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2010年11月 1日 (月)

人生紆余曲折あって当たり前

11月1日(月)晴れたり曇ったり
気温14度と昨朝より1度低い。
10時過ぎ家内が三島歯科に行くというので、つれて行く。
20分足らずで終わり、帰路スーパーによる。
今回で歯の治療は一応終わる。

昨日の千代の話では、その長女が大学を中退することにしたという。
体調が芳しくないらしい。元気で明るい子だったのに残念でたまらない。
人生は長いのだから、健康を取り戻したら復学の道も開けるだろう。本人が時間をかけて決めたことだから、とりあえずは仕方が無いな。

私の一生を眺めてみても、紆余曲折は甚だしい。学歴こそすらっといってるけど、その後の人生はもの凄い乱高下の繰り返しである。本人の意思なんかまるで関係がない。
これが人生というものだろう。
とにもかくにも90歳まで元気で生きてるのだから文句の言いようは無い。

過去はもういい、明日からが長いのだから、前をしっかり見定めて歩き直してほしい。
テレビなどで見かける障害児などの凄まじい苦闘の人生などみたら、物の数ではないと思うべきである。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その117)

上流に飛び去った敵機は反転して下流から再び攻撃を仕掛けてきた。ふと、崖下を見下ろすと艇に八木軍医少尉の姿が見えた。大声で「昇れ、昇れ」と呼びかけたが応答が無い。皆で夫々に大声で叫んだが彼はどうしても葛本上等兵のそばを離れなかった。敵機は退散し一同は艇に降りていった。軍医は無事で掠り傷一つ受けていなかったが、後々彼は患者に夢中で恐怖等殆ど無かったともいっていた。

次に話は変わるがこれは4月の中旬のことであった。前にも一寸触れたと思うがプブイ河沿いの舟艇秘匿基地の上空を南行する飛行機の大編隊を見た。高度約6000m位の上空を飛行していた。これは日本軍の飛行機だと直感したが、誰もが同じように日本の飛行機に違いないと言って喜んだ。
このニューギニア島に渡った当初ラエに海軍の零戦闘機が駐留していたが、間もなく移動したらしく今は友軍機は全く見られなくなった。みんな狂喜して上空を飛んでゆく友軍機を仰ぎ見た。十数機ごとに編隊を組んだ集団は続々とポートモレスビー方面に向かい飛んでいった。
隊員一同は久しぶりに日本の飛行機の姿に接し、明るく弾んだ気持ちになった。
(つづく)
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2010年11月 4日 (木)

楽しかった鳥取旅行

ここは山陽、天気がほんとにいいなあ。
山陰二日の旅行で思い知る。
朝8時というのに気温は6度だったが風もないし、ぶらぶらしてる間にかんかん照りの日光に窓の外は20度近くを寒暖計が表示している。

書く暇のなかった日記を大急ぎで書き加える。
婿の好意でせっかく楽しい旅が出来たのに、書き残さないわけにはゆかない。

しかし疲れと痛さが全身的で,挙措がままならない。
90歳というのはこういうことだなと新事実に直面する驚きの連続である。
千キロ近く車に揺すられ続けたことが原因で,歩いたのはごく僅かで合わせても2,3キロに過ぎないだろう。これが疲れの正体だから自分でも嫌になる。

今日は食事とこのブログを書いている以外ほとんど寝ている。
食うのも嫌な気分で文句たらたらで家内に怒られる。
一方家内もかなり疲れたらしく掃除も食事もやりたくないらしい。
我が家も困ったことになりそうで,風雲急を告げてるところかもしれない。

急いで二日間の思いで深い旅行記を書き記しておこう。
・・・11月2日(火)曇
朝8時、予定通り娘等が迎えにやってくる。
婿の運転する車で山陽高速道を一路山陰に向かう。
自分が運転しないのだから楽なものである。
鼻歌でも出そうな気持ちで車窓を眺める。
突然何故か古い昔の話などこの私が語り始める。皆があきれていることに気づいて止める。
自動車は七塚原ICで小休止。
いつの間にか米子道に入って、湯原ICで高速を降りる。
蒜山高原をあちらこちらと、娘等夫婦が何かいろいろしゃべりながら、車は右往左往徘徊を続ける。

やがて”風の家”とかいう道の駅に車を止める。
何か少し買い物をしたらしく、休憩を終えるとまたさまよい始める。
昼だからととある食事どころに入る。はやっている店らしく、来客がいっぱいでしばらく待たされる。
こんな山の中にも大したところがあるものだと驚く。
車窓から眺めてもこの辺りの様子が二十年前とはすっかり変わっている。
開発の仕方もいろいろあるものだなあと、改めて感慨一入。

関金温泉というところで狭い道筋に入り込み、婿が突然温泉に入ると行ってタオルを下げて車を降りて行く。口数の少ない婿だから、予告はむろん無い。私たちは置いてけぼりで仕方なくそこいらをぶらつく。
ここが泉源だそうで、近くにお宮がある。開湯は1200年前の養老年間と言われる古い白金のような清冽な温泉だそうである。
10分ぐらいして帰ってきて、一人だったと言ってあまり満足してない様子。

倉吉に入る。街全体が観光指向となっているらしく、町の端の無料駐車場に車を置いて散策を始める。
最近ブームの地産地消にのって特産品などが並べられた蔵を改造した店らしいものが。赤瓦1号館から11号館まで並んでいる。
しばらくさまよい歩くが、さして関心を呼ぶものはない。最新の消防車が町中に止まって訓練しているとかに出くわす。そちらの方が場違いで面白い。

山道を登って三徳山というお寺の有名な国宝投入堂の見える場所を探す。
望遠鏡を置いてある場所が見つかる。私はカメラをズームして見ながら写す。間の抜けた姿だが仕方が無い。

ハワイ温泉につく。赤い橋一本で湖岸から突き出た一角にある大きなホテル”千年亭”に入る。最上階には劇場があったりして創業120年の変わった宿である。
婿がネットで見つけたのだそうだが、その通り露天風呂はさすが優秀だ。風呂からの眺めは山水の妙がなんともよい。四季いろいろの表情を示すだろうから、それを想像するとさらに好雅趣が浮かぶ。
むしろ、今が最悪の時節ともいえそうだ。それでも良かった。
・・・11月3日(水)晴れた曇ったり、時に小雨
程よく疲れて、温泉の湯でいやし、よく休む。
部屋からの眺めも良い。朝早くからしじみとりの小舟がエンジン音も高らかに東郷湖の湖面を走り回る。昨日から島の入り江に居着いたかのような鴨の群れがうろうろと漂っている。
時に餌かなにかばらまいているかのような人々の出入りが、側の小屋のあたりに見え隠れする。
5階の部屋の窓から飽かずに眺める。何とも優雅なひとときである。

”かろいち”という鮮魚市場につれて行かれる。
鳥取の漁港とは知ってたが、賀露港を初めて見た。その景観のすばらしさに改めて感心する。整然と着岸したイカ釣り船の数、今朝も打ち寄せる高波になんら影響されることの無い囲われた小さな漁港いや漁港としたら大きい方かもしれないが。

白兎神社に詣でる。お社より眼前に打ち寄せる高波の白い帯に驚く。
鳥取市内に入る。
鳥取城趾にある重要文化財の仁風閣に入る。明治時代に立てられた珍しい洋風建築である。

鳥取の旧藩主池田侯の一族の遺品写真などが展示されている。
城壁の一部がすぐ目の前に見えて、それとの対比が一番興味をひかれた。
都心部はお祭りかなにかで交通止めとなっており、寄り付き不能であった。
そうそうに立ち去り、智頭に向かう。

昔本陣だった大庄屋の石谷家住宅を見学する。
立派さといい、大きさといい、借景の備わった庭といい、今まで見た中では飛騨高山の代官所住宅と双璧だろう。
丹念に見てムービーカメラに撮る。
見学途中、観光協会の女性に捕まりインタビューを受ける。もちろん観光資料にするのであろう。

婿は距離は近いが津山への難所の黒尾峠を避けて、高速道完成まじかな佐用ICへの道を行き、中国高速道を一路広島に帰る。
6時前七塚原SAで夕食を食べ、7時過ぎには先に送ってもらって帰宅する。
婿一人の運転で連日4百キロ以上の長旅である、大変だったなあと感謝、感謝。
もちろん何の事故も無かって疲れよりも喜び以外に無い。
・・・・・・・
昨夜のこと___
寝床に入ってちょっと気になるサッカーをスポーツニュースで見て、中日ーロッテ戦が延長戦に入って、まだ続いているというアナウンスに驚いて、BS1にチャンネルを切り替える。
間もなくロッテが相手の外野手のもたつきに乗じてノーアウト2、3塁のチャンスを作る。
もう間違いなくさよならと思っていたらそれがそうでなかった。
勝負というものは不思議という他は無い。
大きな外野フライで3塁ランナーはホームインするかと思ったがしないのだなこれが。
中日は次の打者を敬遠して満塁とし、一か八か併殺する策に出た。
ピッチャはリリーフ2番手の高橋である。
どんぴしゃり策が的中するんだな、落合さん。打球がサードライナーと来た。
3塁手ははベース上でキャッチし、足の離れていたサードランナーは途端にアウト。

幸運は次の回に来る。ノーアウトでヒットで出たランナーを谷繁がバントで送る。前の時と同じ二死ニ塁と最後のチャンス。今度は前進守備をしていたロッテのセンターの頭上を越す同じ大島の大3塁打。
最後はリリーフ陣の良い中日に軍配は上がってしまった。

面白いというか、不思議というか、神様のなさることはやはり人間にはわからない。

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2010年11月 5日 (金)

シルバーの植木屋さんたち

朝8時、シルバー植木手入れの人たちがやってくる。
家内が先日頼んでいた人たちである。
私はまだ疲れがとれずに寝ていたのを起こされてやれやれである。

婿が鳥取の写真など大量に宅ファイル便で送って来る。写真が55枚、それに動画まである。
こまめによく撮ったなーと感心する。
それに昨日から仕事である。若い時はあんなものかなあ。随分昔になるから自分のことは忘れた。
私は送ってくれた写真をプリントするだけでも結構忙しい。

外では家内がシルバーさん相手にしゃべりながら仕事をさせている。急ににぎやかになった我が家ではある。
朝日がさんさんと部屋奥深く射し込み、時ならぬ天国のおもむき。
私にすることはなにもない。しかし身体はあちこち痛い、だるい。

植木の剪定は午後まで続く。シルバーといえどもよく働くなあ。
感心する。
もっとも私も76歳までは現役で働いたから,出来ないことは無い。大分鈍くはなったが。

婿の所に写真など十数枚、宅ファイル便で送っておく。
やっとその気になれる。
まだムービーの方は手がつかないが。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その118)

愈々日本軍の反撃が始まったぞとこの日は大編隊の話でもちきりになった。そしてある者はこれは友軍の大攻勢の前触れだろうとも言っていた。翌日もまた同じ様に大編隊がここの上空を通過して行ったが、喜んだのも束の間のことでその後は待てど暮らせど二度と友軍機の姿を見ることはなかった。

それでも「爆音」という警戒の言葉を聞く度に、或は友軍機ではないかと、淡い期待を抱いて空を仰いだが、その都度期待は裏切られ、敵機の銃撃を避けえるため地隙に逃げ込むのが落ちだった。

この日からかなり経った頃山本連合艦隊司令長官が戦死されたといううわさが流れた。これは我々にとってはやりきれない暗いニュースであった。

戦後公開戦史によって見るとそのとき見た大編隊は、この山本長官ソロモン群島のブーゲンビル島ブイン東方で戦死された事への、報復爆撃「い」号航空作戦であったことを知った。この攻撃は昭和18年4月7日から14日の間にラバウル航空基地を発進しておこなわれたもので、4日間に亘る大爆撃行であった。このうちの3回はニューギニア島の敵空軍基地であるポートモレスビー飛行場と更にのミルン湾海軍基地とラビ飛行場が攻撃の目標であった。私たちが狂喜してみた編隊がこの爆撃行であったわけで、これに参加した機数は248機と記録されている。ラバウルから敵飛行場までは370浬(やく700km)を長躯遠征したと書かれているた。おそらくこの方面での大規模な航空戦はこれが最後のものであったろうし、私たちがニューギニア島で見た最後のの日本軍の飛行機であったようだ。(つづく)
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2010年11月 8日 (月)

名古屋の憑き落ちたか

昨夜も中日ーロッテは7-7で延長戦、今度は12回ロッテの新人岡田の3塁打でけりがつく。昨日より1時間早く終わることが出来た。
それにしてもロッテは選手の粒がこつぶでもよくそろっていた感じ。
ただこのチームでアジアの首位を争う日韓戦はどうだかなあ。軸がいないのが気になる。
リーグ3位のチームでシリーズを制したぐらいで、偶々つきがあったとしか考えられないだけに、このつきがつづくかどうか。まああまり期待しない方がよさそうだ。

サッカーも首位の名古屋が鹿島に敗れ,又々分からなくなった。名古屋のつきが落ちたかな。こんなそろい踏みはいただけない。

菅さんも尖閣問題などで一挙に人気を落とし,支持率32%に急落と新聞のトップ記事。
予算審議もなかなか進まないし、日本丸は誠に難航だ。

今朝は霧が深い。JRもどこかで遅れが出たりしたとか報道されている。
朝7時半12度だったから、立冬のくせに暖かすぎるようだ。

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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その119)

 船舶工兵隊の舟艇中隊の行動範囲とニューブリテン島のブッシング基地

軍隊が行動するには組織が必要であり、それには指揮するための標準となる単位が必要とされてくる。言い換えると単位として小隊、中隊、大隊、そして連隊とに区分され、夫々指揮する単位には限界が決めてある。例えば中隊3ヶ小隊、小隊は4ヶ分隊、この分隊では13名という様に最も指揮しやすい単位に決めてある。
現地の船舶工兵連隊の中隊は総員303名で3乃至4ヶ小隊編成となり、この小隊は4ヶ分隊、そして各小隊には4乃至6隻の大発動艇を運行しうる能力を持っている。これは、その時の状態、状況によって異なってくるのはもちろんのことである。

第81号作戦が失敗に終わった後、舟艇隊はダンピール海峡を横断して兵員輸送をする任務で部隊編成を命じられた。その海峡渡航延べ距離は約300kmであった。この行程の中で重要な基地はラエ、フィンシ、ブッシング、ツルブの4ヶ所であった。いずれも基地要員として1ヶ分隊を置いて舟艇隊の舟艇等の運行についての通信連絡の任に就かした。現実にこれらの事は中隊としての指揮能力の限界を超えていた。それはここでの行動範囲が余りにも長大であったからである。仮にこの区間を判りやすい他の例に当てはめて見ると、ラエを柳井港とすれば、フィンシの基地は博多、対岸のブッシングは対馬、最後の基地ツルブは釜山ということになる。(つづく)
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2010年11月 9日 (火)

練習機での特攻

白雲はたなびくも先ずは好天気。朝気温10度と寒からず。やや風強し。
柔らかな日射しが部屋に射し込み気分爽快。
丁度今カラヤンのベルリンフィル演奏でベルリオーズの幻想交響曲がたくましくFM放送で流れ出ている。
狂気の音楽とも言われるが,凡人の私にはただ楽しく愉快に聞こえる。

今月号の文芸春秋に「九十歳の兵士たち」の最終回が載せられている。毎回興趣深く読ませてもらった。同年世代の物語だから,単なる昔話ではない。今回は特攻戦艦大和の生き残り兵士の実録である。昭和二十年四月七日沈没。戦死者三千五十六人、そして生き残った二百七十六人のうちのまだ生存している人たちの証言である。
生々しいことこれ以上のものは無い。

私には10月号の「特攻」の横山二飛曹の証言は衝撃だった。青木少尉とともに練習機に乗っての特攻だった。
敵に翼をやられて撃墜され、二つの250kg爆弾が自爆装置の故障か海中突入時自爆しなかった。敵艦に釣り上げられ捕虜となって昭和21年正月生還した。しかし既に戸籍は抹消され,戦死者からの復員だった。
軍は練習機まで使って,特攻のテストを行った。よたよたと飛んで敵に突っ込めると判断したのだろうか。
見殺しにされた哀れな兵士たち。
見せしめのために神が生き残した兵士たちだとしか思えない。
世のあざけりの中で肩身狭く今日まで生きてきた、まことの忠君愛国の兵士たち,涙無くして語れるものか。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その120)

中隊長の指揮する範囲が300kmに及ぶということは、あらゆる指揮、管理、補給の面で困難な事柄が出てくる。通信と連絡は無線で行うが、これは大発艇の行き帰りの便で夫々行うことになる。前線では兵員が少ない上に消耗が激しいのであるから少人数ですべてのことを果たすのは容易ではない。その上に状況の変化に応じて絶えず中隊本部の位置を移動しなければならないことも加わる。上陸後1ヶ月はラエに、その後4月から5月はフィンシのプブイ河に、海峡横断が重要となってきた5月から8月までは対岸のニューブリテン島のブッシング基地に、最後に船舶工兵連隊がこの島での任務を交替することになった時はツルブに中隊本部を移す等と激しく移動をした。

この半年の間には多くの戦死者を出したが、この舟艇隊では海を隔てて各艇が、ばらばらに行動しているのでその連絡、始末等はなかなか難しかった。常にこの舟艇は他の部隊が何時も集団で行動していることを羨ましく思っていたものだ。
また隊員の補充は現地からのみであったが、元からの隊員だった者には新しく隊員となった者との接触が少なく、意思の疎通が悪かったことは心さびしい事であった。(つづく)
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2010年11月10日 (水)

共産主義

朝7時気温10度、雲多し。
家内の誕生日、満82歳,正に冥土への一里塚である。もっとも私を越えてもらっては困るが。
リウマチの痛みが少し薄れたみたい。幸福な方だろう。しかしよく掃除をするなー。

尖閣映像流出事件で政府はまだ大騒ぎしている。くだらない!どうせ政府の弱腰に腹を立てた正義漢がやったことだろう。
国旗を燃やしたり,デモを企てたりするよりは余程効果的で、相手がどう思おうと毅然としておればよろしい。
事実を隠そうとしている方がおかしい。
人権を重んずるアメリカのグーグルが誰それですとすなおに明かす訳が無い。しかもルクセンブルグから発信したというではないか。

私は共産主義というのは理屈から言ってもいい考え方だなと昔から思っていた。郷土の先輩河上肇さんも唱えたことだし,共産党員の友人に共鳴して投票したこともあった。
しかしお隣の共産主義の国では君主とは言わないらしいが,最高権力者が世襲するらしい。
一方アメリカでは少数民族出身のオバマが現に大統領に選出されている。どちらが共産主義の理想に近いのだろう。
私は馬鹿だからよくわからないが、基本的な部分でどうも納得できない。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その121)

さて大発動艇でダンピール海峡を横断するには、前に言ったように気象がよく、エンジンが好調でも10時間はみておかなければならない。近いところでも100kmばかりあったので、ニューブリテン島側の舟艇基地としては、最も近い場所と思われるブッシング河流域を選んだ。
ラエ上陸以来ダンピール海峡横断のために両島の舟艇基地を探しこれを決めることが最大の急務であった。ラバウルで入手していた海図に頼って舟艇が安全に進出入できて、なお上空から遮蔽できる地点を探した。ニューギニア島側には海図で見ても最適な港湾が見られ、この近くのプブイ河の河口に適地があることが判った。が、しかしニューブリテン島側は全く不明であった。

5月10日前後だったか初めてラエを出てフィンシに向かい、未知のダンピール海峡を渡り海図を頼りに河のある場所に向かって航行した。ここニューブリテン島の南岸近くに沿いながら順次北上するうちに、かなり河口の広い河を見つけた。
この河は入り口がたいへんに浅く、艇が進入するために思わぬ程時間がかかった。屈折している河口をやっとのこと入るとそこは水深が深くなっており、しばらく行くと両岸は鬱蒼とした密林地帯でこの四周は千古斧鉞の別世界であった。(つづく)
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2010年11月12日 (金)

老いては童子と同じか

朝の気温10度に戻る。明け方に雨でも降ったか庭の木々はしっとりと露を置いている。
昨日予報で黄砂が珍しく日本の上空にやってくると放送していたが、そのせいか空はすっかり灰色に覆われ、太陽さんもぼんやりと柔らかな日射しを地上に投げかけている。

昨日も日記には書いたのだが,8年前購入したソフトが今のパソコンではOSが違うから読めないという。
拾ってみると随分あるようだ。一番パソコンに熱中した時期だから,今となっては無駄な買い物になってしまったが仕方が無い。時代の進化にはとても太刀打ちできない。
しばらく休んでいた囲碁もソフト3本取り出してみると、全部使い物にならない。
Amazonで新しいのを検索してみると、Windows用ばかりでMac用は1本もない。
もっとも今のMacはBootCampを使えばWindowsも読みこめるから,そうして使えということか。

ぽかぽかと午後になっても陽気は良い。ただし黄砂の影響はひどく美しい島々は全く見えない。
家内はどこかへ出かけてしまった。

一つのMacをOSのバージョンを一段階下げようといろいろやりかけたのだが、これが又うまく行かない。
いったん消去してやればいいだろうと思っていたが、それが簡単には行かない。
ソフトによったら、自分でun-install出来るようにしてあるのもあるのだが、皆ではないので選択が難しい。
時間のかかることだ。
戦場でも退却が一番難しいと言われていたが,パソコンでもそうか。

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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その122)

艇の速度をゆるめて2kmばかり遡って左の支流にはいった。川幅10m程度のこの支流は一歩ここに入ると上空は全く樹木に覆われて昼なお暗く、舟艇はすっぽりと木陰に隠れてしまい、基地としては全く申し分の無い場所だと思った。

この方面の河川は大抵河口が浅くなっており、隊で使用するきっすい1m程度の舟艇でさえ進入できない河が多かった。しかし一旦中に入るとクリークの様に水深が深くなって舟艇の航行には何ら差し支えなかった。

この支流から100mあまり上流に20戸ばかりの土着民の部落があった。この住民は聞くところではあまり性格が宜しくないと聞いていたので、彼らとの接触は出来るだけ避けることとした。この部落が海図に記載されていたブッシングであり、早速この河を舟艇の基地とすることに決めた。(つづく)
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2010年11月13日 (土)

パソコンOSのバージョンダウン

昨夜はパソコンのOS切り替えのため今朝の午前2時までかかった。
マックの新旧2台面倒だから一緒にやってしまう。
新しい方はOSX10.6.4をOSX10.6.3に、古い方はOSX!0.5.8をOSX!0.4とOS9.2にというわけである。
私の長年蓄積したファイルなどをこなすには仕方のない最善の方法と考えた。
おかげでもう1台のさらに古いiMacはやっとお払い箱になることになる。

使えるだけは使ってやりたいのだが、老体は私だけではなくて、動作は遅くもうこの辺りが限度といえる。よくぞあまりけがもなく尽くしてくれたと今となっては感謝感激である。

新しい方はBootCampで仕切って、Windows XPをいれることにして、最後の段階にまでは行ったのだが、用意したWindowsのエディションが合わず嫌われてしまって、未完成に終わってしまった。
BootCampのpartはそのままにしてあるので、適当なWindowsを買ってきてインストールするしかないと思っている。
別に急ぐことでもない。

午前2時になるとやはり老人には無理な時間帯である。体力知力もうわやくちゃになって、この複雑なコンピューターをしごけなどできない。それでもOSX10.5の方はうまくパソコンをだまして、OSX10.4+OS9.2に切り替えてしまった。
一世一代の大勝負だった。
凡そバージョンダウンなど、メーカーは考えていないだろうし、やられても困る訳だろう。
参考文献などどこにもない。多年の経験がものをいったわけか。

今朝起きてからいじってみても、無事に何事もなかったごとく働いてくれている。
いい器械だなあ。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その123)

この舟艇基地の周辺はひどい湿地帯であり、ここの中空に向かって聳えるカジュマル等名も知れない、数百年、数千年も経ったであろうと思われる大木の根が、地面一帯に縦横に這い回っていて歩くのに大変邪魔になった。この密林内は暗く昼でも薄暗く夕暮れの野外を歩いているようであった。しかし、これで敵機から完全に遮蔽されていることでは心底から心安らぐ思いであった。終日名も知れない派手な色彩の野鳥が奇声を上げて森林内を飛び回っていたが、ここで長く露営することは健康的には最悪の土地のように思えた。

艇に乗って河の上流に遡ってゆくと、所々に密林が途絶えて空が透いている場所があった。川沿いの日当たりのよい場所には必ず鰐がいると聞いていたが、ここにも数匹の鰐が群れて昼寝をしていた。舟艇のエンジンの音が響いても全く驚かず僅かに頭をもたげて舟艇の方向を胡散臭そうに眺めていたが何とも物騒な気配である。
(つづく)
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2010年11月15日 (月)

思うようにはならない世の中

今朝ははっきり曇といえそうだ。宮島も能美も見える。黄砂はどうやら消え去ったらしい。
気温13度は少し暖かい。

昨夜は気にしていたサンフレッチェの試合がどうかなあと思っていたが、今朝一番にネットのスポーツニュースを見ると、ガンバ大阪に0−2で敗れている。これでもう上位は無理だなとがっかり。
もう一つのひいきチーム名古屋グランパスはまた勝って、着々と優勝に近づいている。これでいいかと思ったり。
鹿島が相変わらず勝負強さを見せて追いすがっているが、今年は名古屋のものだろう。
優勝者も時々かわった方がよい。
プロ野球のロッテのように、明らかな番狂わせも勝負の世界らしく面白い。

大相撲も白鵬が強い。大記録達成も間違いないだろう。もし異変が起きて成らなくても、これはもう番狂わせであって、よけいに面白い。

世の中自分の思うようにはならない。
膝の痛みも昨夜風呂でしっかり揉んだりしたのだが、表面が痛い。かえって悪かったかな。
昨日の植物園もゆっくりゆっくり杖をついて歩いたのだが。
今年は紅葉どころの見物はもう無理だ。ささやかだったが植物園の紅葉でもうよい。中でもいちょうの黄色は綺麗だったなあ。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その124)

上陸して数日後この地区の住民が物ほしそうな顔をして露営地を訪ねて来た。ここの住民は対岸のフィンシの住民に比べると性格も悪いらしく、皆物欲しそうな顔をして置いてある荷物のほうに近寄って来た。しかし、我々はこの住民に構っておられる暇も無かったし、ここの住民は信用できそうでなく味方になりにくく思っていたので全く相手にしなかった。

この地方の河はほとんど鰐が棲息していると聞き及んでいたが、ここの住民たちはこの鰐を極端に恐れていた。古くからこの河に住み着いている大きな鰐で今までに何度と無く人を襲い、食い殺したり、傷つけたりした鰐には名前までつけて恐れていた。彼らには遠く祖先から言い伝えでもあるのか、鰐のよしあしを判別して獰猛な鰐には特に警戒しているようであった。その中に尻尾の切れた大きい鰐がいたが、住民たちが恐れていた鰐はこいつであったようだった。そして住民たちの間でこの鰐が何時、何処にいたという話をしていることをよく耳にしたものである。そして、彼らは鰐の出没についていつも情報の交換をしているらしかった。(つづく)
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2010年11月16日 (火)

白鵬63連勝で終わる

白鵬がついに土がついた。稀勢の里の攻勢に激闘の末敗れた。奇襲でもなんでもなかった。強いて言えば白鵬本人が言う様に勝ちを急ぎすぎたのであろう。内掛けに行った足の位置が少し高く、却って重心の低い稀勢の里の押す力に対し、不利だったように見える。

やはり勝負ごとは何が起こるかわからない。思わぬ落とし穴があるものである。大きな番狂わせが早速生まれた。

朝7時気温5度、今冬最低である。
よく晴れ上がって中天には雲は見えない。
朝目覚めても昨夕の大相撲の余韻が残って、頭の中がわくわくしている。
惜しかったなあと双葉の偉業がまだ残ったかとの思いが堂々巡りして果てしない。

双葉山の70連勝成らずはもちろん新聞で知り、映画館のニュース映画で何度も見た。テレビなどない時代だった。
まだ19歳の青二才だった。私の意識では相撲の神様として君臨している。無くなると困る存在なのである。
白鵬もよくやった。しかしこのくらいでよかろうと思ったのも偽りない気持ち。私にはやはり思い通りだったかもしれない。

63連勝は初代横綱の谷風と並ぶと何かで聞いた。伝説とも紛らわしい、方式の違う江戸時代の連勝記録だから、比較にはならないが、不思議な因縁ではある。

私の部屋はぽかぽかと朝日が射し込み、えも言われぬ幸せな気持ちにさせてもらっている。
空一面黄砂もすっかり飛び去って、もう片鱗さえも伺えない。秋の青空そのものである。

昨夜湿布を貼った膝が少し痛みをのこしているが我慢の出来ないほどではない。
家内もリウマチの痛みが軽くなったから、薬を止めたいなどと言っている。副作用の方が怖いらしい。
午後は雲が出てやや寒くなる、もう冬だから仕方がない。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その125)

この尾の無い鰐は今までに数多くの人を河に引き込んでいると語られ、腰を痛めている住民もこの鰐にやられたのだということであった。これらの鰐に関するいろいろな話で隊員たちは鰐に対して強い警戒心を抱くと共に暫くはこの鰐の話で持ちきりになっていた。

ニューギニア島に渡る部隊がツルブから80kmにも及ぶ陸路を歩いて集結し、また一方では大発艇で入ってくる部隊もあり、この基地ブッシングは各部隊の集結場所として日ごとに忙しくなってきた。この忙しさにまぎれていつしか尾の無い鰐の話などは忘れ去ってしまった。

ところが、ある朝向こうの右岸に立哨していた対空、そして舟艇監視哨の隊員が、明け方尾の無い鰐に出会ったと報告してきた。明け方用便のため監視哨から外へ数歩出たとき、青白く光る鰐の異常な眼に睨まれ身の竦むおもいだったという。悠々と立ち去る鰐には尻尾が無かったと、その時の驚きを身振り手振りで語っていた。何はともあれこの日は舟艇の監視は一時取りやめこの鰐の動きを探ることとした。そしてこの強敵の鰐をなるべく早い機会に射殺することを決めて、その応援を住民にも求めた。(つづく)
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2010年11月17日 (水)

進化速度が速すぎる

今朝の気温6度と平常か。
昨日送ってきたWindows Xpのインストールを試みたがうまく行かない。
目下のところあまり意味もないので中止する。パーティションを中止して復元する。
まあ気楽にのんびり行こうという訳。

もう一つのパソコンのOSバージョンダウンがうまく行って、古いソフトの使用になんら差し支えが無くなったので、ウインドウズの力を借りることがなくなった。

古いiMacはとうとう本当に御用済みとなって、倉庫の片隅に落ち着くことになってしまった。
中古の富士通もいれて4台も一人で扱うなんてそもそも無理だったし、贅沢だった。

しかしテレビでも自動車でもどこの会社製だろうと関係なく、なにも意識しないで使えるのに、パソコンだけまだまだ不自由である。なんとかならないものか。
もっともテレビはアナログを止めるおかげで、見られない地域が発生するらしいが。
何故アナログを止めるのか、電波の取得権争いからとも聞くが、国民の利益は棚の上にか。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その126)

数日後舟艇隊員が大声を揚げながら帰ってきた。見ると奇ッ怪な姿をした尾の無い鰐が舷側に括り付けられていた。これは川沿いに昼寝していたこの鰐を見つけので3,4人で同時に小銃を打ち込んで仕留めたというのである。鰐の体には小銃弾が貫通しないので、弾が通り安いと考えた眼や顎のしたそして下腹を狙って打ち込んで仕留めたという。隊員たちは交々無造作に1,2発の弾を撃ち込んだだけではそのまま水中に逃げられてしまっただろうといっていた。

基地はこの鰐退治で沸きかえっていた。何しろ大きな図体なので岸に引き上げることは面倒なのでそのまま岸に繋いでおいた。さあ早速解体して料理しようということとなって、腕に覚えのある兵士2,3人が刀を研いで、この鰐の一部を切り取ろうとしたが全く歯が立たないのには驚いた。(つづく)
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2010年11月19日 (金)

尖閣諸島の紛争

今朝も快晴、気温5度と変わらず。昨日は午後曇ったがきょうはどうか。
膝の痛みはいくらか軽くなったようだ。医者の言うように使わないのがいいのか。或は湿布が効いたか。

午後も好天気変わらず。郵便局に島根のおばさんの所に送金しに行ったが、外も暖かい。
今年のするめはいかい高かったと家内は嘆く。もう来年からは止めだとぶつぶつ。
こちら二人とももう歯がするめに対抗出来ない。去年のものも未だかちかちになって冷蔵庫に残っている。
もうお使い物にするだけである。

文芸春秋で石原慎太郎の日本憂国論を読んだ。もっともな論が多く、私のような戦中派は、戦争を知らない者の多さ、怖さが、こんなにもあるかと驚き慌てる。
また核兵器は除いてとの発言で、通常兵器では日本が中国に優っていると聞いてなお驚いた。
F15戦闘機200機は米国に次ぐ世界第2位の保有数とも書いてある。
あまりにも少ない数字に頭をたたいてしまった。
全大戦では何千機の敵を相手に戦った筈である。桁を間違っているのではと思ったりするのだが。
ともかく尖閣諸島での摩擦は今も続いている。触発の危機とまでは行かなくても、お互いの国民感情次第ではどのように転ぶかは予断出来ない。

しかし我々の頃と今の世代とでは意思も素質もまるで対戦性が劣弱化して物の役には立ちそうにない。
戦いは精神力が物を言う。過去の日本はあまりにウエイトを置きすぎて失敗したが、個々の戦場ではやはり最も大事なことである。
まともに議論してよいのだろうか。

核保有国に囲まれて、発言力に乏しい日本が、通常兵器だけでなく核兵器も保有しろという意見には大賛成である。
北朝鮮の言うように持つだけでよいのである。所有するだけで核戦争は起こらない。所有しなければ戦争は起こされるぞ、石原氏の所論の通りである。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その127)

この鰐が死んでから既に数時間経っていた。その時ある兵士が「鰐が死んで1時間以上も経つと体が硬くなって刃物ではどうにもならない」という。そのうちに住民たちも沢山集まってきたが、いい知恵が浮かばないままにとうとう捨ててしまうことになった。
結局この大きな図体の鰐はどうすることも出来ず、そのままに河に流すことで決着をつけたが、これは久しぶりの明るい出来事であった
その後間もなく第65旅団(夏兵団)の一部がこの地区警備のために配置され、兵団の本部がここニューブリテン島のツルブに置かれた。
その後海峡の喉元に当たるブッシングの重要性を考えて、1ヶ大隊(戸伏少佐指揮)がこの地区に配置された。そしてこの大隊には装甲艇1隻が配備され、兵員や物資の輸送にあたる舟艇の警護、援助に当たることになっていた。この装甲艇は戦車のディーゼルエンジンを搭載し、75mm口径の戦車砲及び重機関銃を装備していた。(つづく)
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2010年11月21日 (日)

ニューギニア戦記続けます

連日好天気がつづく。気温も5度とほとんど同じ。
絶好の行楽日だろうから、老人の出る幕はない。おとなしくしているに限る。

幸い先だってのムービーの始末をつけなければなるまい。パソコンでするか、DVDレコーダーでやるか、編集するとなるとパソコンだが、結構時間がかかるからなあ。

根気がずいぶん無くなって、長時間夢中で作業することが最近出来にくくなった。
目も悪くなったし、頭の働きも悪くなった。何より体調がよくない。

ぶっ続けに2時間3時間というのはもういけない。日記を付けたり、ブログを書いたりがせいいっぱいである。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その128)

しかしその速度は10ノット出ればいい方だという代物であって、全長10数mとずんぐりと丸く鋼鉄で作られていた。そして重心が高く、当時の米軍の魚雷艇と比べると速度、装備、能力共にかなり劣っていた。そして砲塔部分は鋼板が多少厚くしてあったが、船体の抗担力は全く無いに等しい艇であった。

砲の発射速度は1分間に数発程度ととても敵魚雷艇に遭遇した場合、瞬間的に対応する能力殆ど無く、照準も不正確であった。艇の重心が高いということはローリング又はピッチングともに大きくなるので、その射撃精度も悪くなる等とどうも信頼性の乏しい艇であったようだ。
この装甲艇がラバウルから遥々このブッシング河口に到着し、この河に進入したその日に敵機の爆撃によって沈没するという事態が起きた。
早朝河口の監視哨からこの装甲艇が到着したという連絡があり、同時に河口付近がまだ暗くまた地理不案内なので、夜明けを待って河に進入するという知らせがあった。小発艇の誘導で明るくなった河口を発ち遡行を始めて、舟艇基地との中間地点に差し掛かったとき突然敵のp52型機の襲撃を受けた。敵機は超低空で侵入してきたので舟艇監視哨の連絡が間に合わず、殆ど抵抗する暇も無くその銃撃と小型爆弾をもろに受けて、忽ちにしてこの艇は撃沈されてしまったのである。(つづく)
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2010年11月22日 (月)

我が日課

7時起床。間もなく降り始める。気温12度。朝食を済ますともう一度ベッドイン。10時半再度起床。
今度はほんとに眠気を払ってパソコンに向かう。

起動させた後、日記の画面が現れると、沸いたばかりの熱いお茶をまず一杯。
こうして我が日課は始まる。

雨のおかげで、霧が深く下界は夕闇とまごうばかり。島も海も視界の外。
少し風邪気味らしく、鼻水の出が激しい。
睡眠時間が永くなるのはこの風邪のせいでもある。
老人性の風邪というのがあるかどうか知らないが、自覚らしいものはあまりないが、くしゃみもかなり頻繁に出るし、症状はやはり風邪らしい。
必要以上に寒さを感ずるし、だが、けだるいのは老人本来のものだろうが。

頭がうすぼんやりして、考えが浮かばない。記憶も薄れて、何か思い出そうと努めても出てこない。
もう駄目だなと悲しくなる。
筆を折ると昔の人はよく言ったものだが、これかなと思い当たる。

丁度十年前ハワイに出かけたときの元気さはもう帰らない。
婿が先般鳥取のハワイ温泉に連れて行ってくれたのが、どうもその象徴のようだ。
言わず語らず、娘らは形で示したか。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その129)

この装甲艇の残骸は砲塔を水面に出したままそこにあったが、引き続いて数日に亘る敵機の反復攻撃に晒され、日を置かずにその残骸は河底に消えうせてしまった。
この装甲艇の砲塔等が水面に出ていたときに舟艇に乗ってその傍を通る隊員たちは、敵と一戦も交えることなく辺境の果てで沈んだこの装甲艇の短い生涯をいとおしく思ったという。
この残骸が全く見えなくなった後、慌しい輸送行動に紛れていつの間にかこの一件は皆の頭から消えていった。

昭和18年5月に入るとこのダンピール海峡は、彼我両軍の戦闘の焦点となった。
日本軍がこのニューギニア島に進出して優位に立つためには、この海峡を確保することは絶対の要件であった。
5月4日第8方面軍司令官今村中将は第60旅団長に対しこの方面の体勢強化のために次の方針を示している。
それは「ツルブ飛行場の整備、海運基地施設の強化。ラエに対する補給基地の設定、そして一部の隊でもってブッシング基地、ウンボイ島 南部の占領と舟艇機動基地の設定、そしてその基地の輸送に任ずる船舶部隊の駐屯を命じたのであった。
(つづく)
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2010年11月23日 (火)

親父の命日と私の信条


快晴、朝の気温も11度と暖かい。今日は父の71年目の命日である。思えば永く生きて来たもんだ。
父と別れた日のことはまざまざと未だに瞼の裏に残されている。

不孝不肖の息子であった。親父が営々として築いた資産をことごとく失ってしまい、母は愚か兄弟姉妹親戚の末まで嘆かせてしまった。期待の大きさにうちひしがれ、考えも浅はかで甘かった。

皆自ら招いた不幸だったが、よき多くの友に助けられて、今日の幸せがある。
しかし長年にわたり助けてくれた横山君も丁度1年前先立った。
もうこの幸せの終止符を打つ時期がまぎれもなくやってきたようだ。
もしあの世があるなら、父の膝下に戻ることになるかもしれない。怖いなあ。

いみじくも家内が朝食のとき、仏壇が欲しいと言っていた。夢見が悪く分けのわからぬところをさまよい歩いたからという。最近こんな夢をよく見るとも。
私の宗教嫌いから、私のうちは神棚も仏壇もない。でも今更信条を曲げる気持ちは起こらない。
家内や子や孫たちは不幸と感じているだろうか。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その130)

船舶工兵隊第3中隊は既にブッシング基地を設定し、海峡輸送の任務に就いていたので、そのまま其処を第60旅団長の指示通りニューブリテン島側の基地とした。陸上部隊は総じて船には弱い。全く無防備ともいえる大、小発動艇に乗って渡航する事は、地上では精鋭部隊と雖も乗船してしまえば手も足も出なくなるのが普通の姿である。敵機の来襲に遭えば手を拱いて見ている以外に何もすることは出来ない。艇に乗り込むことは陸上部隊の最大の泣き所であって、進んでどんどんと艇に乗り込む気になれないのは当然である。

そんな気持ちからツルブからブッシングまでは海路を避けて陸路を通る部隊が多いのである。たとえ苦労が多くても密林の中を歩いてくる方を選ぶ部隊が多いのであった。しかし一度このブッシング基地に到着した後には、否応なしに艇に乗ってこの海峡を渡らねばならないことになっている。そしてこの乗船をめぐっての打ち合わせの際、やれ乗船の時刻が打ち合わせの時間より早すぎるとか、やれ未だ部隊の員数がそろっていないとか、と苦情が出され、舟艇部隊と乗船部隊の間で押し問答が起きることがしばしばあった。このため時には乗船の日時を変更せざるを得ないようなこともあった。(つづく)
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2010年11月25日 (木)

パソコンってやっぱり厄介なもんだ

新しく買ったソフトのToast 10 の動作がおかしい。
2、3時間かけてカセットテープに録音しておいたやつをダビングしたのだが、見ながら操作したのにホン1、2秒だけで全然録音していない。
ネットでメーカーサイトに入って調べてみると、やはり新しい小バージョンが出ている。ダウンロードして420MGもあるソフトを1時間もかけてアップする。
それで録音を始めたのだが今度は終わっても保存出来ない。
深夜になってしまったので中止して作業中止。委細はアップルに自動送信して休む。

今日になって、再度初めて見ると、なんとかなおったらしい。
まだ不満はあるのだが、どこをどうしたのか一応うまく行く。
しばらく続けてみる以外にない。

今日は午後にかけてどこにも出ないでダビングの続行。なんとか騙し騙しの感じである。
一方バージョンダウンしたMacの方はスキャナーが使えなくなった。OSが適応しないらしい。

パソコンってやっぱり厄介なものだ。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その131)

昭和18年初めの頃はかのガダルカナル島は鬼門だといい、恐れられたこともあったが、その数ヶ月も経たないうちに今度はニューギニア島方面が鬼門だと言われ始めてきた。
とにかく舟艇隊にとってブッシング基地で、部隊を舟艇に乗せてニューギニア島に送り込む際が一番に頭の痛い事柄であった。ここにこのダンピール海峡は、艇で渡る各部隊にとっては魔の海峡だと呼称されていたのであった。

ブッシング基地を出発する時刻は通常午後3時から4時にしていたが、これでは出発後2,3時間は明るい中を走るわけで敵機の攻撃を受け易いと考えられる。しかし逆に敵方に近い対岸のフィンシに明け方の明るい時刻に進入するよりは遥かに安全性が高かったのである。要するにこの海峡横断はその行程からどうしても3時間余りは明るい時刻に走らなければならないが、敵機の攻撃を受ける頻度からしてブッシング基地を明るい夕刻に出発する方が、明け方午前4時以前にフィンシに進入する方が危険度が低かったということである。舟艇隊員は進入した後部隊、軍需品の揚陸を終わると、艇を舟艇秘匿基地に回送し直ちに偽装を行い、艇の整備を終わった後やっと上陸して休養をとることなる。この段取りではどうしても暗いうちに到着して作業も早々に終わる余裕を見ておかねばならないのである。舟艇隊はフィンシに到着すれば万事がおわるというわけではないので、少しでも早くブッシングを発ちたいのであった。(つづく)
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2010年11月28日 (日)

音楽の長時間録音

昨日捨てる予定のカセットのうち、思い切れない分をDVDに再録することにして、午後から始めた。
既に30時間ばかりパソコンに移し保存していたので、買ったばかりのTOAST 10を使って高速再録する。
たったの46分で終わりびっくりする。

従来なら何時間もかかっていたのにえらく快速である。
飛ばし録音しているのではと疑い聞き始めた訳。
午前3時までかかってまだ半分も行かない。
音質などに変化は見られない。むしろテープで聞くより雑音がカットされて綺麗である。

たいしたものが出来たものである。

以前20時間の音楽に10時間ぐらいかかった覚えがある。
50時間ぐらいの量が1枚に収まるのだから、ブルーレイそこのけである。
もっとも再生して聞くには随分辛抱強くならなくてはならない。

現在も昨日に続いて鳴らしているのだが、なんだか不思議な気持ちがする。
バイオリン・ソナタやショパンのピアノ曲などは劇場で聞くよりいいのではと思ったりしながら。

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2010年11月29日 (月)

京都紅葉ツアー

ちょっと霧が深い朝、気温は7度。
今朝方眠っているとき、膝がきりきり痛む。起き上がって只なでるだけ。

今日も終日音楽DVD編集をして過ごす。それこそ何時間も何時間も。他には何もしない。
日曜日は下手に出歩いて若者の邪魔をしてはよくない。

11月29日(月)晴
朝3時目覚める。再度寝るところだが、家内の京都行きもあって起き上がり、とりあえずダビングするカセットテープの音楽をパソコンに取り込む。
6時前家内を駅まで送る。外は真っ暗だ。特に今朝は寒い。温度計は1度である。

帰宅して一休みしながら音楽の入力をつづける。
8時パンと牛乳の朝食。さっと上げてまた続ける。この日課は何ヶ月も続きそうだ。長時間DVDが何枚でき上がることだろう。

今度家内が妹二人を伴って参加する”京都紅葉七絵巻2日間”なるツアーは大原の三千院を皮切りに、ライトアップされた夜の青蓮院門跡の庭園回遊や翌日の長岡京の光明寺から嵯峨野を回って、金閣、銀閣寺回遊と大変な強行軍、私はあっさりおりた訳だが、私より若いとはいえ80歳前後の3姉妹、口は達者だが、足腰の方は大丈夫かな。

音楽詰めで一日終わる。書くことは何もない。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その132)

海上の航行時間の計算はよほど余裕をみておかねばならない。陸上を車で走るように計算どおりには行かないものである。船の航行は風、波、潮流等が大きく影響し簡単に距離を速度で割って何時間で到着という計算には当てはまらない。ましてこの舟艇は全長10数m10t足らずのもの、それ相応の余裕を見る必要があった。

私たちは夕刻ブッシングを出発して日没までに敵機に遭遇することはあまり怖くなくなった。それは敵機も日没までには、ワウ又はポートモレスビー空港まで帰らねばならなかったから、そんなにしつこく攻撃ができなかったからである。とにかくプブイ河に夜明けにかかった頃に入港することだけは危険極まりないことであった。

輸送される部隊は一度だけ艇に乗って無事に渡航できればそれが最もよいことである。そしてその為には一番条件のよい日、よい時間を選びたいと思うだろうが、舟艇部隊の方はそうは行かない。雨又は風の日でも連日に敵機を避けながら艇を出さねばならないので、部隊の希望の日に日程を合わすことは出来ない相談だった。
(つづく)
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2010年11月30日 (火)

思い出を捨てるつらさ

一人になったから目覚めが遅く、もう8時だ。
寒さも少し和らいだか、外の寒暖計は13度になっている。
射し込んでくる日光が暑い。

遅い朝飯を済ませて、カセットからの再録はつづく。
時間の合間に洗顔したり、、排便したり。結構忙しい立ち回りになる。
文句の言い手がいないから、気は楽だが。
昼はうどんでも食いに出かけるか。

チャイコフスキーといえば、いつのコンクールのピアノ部門でも協奏曲第1番が登場するが、第2番というのは聞いたことがない。演奏会でも聞いたことがないので、事実上はないのかも知れないと思っていたら、今般カセットテープを整理していたら、30年前FMで放送したのを私が録音していたのが出て来た。
演奏したピアニストはエミール・ギレリスである。
1番に負けないくらいダイナミックで面白い。何故はやらないのだろうか不思議である。
1番が出来過ぎで影が薄いという訳か、いやひょっとしたら弟子が先生の死後編集の手を加えたというから、純粋のチャイコフスキーのものと言えないということになってるのかな。

1番と言えば私には思い出が深い。新婚旅行に山口の湯田温泉に往き、帰りに山口のデパートに入り、知人の音楽部担当者のすすめで記念にチャイコフスキーのこの1番のLPを買った。ルービンシュタインだったと思うがもう忘れた。
現物も何度かの転居で失ってしまった。

孫娘がまだ幼稚園の頃、習って来た歌を店で友達らと一緒に歌うのが面白くて、テープに録っていたのまで出て来た。
もう結婚して子供まで出来てるのに、舌回りが変で、まともに歌えもしないのがおかしい。
なにせ、千個以上もあったカセットだから、ピアニスト横山幸雄氏の10歳くらいの時のラジオ演奏もあったり、捨てるのが惜しかったけど仕方がない。

家内は午後10時まだ京都から帰ってこない。少し心配だ。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その133)

さて、7月に入ってからツルブ基地に向かって駆逐艦による部隊の輸送が計画された。そこで暫く中隊本部をツルブに移すことにした。このツルブはニューブリテン島の西北端部に位置してダンピール海峡の北口を扼する重要な地点で、第65師団本部(真野中将)が置かれていた。そして従来からニューギニア島に部隊を輸送する大発動艇の経路基地であった。そして今回は駆逐艦により一挙に部隊を輸送揚陸することとなった。

このツルブの海岸には土着住民の小部落があり、またココ椰子林も繁っていて至極風光明媚な美しい平和な場所であった。この近くに小さな湾がありここはタナモといった。天空から遮蔽されて舟艇を秘匿する基地としては絶好の地であった。また、この地区の背後は密林地帯となっていたが、ここの空気は乾燥していた。そこら一帯が台地となっており、露営するに好適地であった。そして広々としたなだらかな斜面が遥かなるタラベ山に続いていた。この近くにかなり広い平地があり、ニューギニア島方面に行動する友軍機の不時着場として度々利用されていた。
(つづく)
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