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2010年9月 1日 (水)

民主党党首選挙始まる

朝6時半点々と白雲が見えるが,いい天気、気温27度又暑くなりそうだ。
無風だからやや蒸し暑い。湿度75%。
扇風機のお蔭で何とか凌げる。

残暑どころか猛暑17日連続とか、テレビで叫んでいた気がする。
それでも昨日は驟雨が時々やって来て,スコールとは言えないまでも,時に涼をもたらした。
9月と言えばもう秋だろう。
しかし期待に反して今日も猛暑がつづく。
週間予報も全部35度以上の最高気温がつづいている。

デオデオに行ったついでに、携帯電話の話を店員さんからいろいろ聞く。
メーカー3社の派遣員それぞれから3,40分も相手をしてもらう。
今日買ってもいいと思ったのだ、準備をしていなかったので子供らに相談しなければならないことなどあって、とうとう又にしようということになる。
案外面倒なものだな。
まあ,あまり急ぐことでもないからこれでいいか。

菅、小沢の民主党総裁候補者が共同記者会見をする。
具体性が無いから結局よく分からなかったが、コップの中の嵐だからこんなものか。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その69)

船舶中隊は毎日夕刻にはこの部隊の将兵を満載して河口を出発して,フィンシに向って航送を繰り返した。中隊の無線班はその都度地区警備隊の第65師団長宛に,出発の打電をした。これは「第4、小1、200、弾薬1t」というような簡潔な電文であった。勿論本文は暗号に変えたものであったが。

この師団には大島中佐参謀がいて,彼は只一人で作戦,情報、兵站用事務その他総ての事を切り回していた。そこで、海峡の首根っこに当たるブッシングからの部隊前送については、一切貴官に頼むぞと一任されていた。そこでブッシングに到着した部隊の指揮官と海峡横断の日時、積載する兵員数、艇の割当等に就いてはその詳細の打ち合わせをして,艇隊の編成をした。1個艇隊3、4隻を小隊長に、時には中隊長が艇隊長となって指揮をとり、海峡の横断にあたるのであった。夕刻の4時頃迄に部隊の兵員を乗り込まして出発し,翌朝暗いうちにフィンシのブフイ河口に進入し部隊の兵員を揚陸した後,その夜の復路には南海支隊等の患者を積んで海峡を渡ってブッシングに帰着したのであった。(つづく)
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2010年9月 2日 (木)

井戸の中の蛙の争い

朝8時丁度広島総合病院に行く。駐車場入り口に10台ばかり列を作っている。
何時もより外来客が多いかな,待合室もかなりの人。月初めとあって普段より多いらしい。
1番の予約だから,8時半呼び出されてなんなく終わる。
帰宅したのは9時半。膝の関節は相変わらず痛い。

家内も昨日ゴミの整理で右腕に負担がかかり過ぎたらしく,昨夜から肩が痛くて腕が上がらないと騒いでいる。食事を作るのも辛そうで,困ったなあ。
おかずは要らないと私はいうのだが、聞き入れない。

副次的に日本の総理大臣を選ぶのだから,関心が高く,度々討論が行われるのは結構だが、私の頭が悪いのかどうもよく分からない。
官僚を排して,代議士で政治をやるというのがどうも信じられない。
力や金のある奴が,無理矢理自分の所を良くしようとするのではと疑いが出て来る。

話の内容は自民党の選挙と全く変わらない。
外国人が不安がっているというのだから,日本人が不安に思うのは当たり前である。
小沢でも菅でもどうせ長続きしそうには見えない。
試験的に半年位やってみてもらわなくてはどうしようもなさそうだ。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その70)

その後ニューギニアの前線の状況は緊迫して来た。ブナ地区に上陸した連合軍は逐次サラモアに進攻して来た。本来ならば既に第51師団がラエ地区に増援されている筈だったが、81号作戦の完敗により予定した兵力増強がされないままにこの2ヶ月空しく経っていたのである。

ある日ツルブ在の第65師団司令部に報告に行った時,大島参謀から次の様な話を聞かされた。それは、方面軍の参謀が私見として「歩兵でも白昼堂々と攻撃し敵陣に突撃をしているのだから,船舶工兵の兵員輸送も堂々と海峡を渡ったらどうだ」と云ってるとか。

大島参謀は「これだからなあー」と嘆いて呟いた。この参謀の言葉は,口ではどのようにも勇ましいことが言えるし、机上の計画ではどんな事でも出来るが、実際に可能性があるかというとそうは問屋が降ろさないのが常の事である。
後方にいては前線の事は判らない。一兵でも一弾でも前線に一刻も早く届ける事が、前線に居る誰もが考える願いであるが、この願いは直ちに実現とはならないのだ。これは前線の軍は大本営に対し,第一線の部隊は軍に対し、相互の理解の不十分から生ずる軋轢は、後方に行く程違って来る認識の差から生ずるものである。(つづく)
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2010年9月 3日 (金)

Mac Miniを買う

9時前に家を出て広島に出かける。家内が東広島記念病院広島診療所でリウマチの診察を受ける為である。車が予想外に少なくて30分余りで銀山町に着く。
家内を降ろして私は久しぶりにデオデオに行く。
コンプマートでmac関係を見る。
Mac miniの新製品が一段と小さくなり性能アップしているので,説明を聞いてるうちに買う気になり,注文することになる。

8日に来宅して設定などしてくれるという。
現在のがOSも古くなり,適合しない機器も多くなったので致し方ないと判断する。
テレビなど全部デジタル化して、古い器械ではもうどうにもならない。
此の歳でちょっと勿体ないかなと思ったが、それも何時のことやらわからないし、やりたいことやれないのも癪に触るし,仕方ないな。

ディスプレイは差し当たり,遊ばせているデジタルテレビを使うことにする。
画面が大きすぎるかも知れない。目の薄い、老人には却っていいかも。

かんかん照りは相変わらずで、歩き回ったせいもあってひどく疲れる。
夕方近くまで昼寝。
4時を回って今日の日記兼ブログを書き始める。

私の部屋の温度36度、湿度43%。そよ風は入って来るが、扇風機2台がフル回転でやっと凌げる。
さっきまでタオルを湿らせて頭に掛けていた。
良い考えが浮かぶ筈が無い。

OSがインテル製のOSX10.6だから、勝手が全く違う筈だ。年寄りの冷や水で終わらなければ良いがといささか不安ではある。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その71)

この話をした参謀に「一度海峡をご案内しましょうか」と申し上げたが、これが方面軍の参謀に伝わったのか、このお蔭でその後この様な前線に対する指導等は全く耳にする事がなくなった。その後二人の参謀がブッシングに来て大発動艇でこの海峡を渡って行ったことを覚えている。ブッシングから部隊の渡航に便乗する時、白昼に艇を出せとは一言も言わなかった。白昼に海峡が渡れたらそれは全く奇跡だと言える事である。数ヶ月前と海峡周辺の情勢は全く変わって、白昼に海峡を渡る事はわざわざ敵に好餌を与えるに等しいことである。

その某参謀は夕刻の明るい時に出発した時、大丈夫かと声をかけた。これに対して「それは敵との接触次第であるので、安全の確率は全く判らないが、より安全な方法を取っているに過ぎない」と答えた。そして明け方にフィンシの基地に着いた時、その参謀は何回も有り難うと感謝の言葉を残して陸に上がって行った。(つづく)
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2010年9月 4日 (土)

口程に無い心の弱さ

朝7時気温26度、暑さ変わらず。
昨日の広島行きのたたりか膝の痛みが激しく、凄く歩きつらい。しかもうずく。
医者に行こうと起きるとすぐ決心する。

9時家を出てせいこう外科に行く。土曜日とあって来客は少ない。
間もなく呼び出されて診察室に入る。
前回の所だから、有無をいわさずベッドに寝かされ、痛い注射を打たれる。
当分は通うことになりそうだ。

午前午後寝てばかり。
クーラーの中だから楽なもの。

それでも午後になると痛みが薄れて行動が楽になる。医者のおかげか注射のおかげかありがたいものである。
膝といえばやはり人間にとって重要な機能である。痛みは少なくても大きな違和感は深刻に残る。さっさっと元気な時のように行動はもちろん出来ない。

健康のありがたさがしみじみと分かってくる。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その72)

そしてフィンシ上陸に際してある部隊長がしみじみと「折り返し今夜これから帰るのかね、くれぐれも気をつけなさいよ」と。この言葉は百万遍感謝の言葉を聞くよりは心を打たれ、艇全員が気持ちを昂揚させたようであった。
とにかく理解と愛情によってのみこの海峡を渡る事が出来る。仮令渡ることが出来なくても心は安らかであろう。

4月から5月初旬にかけて順調に海峡横断が出来た。しかし5月中旬になって急に敵機の跳梁が激しくなり損害が大きくなって来た。4月には海峡の周辺で敵機の襲撃で戦死したものはいなかったが、5月中旬に入ってニューギニア側で5名、ニューブリテン側で6名、併せて11名の戦死者を出した。これは敵の魚雷艇の攻撃もあっての事、そして戦病、戦傷患者の続出する中で健全な戦闘員が戦死し、消耗する事は今後に暗い影を落としたのであった。
(つづく)
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2010年9月 5日 (日)

自動車運転は罷められない

高曇り、気温25度と朝から猛暑がつづく。今日も昼中は36度を超えるという。
台風9号が沖縄にやってきた。又北上して朝鮮海峡に入るのだろうか。
今度は広島にも雨をふらすかもしれない。

午前中11年前に録画した”越中おわら風の盆”のNHK特集を再生して見る。
一度現地に行って見たかったから,今年こそと思っていたが体調が悪くてツアーにも参加出来なかった。
幸ひ録画があったから,十分堪能出来た。
考えてみるとこれだけのビデオなど揃えたのは老い先を考えてのことだった。今見なければ本当に意味が無い。妹の死が警鐘を鳴らしてくれた。

昼前に近くのスーパーで簡単に買い物をすます。
私は膝の故障で車から降りずじまいで読書しながら待つ。

運搬だけ引き受けるというのが、病院といい、スーパーといい私の定型となりそうだ。
膝が痛くても運転は出来る。歩くよりは今度のことで遥かに自動車が便利になった。
運転免許証には優良の判が押してある。もっとも現役時代とは比較にならぬほど運転回数が減ったから、事故など起こすことは無いわけだが、駐車違反、速度違反などは昔よりずっと心がけがよくなっているから、ひっからないし、バンド掛けなどもいつもきちっとやっている。
動作はうんとゆっくりになったが、これはしかたがない。
時々気の短いのが割り込んできたりして危ない目に合わしてくれるのが玉に瑕といったところか。

昼食後午睡。2時に目覚めてみると雲がビッシリと上空を埋めている。風はそよ風程度だが早くも台風がもたらしたものか。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その73)

5月の満月の夜の事であったが、日没後2、3時間経った頃、接近してくる敵機を発見した。何時もの様に直ちにエンジンをニュートラルにし、又後続艇もこの指揮艇に見習ってエンジンをニュートラルにして分散して停止した。
海峡のまっただ中で漂流しつつ敵機の行方を見守っていた。艇が進んで来た後ろを見ると、今尚白い航跡が尾を引いて光っている。敵機の爆音が大きくなって来て、満月の空に敵機の黒い影が月光に映し出された。敵騎は確かに我々に近づいてくる。固唾を呑んで見守っていると、突然爆音が消えたと思った途端に敵機の機影が眼前に大きく現れると同時に猛烈な機銃掃射を受け海面に銃弾が水しぶきを上げて飛び散った。艇にも数発の弾が当たっていた。

出発前に「今夜は月が明るいから用心しよう」と互いに語り合ってブッシング基地を出た。出発後の夕刻には全く攻撃を受ける気配もなかったので「今夜はうまく乗り切れるぞ」と言っていた矢先の襲撃であった。何時の場合でも暗夜が一番安心して航行出来たが、月明かりで海面が光っている経験である。これまで常に用心はして航行して来たが、今夜の様に機銃掃射まで受けたことははじめてのことであった。(つづく)
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2010年9月 7日 (火)

もうまともな歩行は困難なのか

久しぶりの雨の朝。台風9号のおかげだろう。
といっても本格的な雨という訳ではない。
いつのまにか降った感じの庭先の濡れ具合である。
どんよりと雨雲に覆われて,何時降り出してもおかしくはない空模様ではある。

昨日は膝の痛みに苛まれた一日だったが、風呂で温めたお蔭で若干痛みが薄れたのを幸いに眠られたのだが,今朝起きるとやはり少し痛い。
どうやら治るという所には程遠いらしい。

三島歯科に行く。午前中最後の客である。
先生も世間話に乗ってくれる。痛み止めの話も詳しく聞く。
私の今後の膝対策も決まりそうだ。

午後雨が本格的になりだした。まだ風は穏やかだから、台風は近くはないのだろうが。

暑い日がこんなに長く続くと流石に怖い台風もありがた涙が出そう。午後4時現在気温26度、涼しい風が吹き渡って,木々でなくても蘇生の思いである。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その74)

兎に角今迄は偵察機が高空で吊り星(照明弾)を落とす程度がせいぜいであったので、ニューギニア島に到着する迄敵機は勿論のこと、高速艇にも襲撃される心配は無く、何時も安全に行動ができた。しかし、今夜の攻撃は満月の月明かりによって発見され射撃されたのだろうと思ったが、この晩から毎日襲撃を受ける様になった。これはただ月明かりだけではない様な気がしてならなかった。穿って考えると、これはオーストラリアで教育され、この地区に潜入した密偵等からの通信、信号によるのではないかとも思った。

頼りにしていた海峡横断舟艇隊の夜間の行動も、頻繁に敵機の襲撃を受ける様になった。最早安全に航行出来る場所も時間もなくなった。次第に追いつめられて行ったが、強いて言えば安全に航行出来るときとは、雨が降り雲が低く垂れ下がった荒天の時くらいのものであろう。今迄こんな時は艇の出発を延期したものだが、この状況では寧ろ以前は避けていた悪天候の日を選んで行動しなければならない仕儀となった。今は悪天候を却って喜ぶ様になってしまった。(つづく)
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2010年9月 8日 (水)

パソコン今度もすぐ手には届かず

朝6時半気温26度、まだまだ秋とは言えそうにない。
台風一過してそよ風も無い。どこを通り抜けたのだろう。

デオデオの店員さんがMac Miniを持ってやってくる。
それも正午というのだから待ちくたびれる。
早速梱包を開いて接続を始めてくれたはいいが、なかなか認識してくれない。

もっともディスプレイはパソコンならぬデジタルテレビである。
相性が悪いのか、うんともすんともいわない。HDMIコードは2本も用意して待っていたのだがどちらを使っても駄目。
携帯電話で本社と連絡を取っていたが、とうとう諦めて明日又器械を取り替えてくるということになってしまった。

私は今度も一回では駄目だったかと、余り驚かなかった。
1994年に始めてLC575を購入してから、今度で6台目だが、すでに3回購入するとすぐ故障で交換してもらった。
今度で4回目である。
今までは皆私が持参したり、返送したりした。元気な頃だからよかった。
今のように碌に歩けもしないでは大変なことになるところだった。
配送してもらってほんとに助かった。

それにしてもパソコンはテストもしないで販売するのだろうか。
あれでは運送会社が儲けるばかりだ。最初のFC575は東京・秋葉原から買ったのだから、どうしようかと思って震えたね。付属品ともで35万円も払っているし、騙されたかもしれないと夜も眠れなかった記憶がある。

天気が悪いから一寸蒸し暑いが、それでもかんかん照りよりは良い。
今日ももう寝て暮らす以外にない。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その75)

しかし艇に乗る部隊はこの悪天候での日の乗船を敬遠するが、敵機の激しい襲撃に遭うよりはましだと説得して、無理を承知で艇を出した。この為ある時にはブッシングの河口で擱座して、一晩中離州のために苦労した挙げ句に引き返して、改めて出発を翌日に延期したこともあった。この河口は流れ出た土砂が河口に堆積して、河口の流れを複雑に屈折させ、進出入口は狭められ浅くなっていたので、晴天の日でさえも艇の出入りには苦労していた。河口から流れ出る河水の強い水流と外洋から打ち寄せる波とがかち合って三角波を作り特に小舟には大変影響があった。
荒天候の時に河口を出るには余程熟練した腕で、なお場所に慣れていないと安全に航行出来なかった。しかし、河口の隘路を脱出して一歩外海に出ればどんなに波があろうと心配はなかった。

この大発動艇は対波性に富んでいて、擱座するか横波をまともに受けなければ、如何に大きな波に逢おうと安全であった。この事については隊員の誰もがこの艇に絶対の信頼を持っていた。(つづく)
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2010年9月 9日 (木)

パソコンとデジタルテレビ

薄い灰色に包まれて入るが,陽光燦々として朝からいい天気である。6時半気温24度とやや涼しい。

午前10時デオデオの人新しいMac Miniを持参する。1時間以上あれこれやったがやはりだめ。もう一つ今年購入したデジタルテレビでもやってみたがやはり反応無く,諦めざるを得なかった。

改めて考えてみると、あれだけ公に宣伝していることだけにただ事とは思えない事件である。デオデオは明日も又来るというが、商売は楽ではないな。
私は使えなければ返すだけである。しかし店員さんは置いて帰った。明日はモニターをとりあえず持参し,使える様にしておいて、時間を掛けて原因を調べるらしい。

新製品とは全く難しいものだなと今更ながら感ずる。

午後家内のお供で広電楽々園に行く。近くヤマダ電機が開店するとかで、様相がすっかり変わっている。駐車場が広く分散して歩くのが大変だ。
膝のサポーターを買って付けてもらう。歩くのが急に楽になったので驚く。
しかし昔程さっさっとは歩けないから、もうだめだ。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その76)

しかしこの方面の河川の出入りは余程注意しないといけなかった。天候、潮汐の変化については常に気をつけ、この気を緩めることはすぐに危険に繋がることであった。今迄月程嫌なものは無かった。航行中に雲が出て来ても月が隠れるとやれやれと安心したものである。その反面月が顔を出して来るくると、美しくきらめく金波銀波が恨めしくなって来る。「月の奴また出てきゃあがった」と思わず舌打ちをしたものであった。

平和な時代には人々に詩情を呼び起こし、神秘な気持ちを抱かせてくれたものであるが、当時の舟艇隊員は月が出て来るのを恨んだものである。
戦地から復員して内地に帰ったのは昭和18年10月13日の満月の夜であった。我が家の縁先に立って眺めた月に対しての感慨は忘れられない。戦地の厳しい月の思い出が頭をよぎり、いつしか中秋の満月を見る私の心は滅入ってしまう様になって来た。(つづく)
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2010年9月10日 (金)

相性が悪い

快晴。朝6時半気温24度、やっと秋になったな。
そよ風もなし。昼中は又猛暑か。
昨日一昨日とMac Miniに振り回されて,無為に過ごす。今日はどうか。
午前10時デオデオからやってくる。
20インチのディスプレイを持参して組み立て設定を始める。
初めてのワイヤレスのキーボードとマウスだから、その設定から始めねばならない。全部やってもらうのだからこの次困らなければいいがと心配しながら見つめる。

まあ何とか小一時間もかかると無事終了。
問題なく操作できるようになる。
設定が終わったところで、テレビに繋ぎ変えるとこれがやはりできない。相性が悪いのではという店員さんの言葉、一応了承して帰ってもらう。

昼ごろ担当者から電話でやはり器械の相性が悪いらしく、HDMI配線でなく、RGB配線でなくては駄目だとMacの方から回答があったと連絡が入る。
明日また来てやってもらうことになる。
  


先方も大変な手間だろうがこちらも毎日つき合うのにくたびれる。

アメリカ産の機械と日本の機械では所詮相性がわるいのだろう。
あきらめるしかないか。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その77)


舟艇の基地をフィンシハーヘンに移す

船舶工兵第8聯隊第3中隊は先般ラエに上陸してから暫くの間、ここで潜水艦が入泊する都度米のドラム缶の揚陸作業と,この島での前線への輸送作業をしていた。
ついで4月下旬からは更に兵員の海峡横断輸送に転じ、懸命にこの任務に従事していた。
これまではその基地をマーカム河の河口に置いていたが、今後はこれをフィンシに移す事として、そこへ基地を移す是非に付いて地形等の偵察を行った。
フィンシ港は基地として湾内は奥深くなって居り,艇の発着も便利な様に見えたが、舟艇を秘匿するには適当でない様で、海岸の地形も悪く遮蔽する樹木が少なかった。そこでここより約3km南でブブイ河がランゲマック湾に流れ込んでいる所の約30km離れている河岸が5,6mの断崖となっており、艇を横付けすればすっぽりと樹の影に隠す事が出来る事が判り、ここを基地にすることに決めた。
(つづく)
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2010年9月11日 (土)

やっとテレビがMacで使えることになった

今朝も24度とまあまあの朝、しかし相変わらず昼中は暑くなるという。
台風が来ても日本上空に居座った高気圧にはねとばされて,外回りに追いやられ,日本上空には届かない。
偉いものである。初めて聞いた話である。

8時を過ぎるともう暑気が窓から射し込んで来る。
じわーっと汗が額にまでにじむ。

民主党首戦いよいよ終盤、新聞によると菅氏がややリードと出てる。しかし僅かの差で、浮動票次第ではどう転ぶか分らない。
小沢なら国会は冒頭から荒れ狂うだろう。解決しない疑惑が山積している。
菅氏なら思いがけず長期政権になるかもしれない。
自民党に迫力がまるでないのが追い風となるか。

痛み止めの薬が効いているのか,今朝もあまり痛くない。
階段の昇り降り殆ど障りはない。
このまま治ればと祈る思い。痛みと膝の故障はほんとは別物だそうだから何とも言えない。騙されてる感じでもある。

デオデオの信濃さん、4日間我が家へ通い詰めてようやく勤めを果たす。テレビが悪いか,Macが悪いか、ともかく買う側も販売店も迷惑至極,宣伝ばかりに力を入れすぎない様にしてもらいたい。

一応1件落着とはなったがHDMIコード1本が無駄になった。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その78)

このニューギニア島は第一次大戦終了まではドイツ領であった。そしてドイツは先ず主要な部落に教会を建て其処に宣教師を送って布教を行った。そして更に農場や牧場を開いて経営した。
この他に港や飛行場を開いてこの地方の開発に努めた。フィンシには軽飛行場や教会のほかに百貨店まであったし、ブブイ河の流域には農場の製材工場等が造られていた。しかし第二次大戦勃発と同時にドイツ人は総て連合軍に強制抑留され一人も残っていなかった。

フインシ港はダンピール海峡に臨む東部ニューギニアでは良港として数少ない港であった。そしてその当時として戦略的に重要な要衝でもあったのである。
最初にこの港に入った時九州の細島港によく似ている事に気がついた。港は細く長く陸地に入り込んでいるので,外海の影響を全く受ける事はなかった。しかしただ侵入口の水路が狭く細長くて幅が狭い事が難点であったが、小型の舟艇には格好の港と云えるようだった。(つづく)
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2010年9月12日 (日)

やっと風の強い涼しい一日

今朝は3時頃目が覚めて眠れない。
思い切ってMiniでDVDをセットして見る。1997年に京都御所や吉野山の桜を見に行ったときのMovie である。懐かしくて1時間ばかり時を忘れる。

6時半本式に目覚める,気温25度、いい天気。
日中は相変わらず暑そう。
こう毎日続くとどうしてよいか分らなくなる。

昼前頃から雲が出て天候が変わる。
風も強くなる。涼しい。
これで雨が降ると困るのだが,幸に降らない。
寝ているには都合が良いのだが、買い出しのお供をさせられる。
やんぬるかな。

車で行けばほんちょいの時間。
帰宅してからが又転がる。
それでも膝が少々痛む。90才はもう仕方がないな。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その79)

港に入ると桟橋があり,その全面の奥まった所に二階建ての百貨店があった。こんなに人家の少ない辺鄙な所に百貨店とはと至極疑問をもった。勿論のことこの時は何もかも爆撃を受けて破壊されていたが。これは当時東部ニューギニアで暮らしていた主として白人たちが,各地から飛行機でこの地にやって来て,百貨店で買い物をしたそうである。これでなんでこんな辺鄙な所に飛行場が作られていたかという疑問が解けたのである。
以前東部ニューギニアの各地間の交通はほとんど飛行機が使われていた。この島に住んでいた白人たちは専ら自家用機で行き来していたので,生活必需品をここで購入するには全く不便はなかったようである。
さてこのフィンシの港の入り口の桟橋の近くに見上げるばかりの数本のココ椰子の木が立っていた。夜間に寄港するには格好の目標であった。
港内はかなりの水深があったが、海水は澄み切っていて深い所まで見通しがきいた。桟橋付近の海底には鮮やかな原色をした大小の熱帯魚が群がって泳いでいた。
この周囲には一部にココ椰子が植えられていたが、その他は密林に囲まれ見渡す限り禄一色に覆われた美しい景色が見通された。この風景を眺めているとしばしの間戦場に居る事を忘れてしまう思いだった。(つづく)
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2010年9月14日 (火)

私ののろいのろい作業

うっすらと高曇り、午前6時半気温21度,ちょっとひんやり。
快適な朝である。昨夜遅くまで部屋の中の配置をあれこれと取り替える。

今朝起きるとやはり又少し変更する。4畳半の部屋だから,ベッドあり大きなテレビあり,オーディオ機器、パソコン2台、本棚4、小机と誰でも考えあぐむことだろう。
マア何とか食事時までには何とか決まる。

膝の痛みが再発しない様におそるおそるだから時間はかかる。

昼近くなると日射しが強くなる。窓際は暑い。
しかし風はかなり涼しい,秋は争えないな。

今度の連休に東京の娘が孫共を連れてやって来るという。
敬老の日ということで思い出したのかもしれない。
忘れていなかったことはいいことだ。

家内は布団を干したり,部屋を片付けたり忙しい。
私は書棚の整理に使ってやろうと待ち構えているのだが,応じてくれるかどうか。

今ナットキングコールの歌声がスピーカーから流れている。
煩わしくなくていいな。ジャズでも邪魔にならないのが良い。

今しがた菅さんが小沢に圧勝して、次期民主党代表に決定した。
国会議員票はほぼ半々で拮抗したが、地方票が違いすぎた。
国民の目はごまかせない。利害に捕われる渦中の人々の思惑を超えたところに目が行っている。
政治の向かうところはどちらでも変わらないと思うが、落ちぶれた日本を何とか挽回してもらいたいもんだ。

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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その80)

3月中は敵機は偵察機の他にはこの地を襲って来ることはなかった。でも、昼間は高空をコンソリデーテッドB24機が毎日の様に,沿岸に沿って偵察をしていたが、その巡回する時刻は大体決まっていた様だ。

フィンシの北方に教会があり,ある日この教会を訪れてみた。留守番の土着の住民がノウノウと手をふって、入るのを拒むので,その訳を聞いてみると次の様に答えていた。ドイツ人の宣教師が拉致された時「必ず帰って来るからそのままにして待って居なさい」といったということであった。この言葉から以前昭和17年の事で、フィリッピンのバターンへ第2次作戦が終わり,マニラ南方のキャビテ軍港に集結してもっぱらコレヒドール上陸作戦準備をしているときだった。何かの連絡でマニラのホテルに行った事があったが、このホテルの1室にマッカーサー将軍の住んでいたという部屋があった。ホテルの管理者はその部屋は日本軍の占領後も開ける事を拒んだという.その後軍が開けて見た所この部屋の隅の机の上に,旧日本陸軍の作戦用務令が一冊開いたままで置いてあったとか聞いていた。丁度フィンシの話がこれとよく似通ったところがある様に思った。(つづく)
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2010年9月15日 (水)

老人に助け舟か

午前6時気温22度。
11時せいこう外科に薬をもらいに行く。
先生の簡単な診察があり腫れがなくなったからいいでしょうと言われる。

今日から新しく買ったMac Miniを使ってこの日記を付けることにした。
画面が桁違いに大きいので見やすくて楽である。
今までの14、5インチのiMacから26インチのテレビで見るのだから比べ物にならない。字や絵がぼけるのではないかと最初は心配したのだが、そんなことは杞憂だった。
こちらの方が余程はっきりしている。

産経netviewなんか見るのでも50か75で十分である。
死が近くなって目も見えなくなり、耳も聞こえなくなったが、助け舟が思いがけずやってきた感じである。
テレビは元々だからボタン一つ押せばすぐ変わる。煩わしくなくて誠によい。
人にも勧めたくなったのでこうして書き込んでいる訳。

もう一つついでに買わされたのだが、wireless keyboardとmaus、これらもこんなに使い勝手がいいもんだとは思っていなかった。
今ちょっと得をした感じになっているので付け加えたい。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その81)


フィンシの船舶工兵隊にラバウルからの援軍来る

ラエ上陸後船舶工兵第3中隊の隊員は日ごとに少なくなってきた。上陸後に90名も居た隊員も僅か2週間も経った後には,作業に耐えられるものは3分1足らずになっていた。漂流したときの強烈な大陽と海水とに晒されて顔や首筋は焼けただれ,その上腹を冷やしたため全員下痢に悩まされていた。その為に体力はみるみるうちに衰えていったのである。毎日の様に重症患者が出ていた。
患者は次々に入泊してくる潜水艦でラバウルに後送されていった。しかし逆に患者を抱え込む事は中隊の戦力の減退に繋がり、また食糧が少ない事もあって後送者が増える事は痛ましい事ながら,残っているものにとっては助け舟になっていたようだった。
3月20過ぎだったか,第81号作戦でダンピール海峡で救助され,ラバウルに後送された隊員の中で元気な者を選抜して,大発動艇によって舟艇隊を編成し、このフィンシに向って出発するという連絡が入った。その艇隊は軍需品を満載して,ニューブリテン島の南回りでやってくるということだった。フィンシの中隊ではこの知らせに飛び上がって喜んだ。当時こちらの隊で動けるものは20名余りに減っていたが、やって来る艇隊を迎える為に河口からフィンシの基地に移動した。艇隊が近づくに連れて無線によって詳細な内容が判って来たが、艇隊の一つは松本少尉、もう一つは大久保准尉が指揮をしてこちらに向っている事が判った。そしてラバウルから南回りで航走するとの事で、その行程は約800km近くある。僅か10t足らずの艇で全く未知のしかも敵側の航路で、その上に敵機、敵魚雷艇が跳梁する海域を突破してくることは、それは至難の業の移動であった。
しかし、大きな輸送船に比べれば、舟艇は目標として小さく、また海岸沿いに航行ができるので、逆に安全度は高いとも云えた。(つづく)
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2010年9月16日 (木)

ゴミにしてしまった貴重なもの

朝6時、朝日の光が西の山々を明るく生き生きと映える。
気温20度。爽やか。

ベッドの枕元に側机を持て来て、その上にキーボードやマウスを置いて日記を付け始める。
早朝だから天気ぐらいしか書くことはない。

ワイヤーレスだからそのぐらいのことは何でもない。
我ながら横着な老人である。しかしその創意工夫はまんざら捨てたものではないだろう。

言い忘れたが、私のテレビはターンテーブルの上に置いてある。コードがついてるから、360度という訳には行かないが、90度くらいはわけなく回る。
もう10年ぐらい前から使っている。
重いアナログテレビの時はほんとに楽だった。軽くなったとはいえデジタル液晶でも26インチだから、目方はかなりある。やはり役にたつ。

私は人一倍欲が深いのかもしれないが、こうして毎日パソコン人生を送っていると、思い出につながる昔の体験を表すものがものすごく欲しくなる。
一番悔しいのは何百冊にも上るだろう失ったり廃棄した書物雑誌類である。
小さいときからよく読みもしたが、買ったり集めたりした本なども少なくない。
先般も倉庫の中から戦中戦後すぐ頃の新聞切り抜き帳が十数冊出てきた。我ながらよくもこんなのが残っていたなと驚いた。
こんなのを見ると訳もなく当時の記憶が甦る。

終戦の前日の米軍の爆撃で我が家は壊滅して、ほとんどの家財も共に塵芥同然になって消滅した。
戦前の書物などは何もないが、母が僅かに思い出につながる写真などを拾い残してくれた。それだけでも助かってはいる。
しかしやはり残念でたまらない。

それに戦後数回の引っ越しである。
どんどん考えもなく処分してしまった。
皆自分の招いた種である。

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2010年9月18日 (土)

楽しい集い久しぶり

朝7時、目下のところ高曇り、青空ほとんど見えず。
7時気温22度、暑い一日になりそう。

昨夜10時、娘等は私の迎えを断って、歩いて広電駅から我が家に来る。
孫らも一段と大きく成長し、身長私に及ぶ。
カナダ留学からつい先日帰ってきた末娘は160cmあるという。
外国に出しても毫も引けを取らない体つきである。

今朝はバス疲れで眠いだろうから、私は敢えて、起きてもこうして日記などつけながら、階下のざわめきを待つ。
それにしても女3人いっときに増えると、さぞ騒がしい一日になることだろうな。

高速道路の賜物だろうが、夜行バスなんてずいぶん安いらしい。
JRさんも網を抜けられて嫌なカンジだろうな。
交通費は私が持つからといって、呼び寄せた手前、お金の準備だけはしているのだが、いらないと娘は言う。
厄介なやりとりが待っていると思うと煩わしいが何とか押し付けてやろう。

ひょっとするとこれが最後になるかもしれないしなあ。
田丸の妹もああして突然最期を遂げたし、いつおさらばしても可笑しくない年齢だから、会える時にしっかりあって置きたいのだ。
若い奴等にこの気持ちは解らないだろうが。

7時40分どうやら起きたらしい。二階にもやってきた。
ぼつぼつお出ましと行こうか。

ひさしぶりの朝の食卓、食うことより話が面白い。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その82)


ニューブリテン島の海岸中央にガスマタという中継点があった。その付近に艇隊が差し掛かった所辺りからは、フィンシとの無線交信が可能となった。あと数日で海峡を越える事が出来る地点まで無事航行して来ていたのであった。しかし敵はこの2個舟艇隊がニューギニア島に向って前進していることを察知していた。
艇隊がガスマタに入泊する時に敵機の攻撃を受けて、艇隊長の松本少尉が足先に被弾し負傷した。しかしこれで予定を変更する事もせず、一路ダンピール海峡に乗り入れたのであった。今夜にはフィンシ南側のブブイ河口に到着ということになっていた。
この2艇隊が到着する日がやってきた。しかしこの当日の中隊は隊員も舟艇も共に最悪であり尋常な姿ではなかった.直ちにエンジンのかかる艇は大発動艇一隻のみで、隊員の方も中隊長以下8名だけで、その他のものは行動出来る状態ではなかったのである。ラエから大小舟艇3隻に乗り辛うじてプブイ河まで移動した20余名の中隊員は、半ば以上が下痢と熱に犯されていた。今夜半に増援の艇隊がまもなく到着するというのに、これを迎える中隊の有様がかかる状態ではと思った。(つづく)
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2010年9月19日 (日)

別れ

昨晩はアルパークで娘等と落合い、夕食を広徳楼で共にする。約1時間過ごす。まだ早い時間帯だったので客が少なくのんびり歓談できた。
明けて今日の夕方にはもう帰るというので最後の晩餐だった。

親子の縁もぼつぼつおしまいに近い。
印象深く終わりたいものだ。

昨日は朝から痛み止めを飲まなかったので、時々キリキリと痛むことはあったが、さして気にしないですむ。快癒と行きたいものだが。

午前10時いよいよ別れの時間が近づきそわそわと落ち着かない。
それでも孫娘等はアニメ映画を見て帰るという。間のつぶし方が上手というべきか。老人には思いつかないことだ。

私の発案で三脚を据えて記念写真を撮る。
いつ死んでもいいと覚悟を決めて、午前11時広電駅の近くまで送る。

常住坐臥死を意識することはかってないことだ。
いや兵隊になって以来かな。
いつでも会える距離にいないということは、やはり別れを切なくするものらしい。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その83)

夜半9時を過ぎた頃だったが、5人でこの基地で1隻の航行可能な大発動艇に乗り込んで、闇に閉ざされた河口を下って行った。
偶々折からの引き潮の影響で河口辺りの流れは奔流となっており、艇はこれに巻き込まれ矢の様に流されて行く。河の下流の中程に暗礁が突き出て居り、艇の航行には大変に危険な障害物となっていた。やっとのことでこれを避けたが暫くしてエンジンが止まってしまった。艇はそのまま流れに乗って勢いづいてなお下って行く。
この様に方向を失った艇はどうすることもできない。しかし何とか下流の暗礁に乗り上げることは避けられ、やっとの事で錨を下ろして修理にかかった。
初めの考えでは艇を湾外に移して、この艇を漂流さして、こちらに向っている増援の艇隊と交信をしながら、安全に誘導するつもりであったがとんと予定が狂ってしまった。遥々やって来る艇隊を安全に誘導しようと、心は逸っているが依然としてエンジンはかからない。この艇の中は雨に降り込まれた様に、夜露に濡れてびっしょりになっていた。(つづく)
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Img_1653


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2010年9月20日 (月)

敬老会には出ない

昨夜少し雨が降ったらしい。路面が濡れている。
7時の気温23度。大分秋らしくなった。
体の軽さが違う。

子供等が去ってまた我が家はいつもの静寂を取り戻す。
聞こえるはテレビの音と時折の家内のつぶやきだけ。

昨今坂本龍馬の名が喧しい。戦前は私などはほとんど知らなかった。おそらく司馬遼太郎が火付け役だろう。
テレビというのはやはり凄いなと思わざるを得ない。
今やってるドラマは私のイメージとは少し違う。しかし黙ってみてるところだ。本質的なところは変わらないと思っているからだ。

昔は皆大臣,大将を志し、卑賤より身を起こした秀吉、伊藤博文などが目標だった。今とずいぶん違って、理想は高い程よしとしたものだ。従って競争意識は却って少なかったのではないかと思う。

現在は小さい時から受験受験と大騒ぎし、今やオール大学生の時代である。個性を曲げ、誠に馬鹿馬鹿しい。

午前中家内は近所の老人と誘い合わせて町の敬老会に出かける。
私はいつも通り出ない。
こうした行事の楽しさが私には理解できない。

新聞に80歳以上が800万いると出ている。喜んでいて大丈夫なのかと不安である。
中国がまた攻勢を仕掛けてきている。老人ばかりでは戦うことは出来ない。両隣はものすごい戦備を整えている。
いつ火がついてもおかしくない。
竹島も尖閣諸島も強がっても仕方がないのではないのか。
もう私の若かった時代とはまるで別の世界なんだから。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その84)

やがて夜半を過ぎてそろそろ艇隊が到着する刻限になった。お互いに航行中は無線での交信は封鎖することが原則とされていた。これは受発信の状態が極めて悪いからであるが、それでも何か受信出来ないかと漂流しながらもいつでも受信ができるようにしていた。しかし艇隊の方は海峡を越えてこちらの岸に着いてから交信をしようと決めていたのであろうかなんの連絡もしてこない。

夜半過ぎに敵の哨戒機がやって来て吊り星を投下して正面の海峡を照らしながら探索を始めた。この地区のプブイ河の河口及びランゲマック湾には舟艇が出入りしていたので、かねてから敵はこの辺りに目をつけていたらしい。当初は昼間が主であったが、最近では夜間でも頻繁に哨戒する様になっていた。敵哨戒機の哨戒の要領は判を押した様に上空を3回旋回した後に、毎回来た方向と同じ方向に飛び去って行くのであった。艇が暗礁に乗り上げない様に錨を投げ込んだ。急流に押し流されていた艇も僅かばかり錨が効いたのか、艇の流れる速度が緩くなってやっと止まった。しかし錨の効き目は不十分で艇はときどきずるずると少しづつ流されていた。(つづく)
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2010年9月21日 (火)

オリンピック予算

午前7時快晴、気温24度。日中は暑くなるらしい。
昨日は時々驟雨があって、庭には湿気が残っているようだ。
テレビの報道によると、猛暑と晴天続きのおかげで、枯死する灌木が多く、影響を受けてるのは人間様だけではないらしい。
午前9時日射しが室内に1m以上も入り込み暑くてたまらず、カーテンを閉めて、かくはキーボードを叩く始末。
いつまで異常が続くのか。

広島市長が熱心に提唱している2020オリンピック広島誘致の事業予算が4000億円と発表された。規模としては随分少ないらしい。
広島の力相応ともいえる。
それでも果たして実現できるのだろうか。
旧市民球場跡地利用も何とか決まった。残しておけばオリンピックに活用できるかもしれない。急がない方がいいと思ったり。

市内電車のごとく残っていたから、老齢化した市民の解りやすい足として現在重宝している。公共施設は本来市民の慣れが大切である。時に急ぐことも大事だが、時間をかけて熟考することこそさらに良策となることが少なくない。

膝の痛みがかなり取れた。以前のようにさっさっと歩く訳には行かないだろうが、普通には歩けるようになりそうだ。
致命的な故障だと思っていたが治ってくれるとほんとにありがたい。
ひょっとすると余命が何年か延びるかも知れない。

メール欄を見ると朝子が写真を送ったと言ってきている、早速ダウンロードして印刷する。私が撮ったのとあまり違いはなかったが、まあいいか。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その85)

その時左右の岸との距離はそれぞれ50m以上はあったようだ。普通艇の故障はバッテリーの消耗が多い。とても早急に故障を直せる見込みがないので、結局両岸にロープを渡して河中に艇を固定することとした。このため泳ぎの達者なものがそれぞれ細縄を持って岸に泳ぎ渡りこの縄で固定する事にした。このままに朝を迎えると敵機の好餌となってしまうので何とか最小限隊員だけは助けたいと考えた。しかしこの河は鰐が棲息している名所と云われる河で土着の住民は絶対に入らない河であった。
そしてカヌーに乗っていても鰐を一番警戒している河だが、そんなことは云って居られない瀬戸際なので、座して死を待つよりとにかく艇から脱出をはかるべきだと考えた。艇長の松島伍長が「私がゆきます」と申し出ると、同時に山本兵長も続いて申し出た。この松島伍長は三重県の出身で漁船の乗組員だったので、海にはなれていた。小柄ではあったが勇敢な青年であった。また山本兵長は大柄で太っている青年だったが、彼は余り泳ぎには自信を持っていないようだった。(つづく)
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2010年9月23日 (木)

末期的現象か

夜来の雨が降り続いていたが、そのうちいつしか止む。
天気予報が告げたように随分涼しい。
ちょうど彼岸というのがよい。

今台風12号が小笠原に近づきつつあるが、これからは台風シーズンである。こちらも厄介な存在だけに油断はならない。

午後は雲は多いが日も照り始める。もう秋の日だ。かんかん照りの暑苦しさはない。北風が少し強いせいか。

階下に降りるとなんだか寒い。家内は半纏を着込んでいる。
昨日は蒸し暑くて汗をかいたのに今日はこの始末。これでは老人はとても対応できない。
慌てて二階に戻る。日射しが今度はありがたい。

検察庁もやはり人間だったか。犯罪を告発するものがこれではもう世も末だ。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その86)

松島伍長は細索を背に掛けてまず右岸側に飛び込み泳ぎ始めた。彼の姿は暗闇の濁流の彼方に消えて行った。続いて山本兵長も左岸の方に向い艇から下りかけたが、この兵長の身に何となく不安を抱いたので「ちょっと待て」と声をかけた瞬間に兵長の姿が消えていった。その直後松島伍長の元気のよい声が対岸から聞こえた。
彼は無事に岸に泳ぎ着いたのであった。その時10mくらい先の河の中から異様な叫び声が聞こえて来た。山本兵長の声だったので、彼が鰐にやられたのではないかと咄嗟に思い、浮き胴衣を手に持ち細索を身体に巻き付けて、この綱の端を乗組員に持たせて水中に飛び込んだ。声のした方に遮二無二泳いで行ったが、暗闇の中で兵長の姿は全く見えなかった。突然足に何かが触ったので引っ掴んでみると山本兵長の身体であった。
彼は渦に巻き込まれて浮き沈みしてもがいていたが、やっと私の持っていた浮き胴衣に必死にしがみついてきたのであった。
この山本兵長と二人で一つの胴衣を挟んで抱き合い、全力で艇に近づこうと努力をしたが思う様に艇に近づく事は出来なかった。艇の乗組員が命綱を徐々に引き寄せてくれ、差し出された竿に手が届きやっと艇内に引き揚げられたが、全く予期しない出来事であった。救い上げて呉れた隊員たちが交代で二人の身体を摩擦してくれた。(つづく)
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2010年9月24日 (金)

急に寒くなった

午前7時起床、気温19度、高曇り、日射し弱し。
昨夜は宵の口は27、8度もあって蒸し暑かったのに、夜中に目覚めると22度に室内音が下がっており、寒くて震える。
慌ててセーターのチョッキを引っ掛けてから布団をかぶる。しばらくは寒気がとれない。
一晩のうちに5度以上も下がるのは珍しいのでは。

買い物に楽々園に出かける。ヤマダ電機が開店していて凄い人の波。
アップルを繋ぐためのfirewire800を買い求めたのだが、置いていないということだった。

本屋で浅田次郎の”終わらざる夏”を買って帰る。
話は戦争末期の動員令の話から始まる。筋立てが面白そうだ。
大本営の地下壕の中で、数字的にどんどん動員部隊を作り、結果的に国民をむりやり戦場に追いやった。そのため産業は働き手を失って壊滅していった。視点の変わった本土決戦論が展開されそうである。
このままだったら武器を持たない竹槍部隊の本土決戦だったろう。

大冊だから読了までに数日かかるだろう。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その87)

艇のエンジンは依然としてかからなかった。この場所に止まって渡航して来た艇隊を誘導する以外に方法はなかったが、幸に松島伍長の努力で陸岸とはロープで繋がれていたので、いつでもお蔭で脱出出来る用意ができたと思った。

あれやこれやで相当に時間が経っていたので、もうやってくる艇隊のエンジンの音が聞こえて来ないかと、みんなで耳を澄ましていると遥か沖の方からやって来る大発動艇のエンジンの音が聞こえて来た。海上を伝って来るブンブンブンという音は、敵機の音とは異なり確かに艇のエンジンの音である事がはっきりと判った。
この音は段々と近づいて暫くすると人声らしい声が時折聞こえてくるようになった。
艇さえ動けばすぐに沖に出て誘導出来るのだがと思えば思う程とても残念であった。
湾口を通り過ぎてしまうとこの艇隊を捕捉することが難しくなるので,機会を逃してはと気が焦って来た。
そこで全員で大声をかけて見ることにして,全員が声を揃えて”松本艇隊、茲にいるぞー”と何度も叫び続けた。
そうこうするうちにもう既に明け方が近づいていた。(つづく)
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2010年9月26日 (日)

爪切り談義

今朝も気温は20度を割り、6時半18度となっていた。
高空は灰色の雲が覆って、日射しはない。
秋空とはいえそうにないが、まあいいだろう。

家内が朝食のときぽつり墓の掃除に行こうという。
しゃがむのが大変なので俺は何も出来ないよと釘を刺す。
今朝足の爪が長くなり、布団にひっかかって痛いので起き上がるとすぐ爪切りに取りかかったのだがこれが大変な難行。
体も膝も曲がらなくなって、腰掛けたままでは手が足の先に届かない。
仕方がないので座椅子を持て来て座り込んでやっと半ば感で足の先に手を伸ばし大きな爪切りで何とか切ってゆく。(小さいのでは指先がうまく使えなくて駄目だ)
肉を切っては大変だからもちろん慎重を極める。
50分もかかって朝飯には大遅れ。

90歳はもう駄目だな。80代ではこんなことって気づかなかったが。何より膝を痛めたのが悪かった。怖くて深くはまげられなくなってしまった。
かなり深く曲げないと足の先に手は届かないことがわかった。

家内は目が悪くなったので、やってくれともいえない。
先般どこかの病院で深爪切ったと訴訟になったと聞いたが、人の爪を切るのは難しいことだ。自分のは痛いから、そろそろやればいい。用心するに越したことはない。だから忙しい時にやることではない。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その88)

この時,再度に亘り敵の哨戒機が上空にやってきた。例の様に照明弾を投下して2、3回上空を廻った後、フィンシの方向に飛び去って行った。河口の上空では吊り星がゆっくり下りて来て,真昼の様に湾口を明るく照らしだした。艇員は皆舟底に蹲って照明弾が海中に落ちて暗くなるのを待った。この真昼の様に海面を照らす照明弾の光は,奇しくも艇隊の在処を映し出してくれたのは,全くの僥倖であった。
再び大声で呼びかけた所,艇隊の方もこちらの位置が判ったようであった。大発動艇の隊列がこちらに接近して来る.先頭艇は大久保准尉が乗っている艇で,彼の指示する声がはっきりと聞こえて来た.続いて松本艇隊が近づいて来て,総ての艇が舷舷摸合いし手を取り合って喜び合った。

遥々敵中を突破して、あの海峡を越えて到着した2ヶ艇隊は,食料、弾薬、薬品その他の物品を満載して来たのだ。久しぶりの再会に中隊員たちは皆お互いに抱き合って喜んだ。(つづく)
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2010年9月27日 (月)

我が家の墓の掃除

昨日の午後からair macの故障で、wireless のキーボードが使えず、マウスも従ってふらふらして使い物にならず、古いwireつきのものを引っ張りだして、一日中、古巣帰り。
たこの足がついてくるのが邪魔くさいほかは、まあ大して違いはないから構わないが。

デオデオには電話して明日来てもらうことにする。

昨日は午前中家内の慫慂で墓参りに行く。鎌、鍬、草削り、大小はさみ、箒、すくい、がんぜきなどなど、洗面器にぞうきんまで準備する。
ついでに除草剤も持ちこんで最後は来年のため主に両となりの境界にまいておく。
私方は比較的きれいで、ほとんど草がなかった。
墓を作ってくれた西山さんが気を利かして掃除してくれたのかも知れない。
ただ両隣はまだ墓なしだから草畑で茅などは結構はびこっている。
それらを刈るのが主な仕事だった。

刈り取った草などや溝の落ち葉はかき集めて、持参した大きな袋に入れて、ゴミ捨て場まで車で運び一件落着。

正午を大分過ぎていたので食料などをスーパーで買い込み帰宅して腹を満たす。久方ぶりにおいしい食事が出来る。

彼岸は過ぎたが、比較的涼しい日だったので、他にも墓参りの人たちが何人か墓地を訪れているようだった。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その89)

プブイ河口の秘匿基地には俄然活気が蘇って来た.到着した隊員たちは「苦労したろうなあ、今度は俺たちが代わりに確りと遣ってやるからゆっくりと休んで居れ」と声をかけていた。そして何時迄も第81号作戦で亡くなった戦友たちの名を挙げて語り合っていた。

第3中隊には隊員たちの食糧の補給はほとんど途絶えていた。これは各艇が絶えず輸送に忙しく航行を繰り返していたことも原因の一つでもあるが、この食糧不足を補う為に連続して元気のあるものはタロイモを探しに山に入ってみたが,簡単には見つける事は難しかった。
また、筍の味がするココ椰子の花芽を取って煮て食べたが、この椰子の木は10mにも及ぶ高さがあるので,結局この木を切り倒すことになる。しかしこのココ椰子はこの地方では住民の生活の糧としての財産であり,切り倒す事など絶対にしてはならないことであった。そこで時には海岸に繁茂しているどんぐりに似ている実を煮て食べてみたが,てきめんにひどい下痢に悩まされることもあった。このように食べられるものは何でも口に入れるという生活が続いていたので、遥々とラバウルからやって来て合流した艇隊が食糧を持って来てくれたことは何より嬉しいことであった。(つづく)
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2010年9月28日 (火)

wirelessの故障

朝早く目覚めたので、若干の室内配置換えをする。
少しすっきりする。

ごそごそしたせいか、汗ばんで朝っぱらから気持ちがよくない。

丁度正午デオデオの人がやってくる。
早速故障のキーボードをあれこれといじり始める。
要点は文字入力が出来ないということにつきた。

彼はこともなげにMacのホームページに入り、OSのアップデートを行う。
再起動後立ち上げたwireless keyboardは今度は何事もなかったようにすらすらと文字を刻み始める。
アリャッと驚く。
動作するのがあったり、なかったりしたのは初めての経験だった。
やれやれと一安心。

しかし礼を言って、帰ってもらった後こうして日記をいつもの通り書き始めたのだが、今度はマウスがふらふらし出してどうにも使えなくなってしまった。
やはり駄目かともう一度デオデオに電話することになってしまう。
がっかり!
普通のマウス、キーボードでないと駄目なのかな。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その90)

荷物は艇から次から次へと陸に揚げられ、ひさしぶりの味噌汁の味は何とも云えないものであった。誰も彼も頬がゆるみ,笑顔が絶えなかった。煙草も牛蒡に似た野草を乾燥してこれを巻いて吸っていただけであったので,久しぶりの煙草の最初の一服は脳の芯に染み通る様に感じた。隊員一同は両手で押し頂いて惜しみつつゆっくりとこの煙草を吸ったものである。

ラバウルから追及して来た艇隊を正確に誘導した松島伍長は,応召してから艇長として活躍して来た生え抜きの海の男であった。彼は危険な場所で危険な状況にあっても,恰もそれが自分に与えられた任務だと云う様に,進んでその中に飛び込んで行った。
到着した艇は大発艇8隻と装甲艇1隻の2ヶ小隊であった。今までの舟艇は皆他の部隊の借り物であったが、これからは自分の中隊の艇で行動出来る事は,中隊として胸を張って行動が出来る事と自然に力がみなぎってきた。(つづく)
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2010年9月29日 (水)

wirelessは簡単なことではない

連日快晴がつづく。
キーボード気になるので起きるとすぐやってみる。
夜の間に機嫌が治っているのではあるまいかと思ってたが、人間ではあるまいし心変わりなんてあり得る訳がない。
やはり駄目、交換して貰うことに心を決める。

こんなことがあると、朝から気分がうっとうしい。

マウスの方は快調にキーボードに関係なく動き回っている。
在来のキーボードなら、なんでも変わりなく働いてくれる。
キーボードだけがおかしいとしか思えない。

9月も今日明日と2日になってしまった。暑い暑い9月だった。
心臓がたいそう弱ったなと自覚していたのだが、先日の検査では心電図もエコーも悪いところはどこにもなかった。
へばりそうだった夏がやっと過ぎたので、まだ生きて行けそうだが、足の具合が良くなったことが一番うれしい。
健康でなくては長生きも何の値打ちもない。

先日買ってきた”終わらざる夏”は昨日読了した。
私が初年兵から3年3ヶ月過ごした、東安省斐徳が出てきたり、今ブログに連載しているニューギニア決戦のダンピール海峡の日本軍壊滅などが奇しくも出てきて興をそそられた。

負けることが分かってたのに馬鹿な戦争をしたものだなあと、また痛みが吹き出してくる感じである。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その91)

    フィンシハーヘン(フィンシ)に於ける駆逐艦作業

昭和18年3月初めに強行した第81号作戦は完敗に終わり,最早ラエに対しての駆逐艦上陸作戦は至難の業となった。事後は上陸地をダンピール海峡の南口フィンシに変更することになったが、これは上陸地点について一歩後退したことであった。
敵の兵力は益々強力になりつつあり,これに対する日本の輸送船舶は減少の一途を辿っている現状では,一時はこの東部ニューギニア戦線の放棄論も検討された様だったが、結局のところ規定方針通りラエ、サラモアの要衝はあくまで確保し,ポートモレスビー方面からの敵の進攻に対処してゆくこととなった。  (つづく)
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2010年9月30日 (木)

wirelessはやはり便利が良い

wireless keyboard で大騒ぎした2、3日だったが、昨日のcontrol key+eject keyの押し込みから再起動かけたのが効いて、何事もなかったように目下黙々と我がmac mini は働き続けている。
改めて器械の不可解さを感ずる。20年前ワープロをいじり始めた頃、突然動作が止まらなくなり延々1時間続き、止めようがなく仕方なく電線を引き抜いて、メーカーに修理してもらう決心をしたのだったが、寝て起きて再度スイッチを入れたところ、何事もなく働き始めて驚いたことがあったが、あのとき以来である。

専門のデオデオさんでも解らないことが起きるのだろうな。

昨夕デオデオさんが来てくれたが、既に治っていたので丁寧にお断りして帰っていただく。もちろん2度電話したのだが、店が夕方のラッシュで取り合ってもらえず、事前にお断りすることができなかった。

朝7時、すっぽり灰色の雲に覆われた空、曉暗がつづく。
気温19度。
依然としてキーボードもマウスにも異常が認められない。
故障はなんだったのだろう。

新聞を取りに出ると、小雨が音もなく地面を濡らし始める。
雨の一日になりそうな気配である。

三島歯科で入れ歯が出来上がる。
昼飯で早速試すことになったがやはり自分の歯ではない。強くかむと痛い。慣れるまでやはりしばらくかかるだろう。
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(平成20年吉田武中尉遺作メモから、今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その92)
この為大本営は次の事を決定し命令したと聞いた。陸海軍はあらゆる手段を講じてこの方面の駐留軍に対し,補給を継続してその戦力の補強を図る事。
その結果補給作戦は陸軍では大、小発動艇又は機帆船及び空中輸送を主とし、これに並行して一部は海軍の駆逐艦、潜水艦による応急の輸送にも頼ることとなっていた。このような情勢から第1回のフィンシに於ける駆逐艦による部隊の上陸は3月29日に行われることになった。そして船舶工兵隊はラエ上陸後には当地にて当分の間、ブナ方面からの撤退部隊のマギリからラエへの輸送と、数日置きにラエに入泊する潜水艦の補給物資の揚陸と後送する患者の乗船を担当していたが、前記駆逐艦からのフィンシでの揚陸作業の命令を受けて,急遽基地を移動する事となった。
3月28日ラエからフィンシに向けて,大発動艇6隻をもって移動した直後フィンシに駆逐艦4隻が入泊するとの連絡を受けた。この日の夜半フィンシ湾内に舟艇を集結して翌29日に入泊する駆逐艦を待機することとした。(つづく)
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