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2010年12月10日 (金)

錦川清流線

朝7時半気温2度。真冬の寒さ、だがほとんど雲の見えない好天気。
足が痛くなければどこかへ出かけたいくらい。
よっチャンが里芋を年内に届けると言ってたが,持ってこらすのも気の毒だから,取りに行くかなと朝食のときふと洩らしたのだが,考えてみるとこの足では行かれない。

今日の中国新聞の天風録に「JR岩国駅には0番ホームがある」という短文が載っている。
10年も前だったか,新岩国から錦川清流線のディーゼルカーに乗って錦町まで旅したことがある。川沿いをのこのこと走り、移り変わりに目を奪われながら結構楽しんだものである。
客足が少なく完全なローカルの悲哀は免れ得ないが、1時間歩くことなく秋色を愛でることが出来る唯一の手段である。贅沢かも知れないが残しておいてもらいたいものである。

終日好天気が続いたが、外出する気にならないので,また音楽DVDつくり。
30時間集めるのは結構しんどい。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その142)

赤道直下に住んでいる住民は暖をとることは無いと思っていたが、暖炉は彼らの生活にとって必需施設であった。彼らの家の床には土で炉が造ってあり、終日この炉の中で焚き火をしつつその傍で寝起きをし生活をしているのである。ここの住民にとってこの火は絶対に欠かすことの出来ないものであり、その燃料は海岸に打ち上げられている木片、それは永年天日で乾燥され軽石のように軽く、叩けばカンカンと音がするほどに乾いた木片である。ここにはオイルショックなんぞ全く縁の無いことだろう。

彼らの日常生活は終日男は海へ、女は山へといった所で海では魚、山ではバナナ等と食糧探しの一言につきる。そしたこの海、山行きの姿は男女とも椰子の葉で編んだ籠を、背中に掛けるか又頭から背中に吊るす格好で夫々出かけてゆく。前に述べたように思うが、肌につけたものは誰もごく簡素で使い捨てのものばかりであり、選択なんか全く不必要で、ただ毎日食糧を捜し求めることが唯一の仕事だった。

彼らの食事は3度と決まっていない。食べたくなれば山、海に出かけて必要な一食分だけの量をとってきてカトカト(焼く)して食べる。決して余分には取ってこない。二食とか明日の分を用意するなどとは考えないし又その必要も無いようだった。
日本でも三食は近世になってからと云われていることからして、一日二食が自然の姿かもしれない。彼らには今すぐにとか、後でゆっくりとかの区別は理解できないらしい。従って敵機がまた襲って来るからといって、早く荷物を揚げてくれと頼んでも決して急がないのに困ってしまうことが多かった。

さて海に行く男は3mばかりの槍で魚を狙う。吉田中尉はこの投げ槍は百発百中と昔のソロモン記には書いてあったと記憶していたが、現実には10回に1つ当たればいいという腕前だった。しかし槍を構えて珊瑚礁の尖った針の山を素足で平気で走る彼らの姿は、滑稽でもあるが勇ましい姿にも見えた。隊員の一人が曰く「牛の皮でも10年経てば靴の革底になる。彼らの足の裏は20年は鍛えられているらしい。年季が違う」といい一同大笑いをする。全くこの兵士たちにはここの住民の魚取りの真似は全く出来ないだろう。

さてナンバーワンの酋長は部落のすべての権限を行使する役目をもっており、先に上陸した隊との交渉を彼が一手に行ったことでもはっきりと判った。
さてこのサカール島は地図で見ると小さいが、上陸して見ると山あり、密林ありと中中に複雑な島である。島中央の高地は約500mくらいはあるだろうか、沖から見るとその頂上付近に雲がなびいていた。この島にはこの部落以外にもう一つの部落があるという。そしてニューブリテン島とは時折カヌーによって往来するというが、平素は全く行き来はしていないとのことだった。(つづく)
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