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2010年12月 1日 (水)

書くことは何もない

昼間は20度にもなる暖かい一日。
音楽の再録に忙しく、何をする暇もない。
夕方にはくたくたである。
家内も旅疲れで、元気はない。それでも老人会が下旬湯来ロッジで開かれるので、連れを誘うのに忙しそう。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その134)

このツルブのナタモ秘匿基地は舟艇中隊のニューブリテン島最東端の基地となった。前に述べたように舟艇中隊はツルブからラエにかけ300kmの間に数箇所の基地を設置してこの間を往復していた。そしてこれらの基地に2乃至5号の無線機を装備していたので、各基地間、各艇間、各艇と基地間の連絡はよく取れていた。
しかしながら補給、整備、患者の手当て等については意のままにならず、所在の衛生機関の援助等を受けねばならなかった。なお、舟艇隊は分隊(組)単位に行動する事が多かったので、半年くらいはお互い顔を合わすことが無かったのは通常であった。

ツルブの兵団司令部の大島参謀は舟艇隊の面倒をよく見てくれた。フィリッピンのバターン作戦の際にこの中隊に配属され一緒に行動したこともあって、特に親しく世話をしてもらった。参謀はある時しみじみと「年をとるとのう、惰病になってのう」と感慨を込めて言われた。私はハッとして参謀の顔を見た。いかにも軍の参謀らしからぬ言葉に驚いた。その瞬間「アッハッハー」と大声で前言を取り消すように笑い飛ばした。その後暫くして私はブッシング基地にしたが、この時の大島参謀の朴訥な人柄の表れた顔が今も忘れられないのである。(つづく)
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2010年12月 2日 (木)

無駄なことと無駄な人生

雨の予報だったが、霧は深いがそうでもないらしい。気温7度、灰色の空から柔らかな日ざしがさんさんと地上に届いている。
午前9時になるとまた暖かくなってくる。昨日と同じような感じである。
昨日は沖縄なんか夏日だと放送されていた。

昨夜は50曲ばかりを1枚のDVDに録音した。やはり30時間ばかりになる。

昨夜は午前零時まで聞いたが、音質など私の耳では別に文句のつけ様はない。
今朝はそのつづきを試し聴きしているところである。

カセットテープの廃棄日は月に1度しかない。今月は9日が予定日だが、まだ400本以上残っているのだから、選択が忙しい。
前回は無理して収納箱まで壊して廃棄した。その無理がたたって、膝を痛めてしまった。未だに苦しむことになってしまった。今回は楽な姿勢で、無理にならないように気使いながらの廃棄作業である。
前回廃棄の選別が主目的だったが、今回は選別しながら、残したいものを再録するのが主である。
いくらか要領がよくなり、手際よくいけそうである。
無駄なことをしているのかどうか、よくわからない。
考えてみると人生そのものも無駄なことであったような気がしないでもない。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その135)

7月末のツルブ地区に対しての最後の駆逐艦による舞台の揚陸作戦の時のことである。例のごとく駆逐艦4隻とこれを護衛する警戒駆逐艦2隻が、部隊を乗せてツルブ沖に入泊した。陸岸に待機していた舟艇隊は一斉に各艦めがけて発進した。
敵機は駆逐艦進入前から上空に飛来してきて襲撃の機会を待っていた。駆逐艦の進入と同時に、この夜は大発動艇等の小舟艇には目もくれず目標を駆逐艦に絞って攻撃を開始した。ツルブ一帯は投下された証明弾で白夜と化していた。ともかく揚陸作業はひとまず終わり。駆逐艦は退避して沖合いにその姿消して行った。作業を終えて舟艇隊員も一同ほっとして、陸岸で一休みしていると、沖に停まったまま動かない駆逐艦が見えた。そして敵機はしきりにこの駆逐艦めがけて集中攻撃している。直ちに我々は大発艇を発進し救援に向かった。この駆逐艦は完全に珊瑚礁に乗り上げ、全力で後退離脱しようとするが離脱が出来ない。
そのままで艦と敵機は激しく射ち合っていたが、さすがに敵機も一旦引き上げて行った。
ここに駆逐艦は放棄することに決まったが、艦長以下全員艦と運命を共にするといって退艦しなかった。ただ負傷者だけは舟艇で陸岸に送ったが。(つづく)
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2010年12月 3日 (金)

飢餓と飽食

外が暗いのだから目覚めは遅くなる。7時半気温は10度と暖かい。
夜中じゅう降ってたらしく、外はびしょ濡れである。
今は止んでるがいつ降り出すとも限らない。
相変わらず膝が痛く、まず階段を下りて行くのが、一苦労である。いやでも正気に戻る。

8時半やっと白んで来た。
今日は何をしようか考える。これも頭の体操か。

昨夕はココログに入るのに一苦労した。毎日やってることなのにID、パスワードが違っていますと警告が出て入れない。何度やっても駄目である。
とうとうプロバイダーのニフティに電話して聞くことになる。
何分だったか、何十分だったか、担当者の赤羽さんに随分ながくつきあって貰って、最後にもう一度やってみて下さいと言われるままやったら、とたんに入力実現。なんだか狐にどこかをつままれた思い。
私を証明するため住所、氏名、生年月日、ニフティ会員になったのが1994年という話にまでなり、理解はしてもらったが、どどのつまりがあっけなかった。
老人というのはそれ自体が幻想の世界かも知れない。

今朝は昨日の雨で外出しなかったので、パンがない。菓子パンのかけらやカンパンと牛乳ですます。
軍隊時代命の綱だったカンパンは私の非常食でいつも戸棚に入れてある。牛乳は私は3.5、家内は無脂肪といつも2本買うからなんとか間に合う。
1食抜いたからといって何でもないのにと後で思ったり。

軍隊時代、不眠不休はもとより、飢餓との戦いも稀ではなかった。
自動車隊だから糧食がないということはなかったが、生米はかじれないので、それこそカンパンが唯一の糧食だった。しかし水には困った。一月も道なき地域を山頂伝いに進軍したときは、常に谷まで誰かが水汲みに降りて行かなければならなかった。
飢えということを深刻に味わった最初だった。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その136)

ツルブ警備の兵団長から特使が出され、夜明けなれば艦は再度敵機の攻撃を受けるは必至のこと、この際上陸しておいてはどうかと勧告があった。しかし艦長は頑としてこれを受け入れないまま時間は刻々と過ぎた行った。再三にわたっての勧奨の末艦長だけが艦にとどまり他の艦員は下艦するということで決着がついた。無念の涙を流しつつ艦の乗組員は上陸したが、艦長だけはなお上陸を拒んだ。明け方になって終に艦隊司令部から指令が出て、とうとう艦長以下全員が艦を離脱し上陸した。

翌朝まだ明けきらぬ上空に敵機数機が来襲し、全く無抵抗の駆逐艦を反復して爆撃した。敵機が西方に立ち去った後にも駆逐艦はそのままもとの形で海上に残っていた。その後敵機は数日に亘って毎日のように来襲し、あたかも爆撃の演習ででもしているように無数の爆弾を投下したのであった。
戦後この駆逐艦は有明ということがわかった。
これは昭和18年7月28日夜の事であった。その後このツルブには二度と駆逐艦はその姿を見せることはなかった。(つづく)
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2010年12月 5日 (日)

スキャナー半分片付く

朝6時半起き出て、ここ数日インストール出来ないスキャナーの配線で気づいたことがあったので、思いつきを試してみることにする。
ソフトのアンインストールから始めて、インストールを終わり試してみるまでとうとう食事を終わって8時を過ぎる。
やっぱり駄目だ。メーカーに問い合わせるしかなさそうだ。

早朝の気温は2度半と少し冷える。しかし気合いが入ってるからか寒さは感じない。
4年前購入したスキャナーだから、パソコン本体もOSもすっかり変わったから、適応が難しいんだろうが、インストールソフトはネットでメーカーが発表しているものをダウンロードしたのだから問題はない筈なんだが。

新しいパソコンにはなかなか認識してもらえなかったが、改めて古い機械にもう一度ネットからそれ用のソフトをダウンロードしてインストールしてみると、なんなく使用可能になった。一応これで用は足りるので、不満足ながらこれでお開きとする。

いい天気が続いて暖かいので体は楽である。もみじはとっくにあきらめているので苦痛はない。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その137)

この駆逐艦有明の閣座した位置は海図を見ると次のことが記載してある。それは「波浪す」と、その周囲は点線で円が描かれている。これは海上に露出していない暗礁をしめしているもので、これには発見者、発見年月日等は記載されていないが、いつかの時だれかこの付近を航行中に白波が立っているのを発見、この報告があったので地図にのせられたものであろう。その後大発動艇でこの付近を航行してみたが支障はなかった。

その後ツルブの広場に陸軍の中型機が不時着したので、私はこの飛行機に便乗してラバウルに飛んだ。この時操縦者に前に述べた暗礁の上空を飛行してもらえぬかと頼んだ。そして上空から淡青色の美しい暗礁が真っ青の海面にくっきりと浮かび上がっているのが見えた。随分大きな環礁でおそらく直径2,3kmはあったと記憶している。陸上や海上から見ることが出来ないものでも上空からは鮮明にその全体がよくみえるもので、ここに座礁している駆逐艦のかすかな残影を眼下に見ながらニューーブリテン島の北岸沿いに低空でラバウルに飛んだ。(つづく)
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2010年12月 6日 (月)

菅総理、晋作に怒られるぞ

朝7時快晴無風、気温5度まさに申し分なし。
ただ膝の痛みは相変わらず。もう宿痾となりつつある。そのうち歩けなくなるのだろう。天命つきるはいつの日やら。歩けなくなるまでに尽きてほしい。

菅総理の評判の悪さ、少し気になる。
高杉晋作を手本にするには気魄が不足している。中国を恐れおののいては先人に悖る。
やはり性根に国歌も日の丸もいらぬという気持ちが宿っている以上自身動きがとれないのでは。
みせかけだけではこの世は渡れない。

北朝鮮の砲撃は黒船の浦賀来航によく似ている。
驚かされてるのは日本ではないのか。
原爆は要らないなど綺麗ごとを言ってる時代ではないのでは。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その138)

戦後有明という駆逐艦を調べてみたが、「日本軍艦戦記」には次のように書かれていた。「駆逐艦有明は初春と同型に属し、排水量は1400tでどちらかというと小型である。昭和10年に竣工した。この艦と同時に就航した艦は夕暮であるが、この艦も有明が沈没する1週間前にソロモン海で敵機の攻撃で沈没していた。このように南方戦線で不滅と云われていた駆逐艦も日毎にその姿を消していったのである。
さてこの珊瑚礁はただ単に大発動艇運行の障害物だけでなく、駆逐艦にとっても大きな障害となっていたもようである。この赤道付近にはこのような珊瑚礁が大変多く出来ており、これらは船舶の航行に大きな障害物となっていた。このために航海者の報告にもとづいいて海図に記入されている「浅瀬あり、又波浪あり」等と記されているのは、1908年に航海中の船が浅瀬を発見して、そこに波浪が見えたことを表現したのが始まりである。
又単に「波浪あり」と記されて丸く点線で囲まれているのもあるが、これらはいずれも航海者にとって貴重な資料である。

戦後随分と年月が経っているが、こんな遥かに遠い南の海で日本の駆逐艦がこんな悲壮な最期を遂げたことなど、今は誰一人として知る者はないだろう。

さて本格的な大発動艇によるダンピール海峡横断輸送を始めて1ヶ月あまりになった頃、敵機は舟艇隊が使っている基地の発見に全力を挙げているようだった。頻繁に舟艇が基地に出入りしているとこの基地周辺の樹木は自然に色あせてきて、ここに部隊がいる気配を悟られることは止むを得ない現象である。6月にはいると敵機による損害も増えてきて隊でも早急に新しい基地を探し、移動しなければならないこととなってきた。6月下旬に中隊長の私以下2号無線機及び機関砲の2個分隊、合計14名で偵察隊を編成し、新しい基地探索のため大発動艇2隻に分乗してブプイ河口を出発した。これは新しい北回りの航路を設定する計画の為に、海峡の中間にあるウンボイ島に中間基地をおくことの適否について調査するためであった。

先ずブッシング港を海岸沿いに北上して、その北方約10kmの地アント岬付近に到着した。ここには小さな土着住民の部落があって海岸は断崖になっていた。樹木がこの崖に覆いかぶさっていて舟艇の4,5隻は秘匿できそうにあったが、基地としては少し貧弱に思えた。そして更に北方に向かって探索したが基地に適するところが見つからないので、ウンボイ島の西側を探索して見ることとした。(つづく)
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2010年12月 7日 (火)

ニューギニア戦記の搭載を急ぐ

朝7時の気温は10度だが、風が強く寒い。
食後腹がにがり始め、かなり下痢する。原因に心当たりがない。昨夜もおかゆだったのに不思議である。
外食のひるのうどんが、まさかである。
今日の昼は欠食とする。

家内は風邪ではないかと言うが、咳も出ないし熱もないしそれはないだろう。

昨年の8月から続けて搭載している”ニューギニア戦記”ももう少しというところになっている。
私の寿命が不安なので、なんとか年内に片付けたいし、急ぐことにする。
なにしろ原稿用紙にしたら5百枚にもなろうかというのだから簡単ではない。
毎日の容量が大きくなるが我慢して読んでほしい。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その139)

このウンボイ島は東西約30km、南北に約60kmの大きさであり、この地区では比較的に大きな島であった。全島殆ど密林に覆われていたが、舟艇の着岸出来そうな場所は開発され、基地には適当でなかった。先方に見えた丘陵の一角に椰子林のある海岸が見えたので、ここに向かって艇を走らせた。
ここの入り組んだ狭い海浜に小さな丸太で組んだ桟橋があったので、そこに艇をつけ一同は上陸した。
人の住んでいる気配は全く感じられないが、椰子林一帯には丘に向かって南瓜畠が波打つように這い上がっており、その斜面を見上げると農機具の小屋らしい建物があった。
南瓜の蔓は延び放題に伸びて親指大の太い蔓が地面に満遍なく這い回って、そこを歩き回ることが容易でないほどに蔓延っていた。この中を掻き分けるようにしてこの丘を登ってゆくと、眼前に見えた海峡の遥か彼方にニューギニア島の連峰が遠望された。その丘から更にすぐ先の海岸まで続いている南瓜畠は、その大きな葉っぱが、海峡を渡ってくる微風に波立っていた。目の覚めるばかりの緑に映えた風景は今でも目に浮かんでくるそれは美しい景色であった。

このウンボイ島は今まで日本軍が足を踏み入れたことがないので、敵機の関心も薄いらしくここで襲撃を受ける恐れは殆ど無かろうと思った。中隊員一同は久しぶりに敵機の心配を全く考えずに、この丘を降り丸太桟橋辺りの椰子の木陰で暫くのんびりと休息をした。

この場所は中継基地として格好の所と思ったが、何にしても敵機の襲撃に対して遮蔽物が少なく、またその銃爆撃に当たって耐えられるような地形でもなかった。

そこで再びこの島の北沿いに艇を走らせ各所の検分をしてみたが、この島は凹凸はあるもののこれといって基地に利用できる適地は見つからなかった。結局期待に沿うような舟艇の秘匿基地はとうとう見つけることが出来なかったのである。

夕刻を待ってウンボイ島を出発して途中サカール島近辺を廻り、日没後ツルブ基地に帰還することとしていた。この帰還途中にこの日に寄ったアント岬やウンボイ桟橋の写景図の整理をした。これは後日夜間にこれらの地区に進入時の為の資料である。このように新しい基地を調査した場合には、必ず其処に夜間でも進入出来るようにこの図面を書いておく。将来これは大変に役に立ち特に初めてその基地に入る者にとっては大変貴重な資料となるし、陸地に向かって走る場合の目標にもなったのである。この写景図というものは一口で言うと海の沖合いから見たスケッチで、後々にも修正を行い、特に海峡等の横断に当たっては羅針盤の補助として有効に使われていた。(つづく)
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2010年12月 8日 (水)

水道の水漏れ、やれやれだ

朝水漏れしている玄関口にある止水栓を修理して貰うため水道屋さんに電話して来て貰う。
昼前にやって来て1時間ぐらいで修理してもらう。バルブ周りを取り替えて23000円かかる。
高いのか安いのかわからない。老人にはもうどうしようもない。

昨夕静子さん夫妻がやって来て、みかん一箱と野菜などたくさん持てきてくれる。
30年ぶりくらいなので、道がわかりにくくて、一昨日は一度迷って引き返し,今日やっとと二日がかりでやってきたわけである。
気の毒でもあるし、ありがたくもあるし、その好意が誠にうれしい。

彼女のところも本年は老母と長女を失い、次女は出産と悲喜こもごもだったが、ようやく平静を取り戻して、明るい顔を見せてくれた。
訪問客が多いので、あまり寂しい思いはしてないと言ってたが、夜分など二人きりで大きな家で住まいして、やはり心細くなるのではと思ったりする。

大東亜戦争勃発の日である。70年目である。遠き昔になったものである。
あの日既に軍籍にあり,浮かぶ瀬はなきことを痛感した一日だったが、あの富士の裾野から修善寺へ向かう道での光景は忘れることはない。
Photo

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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その140)

この基地探索の帰途太陽も西に傾いた頃、サカール島の南側をツルブに向かい東進中突然背後から爆音が聞こえてきた。と同時に乗り組員全員が一斉に爆音だーと叫んだ。振り向いた瞬間敵機2機は既に艇の頭上に至り、瞬時猛烈な機銃掃射に見舞われた。この2機は瞬く間に島の上を越えて飛び去った。艇は飛行機の風圧をまともに受けて煽られ、全員船底に叩きつけられた。飛び去ってゆく敵機の兵士に顔が、すぐ目の前に大きく写ったが、彼の風防眼鏡越しに見えた顔はひどく凄みがあった。敵機の下腹から打ち出された機銃弾は船底に集中したように感じた。
反射的に艇は全速力で島に向かって突進した。敵機に抵抗する暇は全く無く海岸に到達するや否や一同海岸に飛び降り、近くの密林に駆け込むのが精一杯だった。
敵機は沖合いを大きく迂回して反復攻撃を繰り返したが、やがて爆音を残して水平線の彼方に消えて行った。艇には無数の弾あとが残っていた。やがて日も没した。

    敵の襲撃を交わして一時上陸したサカール島の記録

翌朝艇の様子を見ると船体には無数の弾痕が残っていた。取り敢えず船体の応急修理をした後荷物の揚陸をして今夜はこの島に露営することとした。
この上陸地点近くに15,6軒の土着住民の部落があった。彼らは昨夕の空襲と、舟艇隊員の不意の上陸、闖入にに恐れて、全員密林に逃げ込んでいたらしい。日没後暫くして三々五々と部落に帰ってきて、暫く遠巻きにしてこちらの様子を伺っていたが、何事も起きないと察したのか近づいてきた。隊員が荷物を艇から上げ始めると彼らも手伝いを始めた。そのうちに大声でわいわいと叫びながら駆け足で艇から珊瑚礁の上を砂浜へと往復して荷揚げを手伝い、忽ちにして作業は済んでしまった。
この荷揚げ作業を通じて親しくなったか、姿を見せなかった女性たちもちらほらと姿を見せ始めた。そして警戒心も全く無くなったのか、よく早朝には女子供と殆どの者が部落に帰っているようだった。
翌朝再び敵機がやってきた。舟艇には夜のうちに木の枝葉を切り出して応急偽装をはしていた。海岸から離れた場所に不自然な木立があることから、敵機は忽ちにして舟艇が隠してあることを察したか、この木立をめがけて徹底的に銃撃すると共にそこの村落に対しても銃撃を浴びせた。最初敵機の爆音が聞こえたときにはもう住民たちは逃げた後で全くその姿は見られなかった。結局大木の周りをぐるぐる廻って銃弾を避けていたのは隊員たちだけだった。この襲撃で船体には又多数の弾痕が残った。(つづく)
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2010年12月 9日 (木)

戦記も師走とともに追い込みに入る

明け方一雨あったらしく庭先は濡れそぼっている。新聞は危うく濡れるのを免れてよかった。
7時半気温5度。
9時現在陽光さんさんとして悪い天気ではない。いつも恵まれた地方だとの実感に包まれる。
日の射し込むこの部屋では寒暖計は早くも20度に近づいている。

今朝も音楽のカセットからの変換をつづける。
ほぼ30時間単位にDVD1枚の割で、続けているのだが、いつまで寿命が持つことやら。

昼はアルパークに出かけ外食。
家内の買い物につきあって1時半帰宅。
風が強くて寒い。デパートが売り出ししていたが,客足はそれほどにもない。

午後になるとまた曇って来ていよいよ寒い。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その141)

その後敵機は2,3回来襲したが、いつの間にか来なくなった。
上陸後無線でツルブ基地よ交信を試みたが、発信機の具合が悪いようで発信がままならず、交信は不可能であった。

数日経つと艇にも赤錆が出始めた。吉田中尉以下13名の隊員は、この島での生活が長期になるだろうと覚悟を決めた。
海上また上空の監視はすべて住民が交代でやってくれた。1週間そして10日と日はどんどん過ぎて行く。そして住民たちの隊員たちに対する気遣いも日と共に親切の度合いを増してきた。廃船同様に痛んだ艇もそのエンジン周りはしっかりと整備を続け一部部品を交換しさえすれば、いつでもエンジンの稼動が出来るように努力を続けた。
一方住民たちは毎日艇の場所を偽装をする材料の伐採と運搬に協力してくれた。
ここの住民は全部で50人余でその生活は全く原始的な暮らしぶりであった。
ナンバーワンの酋長はすぐ判った。ナンバーツウもすぐわかったが、彼らにはナンバースリーはいないようで、そしてその他の者はすべてボーイと呼んだ。
そのうちに判ったことは、数は1と2だけでそれ以上はメニーの一言で済ましていることも知った。
又一方ではこの島では男性の呼び名はすべてボーイ、女性はメリーと呼ぶことなっていた。その他何をするにもカトカトといい、カヌーを作るのがカトカトであれば、魚を焼き料理をすることもカトカト、又バナナなどを焼くのもまたカトカトで済ます。このように一つの単語をいく様にも使い分けて使うので、言葉の数が少なく覚えるのに苦労しないですむ。これらの言葉で面白い事は、単にカトと言わずに必ず言葉を二度重ねてカトカオとダブらせることである。この語源はどうも英語からきているらしく、例えば切るの言葉カシはカットから来ているらしい。

前に述べたように数を数える場合はワン、ツーで以外はメニーで片付ける。そして沢山はメニー、メニーとダブらせて表現する。3個でも、10個でもメニーでありメニー、メニーであった。

彼らの生活の糧は椰子の木で家ごとに何本かの物を保有している。これは飼育している豚や鶏と共に大切な財産、いや貴重な食糧源である。従って各人別にどのようにして見分けるのか不思議だったが、他人のものと間違えることは絶対にないようだ。
所有権の識別能力は原始的人種には先天的にその能力があるのだろうか、かかる事は鋭敏な文明人の方が勝っていると思っていたが、実際は逆ではないかと思えた。
次は彼らの火の取り扱いの仕方であるが、文明人はマッチ、ライターの生活になれて、日常の生活はこれがないと火は起こせないと考えている。しかしここの住民は彼ら独特の方法で火を起こす。それはこの島の海岸には可なり遠い昔に流れ着いた流木が到る所に散在している。この枯れ木を拾ってきて火をおこすのである。それは、太い親木に親指大の当て木をあてて擦る。1,2分間これを擦っていると目の細かい粉が出来て、摩擦熱によってこの木の粉にポッと火がつく。そしてこの火を枯れた小枝に近づけ燃え移すという至極簡単な方法であった。(つづく)
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2010年12月10日 (金)

錦川清流線

朝7時半気温2度。真冬の寒さ、だがほとんど雲の見えない好天気。
足が痛くなければどこかへ出かけたいくらい。
よっチャンが里芋を年内に届けると言ってたが,持ってこらすのも気の毒だから,取りに行くかなと朝食のときふと洩らしたのだが,考えてみるとこの足では行かれない。

今日の中国新聞の天風録に「JR岩国駅には0番ホームがある」という短文が載っている。
10年も前だったか,新岩国から錦川清流線のディーゼルカーに乗って錦町まで旅したことがある。川沿いをのこのこと走り、移り変わりに目を奪われながら結構楽しんだものである。
客足が少なく完全なローカルの悲哀は免れ得ないが、1時間歩くことなく秋色を愛でることが出来る唯一の手段である。贅沢かも知れないが残しておいてもらいたいものである。

終日好天気が続いたが、外出する気にならないので,また音楽DVDつくり。
30時間集めるのは結構しんどい。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その142)

赤道直下に住んでいる住民は暖をとることは無いと思っていたが、暖炉は彼らの生活にとって必需施設であった。彼らの家の床には土で炉が造ってあり、終日この炉の中で焚き火をしつつその傍で寝起きをし生活をしているのである。ここの住民にとってこの火は絶対に欠かすことの出来ないものであり、その燃料は海岸に打ち上げられている木片、それは永年天日で乾燥され軽石のように軽く、叩けばカンカンと音がするほどに乾いた木片である。ここにはオイルショックなんぞ全く縁の無いことだろう。

彼らの日常生活は終日男は海へ、女は山へといった所で海では魚、山ではバナナ等と食糧探しの一言につきる。そしたこの海、山行きの姿は男女とも椰子の葉で編んだ籠を、背中に掛けるか又頭から背中に吊るす格好で夫々出かけてゆく。前に述べたように思うが、肌につけたものは誰もごく簡素で使い捨てのものばかりであり、選択なんか全く不必要で、ただ毎日食糧を捜し求めることが唯一の仕事だった。

彼らの食事は3度と決まっていない。食べたくなれば山、海に出かけて必要な一食分だけの量をとってきてカトカト(焼く)して食べる。決して余分には取ってこない。二食とか明日の分を用意するなどとは考えないし又その必要も無いようだった。
日本でも三食は近世になってからと云われていることからして、一日二食が自然の姿かもしれない。彼らには今すぐにとか、後でゆっくりとかの区別は理解できないらしい。従って敵機がまた襲って来るからといって、早く荷物を揚げてくれと頼んでも決して急がないのに困ってしまうことが多かった。

さて海に行く男は3mばかりの槍で魚を狙う。吉田中尉はこの投げ槍は百発百中と昔のソロモン記には書いてあったと記憶していたが、現実には10回に1つ当たればいいという腕前だった。しかし槍を構えて珊瑚礁の尖った針の山を素足で平気で走る彼らの姿は、滑稽でもあるが勇ましい姿にも見えた。隊員の一人が曰く「牛の皮でも10年経てば靴の革底になる。彼らの足の裏は20年は鍛えられているらしい。年季が違う」といい一同大笑いをする。全くこの兵士たちにはここの住民の魚取りの真似は全く出来ないだろう。

さてナンバーワンの酋長は部落のすべての権限を行使する役目をもっており、先に上陸した隊との交渉を彼が一手に行ったことでもはっきりと判った。
さてこのサカール島は地図で見ると小さいが、上陸して見ると山あり、密林ありと中中に複雑な島である。島中央の高地は約500mくらいはあるだろうか、沖から見るとその頂上付近に雲がなびいていた。この島にはこの部落以外にもう一つの部落があるという。そしてニューブリテン島とは時折カヌーによって往来するというが、平素は全く行き来はしていないとのことだった。(つづく)
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2010年12月11日 (土)

ドストエフスキーの生まれは私より一つ下?

朝7時半気温7度、新聞を取りに、外に出た途端小雨が降り始める。
10時には日が照る。おかしな天気のようだ。

家内に勧められて,膝に買い置きの温灸を昨日から当て始めた。小1時間かかるのでいくらかそちらでつかれる。
効いたか効かないか一日や二日ではわからない。
良くなりそうな感じはまるでない。

今昔世界を風靡したビ-トルズの音楽が録音されているので,それを聞きながら温灸をつづける。
三十数年前の録音だからやはり古いなあと感慨新た。音がなんとも幼稚だ。

今朝早くから家内がドストエフスキーは私より1年後に生まれたと雑誌に書いてあったよという。そんな馬鹿な、一笑にふしたのだが、私に確信はない。
とうとう家内がそれが書いてある雑誌”てんとう虫”を持って来て私に突きつける。
なるほど1921年(大正10年)11月11日生まれと記載してある。まいったなーとパソコンに向かう。
調べると1821年の11月11日生まれとなっている。丁度百年違う訳。
作者の勘違いだが、大正10年が余分だった。一字違いですんだものを。
ドスとエフスキーは59歳で死んだとあるが、名作を数多く残し,私の青年時代を啓発してくれた。私と寿命を代わってあげたいくらいだ。間もなく2百年になるが、日本では文政時代で文化撩乱を極めた時代だ。ロシアでも同じだったのか。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その143)

ここの住民の中に一人例外の男がいた。彼の名はマリーといい部落一番のインテリであった。彼は少年時代にラバウルに住んでいたそうである。大変利口な青年で年齢は30歳に近いように思われていた。
彼はラバウルで白人に使われていたといい、ここの部落にいた舟艇隊員にも気安く接近してきた。毎朝隊員が起きる時刻に、その宿舎の入り口には必ず椰子の実が2,3個置いてあった。そして木の実もすぐ飲める様に先端に穴が開けてあった。
数日経ってこの椰子の実は彼が持ってきてくれた事が判った。この椰子の実の外殻は頗る堅くナイフ等では簡単には穴が開けられない。銃剣を使っても同様で簡単には開けられないようだったので、彼の好意には感謝していた。朝の目覚めに夜霧で冷えた椰子の果汁が飲める事は、何にしても大変ありがたいことで、青臭い濃厚な味は隊員たちに生気を与えてくれた。

ある時このインテリ青年が次のような話をしてくれた。
この様な絶海の孤島に住んでいる住民にも他国人との交流があったという。何処の国の人かと尋ねたところそれはドイツ人やイギリス人だと。しかしアメリカ人は舟艇隊がこの島に上陸してからの話で初めて知ったという。このアメリカ人は悪い者だと思っているらしいが、これはこの島の住民に対してからでも弾をうつからだという。又イギリス人についてもよい印象は無いようだが、これは彼がラバウルでイギリス人の農園で10年働いたが、その報酬は斧一丁だけだったという。またある古老は「我々の先祖に対してイギリス人は悪い病気を注射した」ともいっていた。しかしこれは衛生上の注射をしてもらい、結果として病が治らなかったことの誤解かも知れないと吉田中尉は思った。というのは、この部落は一見して重い病気に罹っているものが多く、その特徴として目が悪い、皮膚病に罹っている者が矢鱈に多い事からである。

この部落の住民は相対的に身体の奇形、潜在的な欠陥者も多く、その殆どが潜在的な悪質患者で大体に短命のようであった。

結局白人特にドイツ人には深く感化を受けて、彼らは道徳的に戒律は厳しく自制心も強い。決して人の物には触らないし、また持ってゆくなど全くしない。そして男女の交際等は特に厳格で酋長に総ての権限があり些かの乱れも無いことは前に述べたとおりである。これに比してフィンシやツルブの住民たちは善良ではあったが、主要な舟艇基地であるブッシングの住民の躾は余り良くなかったと言える。

そして、ある時このマリーは次のような話をした。それは、以前この戦争前に日本の船が時々この島の沖に停泊し作業をしていたという。こんな地図にも載らない辺境の小さな島に何をしに来たのだろうと、隊員一同はこの話に興味を持った。
(つづく)
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2010年12月12日 (日)

パソコンの面白さ

朝6時目覚めて起きだす。ふとスキャナーのことで気づいたことがあるので、調べてみようと思ったのである。
私の癖で明け方よく変な思いつきが起こる。頭がぐっと冴えて来てもう寝てはおられない。
今日のは結局駄目だったが、時にはうまいこと行くこともある。

東京の娘のところからまたリンゴを一箱送ってくる。ありがたいことである。リンゴの木を信州の生産農家から買って,毎年もぎに出かけていたが,それは止めたと言っていたがそれとは違うらしい。包装がきちんとして業者のものである。
買っておくってくれたのであろう。
老夫婦ではとても食いきらんから、いずれ配り歩くことになるが、大きなリンゴだから、私の役目もやはり終わらない。

7時半気温1度と今日は少し寒いようだ。

相変わらず真夜中に膝が急に痛む。昨夜は突然痛みだし、あわてて手を添えると敏感に痛みが走る。そろそろと撫でているうちに治まる。神経痛といったものかもしれない。温灸のおかげはまだ見えないが、悪くはなっていないからいいとするか。
朝起きてから膝に触っても痛くもどうもない。歩いてもまあまあ楽である。
悪夢を見たような思いである。

昨日はPhotoshop Elements 6をこのMacMiniにインストールしたのだが、どうしても起動しない。
新しい9が売り出されているがそれでなくては,相性が悪くて駄目なのかなと思っていたが、ふと古い機械で0S10.5.8を使っていたのだから、出来ない筈はないと思い出し、Time Machineを使って、インストールし直すとなんでもなく動作するようになる。詳細はわからないが、ここらがコンピューターの面白いところかもしれない。
同じ手を使ってスキャナーをと今朝思ったのだがこちらは駄目だった。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その144)

ここに来た船は60tから100tくらいの機帆船で、この島周辺で棲息していた大きな貝を採取し、その貝殻を工芸細工の原料として日本に送っていたという。この船は来島すると2週間ぐらい停泊して貝殻の採取をしていたそうだ。彼はこの船の日本人が残して行ったという手鏡を酋長が持っているという。
そこで早速酋長に連絡してそれを見せてくれるよう頼んだ。酋長は滅多に人に見せたことはないがと言いながら、手篭の中から大事そうに取り出して見せてくれた。
この鏡は煙草のピースの箱大の大きさで裏面の塗料は剥げその鏡の写りは良くなかった。酋長はこの鏡と一緒に古びたぼろぼろの手帳を見せた。2,3枚めくると日本語のサインがあった。菊池某と書き住所も書いてあったようだったが、今は菊池という姓のみ記憶に残っていると。この鏡と手帳はこの船の船長からもらったものだというが、これがその時代が何時ごろの事か判らなかった。が、手帳の状態からしてそんなに遠い昔ではないようであった。この青年船長はその後数回この島にやってきたそうである。

ところが驚いた事にはこの菊池青年は酋長の娘を嫁にと求め、酋長もこれを了承して彼の娘はこの青年と共に船に乗って島を去って行ったそうである。その後今日まで再びこの船はこの島にやってこないというが、これはこの戦争のせいであろう。
酋長がその鏡と手帳を大事に持っている訳はこれでよく判った。そしてこの菊池某の話はそれから40年経った今日まで続いていた。

この菊池青年と酋長の娘とが一緒になったのは、おそらく昭和10年に入ってからであろう。そうすれば彼は現在70歳前後であり、若い孫もいるものと推察される。
吉田氏の話では、戦後20年余経ったころ小説家阿川弘之氏がその著書の中にラバウルで菊池と名乗る混血児にあったということが書いてあった。阿川氏はその当時伝記「山本五十六」の執筆が終わり、この自分が書いた事柄を確認する為に現地ソロモン群島のブーゲンビル島ブイン西方面にまで足を伸ばし、途中ラバウルに立ち寄ったのである。阿川氏のこの記録を読んで深く思い当たる思いであったという。

それは、昭和18年7月サカール島に上陸し、この菊池某の話を聞いた時の事が鮮やかに思い出され、それは昨日の出来事のようであったと。今日なお菊池某の恐らく孫であろうか、元気に活躍しているのだろうと考え感無量の思いがしたという。
(つづく)
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2010年12月14日 (火)

古いエプソンスキャナー

一応雨は上がったが,雲はまだ空の半分を覆っている。
7時半気温10度。昨日よりは暖かそうだ。

昨夕はエプソンとスキャナーのことで直接3度もやりあった。最後は40分ぐらいになったろうか。
結局新しい機械では起動させることは出来なかった。
エプソンはネット上では新しいマックのOSX10.6に対応していますと公言しているが、少なくとも私のマックではどうやっても起動するところまでは行かなかった。
電話を切っても何度も試してみたがやはりだめだった。
アンインストールしてはインストールを5、6度繰り返したから,10時頃までかかった。もう万策尽きた。
先方の検討にまかす以外にはない。

家内のお供をしてアルクまで出かける。先に食事を済ませて,買い物。
私もデオデオを一巡りする。今日は買うものなし。
帰路灯油を買いにガソリンスタンドに立寄りセルフサービスだから,家内も手伝うことになる。
公民館にも火災報知器を取りによったが、こちらは日にちが早すぎた。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その145)

その後20年も経った秋、吉田氏はソロモン方面に旅行する機会があり、往路ラバウルに一泊した際、同行した知人の友人である商事会社のラバウル所長で高橋という人に面接することが出来た。この人は体格の良い山口県防府市の出身で、このラバウルに10年近く勤務していた。聞くところによるとパプア・ニューギニア共和国の大統領とも親しい間柄だといい、このラバウルの名士でもあった。
彼に市内を案内してもらった際にふと菊池某のことを思い出し「菊池という混血児はおりませんか」と尋ねた。即座に「いますよ、有名な男です」との返事が返って来た。
そこで実はと戦時中のサカール島での一件の話を持ち出したところ、高橋氏は彼の他に菊池姓の者は居ませんので、恐らく彼はあなたの言われる菊池某の子孫だろうととの返事だった。吉田氏はその日にラバウルを発つ予定だったので、この菊池青年と会うことが出来なかったのは至極残念だったという。

さて酋長は隊の13人に住居2軒を提供してくれたが、この家は簡素で何らの造作らしいものはなく引越しは至極簡単であった。引越しの際の荷物は各人の手提げバッグくらいのもで他には何もなかった。

この住居は柱も床も総て丸太で作られており、屋根と壁は椰子の葉で編んだものを張っているだけなので、その作りは至極簡単で簡素なものであった。

ダンピール海峡を挟んだ地域の現地住民所謂土着の人は、カナカ族という海洋民族であった。ニューギニア島の山地種族と異なり、性質は温和で従順であるが、当時は現在の生活と違って、全く原始的な粗末な生活を営んでいたようだ。
当時の彼らの家は極簡単な者で、4本の丸太の柱で家を支え、その床は半裁した丸太を敷き並べているだけで隙間だらけである。そして柱と土台、床の丸太と根太等を結ぶものはすべて蔦の種類を使い、金具類は全く使われていない。床の上を歩くとごろごろと床の丸太が動く。その隙間から床下を覗くと子豚がうろちょろしているのが見える。どの家も床は高床で地面から1m半くらい上げられていた。これは湿気を避けることのほかに外部からの侵入を防ぐためでもあった。

この地方では、鰐以外には猛獣、毒蛇の類は棲息して居らず、その鰐も海岸沿いの川筋か湿地に棲息しているだけで部落に近寄ってくることは無いようであった。
この様に自然条件に恵まれているので、現在では世界最後の「魅力ある自然体の楽天地とか楽園」と称して広く世界に宣伝されている所になっているらしい。
(つづく)
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2010年12月15日 (水)

年賀状の準備

今朝はちょっと寒い。気温3度。
予報では7度が最高とあったから、終日寒そうだが、幸い時折日が射して部屋の中はまあまあである。
朝早くは珍しく霧もなく,沖合の島々がすぐ眼前に映った。滅多にないことである。

今朝から昨日送って来たtime machine用の2TBのハードディスクを初期化するのに,18時間かかると表示が出て,目下作業中である。午後3時現在まだ残り11時間と出ている。運転を止める訳に行かない。
寝たり起きたり,音楽をかけ流して,老人には丁度向いている。

今年は親戚や身近いものには,妹の事故死もあって喪中欠礼のはがきを先月出したあるので,年賀状を出すのは遠方の知人など30名ばかりである。いつでも書けるからとゆっくりしていたら師走ももう中程になってしまった。
なんて書こうかなと思っても,いつものように愉快な気分ではないし、心にもないことを書いてもと、迎春に、まだ生きながらえていることだけを告げることにした。
林君や林田さんのように,何十年経っても未だに懐かしがって,今年もわざわざ訪ねてくれたように、気遣ってくれている人もいるのだから、仇やおろそかには出来ない。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その146)

床に座って天井を見上げると、ニッパ椰子の葉で葺いた屋根の隙間からチラチラと青空が透いて見える。そして雨が降るときには屋根に葺いた椰子の葉が雨水を含んで広がって隙間を塞いでしまうので、当初心配したように雨が振り込むことはなかった。周りの壁の部分も屋根と同様な造りで椰子の葉を編んだもので囲ってあり、至極風通しがよく部屋はさらさらと乾燥していた。

彼らの家は自然とよく調和し順応しているが家の中は少し薄暗い。しかし彼らは読書するでなし、また縫い物等もしない生活にはこれで十分、別段不自由は無いはずだ。家の出入りには梯子が取り付けてあり、家の中はがらんどうであるが不自由は全く無いようだ。恐らく何百年前から変わることなくこの様な暮らしが続いてきたのだろう。

更にここの住民は誰も衣類は殆ど着けていない。女は僅かに腰蓑を纏い、男は性器を覆うカップ状の半円筒形の筒をかぶせ腰周りに紐で固定している程度と、全く裸だといっていい姿である。

次に住民同士の関係で私有権については頗る厳しいものがあった。ちょっと前に触れたが椰子の木、豚、鶏その他総ての物個々の所有権が決められており、他人の物には絶対に手は付けない。日常の生活で仲間同士のいざこざ、結婚、部落の行事や他の部落との争い等々、一切のことについてはナンバーワンの酋長が取り仕切る権限を持っている。
特に結婚については男女が互いに好きあっていても勝手に結婚することはできない。この部落には未婚の男子はボーイクラブ、女子はメリークラブにと別れて生活をさせられ、この男女の戒律は厳格であり酋長をさしおいて勝手なことは出来ないこととなっていた。

そして結婚した後の夫婦の営みは家の中ではなく、昼は密林の中で夜は海辺の人目につかない所だという。この姓の道徳や善悪の区別は,かってのドイツ人の宣教師に徹底的に教育されたという・

笑い話になるが当時隊員がドラム缶で風呂を作って交互に湯浴みしていると酋長が難しい顔してやって来た。彼が言うには部落内をフリチンで歩くのはやめてくれと。
隊員たちは何とも思っていなかったが言われてみればここの戒律では許されないことであり、早速取りやめるよう申し合わせた。(つづく)
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2010年12月17日 (金)

年賀状に三春の老桜を

朝気温1度、終日ほとんど日が射すことなく寒い。
家に籠って、僅かばかりの年賀状を仕上げる。
予定通り30通を少し超えた程度。
はがきに載せた写真は4月に行った満開の樹齢千年の「三春の滝桜」の雪中景色。
人生を終わるにふさわしい風景かも知れないと、年賀状に仕立てた。

昨日テレビで見た小野田少尉の健在ぶりに驚嘆した。ああはなれない。
私より2歳下、同世代のがんばりを見ると心地よい。
昭和の傑物として後世に残したい。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その147)

次に食べ物の話になるが殆どの者が回教徒であるスンダ、アラフラ海周辺の住民が回教の戒律に従って角の無い豚、猪類は食べない。しかしニューギニア島周辺の住民にとっては,豚や猪などは貴重な蛋白源で豚を飼育し、野猪狩りをしてその肉を常に食べている。そして、彼らはこれらの豚類を食に供する前に、そのとさつに先立って必ずお祈りを捧げる。

海岸の広場に沢山の石塊が2m幅に敷き詰められ。、その上に流木の枯れ枝を山と積み上げる。豚が棒に括られ担がれてこの広場に到着すると、薪の両側に立ててある三叉の棒に括った豚の棒を掛け渡す。
おもむろに2,3人の者を従えた酋長がやって来て、架けられた豚に向かって暫く何事か祈っていたが、一言大声を発すると吊るした豚の前に立っていた青年が、先端を斜めに削いだ竹槍で掛け声諸共に豚の喉元を突き刺して殺す。溢れ出てくる豚の血は大きな椀に受け入れる。この椀の血が一杯になると先ず酋長の所に運ばれ、彼はこの椀を恭しく捧げゴクゴクと満足そうに飲む。椀はナッバーツウににまわされ次は周りにいる人々に順々に飲みまわされて行く。

この後つりさげられていた豚は燃え上がる炎に炙られ、棒を回しながら豚の毛を焼き丸ごとに豚の肉を焼き上げると、地面の焼けた石の上に降ろされる。吊るされたいた豚は真っ黒に焼きあがり、ここに豚の丸焼きが出来上がったのである。

すぐ焼き豚の棒は外され薪の燃え残りを外にかき出した後、その焼けた石の上に置かれた。暫くすると3,4人の住民が手に手に刀を持ってこの焼き豚を囲み、彼らはこの刀で見る見るうちに皮を剥き中の臓物を取り除いた。そしてこの豚の皮と骨が手際よく外され、また背中にあった白い分厚い脂肪も綺麗に剥ぎ取られ別の器に入れられた。
燃えきった薪の灰が落とされた後に、熱せられた石がころころと現れてきたので、その上に適当の大きさに切り分けられた豚が載せられると、じゅうじゅうと脂が溶けて肉の焼ける音がする。食欲をそそる焼肉の香りがあたりに溢れれてくる。酋長とナンバーツウの二人は部落の者全員に、更に細かく切り分けて与えた。特に子供たちは酋長から貰った肉を手にかざしながら嬉々として声を上げつつ方々に散って行った。女性たちも恥ずかしそうにその場にしゃがみこんで食べていた。

この様にして当夜のお祭り前景気は高揚していったのである。暫くするとあんなに賑やかだった広場も静まりかえってもう誰の姿も見えなく、その跡には僅かに焼いた石塊の余燼がたっているだけだった。(つづく)
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2010年12月18日 (土)

鳴門の金時

朝6時に起きだしてパソコンに向かう。
Rosettaのこともう一度調べたくなったからである。
辞書で調べてみると、「intel ベースの Macintosh コンピュータに付属の、PowerPC アプリケーションを実行可能にするソフトウェアです。」とある。
もう一度ディスクからインストールしてみて、改めてどこに入ったか調べてみたが、アプリケーションは勿論機能拡張にも,フレームワークにも、どこにも見当たらない。
インストールログを見てもそれらしいものすら見当たらない。OSの骨肉とでもなったというのであろうか、お手上げである。

辞書の長々とした説明を読んでも,powerPCの変換機能であることぐらいしかわからない。
やはり私ごときの手に負えるものではない。
朝早くからひと勉強させてもらった。

もう午前7時を回った。

朝食のパンの後、娘が送ってくれた鳴門の金時をストーブにかける。まだるっこくて焼き上がるのを待っておれない。途中からチンする。
やはりおいしい。栗よりも甘くおいしい。腹は満腹。ひと寝入りせざるを得ない。

小沢征爾がカーネギーホールでタクトなしの手を振ったとある。病から復帰した訳だが、まるで骨と皮だけの姿は痛々しい。音楽がどうのと言うより心配が先立つ。私も草莽の中の一ファンだからな。

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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その148)

日が落ち月が出てきた。赤道直下の月は日本で見る月に比べて、随分と大きく見える。人の話では、この月は見るところ、場所によって大きさが違って見えるという。
吉田中尉も今まで各地を転々として確かに場所を変われば大きさも変わって見えることを思い出した。確かに日本で見た月はお盆のようで、この赤道の月は樽のようにおおきくみえたのである。

さて、この満月と焼き豚と祭りとの取り合わせはと期待して待っていた。部落の住民たちは辺りが薄暗くなってくると、三々五々とこの広場に集まって来た。
中央の酋長たちだろう2,3人のリーダーらしい者を囲んで、円陣を作り静かに踊り始めた。隊員たちは戦闘的な激しい踊りだろうと思っていたが、意外に静かで勇ましい踊りではなかった。これは今までこの島のカナカ族は多種族と戦った歴史は全く無いので、従ってここの踊りが激しく戦闘的でないのであろうと思った。

その後ツルブとの交信が出来るようになり、ツルブから後藤少尉が大発動艇2隻で迎えにやって来た。20数日振りにこの島を出られることとなった。

7月29日のラバウルからの駆逐艦による上陸作戦のことは既に記した所であるが、ツルブに帰還した後は引き続いて大発艇によってこの部隊の海峡横断輸送を継続して行っていたが、昭和18年8月上旬、吉田中尉以下の隊員の所属する第8連隊は船舶工兵第9連隊と交代することとなった。

この船舶工兵第8連隊は第81号ラエ上陸作戦以来消耗が激しく新しく到来した気鋭の連隊と交替する事となった。8月以降吉田中尉の率いる第3中隊もラエ、フィンシ基地等にいた舟艇分隊を逐次海峡を越えてニューブリテン島側の基地ブッシング,及びツルブに引揚げることとなった。(つづく)
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2010年12月19日 (日)

ニューギニア戦記を終わる

朝から快晴7時の気温2度とまあまあ。沖合はうっすらと霧がかかる。大黒神島あたりは見えない。
絶好の歳末日和と言えよう。

2年間に亘って、私のブログに生彩を与えてくれたニューギニア戦記の掲載を本日分で終了する。
故吉田武中尉は果たして満足してくれただろうか。心残りの点もあるが、もはや問うすべはない。
編集者の今田勇君にはまた今年も同窓会で会えるだろうから,記録を持参して無事完結の喜びを分かち合うつもりである。

戦争はもう遠い過去に行ってしまった。経験した私自身でも記憶は定かではない。
非経験者が大多数となった国民に何を言っても始まらない。ただ善悪は別として、歴史として残ることは間違いない。
戦争抑止力は原爆だけではない。人間の心にある。悲惨さを忘れ,利害にうつつを抜かせばいつ又発生するか予断は許さない。
学ぶべきはやはり歴史以外にない。歴史は繰り返すことを夢忘れるなかれである。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その149)

吉田中隊長は内地の陸軍科学学校に半年間勤務するよう命令を受けたので、9月上旬ツルブに不時着した陸軍の飛行機に便乗してラバウルに飛んだ。
そして、その後9月4日第3中隊副中隊長寺田実(島根県出身)中尉が指揮して、第51師団の最後の部隊を、大発艇に乗せてダンピール海峡を越え、ツルブへと撤退した。その後は逐次舟艇を使ってラバウルに集結して、陸上部隊に編入替えされて終戦を迎えた。

吉田中尉のいた船舶工兵部隊は僅か半年余の間に、640名に及ぶ戦死者を出したが、その殆どの者がダンピール海峡を中心とした海上で戦死した者であった。
吉田中尉にとってこのダンピール海峡の名は忘れることが出来ないもので、言い換えるならばこの部隊はこのダンピール海峡で全滅したと言って過言ではない。
瞼を閉じると戦死した戦友の顔が瞼に浮かんで、その度に心から冥福を祈っているという。(おわり)
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2010年12月20日 (月)

火災報知器

朝は降り止んだ残跡が残って,庭先は濡れそぼっている。
気温8度。
10時頃には晴れ上がって好天気になる。
相変わらず音楽テープの整理に忙しい。
ポリーニのピアノにベームーウイーン・フィルの演奏のベートーベンの皇帝がが美しく流れる。
昭和55年2月22日NHKFMより収録とある。丁度30年前の収録である。
収録したコンポーネントはもうない。テープだけだ健在だが、これも後数日間で姿を消すことになる。
まだ3百個くらい残っている。
心残りするほど綺麗に録音されている。おそらく取りっぱなしで再聴したこともないのではと思われる。録音に忙しく連日連夜熱中していた時期だったから。

昼過ぎ来年から取り付けが義務づけられたという火災報知器を4カ所取り付けてもらう。
まだそれほどぼけてはいないと思うが,用心するに超したことはない。
二人来てあっというまに終わる。

私はとうとう終日音楽カセットのコピーで終わる。
火災報知器を取り付けに来た人も部屋を覗いて驚いている。

夕食を終わると1987年5月の惑星にかかる。雄大なメロディがなつかしい。

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2010年12月22日 (水)

ガス給湯器更新

今日は予定通りガス会社がやって来て,給湯器の付け替えを始める。
雨が上がって,暖かくなり作業はしやすい。

しかし思った以上の大工事だった。終わったのは5時近く,雲が出て来たのでもう夕闇が漂う始末、あいにくと今日は冬至でもあった。
寒さはまあまあだったから見るものにはよかったが。
20万円は高いのか安かったか。随分電子化されてるので、あまり老人向きではなさそうだが,なれれば今度は手軽すぎて考えなくなり、他では使い物にならない人間になるだろうな。

丁度古い機械が昨夜から湯が出なくなっていたので、タイミングはまことによかった。

Toast 10の具合がよくない。せっかくのたくさんの音楽テープがDVD化出きない。途中でやめてしまう。
前回までは何でもなく出来たのにどうしてだろう。
古いパソコンに移してやってるが,今度は時間がかかりすぎる。TOAST 8 だから仕方がないか。
まあ気長にやろう。こんなに能力差があるのか,思い知らされる。

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2010年12月25日 (土)

年末往来繁忙


昨日は久しぶりに映画を見に行く。
”最後の忠臣蔵”という池宮彰一郎の同名の小説の映画化したものだが、まあまあよかったかな。
小説は実在の寺坂吉右衛門に焦点のあたったものだが,映画は架空の瀬尾孫左衛門が主役だった。
まあどちらでもいいことだが、後世の美談も当時は大犯罪の片割れだから当然暮らしにくかったであろうということだ。
美談化して打って変わる人間感情、いつの世も変わりはない。その逆の場合も多い。
だから浮き世ということだろう。

洗濯機が水盛りが激しくもう駄目だと家内があきらめる。
デオデオに今日行って見るという。
老いて駄目になるのは人間ばかりではない。
給湯設備を直したと思ったらこん度は洗濯機である。
電子レンジももう更改時期に来ている。冷蔵庫もどうだろう。我が家も大変だな。

洗濯機はデオデオに行って、注文する。30日の取り付けになるとのこと。慌ただしい年の暮れとなる。
今朝0度だったが依然気温は上がらない。一番寒い日となった。

午後一寝入りして起きてみると,芳邦さんが来ている。野菜をたくさん届けてくれる。年末年始用という訳。
親切にいつもながらの彼の心づくしである。
彼も体調が少し悪いらしい。18年下だが、もう老年期に入っているのだから、用心してほしい。
それにしても私はもう人に気遣われるばかりとなった昨今ではある。

昼に外食したナンは大きくておいしかった。食べ残したが、惜しくなって持って帰った。おやつに今度はカレーなしで食べてみたがやはりおいしかった。少し食い意地汚くなったかな。

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2010年12月26日 (日)

白髪三千丈

昨夜は音楽テープのダビンングのせいで明け方まで寝たり起きたりしたので、朝の起床が8時を過ぎて家内に起こされてしまう。
やっぱりカセットテープからの再録は雑音が多く入って,テープだけで聞くよりよほど音質が悪くなるようだ。

昨日は私のブログにコメントが入っていて、新京の地図が自分の持っている康徳8年製の地図の方が新しいといってきている。変だな確か康徳7年製と記載があったがと,取り出して調べてみる。
間違いない。実際に住んだものとしての感じも不具合はない。ただ言われた通り,電車かバスかの路線表示が赤線でついている。バスは乗ったことがなかったから知らないが,電車は走っていなかった。
電車線とすれば彼が言うように明らかにおかしい。
赤線は明らかに後で付け加えたものだ。
古い地図に赤線を入れて、複製しそのまま後世も利用したものだろうか。大体がおおまかな白髪三千丈の国民性の国だから,真実がどこにあるか知る由もない。
コメントには早速返事を入れておく。
彼は康徳8年の地図を持っていて,赤線の書き入れがないらしい。
どちらもその通りだから今更どうしようもない。

兵隊のとき武漢から三百キロぐらい南方の山奥で,河川補修をしていたとき、土地の子供と仲良くなって、海の話をしてやっていた。クジラの話をして、その大きさを身振り手振りで話をすると一斉にげらげら笑い出して本当にしてくれない。海を見たことない子供たちには、海の大きさもクジラも単なる想像の世界である。
白髪三千丈はなれっこの彼らである。とうとう議論負けして、しまったことがあった。
彼の国のことは何事も信じ込んではいけないとずーっと思っています。

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2010年12月30日 (木)

中国マネー北海道の森林を買い漁るとか

朝の気温2度。ときどき小雨がちらつく。灯油を買っておかなくてはとガソリンスタンドに出かける。
やはり車の波。考えることは皆同じなんだな。

昼少し前デオデオから洗濯機が届く。今度のは一回り小さくかわいらしい。洗濯容量は5キロと今までと変わらない。
値段は前のより半値に近い。値下がりしたのか物が悪いのか,よくわからない。
二人のよごれものを処理するだけだから,たいした違いはないだろうが。

昨日の新聞に進駐軍が姫小島で爆薬処理をする爆音が喧しいと付近の海を挟んだ地域の市民が市役所に苦情を申し込んだと出ている。
やれ飛行機の音がやかましいとか、今度は爆薬処理の音がやかましいという。
どんな耳を持ってるのかと疑う。
私は雷の方がよほどやかましく怖い。自動車の音も連なるとたまらない。苦情を言ったって仕方がないし、言って行くところもない。

誇大に言い立てれば金になる世の中だから、その底に見え隠れする魂胆が憎い。
先程のテレビでは中国マネーが日本の森林を買い漁っているという。
こそこそとこまかいことを言わないで、もう少し大きなところに目を付けなければ日本はもたないよ。

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2010年12月31日 (金)

我が身も木々の枯れ行くごとく

昨夕羽田さん宛の年賀状が早くも返されて来た。
「配達準備中に調査したとろあて所に尋ねあたりません」と赤いゴム印が押してある。同じ小学校の同級生である。
百貨店をやったとき随分協力してもらったのだが、家を払って老人ホームへでも入ったのかな。
もう仲間が2,3人となったので生死はお互いに不明で、知り様がない。わびしいなー。

午前7時半気温-1.5度,始めて零下に下る。
二度目の雪化粧、テレビで告げるほどの大雪ではない。もっとも山間部に入れば数十センチも積もっているのだろうが、海岸近くではいつもあまり積もることはない。

正月用品を家内と買いに出る。道路は車が混雑する。スーパーの店内は人で大混雑。ついてあるくのに閉口する。
嫌だけど,今日ばかりは仕方がない。

やっとこさ、越年出来そうだが、親しかった友人を数多く失った今年は自然現象だと割り切ってはいるつもりだが,やはり心に割れ目が出来たようで落ち着かない。
生き残っても必ずしも幸せな日々が待っているとも思われず、既倒を挽回する力などどこにもない。
ただもう早く、木々の枯れるがごとく散って行きたい。

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