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2010年8月11日 (水)

我が屍体を見る

台風が近づいているお蔭で空はどんよりと冴えない。

いくらか涼しいかも。

CDを鳴らす。ベートーベンの田園が楽しく家鳴りを共鳴する。

それにしても邦人の海外での事故が相次ぐ。絶対量が増えてるせいかもしれないが。

出掛けるなとは言えないが、いつ起きるかわからないとの心の準備は怠らないことが大切だろう。

私も妹を事故で失った直後だけに人ごととは思えない。

自分よりも近しい人の悲しみは大きい。

手のひらのしこりが段々指の中ほど、親指との間と、点々とひろがる。何でだろう、不思議でならない。死の前兆にはこんなのもあるのだろうか。聞いたことが無いが。

横になっていると腕のしわの多さが目に付く。手首から肘にかけて大きな溝が彫れている。足首に手を伸ばして触ってみると改めてかさかさな皺に驚く。

もう紛れも無い卒翁である。

献体として大学に届けられてもこんなに皺々では、学生たちに魅力無いな。

気の毒に。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その1

潜水艦による苦難の輸送作戦で揚陸作業を担当する

さて、昭和18年3月2日にラエに上陸した中隊は,差し向きの任務としてはとりあえず潜水艦だけで送られて来る補給品等の揚陸と,後送する戦傷、病患者の搭載作戦に加えて,ブナ方面からの撤退に伴う輸送作戦の支援をすることとなった。3日に1度の割でここラエにはラバウルから潜水艦が入港し,主としてドラム缶に詰め込んだ米の揚陸とその帰りには患者を乗せて後送していた。当時制空権はほとんど全部敵の手に握られており、輸送船はもちろんのこと駆逐艦でさえラエ地区への輸送は全く出来なかった。この為窮余の一策として潜水艦に頼って米の輸送をしたのであった。

なお、米以外の副食の食料品等については艦には全く場所がなく,送る余裕はなかった。そして米以外にはせいぜいマラリアの薬等の場所をとらない一部のものに限られていた。

そこでこの米の輸送する容器として使われたのは,堅牢で気密性が高くその上浮揚力の大きいドラム缶であった。試してみた結果米を運搬する容器として最良のものと考えられこれが使われたのであった。それは狭い潜水艦で場所もとらずこれに勝るもは無いと考え出されてものであった。その当時このラエ地区の前線では食糧が極度に欠乏しており、1日の米の割当は1合あまりしかなかった。潜水艦は米を詰め込んだドラム缶を艦上のハッチの上に積載し,この艦が潜水しても航行中の圧力に耐えられる様に個々に艦に縛り付けられた。

ラバルツから700kmの行程を夜は浮上して海上を,昼は潜水しながら敵の制空権下に航行してくるのだから、それは容易な事では無かった筈である。しかし前線にいる将兵たちにとっては唯一の命綱の糧であったわけで、この潜水艦の入港する日を待ちわびていた。たまたま何かの都合で予定が変わり遅れる事があったが、この時には将兵全員が気が滅入ったものである。それに引き換えて入泊の予定日が決まると誰の目にも朝から活気が溢れ出ていた。

(つづく)

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