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2010年11月 9日 (火)

練習機での特攻

白雲はたなびくも先ずは好天気。朝気温10度と寒からず。やや風強し。
柔らかな日射しが部屋に射し込み気分爽快。
丁度今カラヤンのベルリンフィル演奏でベルリオーズの幻想交響曲がたくましくFM放送で流れ出ている。
狂気の音楽とも言われるが,凡人の私にはただ楽しく愉快に聞こえる。

今月号の文芸春秋に「九十歳の兵士たち」の最終回が載せられている。毎回興趣深く読ませてもらった。同年世代の物語だから,単なる昔話ではない。今回は特攻戦艦大和の生き残り兵士の実録である。昭和二十年四月七日沈没。戦死者三千五十六人、そして生き残った二百七十六人のうちのまだ生存している人たちの証言である。
生々しいことこれ以上のものは無い。

私には10月号の「特攻」の横山二飛曹の証言は衝撃だった。青木少尉とともに練習機に乗っての特攻だった。
敵に翼をやられて撃墜され、二つの250kg爆弾が自爆装置の故障か海中突入時自爆しなかった。敵艦に釣り上げられ捕虜となって昭和21年正月生還した。しかし既に戸籍は抹消され,戦死者からの復員だった。
軍は練習機まで使って,特攻のテストを行った。よたよたと飛んで敵に突っ込めると判断したのだろうか。
見殺しにされた哀れな兵士たち。
見せしめのために神が生き残した兵士たちだとしか思えない。
世のあざけりの中で肩身狭く今日まで生きてきた、まことの忠君愛国の兵士たち,涙無くして語れるものか。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その120)

中隊長の指揮する範囲が300kmに及ぶということは、あらゆる指揮、管理、補給の面で困難な事柄が出てくる。通信と連絡は無線で行うが、これは大発艇の行き帰りの便で夫々行うことになる。前線では兵員が少ない上に消耗が激しいのであるから少人数ですべてのことを果たすのは容易ではない。その上に状況の変化に応じて絶えず中隊本部の位置を移動しなければならないことも加わる。上陸後1ヶ月はラエに、その後4月から5月はフィンシのプブイ河に、海峡横断が重要となってきた5月から8月までは対岸のニューブリテン島のブッシング基地に、最後に船舶工兵連隊がこの島での任務を交替することになった時はツルブに中隊本部を移す等と激しく移動をした。

この半年の間には多くの戦死者を出したが、この舟艇隊では海を隔てて各艇が、ばらばらに行動しているのでその連絡、始末等はなかなか難しかった。常にこの舟艇は他の部隊が何時も集団で行動していることを羨ましく思っていたものだ。
また隊員の補充は現地からのみであったが、元からの隊員だった者には新しく隊員となった者との接触が少なく、意思の疎通が悪かったことは心さびしい事であった。(つづく)
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