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2010年10月 1日 (金)

自動車保険継続

朝6時半、少し霞んではいるがいい天気だ。
気温16度、驚いて寒暖計を見直す。
秋深まりたか。

昨夕岡本氏から電話、元気に車に乗っていますかと聞いてくる。まだ乗っているよというと、では自動車保険を継続しますよと抜け目がない。
去年あいおい損保を退職して、独立して代理業を始めたと挨拶状が来ていた。相変わらず元気がよい。

今月からテキストソフトをアップル備え付けのpagesに変えてみることにする。

朝子からメールで宅ファイル便で送った写真をダウンロードし損ねたといってくる。
改めて4枚送ってやる。3日のタイムラグがあるらしい。
結構頭を使わないと便利なようでも役に立たない時があるものだ。
ぼやっとしていたら何にも出来ない。

それにしても今日はいい天気だ。家でじっとしてるのがもったいない。
体調もよくなったしどこかにでかけたいが、朝植物園にでも行くかと言ったのだが、今日はあいにく定休日だった。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その93)

当日は月齢23、月の出は23時頃だったので,月下での揚陸作業になった。舟艇の行動は海峡を渡る指令の他は原則として夜間のみの行動であった。しかし海峡の横断はその距離の関係で2,3時間は、昼間に走らなければならないことになるがこれはやむを得ない事であった。

しかし、月光の下で艇を運行する時は,船の後の海上に航跡が白く尾を引いているので、このため敵機と遭遇した時は艇の速度を微速にするか、また海上に停止して敵機の通り過ぎるのを待つこととしていた。

駆逐艦は予定通り3月29日夜半フィンシに入泊するとの連絡があった。この1ヶ月の間にこの方面の敵の警戒は以前に比べて厳重になった居た。敵の哨戒機は昼夜を分たず飛来していた.夜間にも毎晩の様にフィンシの沖合に照明弾の吊り星をばらまいて偵察を行い,就中フィンシの港口付近は極めて綿密に探索をしていた。3月中旬を過ぎた頃から敵の魚雷艇も出没し始め,この辺りに敵の気配を見近に感じる様になってきた。(つづく)
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2010年10月 2日 (土)

秋の植物園

午前6時気温19度、逆戻りかな。
デスクトップを孫娘2人の写真に置き換える。俄然身辺がにぎやかになる。
そういえば姉娘のカナリアの声が聞こえなかったなあ。早く元気になってほしい。
お姫様のようにしとやかになってたな。
それでもまあいいが。

これも老人のせいにしてはいけないかもしれないが、最近朝起きると目の縁に固い目やにがついている。毎朝手の先でそっと除去する。そして目が覚める。
毎日何時間もパソコンの画面を見ているせいかな。
私は幼い時から何でも熱中症だから、仕方がないかも。

午前10時、久しぶりに植物園に出かける。
入場無料とあって凄い人、子供づれが多く、また広場にしつらえられたテントの臨時販売店がいくつもあったりして賑わう。
足の鍛錬のつもりで来たので、人の邪魔にならぬようそろそろと人の群れをさけて歩く。

ようやくこうした散歩も出来るようになった喜びがまづ私の心を占める。階段を出来るだけさけて、平坦な道を一周する。植物の観覧は二の次である。
園内のレストランで昼飯を食い、そのまま帰宅する。
ほんとにいい運動が出来た。
広場の一角で広島吹奏楽団が演奏準備をしていたが、そこを通りかかると、気を利かして私らのためにその伴奏で歌を一席披露してくれたり、ありがたく嬉しかったな。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その94)

前にフィンシに集結する時に魚雷艇の襲撃を受けていた。いつも夜になると敵の魚雷艇は沖にある島影に潜んでいて,中隊の舟艇が通過するのを待っては、急射撃しつつ疾走してくるのであった。もっともこの時分にはまだ徹底した攻撃はしかけて来なかったが、兎に角フィンシ南側クレチン岬付近は鬼門であった。ここには数個の島が点在しこれが格好に隠れ場所であり且つ襲撃場所ともなっていた。
そこでここを通過する我々の舟艇は、珊瑚礁のリーフや浅瀬に乗り上げない範囲で陸岸に接近して航行して敵魚雷艇の襲撃を受けない様に気をつけた。陸岸に接近して航行する事は一つには敵魚雷艇が沖から攻撃した時目標が捉え難いし、また撃沈されても擱座して艇員はすぐ上陸出来るからだった。

夜間に沖の方からは海岸方向の目標が見難いのは、後ろに密林や山が背景になっていて、その陰影のために目標が見え難くなっているからである。これに反して陸岸からは沖合への見通しがよく目標の発見が容易なようであった。(つづく)
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2010年10月 3日 (日)

名古屋に勝運

朝6時半気温21度、どんぐもり、いつ雨になってもおかしくない天気。
蒸し暑い。

入れ歯の調子があまりよくない。朝飯の時は時々激痛が走る。
手で触ってみると少し腫れていたい。

昔買ったMOTO SHOPの手作業用のグラインダーを引っ張り出して、当たる所を少し削る。
今度は大丈夫なようだ。
こんなのは歳の功というべきかもしれない。

私は名古屋という所が昔から何となく好きだ。ところが今年はドラゴンズが優勝した。ひ孫の口癖ではないが”やったあ”と思わず声が出た。
昨日はグランパスが何とか勝って、目下首位を独走している。2位の鹿島に勝ち点9の差がある。まず間違いないであろう。
曾って婿の勤務地が名古屋だったとき、数度何日か滞在し近所を遊び歩いた。太閤秀吉の里も訪ねた。現実にもいいところだった。
両手に花と行って欲しいな。

午後になると案の定雨になる。
内海の雨はおとなしい。いつ降り出したのやら。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その95)

舟艇中隊には夜行眼鏡が数個配分されていたが、この眼鏡は4倍と倍率は小さいが大変役に立って、隊に取っては貴重なものであった。当時私物の眼鏡は81号作戦で海水に浸かった為にほとんど役に立たなくなっていたので、新たに交付されたこの眼鏡は大切なものであった。

3月の半ばから敵の魚雷艇は今までのベニヤ製のものが鋼鉄製に変わり、エンジンの油はガソリンから重油に変わっていた。今までベニヤ板でガソリンエンジンを設備していた魚雷艇は,一発の曳光弾によっても発火炎上しやすかったので、隊員たちはこれをライターと呼んでいた。しかし今はそうはいかなくなり、速度,火器の装備等とても大発動艇の及ぶ所ではなくなった。大発動艇にも20mmの機関砲分隊が配属されてはいたが、その射撃精度は期待出来なかった。これでこの時点の最も大発艇が恐れたものはこの魚雷艇であった。今夜の作業にも必ずこの魚雷艇が攻撃して来るに違いないと思った。(つづく)
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2010年10月 5日 (火)

ガスの故障がなぜか治る

高い空には雲が多いが、青空ものぞきいい天気になりそうだ。
気温はとうとう6時半現在15度になった。
昨日は睡眠時間が起床時間を超えたはずだから、今朝は目覚めは早く5時前だった。ベッドでゴロゴロしてたが体勢はもう昼間のものだ。

歯医者に行く予定日だが、自分でグラインダーで直したので、噛み具合は悪くない。行くのを断るつもりでいる。

2、3日前からガスの点火状態がおかしかったので,ガス会社を呼んで見てもらったのだが、20年以上前につけたのだから寿命だという。仕方がないから付け替えるかと見積もりを昨日持てこらした。12、3万かかるらしい。
ところがどうしたことか点火の状態が元通りによくなってしまった。
これではいやでも延期せざるを得ない。
いいのか悪いのか、生きて行くにはいろいろあるなあ。

朝子が写真がまだ着かないと言ってくる。
おかしいな。3日間しか置いてくれないから、昨日ならもうだめだが、3日のメールだから期限内のはずだが。
もう一度連絡してからやってみるか。今電話してみたが誰もいない。夜にならないとやはりだめだな。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その96)

さて駆逐艦入泊が伝えられてからは、患者が逐次フィンシの湾内に集まって来た。今回は駆逐艦の帰り便を利用して患者を後送することになっていた。この患者を舟艇に分乗させて入泊した駆逐艦まで輸送するのがすべて艇隊にに課せられた任務であった。従来はラエに数日置きに食糧補給の為に入泊して来る潜水艦の帰り便を利用して患者をラバウルに後送していたが、一度に小人数しか運べないのでいつでも重傷者だけになっていたので,今回は収容力の大きい駆逐艦の帰り便を利用する事となったのである。南海支隊の撤退者等は大なり小なり皆患者だった。ラエに沢山患者が集められていた。そのために大発動艇が部隊をラエに輸送した帰りには患者の後送もおこなっていた。3月下旬には数百人の後送患者がフィンシ付近に滞留していた。(つづく)
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2010年10月 6日 (水)

騙されやすい老人にされたか

朝7時気温14度と下がる。ひんやりとした朝で下着だけではベランダにのぞきにくい。

昨日配水管周りの掃除補修の見積もりをしにきたスリーエスという会社に朝電話して、補修の方がこちらとしたら主目的で、そこらの確認を改めてする。
74歳以上の老人の場合、以下の若い親族の立ち会いがいるのだというから、娘の都合を聞いたりして、日にちを合わせねばならなかった。
初めて聞く話だが、老人には単独でこんな工事契約はできないらしい。
もっともこの会社ではという話ではあったから、単なる内規かもしれないが。

老人が騙されることの多い世の中で、それが逆に老人の行動を縛る、いいのか悪いのか私にはわからない。
国の法を守る検事さえ、どうどうと法を曲げんとする世の中だから、もうどうにもならない。末世も極まれりという所か。
ついでに言えば小沢元幹事長の起訴なども、法律ではどうにもならないのではと思ったりしているのだがどうだろう。
法の番人として、法を知り尽くしている人の行いだから。

藤沢周平の小説に”たそがれ清兵衛”というのがある。映画化されて筋は随分違うが、最後の場面で反対派の家老が切腹させられ、その忠義な家臣まで切腹を命ぜられ、これがそれを何故おれまでと拒否する。
清兵衛に上意討ちの命令が下る。妻の葬式費用に窮した清兵衛は刀を売ってしまって、竹光をさしている。相手を逃がそうと思ったが、今度は相手が竹光と知って切りかかる。
やむを得ず小刀で戦う。清兵衛は小太刀の名手だったという落ちである。
無法でも昔は殿様が法律だった。素人にも解りやすかったが、今は立派に見える法律だが素人には解りにくい。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その97)
いろいろの部隊のものの他には韓国、台湾の義勇軍のものも混じっていた。彼等の中にはラエから陸上の海岸線伝いに徒歩でここまで来た者もかなりいた。勿論そこに道路があった訳ではなく,土人がやっと通れるくらいの獣道を通って来たのであった。その距離は100kmにも及んだ道のりであった。途中には急流が何カ所もあったが,勿論橋などは一カ所もない。この中で最も大きい河はモンギー河といって凄い激流で、その流れの中央には上流から流れてきた大木の根っこ等が何十年にも亘って埋まっており、これが縦横無尽に立ちはだかっていたが,その間隙を縫って濁流が勢いよく流れていた。そうした陸路を何日も掛けてフィンシまで歩いて来たつらい道程である。
密林で敵機からは遮蔽されてはいるものの大変な難行苦行である。(つづく)
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2010年10月 7日 (木)

吉香公園に遊ぶ

ちょっと早起きして、広島総合病院に出かける。皮膚科1番乗りである。
大して変わりないのですぐ終わる。
車の往来が普段より少し多い。

昼前から出かけて、岩国の吉香公園に遊ぶ。天気が良過ぎて、木陰を探してさまよう。
丁度お昼になったので、錦帯橋畔の土産物店で岩国寿司を買い、木陰のベンチに座って二人で半分づつぱくつく。

漠然と思いつきのままやってきたのだが、心温まり楽しかった。
公園の様がよくなったなあ。


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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その98)

フィンシから海峡を渡ればラバウルまでは陸続きであるが、其処まで行く道程は長いが、それでもニューギニア島から一歩でも離れることが患者の切ない願いでこのフィンシまでやっと辿り着いた彼等がニューギニア島から離れることが出来るのは,この夜が唯一のチャンスなのであった。

後送患者は夕刻になると次第に艇の近くに集まって来た.今度の揚陸作業には、少なくとも大発艇6隻でもって2往復する事が必要だが、ただ気にかかる事は敵機と敵魚雷艇の来襲である。
日が沈む頃に後送患者の乗船が終った。そして後は駆逐艦の入泊を待つばかりになった。今夜の作業は万一敵機、敵魚雷艇の攻撃を受けて戦闘となれば,途中で作業を取りやめてフィンシに引き返す事になっていた。それだけに作業は極く短時間に終らせることが求められていた。乗船した患者たちは活気づいていたが、その様子表情はガナルカナルの時と全く変わらず同じ雰囲気であった。皆歩くのがやっとであり、船底に蹲ってじっと時を待っていた。結果として彼等は苦しみ抜いた戦場を今夜離れる事が出来るのであるが,彼等を運ぶ舟艇隊員はこれからも戦い抜いて,斃れてしまうまでこの作業いやこの任務は終る事はないのである。(つづく)
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2010年10月 9日 (土)

上には上がある

昨日から小雨が降り続いている。滅多にない長雨だ。
乾ききっていた庭の樹木も一息ついていることだろう。
50っ個ばかり実がついている夏みかんももう落果することはないだろう。
味の方は何とも言えんだろうが。

昨日は娘も来て業者に立ち会ってくれたが、結局雨がひどくなって延期することになった排水管工事、次は22日ということらしい。老人の私は話し相手にはならないようだ。情けないことになったものだ。

今朝は7時現在18度と暑からず寒からず具合は良い。しかしこの雨ではどこにも出られそうにはない。
昨日の夕方注文していた”終わらざる夏”下巻を貰いに本屋に出かける。
ついでに側に出来たヤマダ電機に入って、有線の5ボタンマウスを買う。ワイアレスはどうも不安定で使いづらいから無駄なようでも仕方がない。
結果は誠に動きが早く的確で使いやすい。これは儲け物だった。2千円だから惜しくない。

ついでに言わしてもらえば、もう老眼を通り越して自慢の近眼でも薄い字や小さい字はもうだめだ。
ディスプレイも従って、今余っている26インチのテレビを使い、マウスポイントも1cm以上の大きさに変えた。
もの凄く楽だ。頭がぼけない限り当分ブログも続けられそうだ。

今田君に頼まれた”ニューギニア戦記”も今丁度半分と行った所、来年3月まで是非ともやり遂げたい。
私の従軍記に比べると遥かに迫力がある。体験の厳しさがまるで違う。心ある人にぜひ読んでもらいたい。
それには私がまづ健在でなければいけない。心を引き締めて立ち向かうつもりである。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その99)


作業は第1回は患者を駆逐艦に送り込み,次に部隊の兵員を乗せてフィンシ港に帰る。第2回以降は食糧、弾薬、資材を揚陸する計画であった。ここに無事駆逐艦が到着することを祈った。

今夜駆逐艦が入泊する事を察知したのであろうか,コンソリデーテッドB24型機が飛んで来た。いつものように上空を2、3回廻ってアント岬方向に北上して行った.舟艇隊は指揮艇を先頭に1隻づつ距離をおいてフィンシの狭い湾口を出て行った。湾口は特に敵魚雷艇の待ち伏せを警戒しつつ通過した。20mmの機関砲と重機関銃はいずれも魚雷艇出現方向に対して砲口を向けていた。幸いにして全艇は無事に外洋に進出して、そこで分散して漂泊をした。(つづく)
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2010年10月10日 (日)

お祭りの日

昨日の雨も上がって快晴、清々しい朝。気温も18度ということなし。
部落のお祭りの日で、今年も部落全体で一子供神輿が出るそうな。
子供の少なくなった老人部落だから仕方のないことである。

7時に起きて家の門前をのぞいてみると、隣のご主人がてんがいをつけておられる。礼を言おうかと思ったが、うちの前は家内が昨夕つけたのかもしれず、おはようと声をかけるにとどめる。

明日は体育の日で3連休、またぞろ道路の渋滞が始まってるとか。
27日には尾道ー世羅間が開通するとか、松江までの開通が待ち遠しい。
18の歳に自転車で出雲、松江と回った。それから何度も往復したが、いつも険峻な中国越えの難路だった。
しかしいつの時も思い出に残る懐かしい旅の道であった。

今後は気安くちょっと行って来るかとなるかもしれない。ただ私の年齢がそれを許してくれるかどうか。

子供神輿はあっという間に通り過ぎるように行ってしまった。家内も気づかずに後を追ったようだった。
こうしてお祭り行事は滞りなく終わった。
もうお宮にもうでることもないし、出来る体でもない。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その100)

突然敵の偵察機が飛んで来て湾口の沖に一つ又一つと吊り星が投下され,湾口付近は昼間の様に明るくなった。密林の樹木の1本1本が見える様に明るく照らし出された。暗夜の海は忽ちにして白昼の海と化し,白波がキラキラと光っている。既に敵は今夜の駆逐艦の入泊を察知していたのか哨戒機は2機、3機と増えて来た.舟艇は息を殺して敵機の動きを見守った。そして、照明弾が海中に落ちて消えるのをじっと静かに待った。照明弾の落ちる速度が何にしても遅い様に感じられた。やっと海没して光が消えるとほっとして敵機が一刻も早く立ち去ることを心から祈った。

突然ゴーゴーという海鳴りの様な音が聞こえて来た.友軍の駆逐艦の到来である。艦影が沖に映し出された。これは悪い時に入港したなと一瞬思ったが,敵機に対しての配意は全くせずに,艇を直ちに沖の駆逐艦に向って発進させた。
最も心配していた明るい照明の下での揚陸作業となった。艦は無事フィンシ港に進入していたが、この艦も敵機に対しては沈黙を守って停泊していた。
直ちに大発艇を駆逐艦の舷側に着け、まず中隊長が艦の甲板に昇り、甲板指揮将校と揚陸と患者の乗艦作業の手順について打ち合わせをした。輸送された物資の揚陸の後直ちに患者を駆逐艦に乗艦させた。防衛庁戦史室の戦史(爾後公開戦史と呼ぶ)によると、約600名の患者を収容したと記録されている。(つづく)
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2010年10月13日 (水)

戦争の甘美な記憶

家内やはり歯が痛んで食事がまともにできない。
三島歯科に電話すると今日は定休日、仕方がないので明日に治療予約する。

今朝は気温17度とまずまず。

今朝の中国新聞をめくっていると、”戦争の甘美な記憶”という大きな見出しが見える。
なんだろうと内容を読んでみると中山茅集子という84歳の作家の短編集「魚の時間」の書評らしい。
環境も違う、しかも女性の体験した戦争所感だから、ピンとくるものは多くはないが、現在と比較してこの私にも戦時中の生活の中にも何か甘美なものが存在するその意識を否定するものではない。

平和を金科玉条のごとく謳歌している昨今だが、果たしてこの現在が平和な世界なのだろうか。
あまりにも堕落と汚辱にまみれ、かけ声と現実は矛盾に満ちている。甘美というような社会は見えてこない。
若き日体験した時代が近いだけに、何か共感する所がありそうである。

たまたま読み終えた”終わらざる夏”の読後感も主人公たちが悲惨な運命を閉じるにもかかわらず、割と爽やかである。東安省斐徳という私が初年兵から3年間過ごした兵舎以外に何もない曠野の中の、戦車聯隊から端を発した小説だけに変わった興味もあった。一部でも事実を知っていたということだろうか。

ひどい鉄拳制裁に泣かされた軍隊生活も、今となっては人間としての虚飾を奪われた生身の体験が、ほろ苦くまた甘美な思い出となっていることに気づかざるを得ない。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その101)

患者の乗艦が始まると艦上からは水兵たちが,艇内からは舟艇隊員と上と下とで協力しながら患者を艦上に引き揚げた。代わりに駆逐艦から上陸部隊の将兵が急いで大発動艇に乗り込み、これが終るかいなや艇長はフィンシの港口目指して艇を走らせた。この間敵の吊り星は間断なく投下され,沖合に漂泊している駆逐艦の全姿がはっきりと映し出されていた。その中に大発動艇はまっしぐらに陸岸に向って走り,部隊の将兵を急いで揚陸をし終えると再び駆逐艦に向って引き返す.今度は軍需品と残りの将兵の搭載である。この軍需品の中に大きな缶詰の重い箱があって、これを積み込もうとした時積載の作業をしていた陸軍の兵士たちがこれは陸軍の物ではないと怒って艇への積み込みをしなかった。
これは、この度の輸送作戦には海軍の少数の海兵がこちらに基地を作る為にフィンシに派遣されていたので,この缶詰の荷物は海軍の食料品であったようだった。

海軍と陸軍の日頃の生活様式の違いが、こんなことではっきり現れたのである。陸軍の糧抹はすべて軽量にしてあり,一梱包が22kgくらいで野戦で体力を消耗した兵士でも運ぶ事が出来る重量に総て梱包してあった。陸軍は歩く事が本分であるので、全ての糧抹は軽量であって野菜等は乾燥した物である。行軍には何日分かのこれを背嚢に詰めて,徒歩で一歩一歩歩かねばならないからである。(つづく)
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2010年10月14日 (木)

ゴミ捨て談義

前月捨て損なったカセットテープの約半分を朝8時、故障廃棄した電気ケトルと一緒に私が捨てに行く。
今度は大丈夫だろう。カセットテープもケースを外して中のテープだけにしたので、二袋に収まったし。
ケトルは33cmあるので2百円の証紙を貼らなければならなかったが。

iMacの古い奴を捨てようかどうしようか今迷っている。捨て賃を大分取られるだろうな。
OS9.22だから、古いソフトはこれでないと開かないから、無くしてしまうと困ることがあるかもしれないし、悩みはつきない。
古い写真だけは、全部先般1ヶ月かかって、変換を終わったのではあるが、スキャンした古文書などがまだ残っているしどうするかなあ。

昨今は条例でゴミを自宅で焼却が出来なくなった。
焼却炉はもう何年かそのままションボリと裏庭にたたずんでいる。
ゴミに出すよりはうんと手っ取り早いもののあるのだが、処罰されるのではかなわない。
ゴミとして捨てる量は増える一方である。炭酸ガスはどこかで増えているわけだろうが、何故勝手に燃やしては悪いのか私にはよくわからない。
剪定して袋詰めで捨てる木の枝や葉の量など毎回馬鹿にならない。

植木を止めて、芝生にするかと夫婦で話し合うことも屢だが、これとて手入れが大変らしいし。
ままならぬこと多しである。

千個の音楽カセットは何とか片付きそうだが、ビデオカセットが大変である。
最近は催眠剤と思って、横になりながらセッセと観賞しているのだが、変わった面白さがあっていいものである。
従って捨てる所まで気持ちが行きそうに無い。
これはもう子孫に任せる意外にはなさそうである。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その102)

海軍はこの点艦上の生活であるから,どこに行くにも常に倉庫が身近にある。いはば、衣食住付きの生活である。これに比べて陸軍では衣類は川の流れで洗い,三尺四方の携帯天幕を住処とし,金平糖入りの乾パンが食となる。これで天候の如何に拘らず天然自然のままに行動する。だからあの重い缶詰の箱を見たとき頭に血が上って、これを放り投げた陸兵の気持ちがよく判ったのである。

さて、この揚陸の作業には陸と海軍のトラブルが起りやすい。駆逐艦に取っては本来の任務を放棄して,人員、軍需品等の輸送をする訳であるから,面白くないのは当然のことである。この時のフィンシ港でも駆逐艦の後尾甲板付近で陸、海軍の兵たちが声高に言い争っている声がしていた。これは、海軍の水兵が駆逐艦に積み込んで来たオートバイを揚げろといい,陸軍の兵は揚げないとつっぱねていた。
先刻の缶詰に続いてこの度はオートバイが言い争いの種になっていた。一刻を争う時であってもこんな事はしばしば起きていた。
お互いによく判っている事であったが,海軍はその人数に比べて軍需品等を多く持って居り,これを見て陸軍の舟艇隊員が気に食わないと思ったことから起きたトラブルの様だった。(つづく)
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2010年10月15日 (金)

広島城天守閣

朝6時半気温18度と割と暖かい。風もない。
昨日三島、今日は東広島市民病院と家内は連日医者通いがつづく。
老人とはそれ自体が病身みたいなものだから仕方が無いな。

今朝の新聞を見ると、別府の杉の井ホテルが割安広告を出している。過去に何度か泊まった経験のある大きなホテルである。
来月の1、2日がいいから申し込んでおくかと、家内と相談しパソコンで検索してみると空き部屋の表示がない。
電話で問い合わせて見ようかと思ったが、せいてはことを仕損ずると思いとどまる。
別府にはいくらでもあるから、急ぐ必要はない。

最近は近郊にも温泉と名乗るものが沢山あるが、効能的にはやはり別府が安心だ。
山陰に足を延ばせば玉造など数は多い。3日ぐらいはゆっくりお湯につかりたいから、本物でないとだめだ。
時間の合間に見物ということになるとやはり別府かなあ。

チリの鉱山落盤事故で生き埋めになった33人は、69日ぶりに2日間にわたって地下700米から全員帰ってきた。何よりおめでたい。皆注目していただけに成功してよかった。

11時過ぎ家内を送って広島の病院出張所まで行く。
午後1時に紙屋町で落ち合うことにして、私は久しぶりに広島城址公園を訪れる。
護国神社にも90歳の厄よけを祈願し、城のたたずまいを眺める。
戦前のものは一度か二度見たきりだから、まるきりおぼえていないが、こんなみすぼらしいものだったかなあとふと思う。

もっとも松江城なんかも戦前訪れた写真が残っているが、素朴な感じのもので、いかめしいお城と云った風情は無いからこんなものだったのだろう。
姫路城などやはり例外なのだ。

家内とメルパルクで落ち合って食事をすませ、近くのデパートでちょろちょろと買い物を済ませてさっさと帰宅する。老人はこれだけでも結構疲れるものである。家内も数値が少し悪くなったと元気が無い。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その103)

ましてラバウルとニューギニア島とではあらゆる面で状況が違っている。ここフィンシではオートバイ等は絶対使えないことは判っている。どんなに考えてもこれは無用の長物なので、舟艇隊員はこの揚陸を拒否した訳である。しかし、2、3人の海兵がしゃにむに艇に降ろそうとした為に争いになったのである。この争いも舟艇隊員がこのオートバイを受け取るや否や、これを海中に放り込んだことで落着となった。
舟艇隊員は誰もこの地ではオートバイなんかより緊急に必要な物が沢山あることを深刻に体験しているからである。

こんなことを敵機の下で何時迄も争っている暇は無く,食糧品の大きな梱包がまだ甲板に残されていたが,艇は咄嗟に反転して陸岸に向って発進した。

後々の公開戦史にはこの第2回のフィンシに対しての駆逐艦輸送は,約800名の兵員と,軍需品を揚陸したと記してあった。しかし実際には敵機の爆撃で駆逐艦1隻が沈没していたが、この戦史では全館無事にラバウルに帰投したと記録されている。(つづく)
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2010年10月16日 (土)

ぼつぼつもう冬支度か

今朝7時の気温13度と最低。

夜中に膝に錐をさすような痛み、驚いて飛び起きる。枕元の壁掛けのデジタル時計を見ると4時6分、気温が19度となっている。
膝におそるおそる手をやってみるとひんやりする。体も寒い。夏掛け2枚では寒かったらしい。少しずれてたかもしれないし。慌てて側にあった夏掛けもう1枚を上に装う。

うずくような痛さだからサポーターを探す。引き出しを片っ端から抜き差しする。先頃死んだ妹の大きな写真が笑いかける。お前じゃあ無いよといいながら探すが無い。下の階の薬箱の側に置いた気がする。
下に降りて真っ暗な今ごそごそやってると、家内が泥棒と間違えて驚くだろう。
やめとくか。
湿布薬があったので、それを貼ることにする。
じーっとしていると、そのうち痛みは治まる。
昼間の城址公園を歩き回ったのがこたえたらしい。歩くこともだんだん難しくなる。そのうち歩けなくなるのか、情けない。

それにしても昨夜寝床に入ると間もなくぶーんと蚊の音。蚊取り線香を引っ張り出して火をつけた。
変な季節だなあ。

午後は快調、一人で買い物に出る。
雲が出て日射しがなくなり、少し寒くなる。干していた布団など素早く取り込む。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その104)

その後第2回目のフィンシの駆逐艦揚陸の作業が行われるという事で、この港で待機していたが駆逐艦はその予定日の4月2日には遂にその姿を現す事はなかった。そして戦史にはこの駆逐艦は敵機と接触しこの攻撃を受けたため,途中で反転してこの輸送は中止されたと述べている。確かに3月末には既に敵機の哨戒が厳重で,仮令暗夜でも艦船の航行は困難になっていた。
前記の様にラバウルからフィンシに向けての駆逐艦の輸送は遂に断念せざるを得ない状況となった。そしてその後は専ら大発艇による沿岸輸送に頼らざるを得ない状況となった。

3月27日ラバウルに於いて陸海軍の協定で決められた駆逐艦輸送は5月上旬までに,兵員4,200名、軍需品350tという計画だったが,3月27日の唯1回の輸送が実現しただけで、爾後には全く実施されていない。(つづく)
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2010年10月17日 (日)

いい陽気だね

朝7時気温12度、急に下がり始めた。快晴の青空だから放射冷却かもしれない。
昨夜は冬布団にして寝たのだが、今朝はそれでも結構冷えた。
おかげで早朝膝がまた痛み始め、しばらくうずいて眠られなかった。宿痾となったのかもしれない。

家内は午後昔のお茶の仲間かなにかと、どこかの招待を受けたと云って出かける。
おしゃべりコンクールでもやるのだろう。

こちらは久しぶりに古いビデオを出して、DVDにダビングする。
結構画質も劣化してないで、しっかり見られる。”地獄の黙示録”というのだが、傑作戦争映画と一時評判だったのではないかと思うが、今見るとよくわからないね。見る側の観賞眼が凄く低下しているから、どうしようもないことだが。

ぽかぽかといい陽気である。一歩も出ないで部屋に閉じこもって居ると、縦でいても横になっていても目は塞がるばかりである。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その105)

当時ラエ方面の陸軍部隊の総員数は6300余名と云われて居り、その主な部隊は南海部隊、独立混成第11旅団及び岡部支隊であった。いずれの部隊も損耗が大きく又悪疫に悩まされていて,その戦力は殆ど無いに等しかった。思えば第81号作戦の失敗は爾後のこの方面での作戦に大きな齟齬を来したといっても過言ではない。
4月5日夜、フィンシの舟艇隊は前回と同様に日没後舟艇に患者を乗せて,沖に出て吊り星の落下する明るい空の下で待機していたが、ここの海上に対して敵機の警戒は厳重を極め,到底駆逐艦を絶対に湾内に寄せ付けない状況であった。そしてこの夜は敵機の地上攻撃が特に激しくフィンシ付近に後送のため集められた患者又前進する為に集結待機していた部隊は,危険を避けてフィンシ港付近を離れて,比較的安全に思われるフィンシとプブイ河との中間地区の椰子林の中に露営していた。以前からこの地区を狙っていた敵機はこの夜焼夷弾の集中攻撃を掛けて,広々とした椰子林一帯を完全に焼き払った。後々この夜の事をフィンシの焼き討ちと語り合った。
当時の焼夷弾が放った炎は天をも焦がす程強烈なものであった。
美しい椰子林は一夜にして焦土と化し,黒焦げとなった椰子の樹木のみがこの辺り一面に天に向かって寂しく突っ立っていた。ラエ戦線に向う部隊の格好な快適な休養の場が,この夜限りで全く無くなってしまった。(つづく)
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2010年10月18日 (月)

中国の反日デモ

朝7時ガス少しかかって、気温も14度と戻り気味。

またまた中国で反日デモ。広い国だから、野方図に自由にさせては不可ない国なのかもしれない。
もっともどこの国でも、笑いかけてる人、つばを引っ掛ける人がいるのは仕方が無いか。
ジャーナリストが誇大に宣伝するのが一番悪い。
平和を念願するなら、新聞でトップ記事にしないで欲しい。

そこへ行くと、チリの鉱山落盤事故は世界中が報道で大騒ぎし、33名の助かった労働者は英雄気取りだそうだ。
こんなのはトップ記事で良いし、要はジャーナリストの見識の違いということか。

昨日は家内はお花の先生の招きで昔の仲間が誘い合わせて集まったらしい。お茶というのは間違っていた。もっとも家内が言い間違えたようなのだが。
先生が凄く喜んでくれて楽しかったそうな。おんなはやさしいのが特技だから老先生をさぞかし労れたことだろう。
男は素っ気なくて、こんなのは駄目だが。

2時家内の用事で三島歯科やせいこう外科に回って、昼休みで入れてもらえないので、時間つぶしににスーパーで食品を買う。
自分の感で買いあさるのだから、めちゃくちゃである。

医者は時間励行で休みもきちっと取る。スーパーは夜遅くまで働き詰めで休みはない。
どこでこんな違いが出てきたのだろう。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その106)

我々舟艇部隊はその露営地を幸いにフィンシのプブイ河口に置いていたので,この難を免れることが出来たのであった。爾後フィンシのプブイ河の河口は大発舟艇隊の中継基地としてのみ使用する事となり,茲に舟艇隊の中隊本部を設置する事とした。このプブイ河はフィンシ港の南方約4km付近をダンピール海峡に向って流れている。この河はランゲマック湾に注いで居り,幅5,60mの急流である。そして特に干潮時は流れが速くなる。
その河口から300kmの間は両岸は共に5乃至10kmの断崖が続いていた。そしてその上には熱帯の大きな樹木が覆いかぶさって,格好の舟艇の秘匿基地となっている。以前3月2日の夜ラエに上陸した後3月末には,この地をダンピール海峡横断のニューギニア側の基地として選んだのであった。フィンシ港は揚陸の為にはこの東部ニューギニア島では最も便利の良い港であった。これは平和の時の話しであって、当時の様に敵に制空、制海権をを奪われていたこの時期では、ここは敵に最も目をつけられていた地区だったので残念ながら基地としては使えなかった。
兎に角戦場では利用がし易く、生活その他で便利な所は逆に危険の度合いが高かった。
例えば家があるからと云って安易にこれを利用し,舟艇を付け易いからといってそこを基地等に利用すると必ず失敗を招く。これは軍隊での行動の常識であった。いかに困難が伴っても常に敵の意表に出ることが肝腎である。一を得るには十の努力が要ると云うし、無駄無しでは成功は得られない。(つづく)
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2010年10月19日 (火)

「醒めた炎」について

朝曇りか、今朝も霞んで上空は見えない。7時半気温15.5度。

村松剛著の「醒めた炎」については、2005.12.10以来、何度かこのブログに書き込んだ。
未だに検索してくれる人が後を絶たない。

もっとも「龍馬伝」に刺激されての検索だろうとは思うが、最近特に激しい。

木戸孝允については、既に私の子供の頃から「木戸公伝」という大册が出版されていたし、中学時代にも学校の図書館で見かけたものである。簡単には読めそうにも無いし、読了したことも無かったので内容は知らないが、概ね彼の伝記としては完璧なものだろうと思っていた。

私は偶々地元の図書館で「醒めた炎」という不思議な題名で木戸孝允の副題のついた大册を見つけた。
借りて読むうち、非常にその生涯が面白かっただけでなく、単なる幕末の志士の伝記ではないことに気づいた。

まず一番に出来うる限り虚構をさけて事実を追求したと作者は後記している。だから面白くはない筈である。
しかし事実は誠に奇である。

司馬遼太郎は”逃げの小五郎”などという、面白、おかしい小説を書いて、彼の生き様を酷評している。
維新後は何程の能力も発揮しなかったとは、司馬さんも少しひどすぎる。

彼は苦境の長州で期待され、待ちわびられ、表舞台に立つや彼でなければ出来ない政治動向を作ってしまった。
幕末の薩長同盟しかり、維新後の版籍奉還・廃藩置県しかりである。彼一人の功績と云っても過言ではない。
・まず主君たる毛利藩主をくどいて政権を返上させ、大久保を助けてその意思の無い島津久光を返上に追い込み、他の諸公に右に倣えさせた功績は、他に比類が無い。
鶴の一声とか、生殺与奪とか、絶対の主権を持つ殿様を口説き、承諾させるのである。簡単に想像しうる状態ではない。

政権の一新はこれで初めて出来上がったといってよい、しかも平和裏に実行された。諸侯をなくしなければ民主国家の成立はかなり遅れたことであろう。

西郷が江戸の壊滅を救った、木戸が中央集権政府を作った。
議論はいくらあっても、これこそが英雄の仕事だったと私は思う。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その107)

この河の右岸側は特に基地としての条件を整えている。断崖は切り立って居り,沿岸の水捌けはよくて湿地が少ない。流域の密林の中を1,2m程の小さな地隙が沢山あり,水は平素はないが降雨の時はこの地隙が水の捌け口になった。そして露営するには最適の地形で,天然の壕に入っている様で,敵機の襲撃が自然に擁護されることとなった。

舟艇隊員は2、3人が一組となって携帯天幕を張り分散してこの地隙に露営した。そして更に何処で露営するにしても先ず上空から遮蔽される場所を選び,次には敵の火力を避けられる天然の地形を求めた。この様な条件を満たすことのできる所は、一般的に云って露営する者に取っては健康的には良くないのが通例であるが、この点このプブイ河畔は場所として露営するには好適な場所であった。
この舟艇隊の行動は昼間には寝ていて夜間に行動するのが建前であったが、こんな生活は健康には良くない.為に日増しに体力は消耗して行き神経ばかりが鋭敏になってきた。しかしラバウルからの援軍が到着して以来は,隊員が増えた事で毎日の作業も楽になり,日々の生活にも張りが出て来たようであった。(つづく)
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2010年10月20日 (水)

白菊会(献体者の会)総会出席

今朝は白菊会のことがあって、5時に目が覚めとうとう眠れない。
別に大したことではないと思っていても、初めて出席するということは気になるものである。
6時には起き出して支度を始める。
見ず知らずのものがただ献体するというだけで何百人か集まるのである。
私から見るとやはり不思議な出会いである。

徳川時代の中頃オランダ医学が盛んになり、人体解剖により急速に医学が進歩したということは、学びもし聞き知っている。当時は死刑囚の死体を貰ってきて解剖したのが始まりだとも聞いている。

私の言う献体はもちろんご存知の通り、病死した自分の体を医学の研究者たちに、どうぞ解剖して研究してくださいと、差し出すことを約束したことである。

無報酬でどうぞ存分にというのだから、よく考えるとやはり役に立つらしい。
魂の抜けた屍体は一応厄介な代物である。
葬式も簡単にすむから楽でいいなと、大それた気持ちは全然なしに献体に応募した。
献体者が多いからといって2年間放置された。3年目に抽選に合格されたがどうしますかと、広島大学から連絡があり、もちろん異議なくお受けして白菊会というのに入会した。

最初に申し込む時に兄弟や妻子に承諾させろとか、印鑑を貰って書類を出せとか、仰々しいのに驚いた次第だった。
しかし今日初めて総会に出てみて、解剖実習をやった学生たちにこもごも、勉強に役立ったと礼を言われると、恐れ入る気持ちにやっとさせられた。

死んでもまだ世の中の役に立つというのは、いいな。
昔戦場で弾丸や爆撃で沢山死んだ。病に倒れて野山にのたれ死にした兵隊も沢山見た。
もの凄い蛆の固まりとなって地に帰って行った。

今はすぐ焼いてしまうからそれでもいい。
でも役に立つと言われるとほんとに嬉しい。
今日はいい思い出をさせてもらった。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その108) 

プブイ基地での生活と思い出

プブイ基地付近にラワン材の製材工場があった。隊員たちは散在されたままに放置されていた板を持ち帰って、地隙に渡して敷いてその上に横になって寝た。又近くに牧場があってここに持ち主のない牛が5、6頭放たれていたし、またこの他にペリカンも数羽さまよっていた。ここの土着の住民の話しではこの牧場はドイツ人が経営していたが,この戦争の開戦間もなく連合軍に強制収容されたとの話しであった。もしこの度の戦争が起きなければ、ここは誠に静かな平和境であり、詩にも歌われそうな美しい風景だったであろうと思った。

舟艇隊はここ暫くの間この地を基地として,兵員のダンピール海峡横断輸送に従事していた。敵偵察機は相変わらずに毎日定期的に上空に飛来して来た。いつものお馴染みのコンソリデーテッドB24型機である。ここに基地を開いた後暫くは襲撃を受けなかったが,10日も経たぬうちに激しい攻撃がまた始まった。
折角良い基地が見つかったと喜んでいたのも束の間のことであった。艇を上流の方に隠そうと試みたが,其処は水深が極端に浅く艇を入れる事ができなかった。やむを得ず現在の場所を改善して利用することとした。(つづく)
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2010年10月22日 (金)

草莽の記録

雲の多い朝、気温17度とまあまあの天気、午後には晴れるとの予報だが。
排水管清掃工事に来てくれることになってるから、天気が良くないと困る。
娘も立ち会いに来てくれることになってるし。

今朝は珍しく早朝膝が痛まなかった。なんだかおかしい。
毎朝早く苦っていた膝の関節が何でも無いとはなんだか不思議な気持ち。
いいことなんだが。
老人というのはいろいろあるな。なってみないと解らないことだらけだ。

目が薄くなる、耳が遠くなる、忘れっぽくなる、皆歳のせいである。勘も鈍くなるな。

私の日課はパソコンのマウスを動かすことから始まる。
朝起きるとすぐからである。思い返してみると、用事がない時はいつもパソコンが開いている。
役所や会社のパソコン並みと云ってよいかもしれない。もちろん作業容量は比較にはならないが。
それでも器械を無駄に買い置いている訳でないことは確かである。

パソコンを使い始めてから満16年。保存した記録は馬鹿にならない。
ただ、この記録も空しい物になるかどうか、死を前にして一番気がかりなことである。
例えば、あの文化撩乱たる江戸時代においても、沢山の文化の果実が残されているようだが、もの言わぬ農民以下の庶民の記録はほとんど無に等しい。
上流階級に属する一般武士の記録も伺い知るには足りない。
尾張藩士が書き残した、”元禄お畳奉行の日記”などはその赤裸裸さ加減から云っても、珠玉の記録といってよい。
もちろんお呼びもつかないが、庶民の一時代の風物詩として残されればと、こいねがう物である。

今この日記の後につけて、ブログに掲載している親友今田勇君編集の故吉田武中尉の遺作メモはもう延々1年になる。
膨大な物だが、あの祖国興亡を担って戦った一兵士の戦場記録を、上記のような私の念願から、捨てるにしのびぬ思いを込めて掲載している。

公開してあるのだから、簡単にコピーできる。心ある人は是非自家薬籠中の物として記録に加えて欲しいのである。

今私が読み返している”醒めた炎”もそのほとんどの行動の裏付けが、残された本人たちの手紙にもとづいている。
虚構の入る余地は全くない。幕末の志士桂小五郎=明治維新三傑の一人木戸孝允の素面が遺憾なく描写された良い歴史書である。

10時前からスリーエスの排水管清掃工事が始まり、娘も来てくれて予定通りきちっとすませてくれる。
床下の基礎の二カ所の礎石が壊れかけているのが見つかり、修理などに10万円ばかりかかることになる。
余分な金仕事をうまく見つけられた。さすがは業者である。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その109)

幸いにも艇を断崖の下に横付けにする事が出来た。また河幅が比較的に狭いので,数度のわたる敵機の機銃掃射にもその弾は艇の上の方にそれて安全であった。艇隊員は近くの地隙に潜っていたので、銃撃にも爆撃に対しても何とか被害を受けずにすんだ。この度の敵機はノースアメリカンB26型機で、河口方面から低空で浸入して,川筋に沿って銃撃をし小型爆弾を投下しつつ上流に向って去って行った。そしてこの襲撃は毎度の事であるが数回繰り返していた。

舟艇隊員は何時もの通り昼間に仮眠した。初めの頃には敵機は朝と夕方との2回に来襲していたが、そのうちに昼間でも襲って来る様になって,昼間といえども安心して仮眠を取る訳にいかなくなった。そしてこの後は何時何処ででも,横になって仮眠をし身体を休める様にしていたが、この不規則な生活では体力が落ちて行くのはどう仕様もないことであった。兎に角舟艇を操作したりその他の作業をするとき以外は,起きている事がひどく辛く感ずる様になってきた。(つづく)
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2010年10月23日 (土)

インターネットの故障?

昨日は夕方インターネットにつながらず、何が原因なのか解らず困った。
結局光配線の屋内機器のスイッチが落ちていたことが原因と解り一件落着した。
娘が掃除してくれたとき偶然スイッチに触れたのだろうと推論した。
どのパソコンも皆ネットにつながらないので自ずから根元にたどり着いた訳だが、複数パソコンを置いておくというのもたまにはいいこともある。

それにしても、ネットは光ファイバーで送られてきてるんだったかナーと、ひとしきり思い返すことになった。
恩恵に慣れきると、何でもなくネットにつながっていると思ってしまっていたのだが、うかつなことだった。

15年前にはネットに入るだけでも、いろいろな設定を駆使し、やっとの思いでパソコン通信なるものをマスターし、時々刻々と積み重なり行く秒針を気にしながら、1分いくらのネット接続を果たし、大急ぎで終わる日課が続いたものである。馬鹿にならない電話料金だった。

最近は物忘れがひどくなって、ソフトの役割や、使い方までだんだん解らなくなってきた。
ひと月も使っていないとどうだったかなと迷うくらい。
ぼつぼつパソコンも限界に来たなと感じ始めている今日この頃である。

家内は公民館祭りに行くと行って出て行く。お茶を呼ばれるのだそうだ。何が面白いのかよくわからない。
関心がまるきり無いので、何度も質問して怒られる。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その110)

そしてある日、昼間に敵機の襲撃を受けて地隙に入っていた時,小型の爆弾だったが至近弾を受けた.地隙内に張ってあった天幕が支柱や床板諸共吹き飛ばされて全くの丸裸にされてしまった。敵機が去って見ると私の身体は地隙の外に飛ばされている事が判った。その後一ヶ月くらいは此のとき打ったのだろうか腰痛が続き,その後崖伝いに舟艇の係留場所に下りるのが苦痛になった。そして他の隊員の何人かも同じ目にあったらしく、それからはお前もかと言い合いつつ,隊員一同は落着いて露営の夢を見る事ができなくなった。

4月半ばになると手持ちの食糧が不足がちになってきた。そして眠れない夜が何日も続いたが,此の悪条件の中にあっても夜になると何時もの様に艇を海上に出さなければならなかった。これで日増しに患者が増えて行き,残った元気な艇員はこの身体の弱った者を艇から下し,崖の上に引き揚げるのは大変なことであった。
この為身体の弱った者は勢い舟艇に乗りっぱなしとなり、この様に艇の中で寝起きすることはどう考えても健康に良い筈はなかった。(つづく)
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2010年10月24日 (日)

記録と小説

朝既に雨しとしと、気温18度。行楽日和とはならない。
食事を終わるとパソコンに余念がない。
今日は古いカメラのメモリを改めてこの新しいMac Miniに入力する。
容量が大きいから、pictureだけなら私の全持ち物を入れても大丈夫だ。またそのつもりでこのパソコンを買ったのだから。ただメモリー式のものは簡単だが、scanを要する写真などは大変だな。何十年にも亘るから一朝一夕には片付かない。残り一生をかけて果たしてどうだろう。

パソコンに疲れ、飽きると今度は読書。目下”醒めた炎”を読み繋いでいる。
大佛次郎の”天皇の世紀”と同じように、残された記録の羅列が多い。従って前に後ろに推測が限りなく続く。
読者には煩わしいこと限りない。しかしこの推測推量が何とも言えず含蓄がこもって面白い。

現代は印刷とコンピューターだが、江戸から明治にかけて記録の大部分は書簡である。
読みほどくのも大変だが、その関連を探り、事実を推測するとなるとさらに難しい。
作者とともに読者も悩まなければならない。

肉体的疲労はただならない。若さが欲しい。
頭脳も霞がかかって、判別機能は定かではない。前を読み返すこともむつかしい。
所詮無駄な読書なんだな。

頼山陽は偉大だな。ほとんど噂程度の記録(いや伝承かな)をもとに、日本外史などという歴史書みたいなものを書き残した。今で言えば小説だろう。
しかし”天皇の世紀”や”醒めた炎”は全くそれとは違う。面白くはないが面白いのである。事実は小説より奇なりというが正にそれである。しかし簡単に読める代物ではない。小説でない所以というところか。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その111)

フィンシ付近の緯度は南度6度半でいわば赤道直下に当たるが,夜になるとかなり冷えて来るし艇の底は湿気が強い.おまけに大陽の熱は艇内に伝わって来ないし,その上昼夜を問わず蚊の襲撃を受ける.時折激しく降るスコールに艇は何時も水浸しになって,これで濡れた衣服は着たままで自分の体温で乾くのを待つ以外に仕方がない。舟艇隊の生活はどうしても湿気から逃れる事の出来ない宿命を負ってる様だと思った。ここでは風呂に入る事は無く,歯も全く磨く事もないので,誰もが一種独特の異臭を身につけ、この臭いは身体の芯まで染み込んでいる様であった。
或る朝の事,艇に残っていた葛本上等兵がもう駄目だという知らせがあった。この駄目だというのは死亡したということであろうと思い、直ちに八木軍医少尉と一緒に艇に急いだ。ここ数日来彼は弱り切って食事もとらず全く寝たきりの状態だった。八木軍医が脈を取って見るが,全く打っていないという。呼びかけて見たが全く反応はなかった。息も止まったままで無論動きも全く無いらしく,軍医はもう駄目な様に思うが今暫くはこのままにして置きましょうと言った。(つづく)
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2010年10月25日 (月)

日記と記憶

小雨が降り続く。朝7時気温17度。

今ここに連載している吉田武中尉のメモを読んでいると、よくもあの激烈な戦場でこんなに細かに書き残したものだとつくづく感心する。私も同じような環境にいた訳だから、その意思さえあれば書き残せたと思う。怠惰に毎日を過ごしたのかと思うと恥ずかしい。
絶えず移動を繰り返していたし、決まった時間的余裕が無かったせいかもしれない。
いつも筆記具を身辺に携帯しなければならないし、心がけも悪かったのだろう。
カメラは最初いつも持ち歩いたが、現像焼付けの機会が無いので写しても仕方が無かった。後には鞄の底に収まってしまった。

日記などというものは、時間もだが、一人になる場所が無いと書けない。思考も浮かばない。
その差が吉田中尉と私の違いだろう。
私の場合寝ても覚めても伝令が2人身近く同居していた。戦争最中だから仕方が無い。
夢を見るくらいしか孤独な時間はなかった。
それでも百点ぐらいのフィルムネガは最後まで保持していたのだが、捕虜の身体検査の時没収は免れないだろうから予め焼却するよう内命があったので、その通り1枚残らず焼却した。

作戦地への出動前の半年ぐらいの官舎生活中は孤独な時間もあったし、日記や写真整理も出来たが、今度は出動と同時に私物一切を内地に送り返して、米軍の爆撃により家諸共壊滅した。

こんな例は私一人ではなく、全国では無数にあるのでは。
吉田中尉はその点失うこと無く、今日まで残せたのは幸運以外の何ものでもないといえる。

ただ戦記全文には、後日資料を調べて書き加えた文面が各所に見えるから、正確にはメモそのものではない。
その点は私も同様である。
写真を写すように時々刻々と日記を書く訳には行かないのは当然である。
記憶の反芻の間に、正確と思われる資料を投入する。これまた当然の作業である。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その112)

昼過ぎに様子を見に行ったがまだ死亡していないのか,何となく身体に温もりがある様に感じた。勿論意識は全く無くもう駄目だと言われつつ数日がたったが、なかなか死んだとは言い切れない状態が続いた。今までにこの度と同じ状況で亡くなった者が何人かいたが、どう仕様もない事で,「座して死を待つ」といった言葉通りであった。
此の方面に第3中隊が転じてから全員が栄養失調や,マラリヤ等による発熱、そして熱帯性の潰瘍に悩まされ,死亡する10日又は2週間位は口も聞けない状態になった。そして朝な夕なに死生の間をさまよい続けて、ローソクの灯が消える様に死んで行くのがいつものことであった。
そして数日後葛本上等兵は既に死亡していることが確認されたので,遺骨の代わりとして彼の小指を末関節から切り落として携帯燃料の空き缶に入れて遺骨とした。
ここでは僅かでも煙を立てると敵機の攻撃の目標になるので、火葬に付することは出来なかった。一旦煙を出すと敵機は其処を目標にして、その後何時迄も襲撃を繰り返されることとなるので、絶対に一寸でも煙を出してはならないのである。(つづく)
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2010年10月26日 (火)

降ったり照ったり狐の嫁入り

ようやく雨上がりいい天気になりそう。気温17度と変わらず。
時々朝日がかーっと雲間から顔を出して部屋の中まで射し込む。
2日間よく降ったから、蘇生の思い。

今日は薬が切れたから内藤内科に出かけなくてはならない。家内も三島歯科に予約がある。
相変わらず忙しいのは医者通いばかり。

家内がツアーで京都のもみじを見に行くという。
一泊でバス旅行、知恩院、三千院、嵐山、長岡京と広範囲なので、膝の痛みが再発する恐れがある私は棄権する。妹等二人に声をかけて一緒に行くことにしたらしい。
京都の紅葉はどこも混むから嫌だ。
もっともこの月末の29日というから少し遅すぎる気はするが。

今年の春遥々訪れた奥州の千年、千二百年の二つの桜は、共に老醜無残喜びより哀れさを感じたが、まもまくゆく年を華やかに彩るもみじにはその憂いはない。ただ散りつもる色とりどりの葉のにぎわいは若干の寂しさを蔵してはいるが。

少し風が出て、空は雲の去来が忙しい。そのうちぱらぱらと降って来る。
狐の嫁入りだ。
家内を三島につれて行き長くかかりそうなので、私は内藤内科に行く。
血液検査の血を抜かれる。
昼飯はとうとう1時になる。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その113)

フインシ及びプブイ河の舟艇基地での部隊の出入りは激しかったが患者の収容所は置いていなかった。ラエ及び対岸のツルブには設けられていたので、此の舟艇隊の患者も殆どの者をこの2ヶ所の収容所に送り込んだ。しかし間にあわずに艇上で死亡した者もあり、葛本上等兵もその一人であった。彼の小指の一片が入った缶は常に私の腰にぶらさがっていて何時も私と一緒に歩いた。火葬も出来なかった代わりにこうでもしてやらねば気が済まなかったのであった。

兎に角ここの戦場ではどんな事態になっても、火を焚いて煙を出す事は絶対に許されない事であった。例えば煙草の煙にまで神経を払いその煙を手で払い散らすとか、夜間には不用意にもマッチを擦ったりすると、回りの者はぎょっとして誰かが必ず大きな声で怒鳴った。そして其処の回りには兵士たちの緊張した鋭い眼が突き刺さって、身の置き所もない雰囲気になってくるのである。この様に灯りに付いては誰もが極度に神経質になっていた。お互いに気をつけ合っていたが、灯りに付いての失策は只の一回たりとても許される事ではなかった。そしてこの失策は茲に居る者の死に直結しているからである。(つづく)
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2010年10月27日 (水)

カセットテープを捨て今度はビデオテープ

朝7時気温8度に驚く。そういえば今朝方寒くてなかなか床離れが出来なかった。
家内がこれを着ろとセーターを2、3枚持って寝てる部屋に入って来る。それで起こされる。

ぼつぼつストーヴが要るなと思ってた所へこの寒気。決心がつく。
倉庫からストーヴを運び込んだり、カセットテープの残りを倉庫に持ち込んだり一仕事始めることになる。

床下の換気と基礎の補修も29日やってもらうのに、あちら任せには出来ないので、私も潜って確認をする準備をする。鉛管服は捨てたと家内が言うから、代わりの作業衣を探したり忙しい。
家内は危ぶんで、今の体で潜れるのかしらというから、寝転んで這うだけだから大丈夫だよと答える。

朝のうちは晴れてたのにいつの間にか雲が出て空を埋め尽くす。
午後はすっかり朝の寒さに戻る。15度ちょっとしかない。

ビデオテープの捨てる予定のものを拾い上げて、セットして見始める。結構よく写っていて捨てるのは惜しい。
1991年9月に放送されたキャサリン・ヘップバーンとケーリー・グラントの白黒のコメディ映画だ。
彼らの若かりし時代と見え、人違いするほど。
廃棄するのもやはりかなりの決心がいるらしい。

広電へ買い物に行ったが、この寒さでは人出は少ない。
食堂でうどん1杯食ってそうそうに帰宅。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その114)

敵機、敵艦船、現地人のスパイには必要以上に細かい神経を払った。生き残る為にはいくら神経を擦り減らし、また体力を消耗しようともこれを厭わなかった。
飯盒炊爨にあたっては裸火を外に出さない様に、常に夜間にはその火を遮蔽して炊いた。この様に昼は煙、夜は灯りとこれらには万全の注意を払ったが、これが戦場で生き延びる為の最小限度の条件であった。こんな訳で戦友が死亡しても火葬にする事は出来なかった。煙を少しでも出さない様にと浜辺に出て其処に打ち上がっている木片を拾った。白骨の様になっている木片は、木の精が全く抜けているのか火をつけても殆ど煙が出なかった。これを叩くとカンカンと軽い音を出した。何年もの間天日に晒され波に打たれたものは、人骨にそっくりであった。
昭和18年6月以降には中隊本部は対岸のブッシング河の辺りに移動したが9月上旬に第51師団がラエを撤退するまで中隊は依然としてラエ-プブイ-ブッシング-ツルブを大発艇の基地として保ち続けた。その為プブイ河の舟艇秘匿基地は重要な基地としてその役割を十分に果たしてきたのである。(つづく)
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2010年10月29日 (金)

床下補修工事

台風14号が沖縄南方にやってきているので、空は灰色の雲にすっぽり包まれて、先行きは暗い。
気温は午前7時13度とまあまあといった所か。

スリーエスがやってくる前に一応床下に潜ってみる。厚着したつもりだったが、肘や腰、膝と基点になる所が痛い。
体がなまっているからこればかりはどうしようもない。
破損箇所は私の見る所では1カ所だけ、9万円は高かったかな。

台所の下までは途中の隔壁が抜けにくそうだったから遠望ですます。格別悪い所はなさそうである。
換気扇をどこにつけるかちょっと問題かもしれない。

今回特に気づいたことだが、台所に一カ所地下に抜ける穴をつけた方が何かと便利かなと思った。

午前10時スリーエス来りて工事を始める。
洗濯機の吸水口の漏水見つかる。
配管のオイルシールが老化していたので自分で取り替える。
東側側墻のかなり広範囲のひび割れも皆補修してくれる。
換気口は結局北側のそれを利用して扇風機を取り付ける。タイマーは10時から16時作動の設定とする。
工事の方は1時間程度で2人役でばたばたと終わる。
代金¥93000.は即金で支払う。
工事写真は後日送付してもらうこととする。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その115)

この間に此の河筋で戦死し、この地に骨を遺したものは次の兵士たちである。
◦6月28日・・葛木光雄上等兵(奈良)河口より30km下にて
◦8月2日・・・宮永義男上等兵(大分)
◦    ・・・喜多邦夫上等兵(和歌山)
◦    ・・・永江守蔵兵長(鹿児島)以上何れも河口付近にて
◦    ・・・山崎静治伍長(鹿児島)左岸の上流にて
◦8月20日・・荒瀬新次上等兵(大阪)河口にて
◦9月22日・・山下秋信上等兵(和歌山)右岸舟艇秘匿基地にて
そしてこの隊員が戦死した場所はこの地区では最も不便で辺鄙な場所であった。
この様にこのニューギニア島の瘴癩の地プブイ基地に於いて舟艇隊員は不眠や激務による疲労に加えて、常に敵の襲撃の中で苦闘していた。しかし一方にはここにも続々と若い戦力として見習士官が補充されていた。
その中に軍医八木少尉もいた。彼は確か昭和医専の出身と聞いていたが、卒業後そのまま此の隊に編入され第一線の第3中隊に配属された。温厚な人柄でボンボンと言った感じ、寧ろ女性的と思われる程気持ちの優しい人であった。素直で純真な彼の言動は歴戦の猛者の中で異色の存在であった。しかし隊員の皆からの信頼は大なるものがあった。(つづく)
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2010年10月31日 (日)

昔通信フォーラムというのがあった

台風14号は紀伊沖から伊豆諸島を経て北上し、銚子沖を過ぎた所で熱帯低気圧と化してしまった。
大したことにならなくてよかった。
しかしこの余波か天候はぱっとしない。
今朝も15度の夜明けで、曙光は雲の隙間にちょっと見えただけ間もなく姿を消す。

もう1月もすると今年も暮れの師走となる。
このブログも2005.12.8から書き始めたのだから丸5年になる。改めて月日の早さに驚く。
その時に書いた通り、この日米開戦の日こそ私の運命を決めた日になった。その思いは今も変わらない。

最近は書く材料も乏しくなり、日記をそのまま載せたりしているのだが、当初は張り切って小説でも書く勢いだった。さして教養も才能もない俺だからこんなものだろう。
数々の経験も自分では結構大変だったと感じていても、人から見れば大した変哲にも見えないだろう。
時代が時代だったのだから、当然といえば当然と映る筈である。

ブログが始まる以前に通信フォーラムといういろいろと各自勝手な発言をメールで送り込み、議論を戦わしたり、教わったりするものがあった。私はこのフォーラムのおかげでパソコン知識を身につけた。
その末期に各自がホームページを作り始めて、フォーラムから次第に離れて行き、何百とあったフォーラムは次第に解散に追い込まれた。しかしそのうち共通の広場をということで再びフォーラムに似たブログが考え出され、今はツィッターの時代に進化している。

ホームページは自己の主張を載せ、自己の作品を発表するなど、優れた手段だが、アクセスに頼るだけで、積極的な働きかけは難しい。アクセス手段も簡単ではない。だからブログやツィッターということになった。
私もホームページはあるが、転がしたままでここ数年手を入れていない。死とともにその存在を失うものである。
変化はまことに激しい。この先どんな時代になるのだろう。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その116)

これは将来性のある若い軍医が事もあろうにこんな絶海の孤島と言える、しかもこの激戦の地へやって来た事への同情でありいたわりによるものであった。
彼の軍服は身にぴったり合っていなかったし、軍刀を身につけて行動する動作もぎごちないものであった。初陣の彼としては当然の事だったが、これは隊員たちにとって問題ではなく彼の医師としての献身的な奉仕に,心底から敬愛の念を抱き心を寄せていたのであった。彼の言葉や動作等は所謂民間人そのものであり,当人としてはまるで勝手の違う戦場生活に戸惑っていたことであろう。しかし隊員たちが訴える病状に付いて,大きな眼を開いて真剣に聞き入る姿は誰もが心を打たれた。
彼は診断、施療をしていない時は傍らで見ている眼には痛ましく思う程に,敵機の轟音に神経を尖らしていた。が、一旦患者に向かい合っている時は丸で別人を見ているようであった。
葛本上等兵が亡くなった時と記憶しているが,手を握って彼の容態を見ていた時、突然キーンという爆音と共に敵機が河口の方から襲撃して来た。あっという間もなく一連の機銃掃射を受け,其処に居たものは反射的に身を躍らせて艇から崖に駆け上がり地隙に逃げ込んだ。(つづく)
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