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2010年9月15日 (水)

老人に助け舟か

午前6時気温22度。
11時せいこう外科に薬をもらいに行く。
先生の簡単な診察があり腫れがなくなったからいいでしょうと言われる。

今日から新しく買ったMac Miniを使ってこの日記を付けることにした。
画面が桁違いに大きいので見やすくて楽である。
今までの14、5インチのiMacから26インチのテレビで見るのだから比べ物にならない。字や絵がぼけるのではないかと最初は心配したのだが、そんなことは杞憂だった。
こちらの方が余程はっきりしている。

産経netviewなんか見るのでも50か75で十分である。
死が近くなって目も見えなくなり、耳も聞こえなくなったが、助け舟が思いがけずやってきた感じである。
テレビは元々だからボタン一つ押せばすぐ変わる。煩わしくなくて誠によい。
人にも勧めたくなったのでこうして書き込んでいる訳。

もう一つついでに買わされたのだが、wireless keyboardとmaus、これらもこんなに使い勝手がいいもんだとは思っていなかった。
今ちょっと得をした感じになっているので付け加えたい。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その81)


フィンシの船舶工兵隊にラバウルからの援軍来る

ラエ上陸後船舶工兵第3中隊の隊員は日ごとに少なくなってきた。上陸後に90名も居た隊員も僅か2週間も経った後には,作業に耐えられるものは3分1足らずになっていた。漂流したときの強烈な大陽と海水とに晒されて顔や首筋は焼けただれ,その上腹を冷やしたため全員下痢に悩まされていた。その為に体力はみるみるうちに衰えていったのである。毎日の様に重症患者が出ていた。
患者は次々に入泊してくる潜水艦でラバウルに後送されていった。しかし逆に患者を抱え込む事は中隊の戦力の減退に繋がり、また食糧が少ない事もあって後送者が増える事は痛ましい事ながら,残っているものにとっては助け舟になっていたようだった。
3月20過ぎだったか,第81号作戦でダンピール海峡で救助され,ラバウルに後送された隊員の中で元気な者を選抜して,大発動艇によって舟艇隊を編成し、このフィンシに向って出発するという連絡が入った。その艇隊は軍需品を満載して,ニューブリテン島の南回りでやってくるということだった。フィンシの中隊ではこの知らせに飛び上がって喜んだ。当時こちらの隊で動けるものは20名余りに減っていたが、やって来る艇隊を迎える為に河口からフィンシの基地に移動した。艇隊が近づくに連れて無線によって詳細な内容が判って来たが、艇隊の一つは松本少尉、もう一つは大久保准尉が指揮をしてこちらに向っている事が判った。そしてラバウルから南回りで航走するとの事で、その行程は約800km近くある。僅か10t足らずの艇で全く未知のしかも敵側の航路で、その上に敵機、敵魚雷艇が跳梁する海域を突破してくることは、それは至難の業の移動であった。
しかし、大きな輸送船に比べれば、舟艇は目標として小さく、また海岸沿いに航行ができるので、逆に安全度は高いとも云えた。(つづく)
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