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2011年4月 7日 (木)

戦友脇正己君のこと

今朝は少し寝過ごして起きたのは7時半、気温13度暖かいのでよく眠れたのかも知れない。
天候はちょっと崩れそうだ。

人生90年にもなると人並みはずれて経験することは当然多くなる。いつだったか沼静雄君のことを一期一会の友とこのブログに書き載せたことがあるが、今度は消息は戦後随分経ってから分かったけれども、もうこの世にいなかった脇正己君のことも、すり合った縁は僅かだったが、やはり忘れられない。
初年兵が同じ中隊の同じ第3班で巡り会った。常住坐臥正に目の届くところで約3ヶ月、殴られ叩かれ共に古参兵たちに目の敵にされ続けた。彼がどこの学校出身か、入隊前何をしていたか等聞いたことはない。
私より年上だったと思う、いかにも落ち着いた風格の持ち主で、子供じみた私とは何もかも違っていた。
ただ初年兵教育の課程では、常に中隊の上位を争った。そして共に幹部候補生に進み、東京の学校にも進学した。
良きライバルだったと言える。

見習士官に進級した後、ある時二人は十名ばかりの同僚ともに2ヶ月ばかり乗馬教育を受けさせられた。
この教育の後半、私は独立輜重兵第53中隊へ転属を命ぜられた。教育修了後直ちに20キロ離れた東安にある前記部隊に赴任した。貨物廠内の貨物配送が主任務と見えた。作戦中なら大変だろうが、平時だから別に何事も無く退屈な毎日だった。
このとき脇君は牡丹江の挽馬部隊に転属した。名前等は覚えていないが、本格的な輜重兵連隊だったと思う。

私は1ヶ月後又新動員の自動車部隊に再転属され、元の部隊に隣接した新しい廠舎に帰って来た。
少尉に任官後所用で牡丹江に出かけた時、彼を訪ねたことがある。
その時の彼から受けた待遇の暖かさ、兄かとも思える程の親密さには、さすがに驚きあきれた。
ほとんど夜を徹して歓待を受けた。いまだにまざまざと記憶に残っている。

その日を最後に彼とは生涯会うことは無かった。

後に彼の奥さんからの話では、牡丹江でそのまま家庭を持ち、彼はソ連へ抑留され、家族は命からがら郷里の呉に帰って来たとのことであった。
何年かの後抑留から帰還した彼だったが身体を壊していて、まともな生活は出来なかったやに聞いた。
不遇な一生を送ったようである。沼君同様、なにか心に残る男であった。

彼については去る2月1日このブログで書いたのだが、惜しい男だっったし、出来たら旧交を温めたかったので、再度書きたくなった。私が尋ねた時には、既に彼の死後十年以上も経っていた。
戦争犠牲者の一人であることに間違いは無い。(写真は彼と私)
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