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2011年2月 1日 (火)

馬とともに生きる運命

寒波やや遠のき気温-2度の朝。
北陸、山陰では大雪が未だに続いているという。
今朝のテレビは年末年始の大雪で地元住民の心温まる救援活動の模様を伝えている。
やむを得ずこの豪雪をかいくぐって旅をしなければならない人もいることだろう。
同じ日本人だ、ぜひ助け合って難をしのぎ合ってほしい。

旅行はしなくても、電気布団にくるまっていても、夜はやはり老人には寒くてなかなか寝付かれない。今の時期はストーブも火を落とすとたちまち冷え込んでくる。
最近買って来た断熱剤の入ったチョッキを寝間儀の上に装う。
着膨れしたまま寝ると言ったていたらくである。
眠れないなどということは極めて少ない私だが、それでもたまに眠れない時にはよく、満洲時代や軍隊のときを思い出す。人生で一番印象に残った時期である。

昨夜も馬術訓練を命ぜられた前後のことを思い浮かべた。
2年間も学校まで行って、自動車の訓練を受けたのに何故突然帰隊早々、その成果を問いもせず、馬だったのだろうか。
甲種幹部候補生20名のうちの半数10名もである。
おりから関東軍特別大演習(=動員令)のさなかである。
対ソ戦のため多数の部隊が創設され、斐徳のこの周辺もにわかに兵隊が増えていた。
後に考えると下級将校はもっとも消耗の激しい階級である。その不足を補うための緊急措置だったということだろう。
私は転属命令後2月、赴任後1月で呼び返されて、輸送司令部勤務になり、1週間後にはまた自動車部隊に戻された。しかも兵器係将校である。馬も兵器ではあるが、自動車部隊には馬は一頭もいない。

私と同じ中隊の同じ班から将校になった脇正己君は牡丹江の挽馬部隊に行ったまま、終戦の苦難を経験した。一度用務のため牡丹江に行った際、訪ねて一晩歓待を受けたことがあった。お前は運がええのうと羨ましがられたが、それが今生の別れであった。
戦後2004年10月、彼の郷里を探し出して、電話をやっとかけたこところ、すでにこの世を去っていた。戦死ではなかったがシベリアで苦労したのが原因で体調悪くしていたのが原因だと奥さんが話しておられた。奥さんも牡丹江で一緒に暮らしていたが、命からがら幼い長男をつれて引き上げたとのことだった。

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2011年2月 2日 (水)

やはり好きになれないロシア

午前2時目覚めて深夜放送を聞く。ナナ・ムスクーリの透明感あふれる歌声にうっとりしているうちに、ほんとに目覚めてしまう。
4時頃から以前NHKモスクワ特派員だった小林さんの話を最後まで聞くことになってしまった。プーチン氏の横顔を聞いて見直すことになった。
嫌な男だと思っていたがそうでもないようだ。
彼が今も研鑽怠りない柔道で”修身”がもっとも学ぶべき道だと思っているとはさすがだ。
世の中何もかも術に向かいすぎて道を忘れがちである。
私自身今更思い知る。

それにしても、今年7月札幌でロシア文化展が開かれ、第三の実力者がオープンの式典に参列する予定だと言う。メドベージェフといい我が国北方をいやに刺激するように見える意図は何か。終戦以後も一貫して薄気味悪い国である。

今朝方少し膝が痛い。またおかしくなったかな。
2、3日温灸を中止していたからかもしれない。早速再開する。

今朝の気温は0度だったが予期に反して日中も上がりそうにない。
春いよいよ近しといっても、寒さはまだまだ手厳しく続くことだろう。

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2011年2月 4日 (金)

ローカルの旅は楽しむもの

朝丁度0度。庭の水道のカランを閉めすぎて開かないと家内が言ってくる。
なるほど開かない。パイフレンチでもやっとこさであった。
凍結を警戒しすぎたらしい。

いい天気になる。うちが掃除当番ということで、ゴミ集積場の後片付けをしなければならない。結局家内一人でやってくれる。毎度のことだが、ありがとう。

昨日あたりから字がひどく見えにくくなった。目医者に行ってないから分からないが白内障でもひどくなったかな。
思わぬことでブログを書くのも、断念しなければならなくなるかもしれない。
大きなモニターで、大きな文字で書いても判読不能ならもうどうしようもない。
iPhoneを買うことに決めているのだが、私にはもう無駄かな。

家内は去年から宮崎方面に行ってみたいと、私を誘ったり、妹たちに声をかけたりしているのだが、新燃岳の噴火が予想外に長く続きそうだ。口蹄疫が治まれば、鳥インフルエンザと心配の絶えない宮崎、気の毒だが仕方が無い。
今年は行くのは無理だろうと今朝のこと家内と話した。

私はまだ2、3近回りで行きたいところがある。成仏するまでに達成したい。
芸備線にも乗ってみたい。もう40年ばかり縁がない。大昔、なんで通ったか思い出せないが、木次線のループ鉄路がフーッと脳裏に浮かぶことがある。丸一日かかって山陰から帰った思い出があるが、調べてみると今でも7、8時間かかるらしい。
確かあの時は下の方から機関車2両連結でえっさえっさ登った思い出がある。なんとも豪快だった。
何年か前錦川線をわざわざ家内と二人旅したが、錦川が美しかった。
芸備線は山ばかりだろうから、秋でないとつまらないかな。

可部線は無くなる寸前駆け込みで三段峡に行ったことがある。帰路歩きつかれと食事あたりで吐いたりして、汽車の窓を汚した思い出が鮮明にある。
一度きりでも何か思い出が残るものである。

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2011年2月 5日 (土)

八百長と責任

やっとプラス2度とプラスを回復した朝の気温。
しかし実質的な春はまだだろう。
霧が深く、宮島もその他の島々もまるで見えない。これからはこんな日がつづくのだろう。

大相撲の八百長がのっぴきならぬ状態で暴露された。ケータイ電話のメモリが記録していた。
文明の利器に溺れた若者が、その機器に暴露された。
小沢は老かいだからまだそんな利器になじんでいなくて幸いだった。4億円の土地は自分の名義になっていても俺は知らない。秘書が勝手にやったことだと。ケータイがあったら危ないところだったろう。

西郷さんが子孫に美田を残さずと言ったというが、私の若い時代の政治家は、資産を残すどころか失って没落して行ったものが多かった。
小沢は2世か3世か親譲りの政治家である。それでも資産を減らしたのだろうか。
4億円もの土地が知らぬ間に自分のものになっていたなど、よくぬけぬけと言えたものである。百年前なら、疑われただけで、すぐ腹をかっさばいたであろう。

小沢はどうなっても知ったことではないが、大相撲はなんとしても残したい。
歴史の重みが違う。幹部は総退陣して責任を取るにしても、新鮮は姿で国技として再起してほしい。

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2011年2月 7日 (月)

大相撲が心配

相変わらずの深い霧、いや霞か、春霞というから、霞だろう。もう3日間宮島を見ることが出来ない。今朝の気温は2度。もう明らかに春だ。

家計簿を閉めたつもりでいたが、家内の通帳を記載忘れしていた。引き落としが沢山ある。とてもこれでは締めたと言えない。

大相撲は春場所の無期延期と決まった。
春場所だけで済めばいいが、次の場所その次の場所と行けば、解散になりかねない。
大相撲の死活の問題である。
永年のファンとして誠に情けない。なんとかして欲しいものである。

いつの時代にも、いろいろの問題が起きるのは世の常である。
相撲も今日に至るには単ある栄枯盛衰だけでなく、私の知ってる限りでも昭和初期脱退騒ぎが起こり、東西に分裂したことがある。
スポーツの粋を追求して、幾多の名力士が継承して来た。
力士自身或は協会幹部の大反省のもとに、新鮮な姿で再出発して欲しい。
ひたすら祈るものである。

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2011年2月 8日 (火)

春霞

予報では雨だったが、今朝早くは日ざしが部屋まで躍り込んで来ている。しかし相変わらず霧は深い。
気温は0度、ちょうど良い。刺すような冷たさが無いだけに、老人には不必要な緊張がぬける。

午後遅くとうとう雨になる。おとなしい雨に。
ベートーベンの時間という訳でもあるまいが、4つ並べて彼の曲目の演奏が午後2時NHK-FMでの放送で始まる。最後はベームの指揮するウイーン・フィルの運命である。
やはり違うなと感ずる。昨年秋のNHK音楽祭でドイツのオーケストラが正に譜面通りの音楽勉強でもしているような、味も素っ気も無い演奏をしたのを聴かされて、唖然としたことがあるが、やはりベームの音楽はひと味もふた味も違っている。
ベートーベン自身はどちらの演奏を考えていたか知る由もないが、音楽性ということでは私はベームをとらざるをえない。
私の若き日、おもしろ半分に聴き比べたフルトベングラーやトスカニーニ、ワルターなどの運命聞き比べで、当時は活発なトスカニーニに軍配を上げたりしたものだが、もうこの歳では、フルトベングラーによく似たワルターをとらざるをえない。

私の日記をみると、今日まで4日間とうとう宮島を見ることはなかった。
今朝はほんとに薄く影絵のごとく所在を感じた時間があったが、もう駄目だ。
小雨とともに猛烈に霞んですぐ前の天神山さえさだかでない。
4日間いっときも霞がとれないということは私の記憶にないことである。
この日記が貴重な記録となるかもしれない。

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2011年2月 9日 (水)

親友Z君の手紙

今朝は気温6度と突然の高まりに驚く。
宮島やっと容姿をあらわす。霞もほとんどなくなった。

平成19年の同窓会に幹事を勤め、案内状を会員に送った時の、欠席理由書の中で、Z君は彼の戦時戦後の経歴書を送って来た。
大変面白かったのでいつまでも忘れられない。
ひょうひょうとした学生時代から変わらない彼の生き様がそのまま出ていて懐かしい。
今度東京へ行く機会があったら是非一度会いたいものだ。
同窓会は去年で打ち切ったので、会として会うことはもうできない。
   ___________________
平成19年3月23日の彼の手紙から
「1、記憶力
    貴兄>小生(脱帽)
 2、事実証明書
   臨時混成第3大隊ー昭和21年2月1日発行
   陸軍中尉 Z
昭和17年招集
昭和18年10月22日 門司港出港
昭和18年11月11日 昭南到着
発病 馬来ジョホール州ジュマウ マラリア三日熱
日時 昭和20年10月20日
 3、貴兄のおっしゃる通り18年に松山にいました。
 ー福山ー熊本ー福山ー松山ー松江ー門司
超老年の貴兄の細字のタイプ大したものですネ
満洲、中支でのご苦労、大東亜戦争は無茶でしたよネ
東條英樹は「大東亜戦争は五大共栄圏をつくるにあり」と叫んでいましたよネ
小生この共栄圏に協力しました
シンガポール 支那人
ジャカルタ 白人(オランダ)未亡人(将校用) インドネシア人
マカッサル 日本人  朝鮮人
セラム、アンポン インドネシア人 黒人(パプア)
賞味 皆同じ(黒人良し)
  「あッDo」 万国共通
最近慰安婦問題が話題になっていますが、軍隊にとっては「必要悪」でした
折角ですが、広島行きはヒザ痛のため遠出無理
横山さんによろしく言ってください
流れ川か八丁堀かでご馳走になりました

貴兄の記憶力にはホトホト感心しました
ボケは小生の方が早いと思います
人名忘れる 
悪筆昔から 判読ください
(小生の弟、中支で戦死)

添付別紙(彼が別のところで寄稿した随筆から)
私は運命論者である。以下の戦歴がそのことを決定づけている。
昭和15年徴兵検査、第3乙種であった。
昭和17年2月15日シンガポールが陥落、その日赤紙ー福山第61部隊に入隊ー全裸で並び、聴診器、陰茎しぼり(性病の有無)、肛門のぞき等の検査の結果、(因みに小生小学生時代に肺浸潤の既往症があるためか?)軍医曰く「帰るかどうか?」小生あくまで「やります」の意思表示で、即日帰郷を免れて入隊する。
もし兵役免除されていたら、原爆でどうなっていたか?(幸運の1)

赤飯(高梁飯)、尾頭付(イワシ)で歓迎されるも、翌日から初年兵教育で連日ビンタで鍛えられる。数ヶ月後「甲種幹部候補生」に合格し、熊本予備士官学校へと進む。
ビンタはないものの初年兵時代以上に鍛えられる。(成績不良)
半年後見習士官として帰隊、その後松山連隊へ転属(休日は道後温泉)、数ヶ月後松江連隊へ(休日は宍道湖でうなぎとり)
ある日隊長に呼ばれ「ジャワ方面軍へゆけ、実は他の人が行く筈であったが、地元有力者からの働きかけがあり、お前に代わってもらう」とのこと、後日聞いたことであるが、半年後松江
全部隊は満州へ行くべく、途中支那海で撃沈され生存者少なしとのこと。(幸運の2)

18年門司港を出発、(船団7隻、護衛駆逐艦2隻)勿論ジグザグコースで南下、支那海で魚雷攻撃を受けるも前船無事、マニラ港へ待避、(幸運の3)2日後出発シンガポールに上陸,約1ヶ月船便を待つ。
ジャワ島南岸で対豪上陸防御陣地構築作業に専念、少尉に任官、2ヶ月後西部第116野戦飛行場設定隊へ配属、実のところ某中尉に行くようにいったのだが、頑としてNo,申し訳ないがお前がかわりだと。
2千トンと2百トンの輸送船2隻に分譲して出発、私は小さいオランダの拿捕船に乗る。大きい方は間もなく撃沈され、小さい方は暴風に苦しみながら寄港を繰り返し、42日後やっとアンポンに到着した。(幸運の4)
寄港各地での華僑の進出に驚いた。

19年半ば転進作戦、シンガポール防衛の混成第3大隊に配属、200トンの木造船でマカッサルに直行、途中連日空爆、機銃掃射を受け、ある日すぐ1m先にいた兵士が戦死、小生の汗とにおいの付いた毛布でくるんで水葬するということもあった。(幸運の5)

マカッサルからジャカルタへ駆逐艦で、ジャカルタでは便船待ちでホテル住まい。幸いに青い病院船が来たので、国際法違反を承知で乗船、シンガポール着(幸運の6)

終戦時オランダからの独立戦争に巻き込まれ、多数戦死、将校4名中、隊長と私だけ生き残る。
キャセイホテル前で武装解除され、無人島レンパン島に捕虜として拘束される。(幸運の7)

21年5月末リバティ船で名古屋港に帰還、兵役解除とともに5百円貰って帰郷、原爆で焼け野が原の我が家跡に仮小屋で後半の一生を託すことになった。
しかし軍隊生活を通しては運の付きっぱなしといってよかった。
(以下略)       

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2011年2月10日 (木)

日本人の意識

灰色の雲に覆い尽くされた空、8時を過ぎてもまだ暗い。
気温2度、まあ寒くはないな。霞も普段並み、多からず少なからず。

明日は建国記念日である。戦後教育のおかげで、紀元節の意味が無視され、記念日と言っても今の若い人にはその重みは無に等しいだろう。
国歌も歌わない、国旗も掲揚しない。実質的に日本は今根を失った浮き草と同じ状態にある。
それが良いのか悪いのか、敗戦の責任を感じている私にはわからない。

私にも若き時代はあった。
はっきりと日本人としての時代認識を持った若者だったと思っている。
昭和15年11月5日の日記からその一節を引用する。
ある日勤めている満洲鉱山株式会社の東光寮に住んでいた私など十数名の軍隊入営者の壮行会が開かれることになっていた。

ーーー ある日の夕方だった。6時から中央飯店で寮の入営者壮行会が行なわれる事になって居り、長谷川さんのお宅の掃除に行ったので、遅くなり殆ど6時近くの今急ぎ足で通化路を帰って来る所だった。 
 オーバーに身を包んでいるのでぽかぽかと温かく、汗が今にも滲み出ようとするちりちりと皮膚を走るものが感ぜられた。漸く白光寮の近くまで来たときだった。
 向こうから3人の子供が歌を歌って来る。
 >お馬に乗った兵隊さん
 トットコトットコ歩いてる
 ‥‥‥‥‥‥‥‥<
 僕は内地の同じ風景を思い浮かべてそのまま通り過ぎようとした。その時その子供達は突然歌を止めて何やら喋りながら走り出した。そして彼らが満人であることを知ったのである。彼等は走りながら又出征兵士を送る歌を日本人の子供と同じ様に上手に歌いながら走り去った。
 私は暫くはっとさせられたまま立ち止まっていた。そしてふといやな気持になった。ーーー

教育次第で、言葉の違う民族同士でも、五族協和の旗印のもと、一応国家としての方向は築かれていた。しかしここはやはり支那である。日本はもう少し謙虚であるべきだとの私の意識の底にうずく思いがあった。

住んでいたのは満州国の首都新京の中心大同公園の南側、吉林大路を挟むんで立ち並ぶ日本などの大企業の住宅街の一角にあった、満洲重工業の鉄筋コンクリート3階建ての独身社員寮東光寮だった。何人住んでいたか覚えていないが、満業本社と鉱山会社の併せて数十名といったところだったろう。各階対抗野球大会も開いたから。大きなグランドも寮の前にあった。

戦後世代がもう8割に近いだろう。ぼつぼつ新しい日本を復活して欲しい。
経済だけでは駄目だ。所詮資源の無い小さな島国だ。
心と文化にこそ、この国の活路がある。

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2011年2月11日 (金)

とうとうiPhoneにする

大雪は日本海側に続いている。新燃岳の噴火も相変わらずだ。雨は小降りで幸いだが、日本列島の災害は波の寄せるごとくきりはない。
昨日今日と気温2度が続く。霧も収まった。ただ今日は雲が少し多いかな。

昨年から今田君のニューギニア戦記などを添付したから、その惰性もあってか日記が毎日長くなる。いわゆる冗長ということだが、時間を持て余している証拠でもある。
外界を見渡すことがないからわからないが、沢山の老人どもは何をして暮らしているのだろう。
動き回ることはもう誰しもつらいだろうから、やはり寝転んでいるのかな。
家内のように熱心に新聞を読み、テレビを見るということもありそうだ。
政治への関心がとみに高まったかに見える昨今である。

今日の新聞で見ると、北朝鮮でも口蹄疫が蔓延しているらしい。いくら国境を閉鎖しても、鳥獣や空気まで遮断する訳には行かない。ましてや今は電波の時代である。
しかしひるがえって、我が国を見ると、徳川幕府は3百年間もよくも鎖国などというおおげさなことをやったものだなと感心する。北朝鮮は国連や他国に救済を願っている、一世紀も持てそうには無い。

デオデオに出かけてとうとうiPhone 4購入、Softbank携帯電話手続きも済ます。
1時間半も手続きにかかりうんざり。
家内はあちこち訪ね歩いてぶつぶつ。昼飯は1時になる。
結局アップルで固めたことになってしまった。
電話はあまり使うことは無いから、まあこれでよしだろう、

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2011年2月12日 (土)

昼の雪は泡の如し

朝8時気温0度、8時半急に雪激しく降り始める。
家内せいこう外科に行く支度をしていたが、外を覗いてみて中止する。
すぐ目前百メーター近くまで霞んで見えない。
今冬始めての大雪になりそうである。

iPhoneは我が家のairstationともうまくつながり問題なく働き始めた。
パソコンやiPodなどと同期がうまく働くかどうかがこれからの仕事になる。
iPhoneも32GBのにしたから、満杯ということはしばらくはないだろう。
ただ充電はしばしば行うことに当分はなりそうだ。
とにかくこんな機械は習うよりは慣れろである。

午前11時さしもの雪もパタッと止む。途端に少し明るくなる。5cmくらいでも積もっただろうか。日でも射すと簡単に溶けてしまうのではと惜しい気がしないでもない。
一面の銀世界である。

午後2時日ざしが強くなり、あっという間に屋根の雪は溶け、道路や庭先にも陰のところを残してあらかたなくなった。
いいところだなあこの地方は。

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2011年2月13日 (日)

若き日の赤名峠越え

午前8時気温-1度。快晴、快い日ざしが早くから我が部屋に射し込んでくる。
昨日の朝の雪はもう跡形も無い。

それにしても昨夜はよく冷えた。早くからベッドにもぐりこみ長い時間休んだ。夜半電話が長い時間鳴りひびいたというが、覚えない。只2時半頃目覚めたがそのせいかも知れない。
もっとも昨夜はDVD音楽を付けっぱなしで寝たので、他の雑音はなかなか耳に入らない仕組みではあるのだが。
最初はiPod touchの軽い音楽をイヤホンで何時間か聞き、夜半目覚めたところで、DVDに切り替えた。私の睡眠時間はともかく騒がしいのである。

考えてみるとiPodもiPoneも形、大きさほとんど変わらない。
転がして置くとまるで区別がつかない。

ついでに言うと、我が家ではラジオが4カ所に置いてある。全部NHKFMにチャンネルが合っている。
聞きたいプログラムがあると、どこにいても聞くことができる。
FMにいい番組が無い時はCDかDVDまたはカセットにスイッチを切り替える。
老人二人住まいなのに、昼も結構騒がしいうちなのである。

ひと眠りして起きてみると、灰色の雲がすっかり空を覆ってしまっている。
春はまだまだ遠い。

古い日記帳を引っ張り出して拾い読みする。
最初に書き始めたのは昭和13年の12月30日である。
この年の暮れに際して、3月に行った出雲大社参拝のための自転車旅行の思い出がめんめんと書き連ねてある。むべなるかな。この旅行は現在でもありありと私の脳裏に刻み込まれてなくなることは無い。

親たちは無謀だと反対したが、若さで押し切った。しかし実際は大変な苦行だった。
道は悪く、坂路は多く、しかも経験したことの無い高さであった。
大きくはないが中国山脈である。うねうねと長い。強い足と時間さえあればいつかは歩き越えることが出来る筈だが、自転車は余分だった。
登る時は歩いて押さなければならない。
下りは早くても、道が悪くて危なく、車が何度か故障を起こした。ペタルを直したり、パンクを修理したり。
考えていたより随分時間も労力もかかった。側の風景を楽しんで歩く余裕も無かった。

松江から一畑薬師、大社と回った後は力つきていた。
帰りはどうするかで相棒の神村君と口論になってしまった。
結局今市駅から益田まで最後の列車に乗って行き、益田の駅で宿を心配してもらい、比較的穏険な中国山脈の坂道を選んで帰郷することができた。

忘れろと言われても忘れ得ない無知な18歳の暴挙であった。
Photo

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2011年2月14日 (月)

iPhoneのこと

みぞれまじりの雨が静かに降っている。気温0度、家内は土曜日大雪で行くのを中止したせいこう外科に仕方ない様子で出かける。

ケータイ機能より、iPhone独自の機能にほれ込んで買ったのだから、なれるために指先の不自由さを克服すべく、横になっても、起き上がっても手放さず修行に励む毎日となった。

好きな音楽を入れたり、カメラ機能を駆使しなくてもデジカメで撮った写真が沢山あるから、入力するのに忙しい。退屈をかこつ暇がなくなりそうである。

ナビゲーターがついているのだが、どうして使うのかよくわからない。
しかしどこかえこのiPhoneを置き忘れたとき、その所在をうちのパソコンで探し出せるのには感心した。早速パソコンに登録した。物忘れがひどくなったのでひょっとしたら起こるかも知れない。用心するに超したことは無いからだ。

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2011年2月16日 (水)

さざれ石

午前7時半気温-1度、薄い白雲点々、よい天気になりそうである。
家内リウマチの具合芳しからず、夜もなかなか寝付かれずという。
夜半に起きて安定剤を呑んだとか。
私には全く理解が出来ない状況なので声のかけ様が無い。
私は眠っても眠ってもまだ寝足りない。夜も昼も寝て暮らしているというのに。

ガスコンロが故障してるらしい。もう交換しなければいけないと家内は言う。2基のうち1基が調子がおかしいという。毎日のことだからこれも急を要する。

近くのスーパーで買って来た”ラジオ深夜便”の今月号をパラパラめくり読みしていると、かののど自慢で有名な宮川アナウンサーのエッセイが載っていた。
題名が”さざれ石”とあったので心引かれた訳。
実は小学校に行くか行かぬかの時代から何千回うたったであろうか、我が国歌の中のさざれ石の文句である。永い間うさんくさい詩句だなあと思いながら歌って来たのだが、十数年前津山に行ったおり作楽神社という児島高徳ゆかりのお宮だというのでお参りしたことがある。
境内の一角にさざれ石と表示してある直径1メートル少しぐらいの岩であった。
ほんとに砂礫が固まってこんなになったのだろうかと眉につば付ける思いで立ち去った。

この雑誌に記載されている”さざれ石”は二千万年前の地殻変動で砂礫が固まって岩となったもので、数年前工事中に発見された由、周囲30m、高さ4mというのだから大きい。
宮川アナウンサーが紹介してくれたのだから、うそはないだろう。

やっぱり君が代はいいかげんな歌ではないのだなとやっとこの歳になって信頼する気になった。

家内がチチヤスの梅を見に行こうと誘うので、天気はいいしその気になって出かける。
まだ早かった、ほとんどつぼみが出たばかりで、咲きでたものは無い。
持参した握り飯を車の中で食いながらちらと眺めただけで帰宅する。
来月始めごろが花盛りということだろう。

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2011年2月18日 (金)

納税申告

空はよく晴れたし、暖かいので、税務署に行ってこようと急に思い立つ。
8時過ぎに出かけたので、駐車場はまだがらがら。
中へ入るとやはり申告者がずらりと椅子に腰掛けて順番を待っている。20人くらいか。
ばたばたと済んで申告書を備え付けのパソコンで打ち込んでもらう。
家内が貰った親元の親父の遺産の分配金が心配でわざわざ申告に来たのだったが、金額が基礎控除額以下とあって所得と関係なく、従来同様私の扶養家族として申告する。
その結果、12万円の還付となる。払うと貰うでは大違いである。
それにしても源泉徴収で一昨年の所得の3倍以上の税を年金から徴収するとはひどすぎるのでは。
とれるところからはむさぼり取り、取れないところはやむを得ないと目をつむる。政府の軟弱ぶりに腹が立つ。暴力団がはびこるわけだな。

パソコン任せで算盤の音の喧しかった昔の会場風景は、一変してヒソヒソ声しか聞こえない静かなものである。

改めて税務申告に出向いてみて、簡単なお決まりの私のうちの収支でも、見方によって税額が変わりうるものだなと、啓発されたことは有意義であった。
たまには娑婆の風にあたる必要ありというわけだ。

午後になると晴れ間はすっかりなくなり、やはり寒い冬の一日となる。
足の具合はすっかりよくなった。この分ならまたどこかえ出歩きたいものである。
家内はまだ宮崎を言ってるのだが、私は佐賀長崎にしたい。なつかしい曾遊の地である。
自分で車を駆って出かけたい気持ちも半分ある。無理かな?

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2011年2月19日 (土)

老齢者貢献税

気温−0.5度の夜明け、凍結がなくてよかった。
菅内閣の評判がえらく悪い。菅さんが悪い訳ではない、誰がやっても一緒の政局だから、運が悪いだけだ。
世界中民主旋風に荒れ狂っている。この時代はもう権力、財産の寡占を許さぬ時代に入っている。大方のその傾向の強い国は逐次淘汰されることだろう。
インターネットのおかげで、小さな子供まで政治に関与出来る体勢になりつつあるのだから。
数は正に力である。

日本も追ってオール背番号の時代になり、隠し財産は許されなくなる。
余分な相続資産はいずれ公共にすべて返すことになるだろう。
国家予算もおかげで助かると言った時代に向かうのでは。国の大きな赤字も国民の資産の何分の一にしかすぎないのだから。

今年の税務申告でうかつにも気づいたことだが、私は今、年金生活者であり、それ以外の収入は皆無である。そしてその一割はいわゆる健康保険、介護保険として、さらに一割は所得税、住民税など税金として天引きされたり、別途徴収されたりする。

非常に分かりやすい。残った8割で生きて行き、遊び呆けたりする。
社会に役立つ仕事は何一つしない。身体を動かすのがやっとだから、役に立てようが無い。

2割が3割になってもかまわない、まだ7割残る。
惜しまずに残さずに使うことが、義務だと考えている。国の収支を補うためにも。
老人からはもっと税金をとったらどうだろう、”老齢者貢献税”とでもして。

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2011年2月20日 (日)

森林の外資による買い漁り

今朝の気温は3度と随分暖かい。2月になったと思っている間にもう20日である。
2月は逃げるというが、やっぱり逃げとるのかな。
なんとなく春かなと感じ始めた。私にはさくら=花で、これがないとやはり春ではない。

明日は孫たちが来る。末娘は秋から欧州に留学予定である。1年以上もう会える可能性は無い。一生の別れかも知れない。

私はこうして世迷い言を暇に任せて書いてはいるが、口に出してしゃべることはまるでない。
食事の時も聞き役が多くて、自分からしゃべることはあまりない。
だからのどぼとけが退化して、まともに声が出にくい。
たまに声を出すと、家内が何を言ってるのかわからないという。

それでも孫たちとは何か語りたい。楽しみである。迷惑なことかもしれないが。

ところで今朝の新聞を見ると、山形県でも外国人が森林を購入していると、小さい活字ではあるが報道している。森林ならいいやでは済まされない。
熊楠翁の言葉ではないが、森林は建築や紙などの資材になるだけではなく、水源を維持し、漁業資源としても大きな貢献をしている。便宜上私有地となっているが、本来国の管轄に置くべき存在である。

金の有り余る外国資本がその事業利益を目的に、株かなんかを買い漁るついでに、将来利益を見越して買い漁ってもらっては困るのである。
すでに北海道辺りで30件も起きているという。
過疎地に住む人に取っては思わぬ収入にすぐ手が出る話であるだけに国の対策がいそがれるのではないだろうか。

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2011年2月21日 (月)

世界の動きは止まらない

快晴のいい天気、気温3度と申し分ない。
家内は足の痛みがとれないと痛み止めを飲む。
私が患ったと同じような感じなので温灸を勧める。

孫らが夜遅く着くらしいから、いささか気がもめることである。遠方から来るのだから仕方が無い。
婿にも会いたいのだが、これは今渦中の人である。ひとときも仕事から外を向く気にはなれないだろう。私にもそうした時代があった、家庭など顧みる暇はなかった。
あの時代のことは記憶からも空白に近い。

30年も続いたエジプトの政権が倒れ、バーレーン、リビアも危なくなった。
インターネットの怖さが実感される。中国も電波管理に全力を挙げてるようだが、香港、台湾など窓のがら空きをどう閉めるつもりだろう。
遅かれ、早かれ時間の問題ではないのか。ロシアもいずれ悩みは同じだろう、すこし寒気がゆるむまでは仕方が無いが。

北方領土回復のチャンスは必ず訪れてくる。条約を破棄して理不尽に侵略したのはソ連であり、その余得をぬくぬく維持し続けんとしているロシア政府に神の報いが訪れることは間違いない。辛抱強く待つことだ。

日本の興隆、敗戦、被占領、復興とほぼ1世紀を生き抜いて来た私には馬鹿なりに読めるものがある。
少なくとも、政治家に人を得たなら敗戦はさけられただろう。天皇が本来平和の人だったことは国民に取って幸せだった。
被占領はマッカーサーの力が偉大だった。彼がいなかったら日本人は悲惨な目に落ち入ったであろう。そして4ヶ国の分割にでもなっていたら、2世紀も3世紀も苦渋をなめ尽くし、復興はおろか、日本人のアイデンティティは失われてしまったことだろう。

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2011年2月23日 (水)

人生の終わり

今朝の気温はやはり3度。
曇って日ざしは無いが、日中比較的に暖かい。
10時前孫らを送って駅まで出る。
今生の別れかも知れない。なんどもバイバイする。丁度列車が入って来て急ぎ別れる。
さよならァー!

内藤内科に行き、胃腸の薬などを貰う。風邪から来る胃腸病が昨今流行っているとか。

昨日朝の息苦しさは死の苦しみを予習してみせてくれたか。
死ぬるということは、やはり楽ではなさそうである。
万事窮したあげくだから、もう文句は言うまいとあきらめる。

遠く地球の反対側に出かける孫娘にも予想もしない新しい人生が始まる。そしていつかはやはり人並みに思いも染めない死を迎える。人間の宿命である。
鳥や獣たちも生あらば必ず死あり。素直に死を受け入れるその姿を見るにつけ、彼らこそすばらしい精神素質に恵まれていると思わずにいられない。

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2011年2月26日 (土)

人口と自然淘汰

今朝の気温3度、一昨日、昨日と暖かい朝が続いたので、今朝はちょっぴり冷たい。
よい天気になりそうだ。

ラジオから流れ出るブルッフのバイオリン協奏曲の音色が美しい。しばらくうっとりする。

最近思い出したように若き日に慣れ親しんだ、往年の名歌手たちのCDをパソコンからiPhone4にシンクさせるため、ひっぱりだして聞き流しているのだが、ディック・ミネなどもこんなにいい声をしていたのかなあと感嘆する。若いときよく聞いたジェーン・モーガンや藤沢蘭子、ミルバもいい。

昨年の10月1日の国勢調査の結果が発表された。総人口1億2805万人とある。都市集中がますます顕著で、38道府県が減少したという。増加率は0.2%というからほとんど人口数は変わらない。
この傾向はもう止まらないだろう。其処へニュージーランドの地震である。邦人も被害にあったらしく行方が分からない人が何人もいる。
同じ地震国の日本、大丈夫かなと心配の方が先に立つ。

私が小学1年か2年のころ教科書で人口8千万と書いてあったと記憶しているが、あの当時は人種の違う朝鮮、台湾の人も一緒だったから、80年経ってやっと倍になったかなということである。
戦争で随分若くして死んで行ったが、それでもなお増え続けている。

人類もいつかは自然淘汰の時が来る。神の目からは地震も戦争も自然淘汰の一つだろうが、私にはインフルエンザのようなヴィールスが怖い。
空飛ぶ鳥がばらまいてくれる。今その前兆が現れているのではないだろうか。

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2011年2月27日 (日)

狂気の沙汰

朝の気温6度。爽快である。
昨日植物園を歩き回ったので少しばかり右膝が痛い。足首も重い。
2キロも歩いた
だろうか、情けないことである。

一昨夜県内の高速道路で鹿児島のバスが横転事故を起こした。就活に疲れたか、乗客を道連れに自殺を謀ったか、大学生の仕業であった。皆死ぬんだと叫んでいたというから間違いない。
全く狂気の沙汰である。

近年狂気の行動による、殺人事件が多くなった。秋葉原のトラック暴走事件などを嚆矢とする。近くのマツダでも起きた。
進みすぎた文化文明が生み出した病気と言えるのでは。

戦争、内乱なども狂気の発露といえなくもない。
今中東や北アフリカで起きている、デモ騒ぎも分けの分からない民主化を叫んでの狂気の沙汰だ。
世界の人間が狂い始めた。行き着くところは原爆かもしれない。誰が火をつけるか、油断は出来ない。恐ろしいことである。

先日のNHKのマクナマラ発言で告白されたように、アワや第3、第4の原爆発射が米露の間に行われたかも知れない寸前のチャンスがあった。

もし始まれば往年の戦争の比ではない。
人類破滅の覚悟がいる。人智が再度この危機を阻止し得るだろうか。
叡智の外に潜む現在の世界人類の狂気が怖い。

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2011年2月28日 (月)

中国新聞電子版

朝小雨が降っている。気温は10度丁度。寒くはない筈だが、暖かくはない。
中国新聞が電子版を出すという。とうとうその気になったか。

iPadが火をつけた感じだが、大分盛り上がって来たようだ。
私も数年前から、藤沢周平の”蝉しぐれ”など数冊電子ブックを購入したり、青空文庫を渉猟したりしたことがあるが、やはり寝て読める文庫本に回帰して今に至っている。
”蝉しぐれ”もパソコンに電子本を保存したまま、文庫本を買ってしまった。

iPadやiPhoneになじんだ人は、電子ブックもいいかもしれないが、老人にはやはり面倒で煩わしい。指先のタッチ、そして肝心な視力がとてもじゃないが付いて行けない。
iPhoneを買ってみたが、子供のように軽々と指遊びの出来ない私には、やはり宝の持ち腐れだとしっかり気づいた。

中国新聞の電子版ははてどうするか、1ヶ月テスト期間があるというから、テストしてみたいが、既に産経のnetviewを2年ぐらい利用しているから、要領は分かっているつもりだ。
パソコンを使用するものには記事の利用が楽な点、これに優るものは無い。

新聞を購読しているから、重複する訳だが、思い切って踏み切るか,余生の少ない私だから。
紙面をたどるのは、家内が熱心だから、譲ることにして、電子版もわるくないか。
産経でも時々びっくりする程綺麗な写真が載ったりする。保存だけなら自由だから、取り込んで楽しんでいる。(紙面の写真とは比較にならないすばらしさ)
複雑な統計表などは大いに参考になるし。

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