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2010年8月 4日 (水)

同じ事故は私にもあった

毎日同じ天気の繰返し。気温28度、早朝から蒸し暑い。
濃霧。
ぎらぎらではないが、雲を通して注ぐ日光は容赦なく明るく暑い。

私もあの時死んでいたかも知れんとふと思う。
昭和58年5月14日朝9時過ぎであった。
当時原爆ドームから本通に入る取っ付きから2番目に、私の通う大進産業という会社があった。

いつも通り横川駅前の私の店から9時過ぎ,スズキの50ccに乗って、本川沿いの道路を車の列の左側を並んで走っていた。
空鞘橋の交差点の中程まで来たとき,突然右前の乗用車が左折した。あっというもも無かった。直進していた私の単車は先方の横っ腹にぶち当たり,私は空中を飛んで頭から路上に落ちてしまった。
勿論ヘルメットは付けては居たが、地面に投げ出された眼鏡の先に見る見るうちに真っ赤な血が流れ出すのが見えた。痛さも何も感覚はなかった。すーっとそのまま意識を失った。

妹の今回の事故も様子は同じだろうと理解出来る。
恐らく”あっしまった”と思ったかも知れないが,腰骨が折れた事も,頭を打った事も、痛痒も感じなかったのではないか、長年の病気で嘆き苦しむより余程楽な死出の旅ではなかったかと、私は今思っている。
たまさかこれが生き残っていればそれは大変である。業苦は何年も続き,本人はもとより,家族の心労推察するだけでも恐ろしくなる。
相手の人には気の毒だが良い死に方だったと思わずにいられない。
私は幸い回復し後遺症も無く,今日まで長生き出来てるが,皆が皆こんなにうまくは行かない。
88才だから回復は無理だろう。私は未だ63才の壮年だった。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その45)

前に常陸丸を撃沈し又その漂流者を殺戮した、ロシアの戦艦ロシア号、リューリック号、クロムブイ号の3艦は、2ヶ月後の明治37年8月中旬、ウルサン沖において3度に亘り上村彦之丞中将の指揮する第2艦隊と交戦し、遂に全滅の悲運に陥ったが、当時の日本海軍のとった敵の敗残兵に対する武士道的な措置は、今日も世界の人々から高く評価されている。即ちロシアの3艦が沈没すると上村司令官は直ちに次の信号を各艦に発信している。「既に戦闘力を失っている敵兵に対しては力の限りこれを救助せよ。いやしくも私怨を抱いて接してはならない」と。この指令を受けた戦闘中の各艦は直ちに救助作業に掛り、多数の救助艇を出して漂流者を救助したと言われている。その時の状況を日露海戦史によって見ると、この付近一帯の海面はハンモック等幾多の物品に覆われ、多数の敵兵はその上に集合し、波間に浮沈しつつ漂いけり。我が救助艇を望むや直ちに泳ぎ来たり縋る者あり或いは悲鳴を上げて逃げんとする者あり、或いは手を合わせて哀れみを乞う者さえあり、わが艦隊は一々彼等を救いあげたり。その崇624名にて負傷者半ばを越ゆ。
如何に彼等が苦戦健闘せしか想察するに足る。これを各艦に分乗せしめ負傷者には応急手当を施し、且つ衣類及び牛肉、粥、パン等を給与したるにぞ、いずれも任侠仁慈なるに涕涙せりという。」また救助した敵兵に対し日本軍の水兵たちが、折からの酷暑時の船倉の底に集まっているロシア将兵の回りを囲み、手に手に扇子を持って扇いでやったという事も伝えられている。この様に一旦戦闘力を失った者に対しては、敵兵であろうと友軍以上の暖かい取り扱いをしたのであった。

然し乍ら一部の軍人には戦闘の目的は敵戦力を撃滅する事にあるから、このような措置は「宋襄の仁」であると批判する者もあった。
(つづく)
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