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2011年4月 1日 (金)

原発は白紙にすべきか、ノーだ

朝の気温5度、昼間は20度ぐらいまで登るという、春たけなわと言って間違いないか。
桜も安心して開花するだろう。
それにしても3月中に開花情報が聞けなかったのは近年稀なのではなかろうか。

原発増設は白紙にと首相が表明した。残念なことである。
フランスの大統領まで心配してやってきた。日本はまだまだ後進国であった。
先進国だの一等国だのとうぬぼれていた自らが恥ずかしい。穴にでも入りたい。
原子力を使うにはまだ早過ぎたわけ、フランスはやはり凄い。国の電力の8割を原子力で賄っていて、平然としている。
アメリカさえも頭を下げざるを得ないほどだから。

若い人はしっかり勉強して、世界に追いついて欲しい。
すくなくとも原子力を自由自在に操ることが出来れば、どれほど国力に貢献出来るか、分からぬ人はいまい。
恐れてばかりいては世界の先頭に立つことはできない。
私ならずとも、今回の事故で手も足も出せない国の知識レベルをよく自覚したことであろう。

明治維新の若者の気概を今や想起せざるを得ない。
うすっぺらな娯楽に浮かれてばかりいてはならない。
その時期だと今警鐘が鳴り響いている。

今朝の産経webを見ると、アメリカから来た原発災害ロボが使えないとある。そのノウハウを生かすものがいないというわけ。相変わらずの消防隊や自衛隊の特攻作戦だけである。情けなさがいよいよ身にしみる。

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2011年4月 2日 (土)

被災者は人間だけでは無かった

朝の気温9度とすっかり春。
東北太平洋地震は東日本大震災と呼称をまた変更する。まあいいだろう。
復興への足がかりが出来たとも見えない。原発廃棄はやむを得ないとしても、簡単には取りのけることも出来ない。
サルコジさんはいい知恵を持って来てくれたのだろうか。

被災された人たちや住処のことばかり気になっていたのだが、今朝youTubeを見ていると、ペットたちのことが沢山写真で出てくる。もの言わぬだけに哀れで、どうして助かったのだろうと気になる。犬や猫が多いが、他にもいろいろいただろうにと思わずにはいられない。
牛馬も沢山いただろう。震災は人間だけを襲った訳ではなかった。

パソコンも長くやってると、くずらしいものが沢山たまって自分自身が処理しきれなくて持ち余すことになる。
用心のためbackupしてるのだが、これがいくつものHDに分散していつのものやら訳が分からない。
頭が老化してくるとますます分からない。
所詮メーカーが理屈で考え出したものだろうが、おためごかしで実用にはなかなかならない。

長い時間かかって片っ端から廃棄する。
今度は誰かがいうように、空いたところにDVDやCDを埋め戻すとするか。
結局何にもならないかも知れないが。

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2011年4月 3日 (日)

節句の山登り

朝8度、やや風が強い。

幼い頃、今日は月遅れの節句の日であった。
学校も神武天皇祭の日で休日だった。
朝から家族ぐみで弁当やむしろを提げて、後ろの山に登る。”えんげし”といい、標高は100m足らずか。頂上は禿げていて格好の遊び場であった。すぐ眼下には自宅などの屋根々々、沖合には瀬戸の島々が連なる美しい景観だった。
子供らは陣取り等をして、山の斜面を駈け回り、日の暮れるのを忘れた。
温暖化というが昨今の異常の寒さは、子供が少なくなった現在でなくとも、弁当もって山登りはちょっと無理かな。

戦後は休日でもなくなったし、少子化もあって、この行事が復活した話は聞かない。
ふるさとの仲間意識を育てた良き習慣がなつかしい。
永久に消え去るのだろうか。

郷土の先達山崎武夫氏の労作「ふるさとの歴史(鞠浦、室木)」にも山登りは詳しく記述されているが、”えんげし”に就いてはそこまで敷衍していない。
私の部落(磯崎)だけの行事の場だったのかもしれない。

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2011年4月 5日 (火)

義援金

昨日と同じく朝の気温は5度、快晴。日ざしも昨日同様強い。
一気に開花宣言となるのか。尾道の千光寺公園は10日に満開と予想が報じられている。
12日にはプロ野球も始まる。萬朶の花が撩乱と鬱屈を吹き飛ばしてくれるか。

折から、ラジオからはパールマンのツィゴイネルワイゼンが小気味良く鳴り響いている。
老人もついうかうかと乗せられそうである。

ソフトバンクの孫社長が100億円義援金を出すと発表した。宣伝のうまい人だが、それにしても驚いた。
柳井正の10億もさすがだなと思ったが、一桁違うので尋常の話ではない。
産経webが安田善次郎と後藤新平の逸話を紹介しているが、ともあれこんな話はいくらあってもよい。
何万、何十万の明日を失った人々が助かる。
富ある人は進んでこの義挙に参加して欲しい。千載一遇の好機かも知れない。

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2011年4月 6日 (水)

私の小学生の頃

今朝は7度と暖かい。桜も安心して開花が進むだろう。
朝食事のとき、何度も聞く小学校時代の学芸会の話、万寿の姫と唐糸の物語、家内が唐糸の役だったが、肝心な舞台の日風邪を引いて出られなくなり、高木さんが急遽代役で出たという、またひょいとこの思い出話しが出てくる。

1ヶ月以上も練習したのに出られなかった悔しさが、家内の怨念として続いているらしい。
万寿姫の話、もう知る人も無かろうが、何か伝説でもあったのかと、お手の物パソコンで検索してみる。

どうやら講談社の創作物語らしい。起源らしきものはなさそうだ。
木曾義仲の女房唐糸が囚われの身となり、娘の万寿姫が頼朝の前で踊って賞賛せられ、褒美に何が欲しいと問われて母唐糸の赦免を願い許されて、、ともども郷里の木曽に帰るという話である。
静御前の話は有名であるが、これにヒントを得て作られたのかも知れない。

忠臣蔵の例にもあるように、何百年も経つと、作り話が事実のようになってしまうことは珍しくない。
伝説というのがそれであろうか。弘法大師のあちこちの足跡、源義経はジンギスカンだという話等結構面白い。

私も子供時分には学芸会、音楽会にはよく引っ張り出された記憶があるが、テレビもラジオも無い時代だから先生も参考がなくて、大変だったろうな。大江山とか、鳥獣合戦とかかすかに記憶がある。
今と違って一クラス55人も生徒がいた。写真が残っているから間違いない。
名前を憶えるだけでも大変だろうし、よく喧嘩したりして、言うことは聞かないし、むちで頭を叩いたりして怒っていたが、教えるということはただごとではないと子供心に思ったものだ。

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2011年4月 7日 (木)

戦友脇正己君のこと

今朝は少し寝過ごして起きたのは7時半、気温13度暖かいのでよく眠れたのかも知れない。
天候はちょっと崩れそうだ。

人生90年にもなると人並みはずれて経験することは当然多くなる。いつだったか沼静雄君のことを一期一会の友とこのブログに書き載せたことがあるが、今度は消息は戦後随分経ってから分かったけれども、もうこの世にいなかった脇正己君のことも、すり合った縁は僅かだったが、やはり忘れられない。
初年兵が同じ中隊の同じ第3班で巡り会った。常住坐臥正に目の届くところで約3ヶ月、殴られ叩かれ共に古参兵たちに目の敵にされ続けた。彼がどこの学校出身か、入隊前何をしていたか等聞いたことはない。
私より年上だったと思う、いかにも落ち着いた風格の持ち主で、子供じみた私とは何もかも違っていた。
ただ初年兵教育の課程では、常に中隊の上位を争った。そして共に幹部候補生に進み、東京の学校にも進学した。
良きライバルだったと言える。

見習士官に進級した後、ある時二人は十名ばかりの同僚ともに2ヶ月ばかり乗馬教育を受けさせられた。
この教育の後半、私は独立輜重兵第53中隊へ転属を命ぜられた。教育修了後直ちに20キロ離れた東安にある前記部隊に赴任した。貨物廠内の貨物配送が主任務と見えた。作戦中なら大変だろうが、平時だから別に何事も無く退屈な毎日だった。
このとき脇君は牡丹江の挽馬部隊に転属した。名前等は覚えていないが、本格的な輜重兵連隊だったと思う。

私は1ヶ月後又新動員の自動車部隊に再転属され、元の部隊に隣接した新しい廠舎に帰って来た。
少尉に任官後所用で牡丹江に出かけた時、彼を訪ねたことがある。
その時の彼から受けた待遇の暖かさ、兄かとも思える程の親密さには、さすがに驚きあきれた。
ほとんど夜を徹して歓待を受けた。いまだにまざまざと記憶に残っている。

その日を最後に彼とは生涯会うことは無かった。

後に彼の奥さんからの話では、牡丹江でそのまま家庭を持ち、彼はソ連へ抑留され、家族は命からがら郷里の呉に帰って来たとのことであった。
何年かの後抑留から帰還した彼だったが身体を壊していて、まともな生活は出来なかったやに聞いた。
不遇な一生を送ったようである。沼君同様、なにか心に残る男であった。

彼については去る2月1日このブログで書いたのだが、惜しい男だっったし、出来たら旧交を温めたかったので、再度書きたくなった。私が尋ねた時には、既に彼の死後十年以上も経っていた。
戦争犠牲者の一人であることに間違いは無い。(写真は彼と私)
Photo

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2011年4月 8日 (金)

二万数千の屍を乗り越えて必ずや復興を

濡れそぼっている庭木の間をゲートまで新聞を取りに出る。気温15度、なま温かな朝の空気。しとしとと正に春雨。
新聞は幸いに濡れてなかった。
テレビは各地のさくら満開の様子を伝えている。
うちでは家内が同僚に誘われて13日に岩国で花見の予定らしい。
私も知らぬ顔して出かけようかなと思ったりしている。ただ車が混むからなあ。

家内が二三日右肩の痛みを訴えている。炊事が大変なようである。私はそちらは全然役に立たないから、痛くてもやっていただかないと飯が食えない。
花見はどこか食堂に入って食事すると話し合ってるようだ。しかしこれまた込むから簡単ではないな。
雨降ればダメ、いい天気なら混雑、八十のばあさんパワーでうまく行くかな。

午後になっても降り続いている。
落ち着いて寝られるというものである。

今日送られて来た文芸春秋を見ると、今度の震災から立ち上がれと各界の名士からのメッセージが載っている。
取り分け日本を愛してくれてる李登輝元台湾総統の言葉「日本は太平洋戦争の惨禍を乗り越えたのだ」は身にしみる。
又瀬戸内寂聴さんも病床から声を上げておられる。私より2歳年下だが、脊椎を患って歩行困難だとか。助けに現地へ飛んで行きたい心境らしい。
皆思いは一つだ。日本復興を信じている。元気を出してくれ日本人よ。

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2011年4月 9日 (土)

再び第6号潜水艇のこと

気温13度と今朝も暖かい。冬のままの衣装では少し身体がほてる。といって簡単には脱がれない、老人にはそこらあたりの順応が出来にくい。

東北地方は大きな余震が連続して起き、7日夜には津波警報がでるなど引き続き被害が増大している。
各地の原発にも停電事故が頻発し、不安心理を煽っている。
火力発電5基も停止しているとか。
海の底が24mもずっている等と聞くと、素人の私でも背筋が寒くなる。
このまま半年一年と地殻変動が続くのではないだろうか。
日本沈没は単なる空想小説であって欲しいのだが。

朝食のとき家内が、そこらあたりの桜を見に行かないかと言う。どうもそんな気になれない私。
今日は土曜日だからなあと答を濁す。

家内の花見は友達の一人富田さんが岩国沖で沈んだ第6号潜水艇の記念日で、接待の手伝いがあるので欠席すると言ってくる。
以前から世話役をしていたのだそうだ。私も艇の副長だった長谷川中尉の甥にあたる長谷川さんが学校、会社の先輩としてお世話になった方だけに、不思議な縁につながれて、亡くなるまでは何かと戦後も交流が続いていた。

ハワイ沖海戦で有名な特殊潜航艇の2、3倍くらいの大きさの、日本海軍初期の潜水艇で、岩国沖で潜水訓練中事故で沈没したのだが、佐久間艇長以下14名が整然と持ち場に着いたまま殉職していたし、佐久間太尉の国を憂いての遺書によって、世界中に日本海軍の名を高からしめたことが未だに語り継がれている有名な話である。

戦後所在が分からなくなって、長谷川さんと二人で呉市内を尋ね歩いたことがあったが、現在は江田島の第一術科学校の庭に置かれてある。戦前吉浦にあった海軍潜水学校に置かれていた当時、艇の中に入って見学したことがある。

また敗戦時進駐軍に接収され解体までされたのに、どさくさをくぐり抜けて、歴史的遺産としてよくぞ現在まで無事存続されたものだと喜んでいる一人である。
あの事故のあった1910年から百年を越えた。特に岩国市民には忘れることが出来ない事故として、呉とともに毎年記念行事を行うなど、いつまでも伝えられることだろう。

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2011年4月10日 (日)

天災と国の政治

薄曇りではあるが、朝の気温8度の申し分ない選挙天気。
90歳を過ぎたこの老いぼれ、選挙権はあるが、選挙資格はあるのかいなとやや逡巡の気持ち。

若い時から尊崇止まなかった吉田松陰先生の生家を先月訪れ、五年前には東京世田谷の先生の墳墓の前にぬかづいたし、私の心のけじめはつけたと思っている。後はもうこの国の運命を担う後輩たちに無条件に託す以外に道はない。

東日本大震災から丁度1ヶ月、未だに行方不明者が1万5千人もいるという。
大半は海の底だろうからどうしようもない。
米軍の協力も得て、十万の自衛隊の力をもってしても、海の底までは無理であろう。

先の大戦も遺骨も残さない死者、行方不明者は数知れなかった。
私自身も裸で路傍で殺された一兵士をその路肩に埋葬して去った経験がある。何も身に付けず、友兵もいず、戦中の最中詮索のしようは無かった。
弾にあたらなくても病に倒れ路傍にふした兵士の姿は数知れず、後方から進軍する私たち部隊にも、任務が先行し、放置する以外に、手のつけ様はなかった。未だに瞼に残ろ悲惨な光景である。

家内は私の尻の重いのを見限って、浜田さんを誘って昼前投票に出かける。
私はこれで踏ん切りが着いて投票は止める。
90老人の出る幕ではない。1票でも国の動向を傾けてはいけない。力の出る人に任せるべきだと思うからである。
家内は非常に政治に関心があるし熱心である。当然投票をすべきだと思っている。
だから当然私に同調させてはいけない。

一国の政治は松蔭のごとく真に国を憂いて研鑽を惜しまない人に任すべきである。
いい加減に利害褒貶をあげつらう人の出る幕ではないとかねがね私は思っている。
ましてやその好悪に従って、或は人気につられて投票する等は正に国を誤るものである。

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2011年4月11日 (月)

思いがけず白内障で入院宣告

先般買ったDVDを夜遅くまで見たので少し眠い。食後少し寝足す。
家内が眼科に行くというて起こされる。11時の予約だという。聞いていたのだろうが、もう忘れ去っている。

今朝の気温は9度だったからまあいい天気だ。
私も目はだんだん悪くなった。老化現象だろう。来月病院に行く日についでに眼科の診察を受けようかなと思っている。
このままではパソコンも自動車運転も出来なくなってしまう。
死ぬるよりつらいことになるだろうから。

家内を病院に送り、ちょっとスーパーで杖を買ったりして、のんびり待合室に入ると、家内があたふたと近づいて
受付で手続きを済ませたかという。
私も眼科に受診を予約していたんだという。驚いてそれではと取って返して受付けに回り、改めて初診受付をしてカードを貰って来て眼科に差し出す。

思いがけぬことで私も眼科の患者になってしまった。
最後の患者だから待つこと久しく、次から次へと検診が続き、すべてが終わったのは午後2時、7月26日再度検査の後、8月10日と29日に2度入院して手術を行けることになった。老人性の白内障だと言うことだった。

決心も何もつかないままに、いずれはと思っていた白内障の手術を受けることになった。
永年酷使したのだから仕方が無いが。まさかの交通事故にあったような気持ちである。

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2011年4月12日 (火)

1ヶ月経っても大きな余震が続く

朝起きるのが眠くてつらい。昨日4時間半も病院で診察等が掛かったので、気疲れしたのであろうか。
朝の気温は6度とやや低いが、空は明るくてよい天気。
外はどこもかしこも満開のさくらが咲き誇っている。

近年桜の植わった場所が随分増えたことに気づかされる。やっぱり桜は日本の花、いいもんだ。
散った後も薄紅色の絨毯をつくり、ひとびとを樹下に逍遥させる。優しい風情は余韻嫋々である。

千葉沖に今朝又地震が起こる。マグニチュード6.3という。震源近くに今は亡き旧友の生家がある。いつか長文の手紙をいただいた奥方の身上が気にかかる。
東京の娘らも何度も何度も来る地震に心休まらざることと思うとこちらも気にせざるを得ない。

余震で収まっている間はまだいいが、大地震に発展することは無いとの保証はなさそうだ。東海大地震の呼び水にならねばよいがと心配は募るばかりだ。

昨日降って湧いた目の手術は近代医学の進歩に信頼を置いている私は毫も心配していないし、むしろよくなるあしたを待ち望んでいるが、地震の方は悪い予感ばかりで夜も眠れぬことになりそうである。

今朝の新聞を見ると、マリアナ群島のロタ島が、被災者の受け入れを準備していると伝えている。今でも親日的な島らしい。
正に常夏の島私こそ住んでみたいと思う程だが、うれしいことだね。昔兵隊のとき部下にいた犬養君が応召前勤務していた所で、よく話を聞いていたのでよけいに懐かしい。

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2011年4月13日 (水)

電力の根源に迫れ

朝7時半気温9度。
今朝のニュースで東日本大震災による福島原発事故がチェルノブイリ級のレベル7と発表された。
世界最大の原発事故という訳である。広島、長崎につぐ原子核事故となり日本は益々原子核と縁が深くなる。
地震大国はわかっていることなのだから、その対策を怠ったとは思わないが、最大級のその上の対策を考えるか、始めから止めるか、国として考えなくては又事故を繰り返すことになるだろう。まだ沢山の原発炉があるのだし、造成中のものまであるのだから。

水力発電にしてもダムが崩壊して山津波を起こすなどということはないのか。
地震対策は簡単ではない。
そもそも電力そのものを民間に任せておいていいのかという根源に迫る議論も生まれそうである。

周波数が違うから、関西の電力を関東にまわすことは出来ないと、非常体勢の欠陥も露呈された。この小さな国で肝心な時電力の融通が出来ない等というのは誠に腹立たしい。こんなのは国で断固一刻も早く改善すべき問題ではないのか。
改善に基づく新しい需要も生まれるだろう。無駄と見えても決断一つで非常の体勢が実現出来る。
民間に任せては永久に実現出来ないのではないのか。

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2011年4月14日 (木)

iPhoneに魂を奪われた私

雨の降らぬ日が続いて、ダムはいずれも30%前後の貯水量で、渇水の危機が訪れていると各メディアは伝えている。
天気がいいのはよいが、生活には良し悪しだなあ。

電気、水不足、人口減少は皆自然の摂理かも知れない。

一世紀というスパンはそれを現実に生きて来たものに取っては驚異的な変貌を来した期間と言っていい。
些細な生活手段から食物の1品1目に至るまでまるで違ったものになったと言っても言い過ぎではないだろう。

しかし人類の行き詰まりが、身近く感ぜられるようになるとは、さすがに思い至らなかった。
他の惑星に逃避する手段は未だない。次の世紀末にはぼつぼつ危なくなるだろう。
人類の破滅がいかなる形で到来するか、思うだに狂わしい。
地震、津波、原発事故はいみじくも神の警告と受け止められないか。

私は今iphoneに熱中して、魂を奪われた状態に近い。
昨日本屋で「iPhone400以上のAPP」という本を買って来て読んでいる。
機能の多種多様さに呆れている。単なるケータイ電話ではない。
私自身は電話はほとんど使う機会は無いから殆ど他のことを目指している。それが十分可能なのだ。
今となっては時間が足りない感じすらする。

病院に行っても、食堂に入っても、散歩しても、絶えずiPhoneを胸のポケットに、イアホンを耳に、目下私のスタイルである。
看護婦に笑われ、ウエイトレスに奇異の目で見つめられても、素知らぬ顔。
誰の邪魔をする訳でもない、
ひょっとすると気が狂ったのかも知れないな。

急に思い立って昼前から岩国錦帯橋畔の桜を見に行こうと思い立つ。
家内を乗せて高速道を岩国へ、着くともうひるである。
平日でもやはり車は多く、駐車場を探す。
吉川家の墓地の横に一つ空いていたのでここに入れ、錦帯橋まで歩く。
桜の下では花見弁当を広げている人々で埋まっている。

橋畔の売店で岩国寿司等を買って、iPhone スタイルはそのままに、橋のたもとをさまよう。丁度ベンチから4、5人が立ち去るのを家内が見つけて、早速場取りをする。
後はゆっくりのんびり橋を眺め乍ら、桜花の散る花吹雪に身を任せ乍ら弁当を開く。
熱からず寒からず、言わん方なき極楽気分。
1時間も過ごしただろうか、別道を辿って車まで帰り、これで満足と一路来た道を帰る。

すぐベッドインして夕方近くまで休む。
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2011年4月15日 (金)

久しぶりに雨の日

家内がリウマチの治療のため広島市内の記念病院まで出かけなければならない。
雨の中を広電駅まで送る。
帰って来て車を前の駐車場に置き、階段を上がる。
玄関脇の西洋すみれなどの花壇が、久しぶりの雨を歓迎しているのか、色とりどり咲き乱れて美しい。

昨日のこと渇水の心配を伝えられたのだが、それまでの快晴が打って変わって思いがけず強い雨。
天のいたずらか恵みの雨か。
花はこれで散ってしまうだろう。間一髪のお花見だったらしい。

帰宅してしばらくまた横になる。
先日DVDに録音した音楽を聞き流す。
チャイコフスキーのバイオリン協奏曲が流れ始める。庄司紗矢香のバイオリンの音色が際立って美しい。

このままでは倒産だという声がした。驚いて飛び起きる。そして悪夢が覚める。もう何十年もいや二十年近く金銭を得る仕事はしていない。
俗世のことを思う資格等ありはしない。何故だろう不可思議な夢である。

昼過ぎ家内が帰宅して、食事またベッドへ。今度は大丈夫かな。雨の日はもちろん老人のすることは何も無い。
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2011年4月16日 (土)

運命の岐路

朝の気温は14度、暖かい。
全国的にあたたかいらしい。

目の状態が夫婦揃って悪くなったのは何か原因があるのだろうか。家内は副腎皮質ホルモンの薬を飲むからその副作用だと言ってるが、私の場合は単なる老齢化だろう。
昭和の初め頃、伯父の一人が白内障の手術のため在住していたハワイから帰郷して、柳井の病院で入院手術を受けた。丁度夏休み中だったので私が付き添い役を果たした。
結果が悪くとうとう盲目になってしまい、ハワイに帰らぬまま余生の十年を故国日本で暮らし終えた。
亡くなったのは戦時中で私は野戦にあって死に目に会うことは出来なかった。末路は薄倖な伯父であった。
私は特に親しくしたので、いつまでも心に残るやさしい人だった。

私も同じ病気で近く手術を受ける。めくらになったらと伯父の姿を知るだけに一抹の不安がないことはない。
当時とは医術が進んで、まるで違うから問題はないと信じてはいるのだが。

一回の診断でこともなげに手術日まで決まってしまった。軽率だったかなと今思い返しているところなのだが、もう仕方が無い。
二度も入院して、両眼とも手術するという。この歳になってせつないことだ。
文庫本も読めない、iPhoneも無駄になる。先行き運命を賭ける以外に道はないのか。

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2011年4月17日 (日)

終わりよければ全てよしというが

今朝は7度とちょっと冷たい。
テレビで先般出掛けた萩の町が映し出されて紹介されている。年間150万人も観光客が訪れるのだそうだ。
一頃より随分綺麗に整備されていたが、さもありなんの気がする。
私もこれが最後と覚悟を決めて先日訪れたのだが、こうして映像で取り上げていただくと感慨新たで誠にありがたい。
大好きな町で、ほんとの郷里はここだったのではとの思いまでする町なのである。

まだ元気で文通している松岡君や高原君,先年亡くなったが友人鈴川君などは正真正銘の萩出身である。いずれも気骨のあるいい男たちである。
現在は功なり、皆東京近辺に居を構えているが、忘れる事なき郷里へはなかなか訪れる事ができないと、嘆いていたのはつい昨今での事である。

私の青春と言える日は、山口時代と満洲新京の僅か2、3年しか存在しない。満20歳で軍隊に入り、人並みの人生はそこで中断された。
異性を介しての青春は僅か1年に足りない。
萩ではたまたまその青春の秋の一日、同年輩の女性たちに囲まれて、萩の笠山に偶然ピクニックに誘われた。誰とも知らぬ人たちとの淡い数時間の語らいであった。
萩を訪れるといつもその光景を思い出す。

今たまたま山蔭の道という歌がスピーカーから流れ出る。若き日の別れのさびしき思いが身をしっかりつつんで離さぬ。
7年の兵役の後、遠征先から命からが帰国したが、故地は家も何も荒廃の極みで、勢い活を求めて転々とせざるを得なかった。
青春等という彩りはどこにもなかった。
終わりよければすべてよしともいう。まだ終わりに行き着かぬ。果たしてそうだろうか。

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2011年4月19日 (火)

唯我独尊

昨日は銀行に行った帰りに”さくらぴあ”に広響公演の切符を買いに立ち寄ったが生憎休日、市役所で尋ねて最寄りのローソンに行けと言われ、帰り道にあったローソンで簡単に購入出来る。ただし席は向こう任せでノーは言えない。
老人は世間に疎くなるから、月曜は散髪屋が休みは知ってたが、劇場まで休むとは思わなかった。そういえば図書館も休みだったかな。
雨の降りしきる中をとんだ道化役者だった。

ここまで書いていると、FM放送がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の演奏を始める。誰のプレイか分からないがあわてて録音スイッチを入れる。
好きな曲の一つだから誰の演奏でも関係ない。聞かれさえすればそれでよい。

昨日の音楽会の切符もメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲があるから聞きにゆくきになったのだ。
私は単なる音楽愛好者だから、演奏の善し悪しは別に問わない。自分が好しとするものがよい。唯我独尊である。

こうして御託を並べているが、どこでどうして転んだりするか分からない。一寸先は闇である事はよく承知している。
だから最近は随分用心深くなったつもりである。それでも子や孫からは危なっかしがられている。
すぐ2、3軒となりに住んでいる私と同年で10日私より年下の老人が子供から運転を禁止されて嘆いていたが、私には忠告はあるが、まだ家内が必要としているのであきらめているようだ。

昨日は若い者でも居眠り運転して6人もの子供らをはね殺している。12トンのクレーン車だから私の軽自動車とは比較にならない。
用心しなければ老若に関係ない。絶えず凶器を操っていることに、何人も気づいていなければいけない。
私も約70年間事故歴一回(事故無経験ではない)の一応優良運転者たる資格を失いたくはない。

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2011年4月20日 (水)

70年目の武蔵野

私の次女の家は現在昔で言えば”武蔵野”の一角にある。もちろん今は野なんて雰囲気はどこにもない。
彼女の一家が、出来立てのマンションの一角を購入して移り住んだ直後、私は早速訪れて屋上から眺めたが、野どころか公園すらも乏しい屋根、屋根の見渡す限りの大海原であった。
富士山は日によってかろうじて見えるとは娘が言っていたが。

1941年陸軍自動車学校で半年教育を受けた時は、回りは完全に武蔵野の木立が生い茂り、林の遥か上に美しく雪を頂いた富士山が何気なく、毎日朝早くから浮かんでいた。
不思議でもなんでもない光景だった。ただ土壌が異常に黒く、山陽育ちの私には異質の感はぬぐえなかった。
世田谷街道をしょっちゅう自動車訓練のため走り回った。10分も走れば多摩川畔に達する。自然林の中を走り回る快適さは、もう味わうすべは無い。
娘らのマンションもその世田谷街道を自動車なら5分も走らないで、ちょっと街道筋から入ったところにある。

数年前現在は東京農業大学になっている構内に入れてもらって、故地を尋ね歩いたがあまりの変わり様に驚くだけであった。
ただ元陸軍自動車学校跡というモニュメントが建てられていて老いの心を慰められた。

国木田独歩の”武蔵野”や徳富蘆花の”みみずのたわごと”に出てくる武蔵野の描写がいまだからこそ、ものすごく懐かしく恋しい。
僅か一世紀の変貌である。渋谷村、千歳村など地名も懐かしくしびれる。

この学校に居る間の12月8日あの大戦の火ぶたが切られた。忘れようとして忘れ得ない日々だった。

しかしこの惑乱の中で、教育は整々として、何事もなきがごとく行われた。
武蔵野はあくまでも静かだった。
独歩は次のように書いている。「自分は屢々思うた、若し武蔵野の林が楢の類いでなく、松かなにかであったら極めて平凡な変化に乏しい色彩一様なものとなって左まで珍重するにたらないだろうと。
楢の葉だから黄葉する、黄葉するから落葉する、時雨がささやく、凩が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群れかの如く遠く飛び去る。
木の葉落ち尽くせば、数十万の方域に亘る林が一時に裸体になって、蒼ずんだ冬の空が高くこの上に垂れ武蔵野一面が一種に沈静に入る。空気が一段澄み渡る。云々」

私の在学中は正にこの趣が残っていた。
以後70年、全く変わった。あの樹林はどこにも見当たらない。
この打って変わった賑々しさ、そしてこちらの心の寂しさ、なんと表現したらいいのだろうか。

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2011年4月21日 (木)

カープの夢

昨日とほとんど同じ気温の8度とやや冷たい朝。放射冷却現象と天気予報はいってたが。
北海道の人のメールではまだあちらは雪空の模様だが、日本も縦長にひろいから、まだ春遠き東北の被災地の人たちも寒さにも疲れている事だろう。
温暖な気候になれて、北国のことをわすれてはならない。

ソ満国境近くに3年住んだが、寒さのつらさは身にしみて覚えている。
便所で、尻にあたりそうになった小山のような大便を鉄のバールで砕いて、モッコに入れ、担いで兵営の外の野原に行き、石ころを捨てるように、そこらじゅうにばらまいたりした初年兵の頃の驚きは生涯忘れる事は無い。小便等はホースから出て地上に達するやいなや固くなった。
北海道では今も同じ光景が続いているのだろうが、今や誰もそうした生の話を伝えてくれる人はいない。

もっとも6年前旧満州を訪れたとき、日本人の遺産を実にうまく利用して、今は戦前の何十倍の人口を擁し、大発展を果たしている各都市を見たとき、もう覆水は盆に返らざるを思ったが、70年の歳月は何もかも変えてしまったし、気候まで変わらざるを得なかったか。

カープが6年ぶりに5連勝という。26歳誕生日の篠田が被安打2、完封で今好調の横浜を抑え、単独首位にチームを導いた。
文句無くうれしい。このまま突っ走って欲しいのだが、まだ始まったばかりだから、あせっても仕方ないか。
私の蔵書の中に昭和50年始めてセ・リーグを制したとき記念発刊された古葉監督サイン入りの球団史がある。
はらはらドキドキの一年だった。ルーツ監督が4週目にはトラブル退団し、7週目かる古葉監督が采配を振るった。
よもや優勝を遂げる等夢にも思わぬファンたちだった。
今毎年5月行われる広島平和フェスチバルはこの時の歓喜の余韻である。

カープ発足以来26年目であった。浮かれに浮かれた選手、ファンだった。日本リーグがある事など忘れていた、いやそんなのどうでもよかった。
結局しらふに返って、阪急との決戦は1勝も取り得ず2引分4敗と完敗した。

しかし1991年までの16年間はカープの黄金時代だった。5度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた。

その後覇権から遠ざかったまま久しい。1991年リーグ優勝を最後に優勝はおろか下位低迷に呻吟する現在である。
募金箱以来の老ファンは呆れて球場を去った。市民球場も無くなった。
20年目の今年果たして復権なるか。新球場になじんで来たようだし、出だしがよいし、何か気になる一年になりそうである。

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2011年4月22日 (金)

変な男か私は

朝の気温13度と春のそれに戻る。
ブログを書く都合もあって、古い文学全集をひもどく。
私は若いとき志賀直哉や鈴木三重吉が好きだった。半ば女性的な物言いが気にいってたのかもしれない。
因循姑息だとよく母にいわれてたから、わたしのそんな受け身の性質がそうさしたのかもしれない。
なかでも直哉の暗夜行路、三重吉の短編千鳥はたまらなく好きだった。
おいぼれてもその嗜好はかわらず、いつだったか千鳥の記念碑のある現在の江田島市の一部落を訪れた事さえある。
私人宅の一隅にあった。断りをいって庭に入り込み碑にぬかづいた。
(日記を調べてみると2002年の1月12日、当時は能美町だった)
いつかのブログにも書いたと思うが、漱石門下の逸材と言われた当時の彼のすみか広島市猿楽町には私が勤めた会社が数年店を構えていたという因縁すらある。
先だっての松陰神社参拝も私の嗜好の一つのあらわれだろう。自分でも不思議な性格と思っている。

現在はブログにもよく書くように藤沢周平にのぼしこんでいる。文庫本は全部買ってあるから、ひまさえあれば寝転んで読んでいる。飽きないね。
私は少し異常かも知れない。老いてとくにそれを感ずるようになった。
まあいいだろう、もうすぐあの世に行くのだから好きなようにすれば。

目がときどきよく見えたり、また見えなくなったりする。日に日に病気が進んでいるようである。
後一月もしたら、パソコンも使えなくなるのでは思ったりする。
呑気な方だからなんとかなるだろうとあきらめては居ないのだが。
ともかく手術の日が待ち遠しい。

町内の老人たちもこのところ随分亡くなった。お隣の私と同い年のばあさんももう半年いや一年かな見かけた事が無い。聞く訳にも行かないしなあ。
マッカーサーではないが、”老人は消え去るのみ”か。
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2011年4月23日 (土)

菅総理の無能呼ばわりは止めて欲しい

ざあざあと勢いよく降る雨、郵便受けの中はびっしょり。沢山の広告類はさっそく屑篭入り。
いつか以前に広告等に混じった友人の手紙を読まずに捨ててしまって、後から出した筈だがとお小言をちょうだいした事があったのを思い出して、屑篭を再度精査する等朝から忙しい。

昨夜はiPhoneに収録した、鈴木三重吉の千鳥を読み返す。
正直に言って、往年の感興は起きない。やはり18歳の青年が書いた小説である。漱石が激賞したというが、その手紙を読んでも激賞はあたってないようだ。
私自身も同じ歳頃に読んで感激し、それを後年まで引きずって来たようだ。
90を過ぎるといささか思いも違ってくる。少なくとも脳髄にじーんと来るものは無くなった。成長したか退化したかそれはわからない。

菅首相はみんなに酷評され乍らもよく我慢してよくやってる。生身だから大変だなあと思ったり。
誰がやってもこの不可抗力とも言える天変地異を上手に始末出来るものはいまい。右往左往するのが当たり前だ。
新聞等の高見の見物で管総理の批判に終始しているのは止めて欲しい。
この災害の予見を誤らしめたとすれば、己らの報道が誤っていたのではないか。国民を指導するのは政府だけではないと心すべきだ。
災害にあったものは勿論遭わないものもそれぞれ自己責任を果たして国に協力する以外に無い。戦後と同じである。

戦後は誰も助けてくれるものはいなかった。強いて言えば敵さんのアメリカが食糧を無償で沢山恵んでくれた。
私自身悔しさをこらえ、米軍の残飯を食ったりした。
破壊された家屋や田畑を家族だけで近隣はおろか親戚の助けも無く、黙々と何年もかかって復旧して行った。国民総被害者だからどうしようもない。一文の援助もなかった。文句の言って行き場はどこにも無かった。

被害が限定された今回の災害は少し事情は違うが、遭わなかったものからの同情や支援は大きいし、国等の施策も手厚い。
我慢して一日も早く立ち直って欲しい。気力を失わなければ必ず以前に増して再興出来ると信じている。

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2011年4月24日 (日)

前立腺がんで死ねるのか

いい天気になる。朝の気温11度。
今日の広響の演奏会はメンデルスゾーンではなくてモーツァルトのバイオリン協奏曲第5番だった。南紫音さんは始めてなので楽しみだし、まあいいか。
丁度今朝FMで同じ曲を、スターリクという人の古い演奏をやっていたので、聞き比べのつもりでじっくり聞いておく。
聞く等というのはすぐ忘れるからあまり役に立つ訳ではないが、予備知識がないよりはましだろう。

昨日内藤の先生に言われた前立腺がんは一応気になるのでコンピューターで調べてみると、血液検査で簡単に発症がわかるらしい。
詳しい事はがん細胞の一部を切り取って調べるのだそうだ。
大病院にいずれ紹介するからといってたようだが、そちらで切ってもらえという事だろう。
老人だからあわてることはないとこの先生落ち着いたものだ。詳しい事はあんたが混乱するといけないから今日は止めとくとほざいていた。一月先でいいということだろう。

老人は気が長いようでも実際は短いもんだ。経験しないとわからんのだな。

こんなにいい天気になると、旅行好きな私はむずむずしてやりきれない。
70歳頃はまだ徹夜で長崎や熊本まで、出店した仕事場で働くために、何度も何度も高速道無き時代の国道を飛ばして走ったものだが、もう今はそれはできない。
くやしいね。
数回、スピード違反で罰金を科せられたが、それすら懐かしい。
ロータリーエンジンのサバンナという車だった。速かったなあー。国道の長坂路で数珠つなぎの大型トラックをあっという間に抜き去ったりした。片側一車線ばかりの道だから命がけである。当時一年掛けずての生命保険を住友が売り出した。早速3千万円に入った。
考えてみると随分乱暴な奴だったなあ、俺は。

日支事変が始まってすぐ、意地悪だったがよく私を可愛がってくれてた母の従弟が白木の箱で帰って来た。兵隊に取られるとああなるんだなと覚悟した。
数年後兵隊になった。1年経たないうちに今度は世界大戦に発展した。もう万に一つも命はないぞ、その時からいつ死んでもよかった。
しかし狙われて身辺に弾丸が乱れ飛んでも当たらなかった。
俺はどこかの神に生かされているんだなという気がした。いまだにそれが続いている。

昨年妹が車にはねられて死んだ。うんと元気な奴だったが運命はどうしようもない。
私もどんな死に様になるか自分で予測出来る訳は無い。神は私をいかに料理するつもりなのだろうか。
前立腺ぐらいでは無理なのでは。

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2011年4月25日 (月)

老醜無残の身にも一毫の光あり

もう引き返すべくも無い春の気候。12度を少し超えている。
春眠暁を覚えずでもないが、心地よさにつられてなかなか起きられぬ。
天気がよければ東の窓から,日光が部屋の端まで射し込んでくる。それでもなかなか起きられぬ。
しかし老いの身は夜中寒さに耐えられず、置き出して着足したりする。
これが老いるということなのだ。

漢和辞典を見ると、部首の項目にちゃんと老の部がある。70歳以上の人を老と呼ぶとある。
60歳以上は耆(き)と呼び、80歳以上は耋(てつ)と呼ぶとある。
”おいぼれ”の耄(ぼう)の字は70歳または80歳以上をいい、老と併せて呼称する。
90歳以上はどこを探しても字が見当たらない。字が無いことはあるまいから、本場中国に聞いてみなければ分からない。
私がよく使う”老残”はこれまたどこにも見当たらない。老醜無残のことだが、だれか文筆の大家が使っていたのを覚えていて私も使っているのだが、どうやら日本独自の新造語であるらしい。

誰しもいつかは老いる。自分の事だから知っておいても無駄ではあるまい。
(お断りーうっかりこともなげに漢和辞典を引用してしまったが、私の辞書は大正15年発行の服部宇之吉、小柳司気太共著東京富山房のもので、昭和7年改訂増補版で、小学校卒業時賞としていただいたものである。書名は詳解漢和大字典という。1932年版だから古過ぎたのかも知れない。これしか私は持っていないので仕方がない。5月5日改めて一応お断りしておく)

家内も最近は日記をつけ始めている。家内は記憶力が私より数段上だから、昔の事をよく憶えている。もったいないから日記につけておけと、再三忠告していたら最近になってようやくその気になったらしい。
記入する欄が小さいから、あった事だけを書き付けるだけにするという。
それはダメだ。思った事を書いたり、批判をしたり、が日記の役目だとすこし論争になる。
ともあれ書かないよりはましだろう。
書き忘れて3日に一度ぐらいになるというが、これは仕方が無い。何もない日もあるし、習慣にならなければ、忘れずにという事は誰しも出来る事ではない。

私らが結婚して既に60年を過ぎている。あまり喧嘩もせず、事業倒産とか、他人に騙されて破産したり、そのため4度も転居の憂き目にあったり、波乱多き人生だったが、いつも励まし慰め付いて来てくれた。
今日こうして気ままに幸せに暮らしているのは、全く家内のおかげであるといって過言ではない。
てれる歳でもないので、敢えて公言しておこう。

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2011年4月27日 (水)

老人家庭の一日

今朝は7時現在17度と着るものを脱がなくてはならない程あたたかい。
時期的には晩春だから仕方がない。
老残の身にはそれでも夜分は寒さがこたえるのだから、だめだなあ。

家内が斉藤眼科に行く日だから気になったか目が早く覚める。
改めて聞くとゆっくりでいいという。
いつもの時間まで部屋に戻りパソコンのキーを打つ。

マウスを叩くと書きかけの日記がモニターに現れるのだからわけはない。
思いつきをすぐ書く。今朝は家内もこたつに寄りかかって何か書いていたな。ちらと見ただけだから何かはわからない。

9時過ぎ家内は一人で出かける。午後には雨になるというがまだその気配はない。

またちょっとした事で右小指の付け根から血が噴き出している、皮膚が少しまくれている。どこかにあたったらしい。
皮膚が薄くなって弾力がまるでなくなった。動くなという事か。

足でも手でも爪が弱くなって、布団にでも引っかかると痛い。うっかりすると爪がまくれてしまう。後が大変だ。
爪を切るのが日課になった。なにもかもこの調子だから、90歳という事は楽ではないぞ。
二三年前にはこんなこと夢にも思わなかった。

老人は急いでは駄目だ、衝撃はみな怪我の元になる。

家内は昼前には帰宅する。昼食後まもなく雷鳴とともにざーっと来る。さっきまで薄日が射したりしていたのに、天気予報通り時ならず雷さん、驚く。

30分もすると日が射し始める。移り気な天気ではある。
家内は来月17日いよいよ手術という。

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2011年4月29日 (金)

地球上安全なところはない

昨夜早く寝たので、今朝は5時ごろから眠れなくなり、iPhoneで音楽をイアホンで聞き乍ら夜明けを待つ。
いろいろ勉強しているうちに、ワイヤレス・キーボードでiPhoneの文字記入が出来ることに気づく。早速設定しておく。あまり使うことはないが便利がよさそうだから。
それにしてもiPhoneの多機能には驚く事ばかり。外出してもひまな時は取り出してネットに入り,自分のブログを検証したり、人のユーチューブも見たり退屈する事はない。もちろんi文庫は盛んに利用している。
逆に肝心の電話は使う事は残念乍らほとんどない。買ってからまだ数回掛けただけ。掛かって来たのは間違い電話が2回というていたらくである。それに留守録1回だけ。
宝の持ち腐れにならないだけでもいいか。

カープが好調である。ヤクルトもその上を行って9連勝、一体どうなってるんだ、今年のセリーグは図式が違うようだ。
どちらも投手陣が頑張っているようだ。特に若手が。しかし歴史の浅い若手は信用出来ないからなあ。
まあ時には面白い現象だと言えよう。

最近のプロスポーツは外人が沢山居るから、勝敗に落ち着きがない。予想がまるで出来ない。私のような老ファンはしっくりしないのでは。
相撲ではもう殆ど関心が無くなった。野球もいずれ若いものだけのスポーツになるのではと思ったりしている。
広島の観音球場に下駄履き、腰にタオルで通った当時、入り口の酒樽に戸惑い乍らカープを声援した当時の熱中ぶりは、今考えると漫画としか思われない。
そのまま老人になったのだから、うだつが上がらないのは当たり前かも知れない。

この世のものとも思われない程無残に廃墟と化した街、国の未来も私の前途も全く成算なんか見えて来なかった。
国はよくもこんなによくなったものだが、脳の乏しい私は只只底辺をうろうろするばかりだった。
早い者勝ちの乱世には向かない性格だったかも知れない。
戦地から結核を貰って帰ったのは致命的だった。就職活動にまずつまづいた。

局部的ではあるが、今度の大災害。影響は全国に及び下手をすると戦後に匹敵するかも知れない。
今ラジオの伝えるところによると、アメリカで竜巻で三百人以上も死ぬる被害が出ているとか。
安全なところはどこにもないんだなあ。

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2011年4月30日 (土)

頑張れ!仙台チーム

朝からあたたかくすっかり春の気候。
文春の記事で気に入ったものをスキャンして、iPhoneに入力する。
雑誌に書いてあった記事を参考にしてメールでやり取りしようと思ったが、scanしたpdf書類が大き過ぎて、メールで送れない事が分かる。
10MG以上もあったりする。
結局同期さすのが一番よい事に気付く。おおよそ一日時間を無駄にする。

fnキーは何のためにあるのかと思っていたが、後ろ側の文字を消すためにあるとは知らなかったなあ。

まだまだ勉強が私は足りないようだ。

今日は文春の記事で気に入ったものを随分iPhoneに取り込む事が出来た。scanするために、沢山のページがバラバラになってしまったが。
これで又病院の待ち時間が簡単に過ごせそうだ。

ヤクルトがとうとう負けたが9連勝は見事だった。楽天とベガルタが奮起して、地元ファンを喜ばし、元気づけている。
遠いところからだが、応援しているよ。頑張れ、頑張れ!仙台。

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