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2010年8月 3日 (火)

我が家の転居

朝からもう暑い暑い。6時半の気温は28度。室内は31度,居場所がない。

蝉しぐれがやたら蒸し暑さをかきたててくれる。

我が家の庭も蝉の誕生の宝庫だから,恐らく我が家生まれの蝉共が謳歌しているのだろう。我慢して聞き逃してやるか。

午後裸で昼寝しても気温35度とあっては、扇風機をいくら掛けても暑くてシーツは濡れてしまう。

とうとう諦めて階下に下りクーラーの中で転寝することになる。

1階と2階でそれぞれクーラーを使っては、省エネにも反するし、不経済なので今日から私も1階で寝ることにして寝台の準備をする。

毎日送っているブログも中断できないので、パソコン1台を下に持って降りる。

古いiMacはもう引退ということになるな。

暑い間だけは仕方が無い。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その44

昔の古い話だが、日露戦争の時代を振り返って見ると、当時には日本では武士道、西洋では騎士道を尊び、人情も豊かだったから残虐な行為は努めて抑制され人命は尊重されていた。この時代の戦争で日本陸軍の輸送船常陸丸に関わる逸話であるが次の通りである。

明治37年6月15日近衛後備歩兵第1聯隊が乗船した常陸丸が、大陸の前線に参加するために濃霧の濃く張った玄界灘を航行中ウラジョストック艦隊のクロムボイ号当の戦艦に撃沈され、雄図虚しく聯隊長以下全員が悲愴な最後を遂げた。この悲愴な最後が後に琵琶歌として広く愛唱された。しかし、この時代に風靡した常陸丸撃沈事件も、この第2次世界大戦のこの種の遭難事件「第81号作戦」即ちニューギニアのラエ上陸作戦の大きさに比べれば、その規模においては全く比ぶべくもない。

それは既に掲げたように8隻の輸送船と4隻の護衛駆逐艦が撃沈され、これに乗船していた将兵の約半分に及ぶ3600余人が戦死したということだ。

尚それに加えて、この様に船の沈没に伴って船もろともに沈没し戦死したのなら致し方ないとするが、昔の日露戦争の時代を振り返って見ると、戦闘であっても人命は尊重されていた。日本海軍はバルチック艦隊を全滅に追い込んだが、武士道にもとるというか、努めて残虐な行為を抑制し人命は尊重された。日本海軍は海上に漂流するロシアの総指揮官ロゼストウエンスキー将軍、ネガトフ将軍以下6000余名の将兵を総力を挙げて救出した

(つづく)

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