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2011年4月20日 (水)

70年目の武蔵野

私の次女の家は現在昔で言えば”武蔵野”の一角にある。もちろん今は野なんて雰囲気はどこにもない。
彼女の一家が、出来立てのマンションの一角を購入して移り住んだ直後、私は早速訪れて屋上から眺めたが、野どころか公園すらも乏しい屋根、屋根の見渡す限りの大海原であった。
富士山は日によってかろうじて見えるとは娘が言っていたが。

1941年陸軍自動車学校で半年教育を受けた時は、回りは完全に武蔵野の木立が生い茂り、林の遥か上に美しく雪を頂いた富士山が何気なく、毎日朝早くから浮かんでいた。
不思議でもなんでもない光景だった。ただ土壌が異常に黒く、山陽育ちの私には異質の感はぬぐえなかった。
世田谷街道をしょっちゅう自動車訓練のため走り回った。10分も走れば多摩川畔に達する。自然林の中を走り回る快適さは、もう味わうすべは無い。
娘らのマンションもその世田谷街道を自動車なら5分も走らないで、ちょっと街道筋から入ったところにある。

数年前現在は東京農業大学になっている構内に入れてもらって、故地を尋ね歩いたがあまりの変わり様に驚くだけであった。
ただ元陸軍自動車学校跡というモニュメントが建てられていて老いの心を慰められた。

国木田独歩の”武蔵野”や徳富蘆花の”みみずのたわごと”に出てくる武蔵野の描写がいまだからこそ、ものすごく懐かしく恋しい。
僅か一世紀の変貌である。渋谷村、千歳村など地名も懐かしくしびれる。

この学校に居る間の12月8日あの大戦の火ぶたが切られた。忘れようとして忘れ得ない日々だった。

しかしこの惑乱の中で、教育は整々として、何事もなきがごとく行われた。
武蔵野はあくまでも静かだった。
独歩は次のように書いている。「自分は屢々思うた、若し武蔵野の林が楢の類いでなく、松かなにかであったら極めて平凡な変化に乏しい色彩一様なものとなって左まで珍重するにたらないだろうと。
楢の葉だから黄葉する、黄葉するから落葉する、時雨がささやく、凩が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群れかの如く遠く飛び去る。
木の葉落ち尽くせば、数十万の方域に亘る林が一時に裸体になって、蒼ずんだ冬の空が高くこの上に垂れ武蔵野一面が一種に沈静に入る。空気が一段澄み渡る。云々」

私の在学中は正にこの趣が残っていた。
以後70年、全く変わった。あの樹林はどこにも見当たらない。
この打って変わった賑々しさ、そしてこちらの心の寂しさ、なんと表現したらいいのだろうか。

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