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2011年3月 1日 (火)

太平洋の奇跡を見る

今朝の気温9度、とほとんど変わらない。
アルパークに映画を見に行くことに朝食時家内と話し合う。

サイパンで日本軍玉砕を告げられ、もう駄目だなと我々に敗戦の覚悟をさせられた、
私がサイパン陥落を知ったのは、桂林入城の日、昭和20年2月のことだった。
もう半年以上経っていた、軍の布告で知った。
その戦の後日譚ともいうべき実話というから、私も今更と驚き、映画を見る気になった。

もしフィクションでないとすれば、多数の民間人そしてあの赤ちゃんはその後はどうなったか。大場大尉はどうしたか。そちらの方が聞きたい。

戦場場面は迫力があって手に汗を握った。
戦後幾度となく聞かされた、バンザイクリフの場面は出なかって却ってよかった。
その場面だけでこのドラマは終わってしまうだろうし、悲しすぎる。
ともあれ、あの激戦の後百人以上の女子供などが死を免れたことは喜びである。

中国新聞の電子版に入って見ようと登録して、いろいろ操作してみたが、やはりwindowsでないと駄目らしい。全然お呼びでない感じである。
この分では配信されても困るなと一応思案の態である。

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2011年3月 3日 (木)

若者の知能犯罪

中国新聞電子版はウインドウズでないと読めないというので、仕方なく古い機械を出して来て読む。
なんとか読む。
のろのろといつ行動を起こすのか分からないのに参る。
新聞のページを繰るのも、恐ろしくゆっくりしていて、産経のそれの比ではない。
まあいいか、時間はたっぷりあるのだから。
中国新聞が一日45ページもあるとは知らなかった。もっとも半分くらい広告があるが。
産経でも30ページ前後だというのに。
(電子版の話で本紙のことは知らないよ)

今朝はさして霧がかかってるとは思えないが、大黒神島はうっすらと影絵のようだ。これが普段の姿かも知れない。

倉橋島の鹿老渡まで行くとすぐ手の届きそうなところに見えるのだが、行ったことは無い。無人島と聞いたことがあるが、ほんとかうそかしらない。かなり大きな島のようだが。
すぐ目の前にあっても知らないことは多い。

海というのは歩いて行けないから、島を訪ねることは難しい。宮島のすぐ隣の絵の島でもたった一度行っただけだ。

京都大学などの入試問題の事件はやはりケータイの写真機能を使った事件だった。
今の若者の知恵は老人の考え及ばないところにあるようだ。
私のiPhoneもそういえば凄い程の精密な写真が摂れる。先日も東京から来た孫たちを摂ってやると、自分のと比較して綺麗で大きいと感心していたが、植物園で花びらをとっても、顕微鏡のようにすばらしい精密度だ。
これでは犯罪に使われると、途方も無いことが起きそうである。

ためしに本の1ページをスキャンしてみたが、角度の曲がりもパソコンで簡単に修正出来、すばらしい出来上がりである。小さい文字でも正確に読める。2つもあるスキャナーが顔負けしそう。
技術の進歩はもう止まるところを知らない。

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2011年3月 4日 (金)

私の死期

朝の気温0度といくらか寒い。

bluetoothやや不調、なぜだかわからない。wirelessとは目に見えないところで動作するので不調に落ち入ると手のつけようがない。

灯油とガソリンを買いにスタンドまで出かける。
ちょっとした労働が身体を苛む。心臓の弱りがよくわかる。
もう長くないなと思いながらもバタンとは行かないもんだ。
灯油40キロ、昨日買った肥料約30キロ、全部家の中まで運ぶ。まだ大丈夫である。

家内の手伝いをして、夏みかんのマーマレードを作る。皮膚が薄くなっっているから指先に滲みる。
何をやっても人並みにはもう無理だ。

90歳を越えるということは、私は勿論近い先祖を見渡しても一人もいない。
只家内の両親が二人とも半ばから百歳近くまで生きたが、身体不自由であんなものかなと理解していたのだが、しかし二人とも気分はしっかりしていた。私のように眠ってばかりではなかった。
ちょっと計算してみると、一日の3分の2即ち十数時間は眠っているようである。家内が羨ましがる。
私は一向にうれしくないのだが仕方が無い。
眠ったまますっーと死ねないかなとそればかり祈っている毎日である。

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2011年3月 8日 (火)

李香蘭の歌声

今朝の夜中ふと目覚めると、李香蘭の歌声が聞こえる。
深夜放送のラジオからである。懐かしさに聞き耳をそばだてる。
同い年の元女優である。この人とも一期一会の仲かも知れない。もっとも森繁久弥とは違い、直接その謦咳に接したことは無い。いつも遠く近く眺めるだけである。

その最初は満洲映画本社がニッケビルの2階にあったとき、私の入社した(昭和15年4月)会社がその3、4階にあったため、ときどき袖すり合うことがあった。李明、白光など人気女優に混じって楚々たる小柄の姿が目立っていた。当時昭和15年日満合作映画「支那の夜」「白蘭の歌」などで日本語が堪能な女優として、日本、満州国では一躍著名となっていた。

翌年私は徴兵で関東軍に入隊し、幹部候補生として東京の学校に居た時、有名な日劇7周の観客動員事件を起こした。学校でも話題になり、同年兵の佐賀県出身の候補生が、俺は撫順の小学校で同級生だった、彼女はほんとは日本人だと言い出したので大騒ぎしたことがあった。
皆嘘をいってると信ずるものはいなかった。

ところが戦後になって山口淑子なる正真正銘の日本人とわかり唖然とさせられたわけである。
透明な美しい歌声に魅了させられたものである。最後は参議院議員になったりして、押しも推されもしない有名日本人だが、現在も元気でいらっしゃるのだろうか。1月私より若いのだから元気な筈だが、多少気にかかるところである。

夕べの歌声はやはり美しかった。最後の「何日君再来」は中国語の歌詞が特に印象的だった。

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2011年3月10日 (木)

陸軍記念日を知る人は

今日は戦前で言えば陸軍記念日であった。奉天会戦で日露両軍60万の大激突がつづき、損害双方その3分の1に達し、動きが付かない日本軍に対し、露軍が戦略的後方撤退をしたことで、一時休戦状態に落ち入った日である。
日本では勝った勝ったと大騒ぎしていたとき、現実に戦った大山巌総司令官、児玉参謀長はもうこれ以上戦えないと判断し、講話を政府首脳に具申した。政府も伊藤博文をはじめ首脳陣が前途をよく読んでアメリカに働きかけ、講話に持ち込むことが出来た。

最上級の判断が今度の大戦と違っていた。
国民大衆の意欲判断を越えて、その国をリードする政治家の判断が正しかった好例である。
一大教訓を投げかけた日といって間違いない。その教訓が大東亜戦争では、残念ながら生かされなかった。

勝った勝ったと旗を振った庶民は結局塗炭の苦しみをなめ続けなければならなかった。
未だに原爆、北方領土など悲願の苦しみが続いている。

今日本は政争に明け暮れて、外交などは蚊帳の外である。
世界をリードするかに見えた産業経済も砂上楼閣に過ぎなくなった。
期待するに値する人物は見えない。
安心してこの世を去る時期を逸した感が深い今日この頃である。

昨日送って来た文芸春秋に[同志菅直人よ、私はホームレスに堕ちた」という特集記事が載っている。面白い!
人皆それぞれの運命を背負っている。私はよくぞ乞食に堕ちなかった。

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2011年3月11日 (金)

孫とメールのやり取り

老人だから昔の話をしよう。
10年前、孫が小学校で宿題だといって、次の質問をメールで送って来た。
転勤族の家庭だから当時宇都宮の小学校だった。
一番末の孫だから私と70も違うがやはりかわいさが違う。

メールでQ&Aを書き送り、その記録が残っている。
本を読むことが好きな子で、期待していたが今度大学生のまま、欧州に留学することになるらしい。
   ________________
以下応答集を少し長いが書き残しておこう

質問1  昔はどんな教科書でしたか

答え
国語と修身、算術、書き方、唱歌には教科書がありましたが、他は先生が謄写版などで作って教えてくれました。国語は国定教科書で、各年次毎に一冊ありました。修身とは道徳のことです。
唱歌は今の音楽のうちで歌を歌うだけでした。算術は今の数学、書き方は今の習字です。
国語は二年生くらいから漢字が入りました。 
高学年になると、理科、地理、日本歴史、などが増えました。 
 
 
質問2 どんな遊びをしましたか

答え
野球(軟球で素手で投げたり受けたり、バットもそこらにある棒切れです)鬼ごっこ、縄跳び、陣取り、、戦争ごっこ(多人数)川魚取り、山歩き、コマ回し、凧上げ、パッティ、マブロ(少人数)ーーー以上男の子の遊びです 
     
女の子は
おはじき、お手玉、まりつき、百人一首、双六ーー小人数、 鬼ごっこ、縄跳び、ゴム飛びーー多人数
           
質問3 何を食べていましたか

答え
主食は米、副食は野菜、漬け物類が主で、魚や肉は普段は食べることはなかった。朝はお粥。(これは岩国地方の江戸時代からの風習)  パンも小さい時は殆ど食べたことはない。味噌汁もたまに飲むくらいで、せいぜい二菜程度だった。十歳くらいまで身体が弱かったので牛乳を一本(180cc)配達してもらっていた。

質問4 家にどんな家具がありましたか

答え
衣類はタンス、長持に収納、普段着は衣紋掛け等に架ける。アメリカ帰りだったので、大きなトランクがあった。(80*50*50cm程度)
食卓は自家製。客用テーブル、茶箪笥、食器棚、書物棚、勉強机、火鉢各種。アメリカ製のミシン(足踏み)

電気は夜間だけ来ていたので、電燈は一つ、電気製品は全然なかった。菜種油用のランプがいくつもあった。
蓄音器はあったがラジオが入ったのは、昭和15年頃だったか。
自転車は昭和13年中学校四年生のとき通学用に買ってもらった。学校まで往復8キロあり、それまでは歩いて通った。
瀬戸物、道具類は押し入れか物置きに収納し、あまり家具らしいものはなかった。家具には入らないが、瀬戸物、漆器など器物類などはそれぞれ木箱に入っていて沢山持っていた。

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2011年3月13日 (日)

地震という自然の怪力

朝の気温4度、やっと春らしい。
テレビでは原子炉一号基の爆発にまつわる論議がどのチャンネルでも続いている。
あはやの危険度をなんとかすり抜けたかどうかと言った感じだ。
そのうち3号炉も冷却水回路がバッテリがなくなって停止したなどと言っている。
まるで子供の遊びだ。
1号炉と同じ経過になるのではと心配だ。

今朝になって、やっと三陸海岸の津波警報が注意報に格下げになる。
海岸線の手入れが可能になる訳だろうか。
何百人もの死体が打ち捨てられているらしいが、これからが大変な作業だ。
南三陸町では一万人もがまだ行方不明だとも言っている。

船も自動車もそして家さえも軽々と陸地奥に運ばれてしまう、
波の力を目の当たり見て恐れ入る。
連日テレビを付けっ放して、地震の経過を繰り返し見る。
他にすることは無いし、出来ないし、老人の日課はまるで役に立たない。

随分前に日本沈没という小説が映画になったりしてっ評判になったことがあるが、中国の新聞で見出しに日本沈没を正に謳っていたのがあった。

こんども地盤沈下したのではといっている学者先生もいた。
なにがしかの日本地図上の改変は免れ得ないだろう。海岸線の分かり難い場所がやたら目についた。
自然の力は人間のこわざなんか屁とも思っていないようだ。

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2011年3月14日 (月)

美しい日本国民の姿

東京電力は原発が使えなくなってやむを得ず計画停電に踏み切った。
都内の交通事情がまず打撃を被ることとなり、市民は足を奪われた。
電化電化と家電業者の口車に乗って、電化一辺倒に変更したものはまず臍を噛むことになる。
不便でも昔ながらの生活も残しておかねばならないことに気づく。

日本古来の木造家屋のひ弱さが目についたが、復興も早かろう。
誰かが言ったように堤防を高くするより、高いところに家を建てたら良い。
低いところには頑丈な高層ビルで埋め尽くす。
いろいろな教訓が生まれた筈だ。

正に中国か韓国の新聞が言うように日本沈没である。
世界3位でも5位でもよい。いつかのように再び三たび起き上がる国民である。自信を失わないで欲しい。

各企業が気を利かせて節電を心がけ、特に交通機関が2、3割までに運転車を減らしたりしたので、停電の予定が殆ど実現しないで済むらしい。

此の時ぞと、一糸乱れずに協力する姿はなんと美しいことか。
国民の危機感が行き渡っている証拠だが、多くの犠牲者も地下で笑って許してくれるだろう。

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2011年3月15日 (火)

人間の知恵の限界

朝の気温んは7度と随分春らしくなって来たが、東北地震の惨禍は日を追うにつれ拡大していて止まるところをしらない。
死者数も百、千から万単位がささやかれている。行方不明者が今に至も一万数千にも登るというからである。
自衛隊の投入数も5万から10万に倍増された。生半可のことでは手に負えないと首相は判断したようだ。
もちろん国会も休会して政治休戦に入らざるを得なかった。
国難だと首相は当初から叫んでいるが、その通りで、進路を誤りなきようしてほしい。

福島第1原発は1、3に続いて第2原発炉も爆発が続いたりして、危険な状態に陥った。
自然災害はやはり人智の及ぶところではなかった。

原子力利用は出直しを求められるだろうが致し方ない。
そもそもの電気依存の人類の生活から改めなければならないだろう。
いや電気というよりその根源の水力、火力、原子力を光,風、海水等のエネルギーへ移さなければならないということかもしれない。

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2011年3月16日 (水)

鳴動続く原発騒動

朝の気温2度と少し低い。寒波が来襲したらしい。9時前から大粒の雪が降り始める。百米前あたりから先は見えない、かなりな雪だ。

福島第1原発はとうとう重大な段階に入った。4号機まで爆発炎上を始めたようだし、放射能拡散は免れ得ないらしい。しかも震度5、6の余震は相変わらず続いているようだし、危機的状況は一向に変わらない。
中国新聞はチェルノブイル事故に次ぐ、史上2番目のレベル6の事故だと報じている。
やはり日本沈没の前触れかも知れない。

昼過ぎまで雪はちらつく。只気温が上がって来たので地上に降りるとすぐ溶けてしまう。
牛乳が足りないので一人で買いに行く。

関東地方は相次ぐ余震に人心が揺れているらしい。変な買い占めなどが起きてるとか。
都会人種の弱いところだな。
もうひと揺れ来るとパニックになるかもしれない。
私たちは高みの見物で申し訳ないのだが、どうか早く収まって欲しいと手を合わせて祈っている気持ちである。

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2011年3月17日 (木)

迷惑電話に悩む

朝7時半、気温2度小雪が舞って寒い。まだ寒気の支配下にあるらしい。
地球温暖化と言っても、春夏秋冬がなくなるわけではないから、我々俗人には自然の仕組みの玄妙さがわかるわけはない。
なんだか春の来方が遅い気がしてならない。
もっとも去年の4月22日福島県の三春の滝桜を見に行った時は、大雪が降る中の満開の桜を見ることになって驚いたことも忘れられない。

昨夜は遅くなって東京から孫娘2人が突然やってくる。
地震が恐くなったらしい。
避難所でなくて逃げる場所があることは幸せだな。
棚のものが落ちたりしたというのだから、東京も結構ひどい揺れだったようだ。
圭さんも会社に泊まり込みが多くて気の毒だ。
置いてけぼりの娘が一番かわいそうかも知れないな.

ここのところ夜中に変な電話がたびたび掛かり、うるさくて仕方が無い。
迷惑設定してあるのだが、それが災いしてか普通の電話まで掛かったり掛からなかったり、途中で切れたりして調子が悪くなってしまった。
電話番号表示設定をしているのだが、番号が表示されないので文句を言うことも出来ない。
なにものだろうか。
或は固定電話を止めて、ケータイだけにした方がよいかもしれないな。

今日も変な電話がかかりつめる。電話局でしらべてもらう。どうもはっきりしない。
どうやらIP電話だけらしく、国内からの電話ではないかもしれない。
留守電にセットしてあるので、全部留守録となる。今のところ今朝から3通話入っていたが、後で聞いてみると全部無言である。

孫らは自分のケータイを使ったいるから問題ない。私も孫に手伝わせて、ケータイで待ち受けることにする。
iPhoneは着信音が何十種類もあるので、一番分かりよい美しい音色を選択する。

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2011年3月18日 (金)

怪電話との格闘

今朝早朝3時頃、例の無言電話が5回かかってくる。もちろん夢うつつに聞いたが眠ってしまって、留守録に任せた。今朝起きて再生してみると5回とも無言に変わりはない。
何の目的があってのことだろうか。
当分はこの固定電話ではこちらからかける以外は使用出来ない。
もっとも着信記録が残るから、こちらからかけ直すことは簡単である。

老人に御用のある方はもうごく僅かである。必要なところにはケータイの番号を通知している。
悪意ある所行なら、毫も痛痒を感じていないことを改めて宣言する。

孫たちが萩のことや松下村塾など聞いてもまるで知らない。これでは先祖の話をしても何にもならないので、萩に連れて行く決心をして22日に萩本陣に宿泊を予約する。松下村塾の近くの宿だからたっぷり見学出来るだろう。孫たちにも念押しをするとうんうんというだけで頼りない。
ほんとはあまり興味が無いのかも知れない。女の子だから仕方が無いか。

萩の女は民謡”男なら”の文句じゃないが、神功皇后の姿をして、付いて行きたや下関と幕末戦争に進んで参加する意気込みを示したのが、現代の若い女は一体なにを考えているのだろう。

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2011年3月19日 (土)

Jane Morgan

朝の気温5度、春の気候。
ぴちぴちした女の子が二人も居るのだから、朝から活気が違う。
やっぱりいいもんだなあ。
食事もコンピューターからレシピを摂ってると家内がそっと言う。
我が家の避難民はだんだん使い勝手が良くなるようだ。

私の役割は元々無しに等しいから、相変わらずの一傍観者である。
減らず口などは勿論たたかない。
居るとも居らぬとも分からないように努めている。

今朝は私の音楽はホセ・カレーラスのアリアから始まる。
iPhoneもiPodもパソコンも皆同期させてある。
どれもボタン一つ二つで奏で始める。もっともイヤホンでないとだめなのもあるが。

私が40歳を過ぎた頃、人気があったアメリカのポップ歌手ジェーン.モーガンの唄が好きになった。今もCDを3枚持っている。
特にFascinationがいい。絶妙な歌い方である。アリベデルチ・ローマも好き。
もう半世紀も前のことだった。彼女は今も元気なのだろうか。

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2011年3月20日 (日)

大同大街

毎日のように書いている私のブログを、読んでいる人の多様さに実のところ驚いている。
今朝も検索ランキングの中程に”福屋のエレベーターガール”というのがある。
もう何年も前のブログに思い出話として書いた、乗り合わせた田舎から来た老人がエレベーターから下りる時、いくらですかと言ったのに対して、エレベーターガールが答えたエピソードしか覚えが無い。
私の幼少年期にはエレベーターは都会のしかも一流のデパートあたりにしかなかった。
広島では福屋百貨店にしかなかった。案内のエレベーターガールが制服姿で控えていたし、操作はその人が手動でしてくれた。
なんでこんなことを調べる人がいるのだろう。

今朝の検索のトップは”大同大街”であるが、これはたびたび登場する新京今の長春のメインストリート大同大街のことである。
昔の満洲を知ってるものなら、大同大街を知らないものはいない。
日本の新興都市建設の中核を担うプロジェクトで、新首都新京の中央を貫くメイン道路として生まれた。戦後の広島平和大通りなどはその亜流と言える。

美しい計画道路で、中華民国政府もさすがにこれをそのまま後世に残すことに躊躇しなかった。
只不思議なのは道路沿いの建物などはそのままにして、その後方には20階、30階のビルなどが立ち並んでいることである。

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2011年3月21日 (月)

下手な言い訳

今朝の新聞受けに先日注文したCD2枚が送られて来ている。
ジェーン・モーガンの私に取っては新盤である。
やっぱりいい。何を歌わしてもうまい。
適当に低音でソフトで私の聴覚を刺激しない。長続きする声の質である。

低気圧のせいで雨が小やみ無く降り続いている。明日は去って欲しいのだが。

子供やら婿などから電話がかかる。萩行きをどうやら心配しているようだ。
車で行くということが、ひっかかるようだ。
こちらも絶対ということは世の中にあり得ないから、いくらか心配ではあるが、少なくともこちらから仕掛けた事故などは絶対しないつもりだ。
十年、二十年前の自分ではないことは、十分承知している。慎重な運転で終始するつもりだ。
最近十数年は無事故無違反だ。事故も何十年前だったか一度切りだ。

今までだったら日帰りコースを一泊するのだから、無理をする訳ではない。
のろのろ運転を邪魔だと怒るやつが現れるかも知れないが、あたらず触らず、譲歩一途で進もう。

午後には雨も上がりいくらか明るくなって来た。気温10度を軽く超えている。
明日の幸運を祈るのみだ。

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2011年3月23日 (水)

松下村塾を訪ねる

3月22日(火)曇
朝の気温8度。快適である。
萩行きに気分が高揚して行く。私一人かも知れない。
午前十時すこし前、家を出る。
防府で高速道路を降りて、国道を萩へ。途中昼飯を食って、1時松陰神社に着く。
孫らは始めてとあって熱心に見る。空っ風が冷たく時折小雨が頬を濡らす。
宝物殿や昔からある歴史館等も丹念に見る。
3時半すぐ近くの萩本陣に入泊。
温泉や食堂施設の斬新さに驚く。今までこんなに顧客のニーズに応えたサービスを受けたことはない。
かねて義弟からいい宿だからと、一度行くように勧められていたので、文句を言わずに丁度空いていたから泊まった訳だが。思った以上に感じもいいホテルだった。

3月23日(水)晴れたり曇ったり
朝9時半宿を出て、笠山に行く。最初に椿の自然林を見に裾野を一周する。道路の終点に車を置いて椿林の中を散策する。落花したものが多かったが、得異の白くくねくねと長い樹木林は異様でもあり、半ば自然の不思議さを見せつけられた思いでもあった。
天気もよかったので山頂の展望台にも登り、噴火で出来た台状の島々の不思議な光景も印象深かった。特に若い孫たちはいい勉強をしたのではと感じている。

明神池の側の食堂で、生鮮な魚介料理を堪能したのち、萩の明治維新に働いた偉人たちの旧家を訪ね歩く。
孫たちも頑祖父の無理強いな教育と現実に遺跡を歩き回った疲れから、車の中ではぐったり眠っていたようだったが、案内したこちらもいささかヘタバッタ感じである。

実行してみて、皆が心配する通り、肉体的には少し無謀だったかも知れない。
しかし無事思いを果たせてよかった。
要は可能性のある限りやってみるべきである。体力はもう駄目だが気力はまだ残っていると実感している。これが萎えた時は万事が終わる時だと自覚している。Img_1798

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2011年3月24日 (木)

転ばぬ先の杖

朝3度の夜明け、やや寒い。
旅行の疲れはあまり無い。ゆっくりした旅だからこんなものだろう。
若いものには全然影響は無い筈だ。
午後になると天気がよくなり、気温も上昇して外は暖かい。
買い物に出る。
楽々園でいろいろ店をあさって用事を済ます。

孫らが明後日帰るという。まだ東京は状況が良くない、帰るなと私が命令的に言うのだが、医者に行かなくてはならないしなどと言って承知しない。
寂しくなるが仕方が無いか。
おとなしくて左程賑やかということもないが、二人若いのがいなくなると家の空気が違う。
姉の方にはこっそりうちに来てくれと頼んだが、ヨガ教室に通っているからとにっこり断られた。

春休みになったせいか人出が多い。
せからしく歩くものが多くて、よほど気をつけないと危ない。やはり杖を常時持たないと駄目だなとかんする。危うく段差のある通路に飛ばされそうになった。
2時間ばかりほとんど車の中で本読みし乍ら待つ。これなら心配ない。

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2011年3月25日 (金)

NHKラジオ深夜便の歌

雨の朝、気温3度。
福島原発で作業員被爆、入院と新聞が報じている。
東京から来ている孫らが余儀ない理由で、明日帰京するというが心配だ。

ゴビの砂漠から黄砂がしょっちゅう飛んでくるように、福島の放射能も風に乗って東京辺りに飛んでくるのはわけは無い。
水を買って持って帰れよと言ったのだが、新聞で見ると広島でもスーパーで品切れが出ているとか。
驚いたものである。

プロ野球も4月12日からセ、パとも開幕と決まったようだ。2転3転したが今度は本物らしい。
地震の影響の大きさはやはり凄い。
まだまだ、原発の推移次第では、日本国に致命的な損害を与えることになるかも知れない。
ぶるぶる!

NHKラジオ深夜便の音楽というのがある。おいぼれには、さして興趣の乗る曲ばかりではなさそうだが、ここのところ毎晩再三聞かされてる夏川リンの歌う“悲しい我が子”というのが、いかにも気になる。母親に遠い昔に聞かされたような気分である。
”かわいいね かわいいね”と何度も何度もくりかえす。
その声音のやさしさ、すずしさ、そしてあたたかさ、何とも言えずこの老人の心を打って止まない。
今朝になって雑誌”ラジオ深夜便”の2月号を開いてみると、折り込みでその歌詞と曲譜が載っていた。
わたしの癖で雑誌の折り込みや差し込みのはがき等は、読まぬうちからちぎって反古箱に入れる。
幸いにもこれは残っていた。
よく見ると”悲しい我が子”ではなくて”愛しい子”であった。よみがながつけてあって、”かなしいぐわ”となっていた。どこの言葉だ!
いい加減五感の鈍った老人にはこんなのはわかる筈が無い。
歌手も夏川リンではなくて、夏川りみだそうだ。
日本語も難しいねえ。

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2011年3月26日 (土)

中国新聞電子版がマックでも読める

朝気温2度。なかなか春たけなわとは言い難い。
孫らは今日帰ることになる。止めて2、3日延ばさせてもあまり意味は無い。
ちょっと寂しくなるが仕方が無い。
東京も水道水まで汚染したりして大変だな。
娘が外歩きが多いから心配だ。

孫ら10時頃帰京の途に着く。
送って帰りに内藤内科に行き受診。異状はないが、血液検査と尿の検査を受けることになる。

小雨が降ったり、日が照り出したり狐の嫁入りだ。
気温上がらず外は寒い。

中国新聞電子版がマックでも読めるようになっていた。
今日iPhoneでも読めるということになっていたので、、その設定であれこれiPhoneを操作している間に、本体のマックの方をいじくっていると、電子版のタイトルが現れ、それをクリックするとなんのこともなく操作出来読むことも出来るようになった。
新聞社側からはなんの連絡も無いが、開発部がソフトの改良をやってのけたのであろう。
おかげでうちのPCもiPhoneもどれでも電子版につながったわけである。
本紙では読めない各地方版が読めるところがみそである。

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2011年3月27日 (日)

原発はダメ、火力もダメ、対策はあるのか

朝気温3度。冷たいが昼には暖かくなりそうだ。
家内が気疲れからか首が痛いとサロンパスを貼っている。
大きな孫どもを相手にギバって、リウマチが噴出したのか。

空気汚染がアメリカ大陸に渡り、今又海水汚染が新聞紙上にも流されている。原発放水口では1250倍の沃素が検出されたとか。
どんどん拡散されて行くだろうから、やはり世界的な問題となりそうだ。
1カ所の原発でこれだけ大問題になる。まだ他にたくさんの原発がある。
そちらの対策こそ緊要なのではないか。

かねてから私は”オール電化”の宣伝に反発していた。二三十年前の台風19号で停電が3日ばかり続いた時、その苦痛をいやという程なめた。電話までかからないので、娘は驚いて安否を確かめに訪ねて来た。
水道、電気、ガスそれぞれ大切な役割がある。その本分を果たすことがいざというとき大事である。
電気がガスの役割まで奪うというのは行き過ぎに思えてならない。
また電気の使い過ぎが、今度の原発事故の遠因と言えなくもない。

あのときも水道は問題なく、ガスもプロパンガスだから、食生活には問題なかった。
ローソクや乾電池で毎夜過ごした。もっとも無駄が省けてそれなりの効用があるにはあったが。

しかし地震の恐さは今も昔も変わらない。
マグニチュード9等というのはもう人智の及ぶところではない。
反省というより、またやられても仕方が無いとあきらめ復興を急いだ方が良い。

原発はだめ、火力も温暖化でだめとなると、電気は駄目となりそうだ。
声高に反対を叫ぶだけでは,人は生きて行けない。対策はあるのか。

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2011年3月30日 (水)

怪我の功名か

もうこの月は終わるのかと感慨深い。何しろ事件が多過ぎたし、大き過ぎた。
おまけに大きな孫娘二人が10日間も共に暮らしてくれた。
過日池部良がこの世を去った。私より一つ年上だった。好青年を演じて、楽しませてくれた。先に亡くなった高峰秀子といい、私たち世代をリードしてくれた先達の一人と言える。
私たち世代も灯火が消えるように、地上から掻き消えるのに忙しい。

9月11日はアメリカで、3月11日は日本で、永遠に歴史の残る惨禍が発生した。
私は生涯目にしたくない光景を再度も見てしまった。長生きすることはいいことばかりではない。

銀行等への用事で家内に付き合わされる。郵便局に行ったついでにすぐ隣のデオデオに行き、USB式のスピーカーを買ったつもりだったのだが、店員さんが間違えて普通のジャック式のスピーカーを買ってしまう。
持ち帰って組み立ってみてから分かったのだから遅すぎる。
そのまま使うことにする。音がいいしまあいいか。

歳は争えない、あちこち回ったから、運転手も疲れる。帰宅したら目が開かないほど眠たい。
神経を使うことも予想以上に疲れるものらしい。

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2011年3月31日 (木)

病院通いは嫌だな

少し早めに起きて病院行きの準備をする。今日は体調は非常にいいので、訴えることはない。
病院は一番乗り順番も一番。簡単に済む。この次は7週後にされる。
この調子では子や孫たちに迷惑かもしれないが、なかなかあの世行きとはならないらしい。
でもわからないな。病院から出る間際、顔面を血だらけにした老人が、数人の人々によって担ぎ込まれた。
どこでどうなるかわかったものではない。
私も会津のガラス館で転んで顔面を擦りむいたのは去年のことである。人ごとではない。

どうも杖が身に付かない。いつも忘れて歩く。いけないなと反省するがいつも後の祭り。
病院の通路は段差が多い、しかも四角いブロックが敷き詰めてあって、小さなでこぼこが激しい。危険地帯と言ってもよい。
いつだったか、全治1ヶ月の手足に怪我をした。身にしみているから私は気をつけるが、さっきの人はどこでどうしたかは分からないが、やっぱり誰かはやるだろう。
病院でもこれだから、他は押して知るべしだ。

私くらいの老人になると、段差が15cmもあるともういけない。よいしょと確かめ乍ら足を降ろさないとよろよろとする。ここで均衡を失うと転ぶという訳である。
全治1か月の怪我はそれだった。傷口から石ころ等が入るから、医者は大事を取って傷口を広げ、土石を取り除くから、却って大げさになる。そういうことで長く通ったな。

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