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2010年8月 2日 (月)

妹、本日白骨と化す

午前6時気温やや下がって26度。予報は最高34度と報道されているが。
田丸では10時から告別式、午後には初七日の法事まで済ますという。親族も全国に散らばっている時代だから仕方あるまい。妹の家は当分空き屋になってしまう訳だがどうなることだろう。

確かに生けるものの社会は非情なものかもしれない。天の命ずるまま有無を言わせない。
人の命所詮こんなものか、固い墓石となって3世代くらいまでは、記憶されるがその後はかき消すごと世上から去って行く。

式場には家内と二人車で行く。予想以上にスムースに走れて,到着したのは始まる1時間も前。

10時から始まって予定通り進行、焼き場待機中に食事もいただいて、ついでに親族の初七日の法事も済ませ、1時過ぎには無事終わる。

最後の別れの瞬間は流石に涙、涙である。喪主の挨拶も噴き出す涙に屢々声が中断、何を言ってるのかわからないほど、つぶやき且つ嘆きの母恋節であった。
やはり劇的非業な最後は列席者の心を打たざるを得なかったようだ。

長女は私の運転を危ぶみタクシーで帰宅したが,私らは日中ならなにげ程の事も無く午後3時過ぎには帰宅する。正に暑さ最高潮の一日ではあったが,クーラーのお蔭で楽に過ごす事が出来た。

東京から末の妹が久しぶりに顔を見せた。体調が思わしくないと云い元気そうでは無かった。何年ぶりだろういや十年以上かな、衰えが激しいのに驚く。私が一番不幸な目に遭わせた弟妹かも知れない。心が痛む。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その43)

次に本作戦に我々が携行した舟艇は、大発艇38隻、小発艇14隻、折り畳み舟54隻であった。大発艇はラエ入泊後の部隊及び軍需品の揚陸用として各輸送船に分けて搭載した。小発艇及び折り畳み舟は駆逐艦8隻に均等に搭載して、遭難した時の救済用とした。折り畳み舟等の救助のための乗組員は本部、各中隊から指揮官及び要員を差し出して編成した。その編成を参考迄に書き留めると次の通りである。
 *時津風ー沈没、松井中尉他、生還  *荒瀬ー沈没,清水大尉他、戦死
 *雪風ー    鈴木少尉他、戦死  *朝潮ー沈没、松原軍曹他、戦死
 *浦波ー    安田軍曹他、戦死  *敷浪ー   水野少尉他、生還
 *白雲ー沈没、中尾軍曹他、戦死   *朝雲ー   高橋軍曹他、生還
以上の様に沈没した駆逐艦に乗っていた指揮官以下が戦死したのは納得出来るが、沈没を免れてラバウルに帰還した駆逐艦に乗り込んだ救助隊員に相当戦死者が出た事は誰もが不思議だと考えると思う。しかしこれは救助活動の最中に再度敵機の来襲があったため、まだ海中に漂流者が残っているに拘らず、駆逐艦はやむなく退避して現場を去って行った。この為海洋に残されてしまった救助隊員と漂流者が敵機の攻撃を受けて戦死した者である。
このことについては後に公表された米軍の公開戦史の中で明らかになった。
曰く「夜になるとブナ付近から魚雷艇が出動し、動けなくなった艦船に止めを刺すと共に、水中に生存者を発見すればすべて射殺した。」とある。そして又連合軍機は絶えず漂流者やボートを発見すれば、これに対し容赦なく銃撃を繰り返したのであった。誠に戦争というものは何時の時代でも痛ましい悲劇が伴うものである。
(つづく)
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