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2010年10月20日 (水)

白菊会(献体者の会)総会出席

今朝は白菊会のことがあって、5時に目が覚めとうとう眠れない。
別に大したことではないと思っていても、初めて出席するということは気になるものである。
6時には起き出して支度を始める。
見ず知らずのものがただ献体するというだけで何百人か集まるのである。
私から見るとやはり不思議な出会いである。

徳川時代の中頃オランダ医学が盛んになり、人体解剖により急速に医学が進歩したということは、学びもし聞き知っている。当時は死刑囚の死体を貰ってきて解剖したのが始まりだとも聞いている。

私の言う献体はもちろんご存知の通り、病死した自分の体を医学の研究者たちに、どうぞ解剖して研究してくださいと、差し出すことを約束したことである。

無報酬でどうぞ存分にというのだから、よく考えるとやはり役に立つらしい。
魂の抜けた屍体は一応厄介な代物である。
葬式も簡単にすむから楽でいいなと、大それた気持ちは全然なしに献体に応募した。
献体者が多いからといって2年間放置された。3年目に抽選に合格されたがどうしますかと、広島大学から連絡があり、もちろん異議なくお受けして白菊会というのに入会した。

最初に申し込む時に兄弟や妻子に承諾させろとか、印鑑を貰って書類を出せとか、仰々しいのに驚いた次第だった。
しかし今日初めて総会に出てみて、解剖実習をやった学生たちにこもごも、勉強に役立ったと礼を言われると、恐れ入る気持ちにやっとさせられた。

死んでもまだ世の中の役に立つというのは、いいな。
昔戦場で弾丸や爆撃で沢山死んだ。病に倒れて野山にのたれ死にした兵隊も沢山見た。
もの凄い蛆の固まりとなって地に帰って行った。

今はすぐ焼いてしまうからそれでもいい。
でも役に立つと言われるとほんとに嬉しい。
今日はいい思い出をさせてもらった。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その108) 

プブイ基地での生活と思い出

プブイ基地付近にラワン材の製材工場があった。隊員たちは散在されたままに放置されていた板を持ち帰って、地隙に渡して敷いてその上に横になって寝た。又近くに牧場があってここに持ち主のない牛が5、6頭放たれていたし、またこの他にペリカンも数羽さまよっていた。ここの土着の住民の話しではこの牧場はドイツ人が経営していたが,この戦争の開戦間もなく連合軍に強制収容されたとの話しであった。もしこの度の戦争が起きなければ、ここは誠に静かな平和境であり、詩にも歌われそうな美しい風景だったであろうと思った。

舟艇隊はここ暫くの間この地を基地として,兵員のダンピール海峡横断輸送に従事していた。敵偵察機は相変わらずに毎日定期的に上空に飛来して来た。いつものお馴染みのコンソリデーテッドB24型機である。ここに基地を開いた後暫くは襲撃を受けなかったが,10日も経たぬうちに激しい攻撃がまた始まった。
折角良い基地が見つかったと喜んでいたのも束の間のことであった。艇を上流の方に隠そうと試みたが,其処は水深が極端に浅く艇を入れる事ができなかった。やむを得ず現在の場所を改善して利用することとした。(つづく)
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