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2010年8月22日 (日)

伊号第176潜水艦のラエの死闘

朝6時晴、気温26度。無風。相変わらず蒸し暑し。
ニューギニア戦記を読み返す。
昨日のブログに搭載した伊号第176潜水艦の死闘ぶり気になり、ネット検索で屡次調査する。
(昭和18年)3月19日 ラエに陸軍の便乗者20名を乗せ物資揚陸作業中、敵機の攻撃を受け損傷、田辺弥八艦長重傷。先任将校の指揮で浮上、潜行を繰り返しながらラバウルへ向かう)とwikipediaに掲載しあり、
その死闘の船舶工兵隊側から見た経緯を昨日以来搭載して居る訳である。
故吉田武中尉、今田勇氏の共同労作もここに来て、重大な戦争記録としてやはり残して置くべきだと感ずる。

昨夕橋本純一君の娘安倍さんから、電話で橋本君が6月28日に亡くなっている旨お知らせを受けた。遺品を整理しているうちに私からの同窓会の案内などの手紙の束が出て来て、ほったらかして失礼しているのではと連絡してくれた訳。
奥さんも病床に臥せって居られてなにも出来ないので、変わって連絡したとのことであった。

最近は油断がならない程、次から次へと黄泉へ急ぎ始めた。

今テレビで評判の水木しげるもラバウルで全員玉砕の中の生き残りの戦中派らしいが、強運に恵まれて米寿を通り抜けた多くのものも、天寿には逆らえない。
橋本君は海外支店勤務が永く、帰国してからは関東在住同窓会の幹事として永く尽力してくれた。熱海温泉が十八番だった。会場はいつも熱海の錦城館だった。何度開いたか4度は覚えているが,もう定かではない。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その60)

先のダンピール海峡戦闘の時にドラム缶の威力を十二分に体験している。それは第81号作戦で旭盛丸が沈没した時に空のドラム缶3本で41式山砲を救い上げた事があり、その砲一門は海面から拾い上げられた後ラエに揚陸され、その後ニューギニアの前線で数少ない砲の一つとして大活躍しているということがあった。

舟艇隊員としては潜水艦に関しての知識は乏しいと思うが、協力出来る事があれば何でもするからと協力を申し出た。
この潜水艦の艦内の被爆後の状況はよく判らなかったが、前に述べた「ああ伊号潜水艦」の中で次の様に書かれている。「沈没の危機迫る。浸水と誰かが絶叫する。見ると左舷中央の上から海水が音を立てて流れ込んで来た。続いて電信室への浸水が伝えられてる。作業衣を脱ぎ、ズボンを脱いで滅茶苦茶に押し込むが水勢は激しく、とても防ぎきれるものではなく、半ば自棄的な気分が胸の中を吹き捲くる・・・・・最後に信号兵がハッチを閉め終わった時、ザーと頭上の艦橋甲板を海水が流れ、艦は傾きながら沈み始めた」とある。
艦はその後浸水が激しくなり、一時は浮上も不可能下という危険状態に陥ったが、海岸に伸し上げて修理する事に方針を決めたようだ。
先ず吃水を深くしつつ海岸に座礁することによって、激しい干満の差を最大限に利用して、その後はあまり苦労する事もなく離州することができたと記述されていた。さらに付け加えるならば幸運にも当夜には再度の敵機の来襲がなかったことである。
敵は潜水艦を撃沈したと確信していたのだろうか、翌日の敵方の無線を傍受したところによると、同日ラエ沖において日本の潜水艦一隻を撃沈したと放送していたことを露営地で知ったが、、敵は攻撃の成果ありと確信していたのだろう。
(つづく)
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