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2011年2月 1日 (火)

馬とともに生きる運命

寒波やや遠のき気温-2度の朝。
北陸、山陰では大雪が未だに続いているという。
今朝のテレビは年末年始の大雪で地元住民の心温まる救援活動の模様を伝えている。
やむを得ずこの豪雪をかいくぐって旅をしなければならない人もいることだろう。
同じ日本人だ、ぜひ助け合って難をしのぎ合ってほしい。

旅行はしなくても、電気布団にくるまっていても、夜はやはり老人には寒くてなかなか寝付かれない。今の時期はストーブも火を落とすとたちまち冷え込んでくる。
最近買って来た断熱剤の入ったチョッキを寝間儀の上に装う。
着膨れしたまま寝ると言ったていたらくである。
眠れないなどということは極めて少ない私だが、それでもたまに眠れない時にはよく、満洲時代や軍隊のときを思い出す。人生で一番印象に残った時期である。

昨夜も馬術訓練を命ぜられた前後のことを思い浮かべた。
2年間も学校まで行って、自動車の訓練を受けたのに何故突然帰隊早々、その成果を問いもせず、馬だったのだろうか。
甲種幹部候補生20名のうちの半数10名もである。
おりから関東軍特別大演習(=動員令)のさなかである。
対ソ戦のため多数の部隊が創設され、斐徳のこの周辺もにわかに兵隊が増えていた。
後に考えると下級将校はもっとも消耗の激しい階級である。その不足を補うための緊急措置だったということだろう。
私は転属命令後2月、赴任後1月で呼び返されて、輸送司令部勤務になり、1週間後にはまた自動車部隊に戻された。しかも兵器係将校である。馬も兵器ではあるが、自動車部隊には馬は一頭もいない。

私と同じ中隊の同じ班から将校になった脇正己君は牡丹江の挽馬部隊に行ったまま、終戦の苦難を経験した。一度用務のため牡丹江に行った際、訪ねて一晩歓待を受けたことがあった。お前は運がええのうと羨ましがられたが、それが今生の別れであった。
戦後2004年10月、彼の郷里を探し出して、電話をやっとかけたこところ、すでにこの世を去っていた。戦死ではなかったがシベリアで苦労したのが原因で体調悪くしていたのが原因だと奥さんが話しておられた。奥さんも牡丹江で一緒に暮らしていたが、命からがら幼い長男をつれて引き上げたとのことだった。

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