乍ら、それでも地震を怖がるのか。
津波とて街の後ろの小山には届かなかったではないか。
要は計画の杜撰さが原因ではないのか。
今度の事故を教訓にうんと対策を高めれば、フランスなどに負けないように出来るのではないか。

何もかも中国や韓国におくれをとっていいのか。

もっと自信をもって前向きに国策を進めて欲しいものだ。
弱気になってはもう日本国の存立はないと知るべきである。

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2011年5月11日 (水)

ある男の人生の始終

今朝はもうざあざあと遠慮会釈もない大降りの雨、気温は20度と一月前倒しの天気である。
2、3日たまっていた腹の中もどうしたわけか雨につられたようにすっかり出てしまって心地よい。

数日掛かっていた通信フォーラム文書のうち日記フォーラム関係は全部昨夜整理が終わる。
他の関係は拾い集めねばならないからちょっと時間がかかりそうである。
まあ取りあえず一段落ついた。
生きている限り余暇は十分あるのだからせいたことはない。

こうして過ぎ去った過去の思い出を拾っていると、幼い時から始まって私の傍らを通り過ぎて行った知己、知友の多さに驚くとともに、恩恵の深い先輩、恩師の姿を偲ばずには居られない。
消極的で殻にこもったような私でも人後に落ちなかった感じがする。なにしろ生きた時間が誰よりも多いから自然にそうなってしまった。
長生きするということは、恥も多いが功徳も大きいということだ。

就中命を張った全く無益の従軍7年間、そして破壊され尽くし、無から始まった戦後の十数年間の苦闘は、私にとってどれほどの意義があったのだろう。
神に操られた人形だったような気持ちである。
まったく馬鹿げて思い出したくもない。
だが厳然たる事実で夢ではなかった。
曲がりなりにも今日に繋がっているようだ。

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2011年5月12日 (木)

因縁のふしぎ

今朝朝食のとき、家内が小学校時代良く可愛がってくれた山本先生の話から、その後任でやってきたくみた先生が私の同級の汲田君のことではないかということになり、同窓会名簿を調べることになった。
中学校名簿をみると、一期遅れて卒業しているようになっている。入学記念写真には私と一緒には居ないから翌年入学したのだろう。
名前も間違いないこれだということになったが、すでに死没者名簿に入っている。
その期の連中の名前をさらっと見てるうちに、深海勇という名前に行き当たる。
あらっこれは一緒に岩国駅から入営のため勢揃いした4人の中の一人ではないかと気づく。

私は過去に軍隊生活をかなり詳しく書き記した文集を書き残している。
その入隊当日の駅頭にてのぼり旗で見送られた風景は瞼に深く刻み込まれている。
年上の藤本さん、小学校同期の吉川君、そして初対面の深海君ぞして私だった。
広島袋町小学校で簡単な身体検査の後、軍服に着替えさせられ、6キロ道を歩いて、宇品から行方分からず軍用船に積み込まれ、夕闇迫る頃錨をあげた。
吉川君だけは縁あって同じ隊に一時期いたことがあったが、何もかも目隠しされたも同然の他の諸君とは、その消息をつかむことなく戦後を迎えた。

思いがけず見つけた名前に驚いて、記載されている電話番号に電話してみた。まだ午前8時である。ちょっと早過ぎたかなと思ったが、電話の向こうに女性の声が聞こえた。
深海君のうちには違いなかったが、昨年の10月肺炎でなくたったとその女性即ち奥さんのお答えだった。
暇を託っていたので、生きているうちだったら喜んでお話したでしょうにと、残念そうな返答だった。
名簿に広島高等工業卒とあるが、どこに勤務されたか聞くと、NHKだとおっしゃる。
それはそれは私の婿も今NHKにいるのですが、奇縁ですねと話が弾む。
本人だったら、未だに消息を探し求めている、同級生で仲の良かった斉藤七郎君のことを尋ねるつもりだったのだが肩すかしにあってしまった。
幹部候補生の志願資格があったこの両君とも、それを忌避したか試験場にも出て来なかった。
ひょっとしたら知り合っていたかも知れないと思ったからだが。
(幹部候補生になるということは永年勤務になるということを意味していた。徴兵義務年限の2年で帰郷したければ志願は難しかった。だから志願しないものも多かった。結果的には日米開戦で何もかもおじゃんになってしまったが)

今更どうにもならないことだが、世の中は見えないところで繋がり合ってるのだから、油断がならないということである。

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2011年5月13日 (金)

総理の代わりどこに居る?

2日続いた雨で、庭の乾きは治まったらしく、木々は皆生き生きとして見える。朝の気温は19度ともう初夏まちがいない。
裸になっても寒さは感じない。今が最高の季節といってよいだろう。
昨日偶然なことで深海勇君の死亡が確認出来て、一緒に軍役の門出を岩国駅頭に印した4人のうち、無事軍役は果たして帰郷はしたが、相次いで病気でなくなり、私一人残されたことがわかった。
何の因果かといいたいが、こればかりは人智の及ぶところではない。

福島原発1号機の炉心のメルトダウンが起きたらしいと今朝の発表。どうなるんだと心配は尽きない。
欧州でもアメリカでも動揺が激しい。
中国は知らぬ顔で新しい動力炉を稼働始めるらしい。よほど自信があるのか。
国が広いということはやはり有利ということか。

財務省が公務員給料10%削減の方針を固めたとある。右へ倣えで日本全国が揺れ動きそうだ。年金などは一番手が付けやすいから待ったなしであろう。まあいいだろう。いつかも言ったように、現在20%すでに差し引かれている。30%になるだけだ。切り詰めれば40%でも50%でも食ってはゆける。国がつぶれるよりはいいだろう。

天災が単なる天災に終わらない、人災が振幅度を倍加して続発する。
地震学者たちの発言の空々しさ、何ぞ役に立つのか。言うを止めよと言いたくなる。
総理たるものうるさいだろうなあ。
郷土広島の異人亀井いみじくも言った。総理の代わりがどこに居ると。

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2011年5月14日 (土)

自戒、俺のブログは下手の長談義か

朝6時気温19度。天気晴朗快適。沖合は霞かかって島影見えず。

昨日電話機を下の階のと交換したので、試しにうちのケータイに電話してみる。ケータイの着信音が結構大きく変だ。あんな音に設定したのかなあと、思い出せない。間違えなくてまあいいか。

白内障のせいでテレビの大きな画面でも、文字がぼけて見えにくい。そのくせケータイの小さな文字ははっきりと見える。
これはどういうことだろう。
もっともテレビでも顔を近づけるとよく見えるから、目との距離の関係だろうな。
見えにくいといっても、見えないことはないのだから、手術までする必要があるのかなと少し不安になる。
8月10日と29日に手術と決まっているのだが、早まったかなぁー。
伯父は手術してとうとうめくらになったしなあ、嫌な感じだ。

まあ一つづつやるのだから、様子を見て中止する手もあるだろう。仕方がないな。

日記フォーラムの文集は取りあえず印刷してリーフをつけて一冊にした。B5版で214ページになった。厚みがちょうど2cmだが。本にすれば裏表印刷されるから、やはり薄過ぎてだめだな。止めておくことにしよう。

そこへ行くと、ブログは毎日の積み重ねだから大したものだね。
フォーラムの文集は足掛け5年間だが、随筆だからまとめると量は少ない。
昨年のブログなど最初の見積もりでは、480ページと一冊の限度448ページを超過するから、1冊では無理だと問い直しが来た。なんとか編集方法を変更してもらって、448ページ丁度におさめてもらったのだった。
自分でも書きも書いたりと驚いたのだが、友人のニューギニア戦記を綴じ込んだのが響いたのだからしかたがない。

一昨年のをみると436ページだったから、やっぱりたまるんだなぁ。今年はだから遠慮気味に書いてるし、写真も減らすようにしているのだが、さあどうだろう。
昔からいうように下手の長談義になりつつあるのかもしれない。

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2011年5月15日 (日)

乃木大将を知ってる?

朝6時半、昨朝と全く同じような夜明け、気温は23度、あれっと寒暖計の見つめ直す。13度だった。空気はひんやりしているのに日のあたるせいか、温度が少し高い。

昨夜は応接間のビデオの棚の撤去を決めて、ビデオを段ボールに移し始めたのだが、かがんだり、立ったりするのが苦しくて、百個ばかりでダウン。足も張って来て痛くなりそうだし、これは一挙にはとても無理だと判断中止する。
百個も入ると段ボールも重くて提げられない。これはもう手に負えない。残念乍ら廃棄する以外になさそうだ。

重さ、大きさ、やはり音楽カセットの比ではない。
今更1200個もよく録画したものだと半ば後悔、半ば感心。
音楽カセットもまだ3,400個残っている。やっぱり大変な仕事になりそうである。

今朝は早速足にけいれんが来る。風呂でよくマッサージすることを怠ったことに気づく。覿面だからなあ。
歩けて動けてそれでいいと、自分を慰めて来たがそれだけではやはり駄目らしい。
生きて行くとはこれほど難しいのか。

明後日家内の目の手術のために、明日から連日運転して家内の送り迎えをしなければならない。
暇だからいいようなものだが、仕事でもあったら大変だったろうな。わしも目が悪いのにとぶつぶつ。

昨日スーパーにいったついでに、本屋で古川薫の”斜陽に立つ”という乃木大将の小説を買って帰る。この5月に出たばかりの新刊である。
誠実と不器用の典型的武人である乃木さん、私は幼少の頃から聞き、且つ読みつづけてきて耳にたこが出來る程の人物である。
この本はまだ読み始めたばかりだから、感想を述べる訳に行かない。
只現代人には関心が及ばないだろうし、折角の新刊本だが売れないだろうな。”斜陽に立つ”も旅順の戦の後乃木さんが詠んだ、有名な山川草木の漢詩の一行だが気がつく人がいるのだろうか。

明治の頃にはまだこんな武人が居たんだなあ。
今の人はこれを知らない、わたしは今頃の歌はしらない。あいこか。

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2011年5月16日 (月)

乃木将軍の造り出した旅順攻防のあや

昨日より少し天気が悪いか、霧が濃く気温は15度。
昨日倉庫を整理しているときちょっと転んで腕を怪我する。皮膚が向けただけだが、風呂に入れない。
右腕だから自分で処理出来ない。当分不自由になる。
ベッドから起き上がるのも簡単ではない。厄介なことだ。

昨日書いた乃木大将の山川草木の詩を詠んだ時期について、思い違いがあったらしい。
古川氏の著述によると、第三軍司令官に任命されてまだ広島に居るとき、長男勝典が金州城外の南山の戦で戦死し、乃木さん自身は軍とともに明治37年6月6日遼東半島に敵前上陸、明くる7日戦場跡に立って息子らを偲んで乃木大将が詠んだとある。
私は旅順の戦が済んでと書いたが間違って憶えていたようだ。

私も先年爾霊山、水師営、東鶏冠山など見学して回ったことがあるが、南山の古戦場は知らない。
しかしこれらから受ける感慨から、乃木さんの悲壮な気持ちが想像出来ないでもなかった。
戦いは勝っても負けても非情なものである。

昼前家内を目医者に送り届ける既に待ち合いには数十人でちょっとどれほど待たされるかわからない。
私も手術を4ヶ月先の予定にされた。老人が多いから患者も多くなる。病人大国、もう戦争なんかとてもじゃない。
国全体がアフリカのようにならねばよいが。
孫らの世代がほんとにいとおしくなる。

古川氏の乃木、児玉両将軍史観は資料をそこまでもという程駆使して面白いし、とかくの批判なき程に渉猟して吾人を納得せしめている。司馬遼太郎さんも現存していれば、あやまったというだろう。
”斜陽に立つ”は骨太な最近珍しくいい本だ。すっかり感心して読ましていただきました。

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2011年5月17日 (火)

家内始めて目の手術

朝起きてみると右足の第2指の爪先がまくれている。爪切りで切り取ると血が出てくる。取りあえずバンドエイドで巻いておく。朝っぱらからろくでもない。いやだいやだ。

今朝も7時の気温16度、天気も良さそうだ。午後は家内の目の手術に立ち会う予定だ。
長女には家内が断ったからというから、任務は重くなる。
斉藤眼科の駐車設備はかなり広そうだからなんとかなるだろう。
iPhoneも扱いにすっかり慣れたし時間も持て余すことはなさそうだ。

クラシックの長い曲も入れたし、オペラだって入れたければ入れられるのだから。

午後2時家を出て斉藤眼科へ、午後は手術客だけとあって、待合室はがらがら。2時45分呼び込まれて約1時間、出て来た時は眼帯が顔半分を隠している。道を歩くのに大丈夫かというと大丈夫という。
スーパーで家内の指図通り買い物を済まして帰宅。
家内は入浴も炊事も明日までお預けである。
夕食はだから寿司を買って帰る。

明日の朝眼帯を取ってもらうのだそうだ。うまく見えればいいが。

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2011年5月19日 (木)

卒年の時期到来

予定通り広島総合病院に行く。
少し薬を変えてもらう。血液検査をして帰れと言われ、そちらに回って血を抜かれて帰宅する。
今日も格別別に用事は起こらない。
ビデオテープの整理せっせと行う。まだ未練が残ってうつうつと楽しくない。
映画など4、5編ダビングする。DVDに保存するつもりである。

今日届いた鳳陽会誌を見ると、その傘下の各支店にキーコーナーを出店するとき、骨を負ってくれた吉屋君が3月31日に亡くなっている。一昨年の同窓会では元気な顔を見せたのに、なんで死んだのだろう。もう一度遭いたかった。
他に松山の西平君、北九州の藤川君も墓銘を刻んでいる。去年、一昨年と死での旅路を急ぐものが相次いでいる。
もうそれが当たり前の状態になったということだろうか。

卒年の域に達したものたちばかりだから、皆挨拶なしに逝く。
今年は地元広島で全国大海の案内状を頂いた、昨年大阪にははるばる参加したのだったが、もうばたばたする時期ではないと観念した。
謹んで参加を断念させていただくことにしよう。

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2011年5月20日 (金)

googleの航空写真地図

予報に反して、日の光もない。朝7時、気温19度と暖かい。
家内は今日も目医者に通う、予後が大切なという。
青く色素がかかって見えるが、はっきり見えていいとも言って喜んでいる。

今私はgoogle mapsを使って、航空写真で軍隊に入営したときの満洲斐徳の兵舎跡を眺めている。
沢山の民家が軒を並べ、正確に区画割りされた街路が碁盤目のごとく敷かれている。大きい道路には自動車も走っている。
なんと言う光景だろう。

勿論70年前の兵舎らしいものは何一つ見えない。ただ近郊の小川に架かっている橋が見える。
架け替えられたかも知れないがともかく橋がある。水源地のポンプ場はどう探しても見当たらない。そういえば昔はなかった大きなダムが西斐徳の北西に築かれている。そこから水道を引っ張っているのか。

一面の湿地帯は綺麗に区画整理された農地になっている。何か植物の種類は分からないが栽培された、色、形が見受けられる。
もう恐ろしいとしか言いようがない。

いつかも眺めた我が家の屋根の色も形もそして日の影までも、そして松の姿も映し出された。
70年という月日が生み出した成果といえる。

これでは原爆を隠し持つことはもう出来ないなと納得する。ビンラディンもこうして存在を突き止められたのであろう。
うかつに日中歩き回ることも出来ない時代だと言えそうである。

mapの性能も1年前、2年前とは随分進歩した。まだまだ進むだろうから、利用され方次第では恐ろしくなるくらいだ。
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2011年5月22日 (日)

乃木将軍の悔恨と私

昨日からAmazonに注文して送ってもらった福田和也著「乃木希典」を読了する。
古川薫の「斜陽に立つ」の影響を受けてその気になって、続けて乃木大将のことを読みたくなったのだが、前者の印象は斜陽に立つほどの感銘はない。
乃木大将が殉死までに行く心理過程はいずれの本を読んでも変わらない様である。
23歳で陸軍少佐に任ぜられ、27歳で連隊長である。この時代の乃木はうかれにうかれて遊蕩の限りを尽くしたとある。
先輩の山県有朋に面罵されたことすらあるという。
その山県に登用されて小倉の連隊長となる。秋月の乱、萩の乱の直前である。
実弟の玉木正誼の6回に亘る訪問を受け、恩師玉木文之進の勧める前原一誠に呼応する様の要請をことわりつづけ、政府命令通り官軍としての責務を果たす。そして最後の西南の役で乱戦のなか軍旗を失う。
その屈辱を背負って一生を過ごしたとされる。
この時に与えられた明治天皇の詔が一生を貫いたともいわれている。

顧みると、私自身この期に及んで乃木さんの思いが理解出来るような、同じ悔恨がいまだに胸中にうずくまっているのを感ずる。
昭和19年の春先から、湘桂作戦に部隊が動員された。

この動員直前に任命されて独立自動車第31大隊の材料廠長となった。
部隊の最後方を進軍するのだから、通常なら死者が出るような部隊ではない。
こわいのは上空から襲ってくる敵飛行機だけであった。
しかし戦いが終わったとき、部下に5名の戦死者がいた。

私の記録として残している戦死者名簿は以下の通りである。

昭和19.10.9 斉藤栄一等兵ー東京都荏原区豊町5-119/花蕚郷板塘に て脚気衝心にて死去
昭和20.7.20 鴨志田武雄二等兵(20才)ー神奈川県高座郡有馬村本郷 891/長沙第184兵站病院にて赤痢にて死去
昭和20.8.9 西谷益男二等兵(19才)ー東京都芝区海岸通4-7/広西省 全県永和郷沙子湾にてマラリアのため死去
昭和20.8.10 江端時雄二等兵(20才)ー東京都葛飾区本田渋江町246 /広西省全県永和郷沙子湾にてマラリアで死去
昭和20.8.31 伊藤武一二等兵(19才)ー東京都目黒区中目黒4-1472 /長沙兵站病院にて栄養失調症のため死去

このうち目の前でその死を看取ったのは斉藤一等兵のみである。何分戦時行動中だから、入院後送させずに部隊と共に移動し乍ら治療に努めさせた。もちろん本人の希望があったことだったが、死に至る程だったら当然専門の医療に頼るべきだった。
召集兵で妻子ある身と聞いていたが、全く申し訳ない隊長のふがいなさであった。

以後は気をつけて病院に後送するよう努めて、浅川上等兵のように1年後には退院して一緒に内地の土を踏めたものも居た。
彼とても入院時部隊と一緒に連れて行ってくれと懇願したが、振り切って私が直接つれて百キロ後方の兵站病院に送り込んだ。

他の4名はいずれも初年兵である。
私の隊に配属されたのは5名といわれた。実際に隊に無事到着したのは松島健四郎(日光出身)只一名だった。
他の4名はいずれも途中風土病などにかかり、2名は追及途次、2名は途中入院後死亡した。
北京で部隊の受領者が受け取り、直距離1800キロ、行程約3000キロを歩いて追求したのである。
満19歳、おそらく飯など炊くなどということは知らなかったものたちだろう。

敵機は容赦なく日本兵1名たりといえども攻撃して来た。集団でピクニックするがごとき行動は許されなかった。
統率者も落伍を止める手段はなかったと言っていた。
30名ばかりの初年兵が4分の1になった。私の隊でも5名が1名になった。他は推して知るべしである。

こんな過酷な運命に陥れた責任といえば、私とて知らないとは言わせぬぞと言う人が居ることは分かっている。
かりにいなくても悔恨は70年経っても暗く残っている。

就中西谷益男、江端時雄の両人には死んだ全県かその前紀陽あたりの廃屋の民家の中で、対面させられた記憶がある。
すでに足などは腐って、押せばじくじくと膿みが出ていて、もう長くないと付き添いの衛生兵に告げ口された憶えがある。

残酷といわんか、哀れというか、どんなことをしてもこの悔恨はぬぐいさることはできない。

乃木将軍の悔恨も人には分からぬ奥深いものだと同情せざるを得ない。彼は最後にそのはけ口を見いだせた。二人の息子を戦争で失ってまでして。

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2011年5月23日 (月)

変な天気

昨日午後2時過ぎ長女夫婦が家内の目の具合などが心配と見えてやってくる。

時ならぬ時間に電話が入ったので、折も好し家内は庭の松の剪定、私はビデオラックの移動を頼むべく手ぐすね引いて待つ。
若いということはいいもんで、簡単にラックは二階へ、庭の松は婿が木に登り、夫婦が上下で呼吸を合わせて難なく綺麗に剪定してくれる。ついでに古くなった柘植を根元から切って片付けてくれ、家内の懸案が一挙に片付いてしまう。
家内は大満足である。

ほんの1、2時間の間に万事完了、掃除まで済まして帰って行く。
やっぱり若い者、頼まねばだめか、ぐずぐずぼやきぼやかれていたのが、一度にすっきり、精神安定にまで繋がるようだ。

今朝は夜半から降り出したか、しとしとと降りしきっている。気温20度。
昨日婿たちが庭先を綺麗に片付けてくれたので、丁度よかったなあと家内の機嫌はよい。

先日Amazonに注文していた、古川薫著「山河ありきー桂太郎の生涯」の中古本が名古屋の書店から送ってくる。代金1円とは気の毒。
早速読書に掛かる。

午前中家内斉藤眼科に行くのを車で送り、帰路スーパーに立ち寄り食材などを購入する。
私は終始この「山河ありき」を読みふけり乍ら車で待つ。

午後気温が急激に下がり始め、慌てて冬着を着込む。
夏ではなかったのか、内心ぶつぶつこぼしながら。

午後3時昼寝から覚めて、寒暖計を見てみると、朝より下がり18度を示している。依然小雨しょぼしょぼ。変な天気である。

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2011年5月24日 (火)

桂太郎を今読んでえにしを憶う

昨日手許に届いた「山河ありき」は夜には読了した。
著者の視点、書きぶりが私の嗜好に合うのか、読みよい。
日露戦争当時まだ新進気鋭だった桂太郎という総理が日本をリードし、国難を救ったということは知ってたが、陸海軍の奮戦に気を奪われて、政治の視点からなど考え及ばなかったので、総理のことなど気にもかけたことはなかった。

著者古川薫の幕末明治にかけての造詣の深さをその著書を通じて知るに及び、ついでにと手にした本だったが、思いのほか面白く、しかも妙なえにしを感ずることになろうとは思いもしなかった。

私の家から直線距離にして五百メートルもあろうか、桂公園という小山が見える。春になるといつも桜の花に覆われる。
元桜尾という毛利、陶の厳島合戦当時の著名な拠点になった砦跡である。
城主は桂元澄で毛利氏の股肱の臣であった。岩国まで来た陶晴賢を調略してその二万の大群を厳島に渡らしめ、毛利の夜襲を助けて一挙に葬り去った有名な勝ち戦を演じた張本人である。
桂太郎はこの元澄の五男の子孫ということのようである。
総理になって故郷に錦を飾ったとき、ここ廿日市に立ち寄り、この桜尾城趾を買い取り公園として廿日市町に寄贈したとある。
この本の巻末にちゃんと書いてある。桜尾城趾については勿論よく知ってはいたが、そんないわくがあるとまでは知らなかった。
どおりで現在桂公園という訳であった。

しかもこの総理の墓が東京世田谷の吉田松陰の墓のある松陰神社に隣接してあるとは知らなかった。松陰神社には陸軍自動車学校在学当時以後何度かもうでたのに、ついぞ気づくことはなかった。
同じ本の巻末には井伊直弼の墓も隣接してあるとか、これはよけいなことだが。

今度の大戦の時と違い、この総理を始め伊藤、大山、児玉など戦争を始める前から如何にして戦争を終わらせるか心を砕いていたかがよくわかる。彼らはこの国を潰してはならぬと誠に真剣だった。今度の大戦の指導者たちとはまるで心がけが違っていた。
敵を知り、己を知ることが戦争の要諦である。勉強の仕方も違っていた。神風など心の隅にもなかったようである。

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2011年5月25日 (水)

名将の出る幕

朝6時気温15度。灰色に霞み青空は少ないが日ざしはもう強く、暖かくなりそうである。
何故だか1時間早く目覚める、眠くないのでそのまま起き上がりパソコンに向かう。

プロ野球のナイターの結果ををまず見る。カープは逆転でロッテを連破している。
私はまるで聞いたことがない丸なんて選手の逆転2塁打で勝ったとか。
依然好調だ。パリーグに一つ勝ち越した訳か。
しかし一喜一憂は心臓に良くないな。

昨日に続き福田和也著「山下奉文」を読む。
昭和17年から2年間彼の指揮する方面軍の一部隊将校として、その指揮を受けた思いがあるからである。
もちろんその謦咳に接することはなかったし、文書の一通も受け取ったことはなかった。
只命令系統が繋がっていたというだけである。

しかし少なくとも若かった私には、シンガポールのあの勇将が直上官として来たのかという、奮い立つような感奮を覚えたことは確かである。ソ連といよいよやるのだなと身の引き締まる思いも強まった。
事実はそうならず、昭和19年4月私の部隊は彼の指揮下から抜け出し、支那派遣軍隷下に移動させられた。
彼はすぐその後7月フィリッピン派遣軍司令官という、悲劇の職責に転ぜしめられたのであった。
対米敗戦の幕引きをすることとなってしまった。

この本の巻末近く、”アメリカのウエストポイント士官学校には、ヒットラー、ムッソリーニの写真と、指揮刀、勲章と並べて、山下奉文の写真と降伏文書、軍刀が展示されているが、東條でもなく、天皇でもなく”と疑問が投げかけられている。
名将らしい戦ぶりだったことは、認めるにやぶさかでないということか。著者もそのように解しているようだ。

ソ連こそ敵だとする、山下の考えもあの時点では、賽の投げられた後、どうすることも出来なかった。
名優出る幕を失ったというべきかも知れない。

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2011年5月27日 (金)

テレビは何故軍歌を歌わせないのか

ひそやかに降っている明け方、気温は17度。
深夜便で2日にわたって話してくれたお坊さん(兼学校教師)の話は面白かった。というよりいい話だった。
”悲心”ー悲しい目にあった時の心で人を思いやるーというのだそうだが、三十数年間卒業する子供たちへのはなむけに書き贈ったという。
千五百人にもなったという。そのままの体験をした生徒が出現したエピソードは面白かった。
(残念乍らこの坊さんの名前は私の耳のせいかよく分からなかった)
金子みすゞの詩を愛誦しているそうだが、”メダカちり、メダカ集まって水動かず”や”草に座して雲をみる”はどちらもいい。
ネパールの学校うまく行くよう祈りたい。

やっぱり梅雨入りだそうだ。今から梅雨では大変長い梅雨になりそうだが、洪水なんてごめんだよ。
日本列島受難の年かも知れないな。

私のような老人は、最近のことなんか思い出さないが、今日が日本海海戦の日だとは、朝起きて聞いた途端すぐ思い浮かべる。音楽は軍艦マーチである。
iTunesを検索すればすぐ出てくる。聞いてみたいから早速引き出して聞く。
名曲だなといつも思う。

敗戦後は軍歌調は自粛してか、負け惜しみか軍歌はほとんど外では聞けない。
我が家は別である。

ちゃんと50曲ぐらいiTunesやiPhoneに収めてある。聞きたくなくてもシャッフルに選び出して聞かしてくれるからし方がない。
若い人は間違ってはいけない。威勢の良いのだけが軍歌ではない。軍艦マーチは別として殆ど哀調に満ちている。戦いを強調し、士気を鼓舞するもんばかりではない。戦いの悲惨と国に残した近しい人などを偲ぶものが多い。半ば厭戦、反戦の歌と言ってもよい。

有名な戦友はもちろん軍歌の古典である。哀調一番乗りといってノーだというものはいないだろう。
討匪行にしろ、麦と兵隊にしろ、暁に祈る、海行かばですらそうである。

私の戦線で口移しに愛唱された”湖南戦線の歌”というのがあった。故郷をしのび、失った戦友をしのぶ哀調切々たる歌だった。詠み人知らずである。昭和20年に大陸で流行ったのだから、レコードもないし、誰も知らない。私も歌詞がまともにもう出て来ない。
“ああ、大陸よ、飛ぶ雲よ、・・・・・・しのぶ戦野は夜の雨”、”ああ、戦友よいまごろは、・・・前進、前進、泥にまみれているものを”
などという歌詞がとぎれとぎれに浮かぶだけである。

シベリア抑留者が歌った”異国の丘”は戦後流行ったが、あれは戦中の軍歌とはいえない。
”モンテンルパの夜は更けて”は、明らかに戦後の流行歌である。
私の買った軍歌集CDに収めてあるから念のため言い添えておくのだが。

それにしても軍歌は名曲が多い。私は戦争を鼓舞するものとは少しも思わない。思いもよらず戦場に引き出された庶民の故郷や父母妻子の身の上を案じ、心情を吐露したものばかりである。
万葉の昔、徴発されて防人として赴く人々のおびただしい恋歌と何ら変わることはない。

くだらぬ歌ばかり歌わないで、何故今軍歌を歌わないのか、テレビで歌ってはいけないのか、無性に腹立たしいのは私ばかりだろうか。

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2011年5月28日 (土)

揚子江河イルカは絶滅したのか

今朝も降り続いている。まぎれもない梅雨だ。梅雨入りが去年より18日早いという。
予報では沖縄の近くに台風2号が来ているとか。梅雨も早いが台風も早い。
やっぱりどこか変だ。

十年前だったか、揚子江河イルカのことで、通信フォーラムで論争になったことがある。
あれからイルカの存続はどうなったかと心配になり、ふと思い立って、ネットを検索することになった。
老いの最後を飾る出来事になるかもしれないとの懸念から思い立ったものだが、ウイキペヂアなんかみると、2006年の大々的な調査では1頭も見つからなかったとある。案の定、あわれ!絶滅したか。

1946年5月、故国日本に引き上げる徒次、16日間かかって小舟で武昌から南京まで下った。
そのとき何度も数頭の群れをなして、泳いでいるのを目撃したが、あれが私にも人類にも最後の別れとなったのかも知れない。

三峡ダムの建設が致命的な生息環境破壊に繋がったと書いてある。
パンダはなんとか手厚く保護されているが、河イルカまではおよばなかったらしい。残念なことである。
私の生涯の道連れとなったか。

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2011年5月30日 (月)

老人の一仕事

台風が温帯低気圧になり、四国沖で消滅するが、大量の雨雲を残して各地で被害が続きそうである。
幸いにこの地方は穏やかな雨で植物を喜ばせただけで終わるようだ。
今朝の気温17度。

午前9時南の空にあちこちと青天井が覗く、10時には日も時折さし始める。やっと長雨が終わったらしい。
こわごわと空を見るななんて嵐の天気でもないのに今まであったかしら。

若い時なら何でもないことが、大仰に思い浮かぶこの頃である。こんなとき旅でもしたら大変だったろうなと。

灯油を倉庫へ片付けるとき怪我した腕の傷がやっとホンちょっとの傷跡として残る。まだ絆創膏をあてておく。かれこれ半月になるというのに。

老いさらばえたこの身を顧みて、最近これでも献体して役に立つのだろうかと思い始める。
骨と汚い皮だけだが、臓器は一応整っているのだからなあ。まあいいか、なんとか大学でするだろうから。
目はいよいよ見えにくくなった。運転も遠くの知らないところはもう駄目だ。
90歳を超えるということは、一日一日身体機能が目に見えて落ちて行くということだ。
若い時には分からなかったことである。
こうして記録として残すのも老人の役割だと心得よう。

午後4時内藤内科に行く。前立腺にがんの疑いがある旨告げられる。
もうこの歳だから放っておいてほしいとお願いする。それではそうしましょうと素直に承知してもらう。
小便のでは別に悪くて困るなどということもないし、痛くてたまらない病気でもないらしいから、下手にいじられても困る。

帰宅して柘植の根の除去に一仕事。
なんとか明るいうちに片付ける。

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2011年5月31日 (火)

何で嘔吐までする

昨夜は11時前になって気分が悪くなり、嘔吐を始めた。
最初はトイレに屈んで吐いたが、寝ても何度も催しとうとう2時過ぎまで数回も吐き続ける始末。何も出なくなっても吐くのだから、もう胃けいれんである。
疲れ果てて、2時半頃何時とはなしに眠ってしまう。

今朝になっても頭が重い。とうとう9時近くまで眠る。
湯を沸かしてお茶の湯冷ましを作り、飲む。
のどの渇きが治まり、吐き気はもうしない。
やれやれと起き上がる。

家内のゴミ出しを手伝う。
なにも食べたくないがもう大丈夫だろう。
昨日の柘植の根っこの除去に精出したのがこたえたらしい。他の原因は考えられない。
老いるということはことほど左様に情けないものだとつくづく思い知らされる。

吐いたものは殆ど消化を終わってたように見えたが、胃に取ってはあれが限界だったのかなあ。

起きる前には医者に行き点滴でもしてもらうかなと思っていたが、起きて動いてみるとなんでもない。
行くのを止めておく。

東北の方も大雨と風で苦しんでいる。まさに踏んだり蹴ったりだ。神様も意地の悪いことをするなあ。

もう5月も末だ。あっという間の一月だった。休みの日が多かったせいか。
まだ生きていると反省するばかりである。

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