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2010年8月 1日 (日)

死んでもタダでは転ばぬ女

朝6時半、雲は多いが東天が白み日射しはやわらかく窓辺に届いている。気温28度,今日も暑いぞー。
夕方からは妹の通夜が決まっている。

檀那寺の正覚寺の和尚さんが友引のお葬式を敬遠したので一日遅れる事になった。
宗教にこだわるとこういうことになる。

私は葬式はしないで,献体しろと遺言しているのだが,家内に任せたので,はっきりした事は私にはわからない。
が、お寺さんは呼ばないで身内だけの弔いにするつもりらしいから安心だ。
もっとも今度の様な突発事故で若い妹が先に逝くなど、当てにはならないが。

昨日の事故は地元の新聞で夕刊朝刊 、そして翌朝早くテレビでもそれぞれ報道されたらしい。
これでは内緒に出来る訳は無い。うかつに派手な死に方は出来ないという事だ。
どうせ死ぬるのだから簡単にと思うし,妹はそれを実現した訳だが、やはり新聞が取り上げたか。

若い時から軍国女子青年で派手に頑張った口だから,名前が残ったとでも思ったかもしれない。
どちらかというと私もよくやり込められた方で、事業に失敗した時などぼろくそに言われたものである。
晩年になってやっと対等になった気がする。

私のブログのファンで、何時も纏めた本をくれとせがまれていたが、これで1冊助かるという事だ。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その42)

さて辛うじて撃沈を免れた4隻の駆逐艦浦波、敷浪、雪風と朝雲は、引き続いて救助を続行したが、それぞれ4日、5日の両日にラバウル港に帰還した。そして撃沈されて帰らなかった4隻の駆逐艦は朝潮、荒瀬、時津風、白雲であった。次にこの作戦で沈没した輸送船の沈没日時は次の通りであった。
旭盛丸ー2日09:26、建武丸ー3日08:09、愛洋丸ー3日11:30、神愛丸ー3日13:14、
大明丸ー3日16:30、帝洋丸ー3日17:30、大井川丸ー4日09:00
そして防衛庁公開戦史に記録されている、この作戦に参加した将兵の状況を述べると次の通りである。
 全乗船人員ー約7300人  生存者ー約3600人(ラエ上陸者)
 生存者の内内地帰還者ー約1200人  戦死者ー約3700人
そして、輸送船団が全滅した場所は正確に言うとダンピール海峡南口フィンシハーヘン東南方30kmの地点であり、目的地ラエとの距離は所謂指呼の間であった。

そして、この戦闘を連合軍は「ビスマルク海海戦」と呼称した。又この作戦について米軍側は「真珠湾以来の艦船に対する最も壊滅的空中攻撃」といって高く評価しているという。これ以来日本軍の輸送船による組織的な上陸作戦は見られない。
(つづく)
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2010年8月 2日 (月)

妹、本日白骨と化す

午前6時気温やや下がって26度。予報は最高34度と報道されているが。
田丸では10時から告別式、午後には初七日の法事まで済ますという。親族も全国に散らばっている時代だから仕方あるまい。妹の家は当分空き屋になってしまう訳だがどうなることだろう。

確かに生けるものの社会は非情なものかもしれない。天の命ずるまま有無を言わせない。
人の命所詮こんなものか、固い墓石となって3世代くらいまでは、記憶されるがその後はかき消すごと世上から去って行く。

式場には家内と二人車で行く。予想以上にスムースに走れて,到着したのは始まる1時間も前。

10時から始まって予定通り進行、焼き場待機中に食事もいただいて、ついでに親族の初七日の法事も済ませ、1時過ぎには無事終わる。

最後の別れの瞬間は流石に涙、涙である。喪主の挨拶も噴き出す涙に屢々声が中断、何を言ってるのかわからないほど、つぶやき且つ嘆きの母恋節であった。
やはり劇的非業な最後は列席者の心を打たざるを得なかったようだ。

長女は私の運転を危ぶみタクシーで帰宅したが,私らは日中ならなにげ程の事も無く午後3時過ぎには帰宅する。正に暑さ最高潮の一日ではあったが,クーラーのお蔭で楽に過ごす事が出来た。

東京から末の妹が久しぶりに顔を見せた。体調が思わしくないと云い元気そうでは無かった。何年ぶりだろういや十年以上かな、衰えが激しいのに驚く。私が一番不幸な目に遭わせた弟妹かも知れない。心が痛む。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その43)

次に本作戦に我々が携行した舟艇は、大発艇38隻、小発艇14隻、折り畳み舟54隻であった。大発艇はラエ入泊後の部隊及び軍需品の揚陸用として各輸送船に分けて搭載した。小発艇及び折り畳み舟は駆逐艦8隻に均等に搭載して、遭難した時の救済用とした。折り畳み舟等の救助のための乗組員は本部、各中隊から指揮官及び要員を差し出して編成した。その編成を参考迄に書き留めると次の通りである。
 *時津風ー沈没、松井中尉他、生還  *荒瀬ー沈没,清水大尉他、戦死
 *雪風ー    鈴木少尉他、戦死  *朝潮ー沈没、松原軍曹他、戦死
 *浦波ー    安田軍曹他、戦死  *敷浪ー   水野少尉他、生還
 *白雲ー沈没、中尾軍曹他、戦死   *朝雲ー   高橋軍曹他、生還
以上の様に沈没した駆逐艦に乗っていた指揮官以下が戦死したのは納得出来るが、沈没を免れてラバウルに帰還した駆逐艦に乗り込んだ救助隊員に相当戦死者が出た事は誰もが不思議だと考えると思う。しかしこれは救助活動の最中に再度敵機の来襲があったため、まだ海中に漂流者が残っているに拘らず、駆逐艦はやむなく退避して現場を去って行った。この為海洋に残されてしまった救助隊員と漂流者が敵機の攻撃を受けて戦死した者である。
このことについては後に公表された米軍の公開戦史の中で明らかになった。
曰く「夜になるとブナ付近から魚雷艇が出動し、動けなくなった艦船に止めを刺すと共に、水中に生存者を発見すればすべて射殺した。」とある。そして又連合軍機は絶えず漂流者やボートを発見すれば、これに対し容赦なく銃撃を繰り返したのであった。誠に戦争というものは何時の時代でも痛ましい悲劇が伴うものである。
(つづく)
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2010年8月 3日 (火)

我が家の転居

朝からもう暑い暑い。6時半の気温は28度。室内は31度,居場所がない。

蝉しぐれがやたら蒸し暑さをかきたててくれる。

我が家の庭も蝉の誕生の宝庫だから,恐らく我が家生まれの蝉共が謳歌しているのだろう。我慢して聞き逃してやるか。

午後裸で昼寝しても気温35度とあっては、扇風機をいくら掛けても暑くてシーツは濡れてしまう。

とうとう諦めて階下に下りクーラーの中で転寝することになる。

1階と2階でそれぞれクーラーを使っては、省エネにも反するし、不経済なので今日から私も1階で寝ることにして寝台の準備をする。

毎日送っているブログも中断できないので、パソコン1台を下に持って降りる。

古いiMacはもう引退ということになるな。

暑い間だけは仕方が無い。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その44

昔の古い話だが、日露戦争の時代を振り返って見ると、当時には日本では武士道、西洋では騎士道を尊び、人情も豊かだったから残虐な行為は努めて抑制され人命は尊重されていた。この時代の戦争で日本陸軍の輸送船常陸丸に関わる逸話であるが次の通りである。

明治37年6月15日近衛後備歩兵第1聯隊が乗船した常陸丸が、大陸の前線に参加するために濃霧の濃く張った玄界灘を航行中ウラジョストック艦隊のクロムボイ号当の戦艦に撃沈され、雄図虚しく聯隊長以下全員が悲愴な最後を遂げた。この悲愴な最後が後に琵琶歌として広く愛唱された。しかし、この時代に風靡した常陸丸撃沈事件も、この第2次世界大戦のこの種の遭難事件「第81号作戦」即ちニューギニアのラエ上陸作戦の大きさに比べれば、その規模においては全く比ぶべくもない。

それは既に掲げたように8隻の輸送船と4隻の護衛駆逐艦が撃沈され、これに乗船していた将兵の約半分に及ぶ3600余人が戦死したということだ。

尚それに加えて、この様に船の沈没に伴って船もろともに沈没し戦死したのなら致し方ないとするが、昔の日露戦争の時代を振り返って見ると、戦闘であっても人命は尊重されていた。日本海軍はバルチック艦隊を全滅に追い込んだが、武士道にもとるというか、努めて残虐な行為を抑制し人命は尊重された。日本海軍は海上に漂流するロシアの総指揮官ロゼストウエンスキー将軍、ネガトフ将軍以下6000余名の将兵を総力を挙げて救出した

(つづく)

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2010年8月 4日 (水)

同じ事故は私にもあった

毎日同じ天気の繰返し。気温28度、早朝から蒸し暑い。
濃霧。
ぎらぎらではないが、雲を通して注ぐ日光は容赦なく明るく暑い。

私もあの時死んでいたかも知れんとふと思う。
昭和58年5月14日朝9時過ぎであった。
当時原爆ドームから本通に入る取っ付きから2番目に、私の通う大進産業という会社があった。

いつも通り横川駅前の私の店から9時過ぎ,スズキの50ccに乗って、本川沿いの道路を車の列の左側を並んで走っていた。
空鞘橋の交差点の中程まで来たとき,突然右前の乗用車が左折した。あっというもも無かった。直進していた私の単車は先方の横っ腹にぶち当たり,私は空中を飛んで頭から路上に落ちてしまった。
勿論ヘルメットは付けては居たが、地面に投げ出された眼鏡の先に見る見るうちに真っ赤な血が流れ出すのが見えた。痛さも何も感覚はなかった。すーっとそのまま意識を失った。

妹の今回の事故も様子は同じだろうと理解出来る。
恐らく”あっしまった”と思ったかも知れないが,腰骨が折れた事も,頭を打った事も、痛痒も感じなかったのではないか、長年の病気で嘆き苦しむより余程楽な死出の旅ではなかったかと、私は今思っている。
たまさかこれが生き残っていればそれは大変である。業苦は何年も続き,本人はもとより,家族の心労推察するだけでも恐ろしくなる。
相手の人には気の毒だが良い死に方だったと思わずにいられない。
私は幸い回復し後遺症も無く,今日まで長生き出来てるが,皆が皆こんなにうまくは行かない。
88才だから回復は無理だろう。私は未だ63才の壮年だった。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その45)

前に常陸丸を撃沈し又その漂流者を殺戮した、ロシアの戦艦ロシア号、リューリック号、クロムブイ号の3艦は、2ヶ月後の明治37年8月中旬、ウルサン沖において3度に亘り上村彦之丞中将の指揮する第2艦隊と交戦し、遂に全滅の悲運に陥ったが、当時の日本海軍のとった敵の敗残兵に対する武士道的な措置は、今日も世界の人々から高く評価されている。即ちロシアの3艦が沈没すると上村司令官は直ちに次の信号を各艦に発信している。「既に戦闘力を失っている敵兵に対しては力の限りこれを救助せよ。いやしくも私怨を抱いて接してはならない」と。この指令を受けた戦闘中の各艦は直ちに救助作業に掛り、多数の救助艇を出して漂流者を救助したと言われている。その時の状況を日露海戦史によって見ると、この付近一帯の海面はハンモック等幾多の物品に覆われ、多数の敵兵はその上に集合し、波間に浮沈しつつ漂いけり。我が救助艇を望むや直ちに泳ぎ来たり縋る者あり或いは悲鳴を上げて逃げんとする者あり、或いは手を合わせて哀れみを乞う者さえあり、わが艦隊は一々彼等を救いあげたり。その崇624名にて負傷者半ばを越ゆ。
如何に彼等が苦戦健闘せしか想察するに足る。これを各艦に分乗せしめ負傷者には応急手当を施し、且つ衣類及び牛肉、粥、パン等を給与したるにぞ、いずれも任侠仁慈なるに涕涙せりという。」また救助した敵兵に対し日本軍の水兵たちが、折からの酷暑時の船倉の底に集まっているロシア将兵の回りを囲み、手に手に扇子を持って扇いでやったという事も伝えられている。この様に一旦戦闘力を失った者に対しては、敵兵であろうと友軍以上の暖かい取り扱いをしたのであった。

然し乍ら一部の軍人には戦闘の目的は敵戦力を撃滅する事にあるから、このような措置は「宋襄の仁」であると批判する者もあった。
(つづく)
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2010年8月 5日 (木)

要らぬ心配か

昼近く猛暑最高。一旦外出しかけたが家内不調を訴え中止。お互い無理は禁物である。

午後3時を過ぎてやや曇って来たのを幸いにアルクまで出かける。ついでに郵便局により小遣いを引き出す。

デオデオも覗いてみたが買うものなし。

最近は何かにつけて購買意欲がわかなくなった。死期が近づいたということだろう。

癌患者のごとくあと何ヶ月などと宣告してくれる者でもいると助かるのだが、乾癬では死ぬる事はないなどと宣言されるばかりで、頼りにするものは居ない。

今日も中村医師は何が一番嫌ですか、痒いのが嫌ですか、それでは痒い時に飲んでくださいと、1ヶ月分のかゆみ止めの薬をくれる。まことにあほらしい。

痒い時に飲めといっておいて、1ヶ月分はないだろうに。

百歳以上になって行方不明者が随分多いらしい。年金だけ預金口座にどんどん入っているという。

平和な時代というのに、戦争中のような変なことがおきるものだなあ。

戸籍が抹消されない限り生きているということになるのではあろうが。

現に無国籍人というのもあるらしいし、入国制限なしにしてどんどん受け入れたりしたらもう目茶苦茶になってしまうだろうな。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その46

前に常陸丸から逃れてボートに漸く乗った53名はロシア艦隊のこれら3艦に猛射を受けたのであったが、その射ったロシア兵は前記の様に日本軍に助けられた。

この度の第81号作戦で戦闘力を失った漂流者を徹底して抹殺した事で問われる事はいったい何であろうかと思う。

この度の大戦では徹底した人命の抹殺に終始した。これは、かかる行為が戦争終焉の早道と考えられた事であって、人道は第2義的に、いや全く無視されたと言っても過言ではない。そして漂流者に対しても容赦する事なく、、高速艇、飛行機そして潜水艦等で発見し次第徹底した殺戮を繰り返したのである。

もちろん第一次大戦の後戦闘技術例えば潜水艦や飛行機等大量殺戮兵器の発達による所が大きな理由であろうが、それにしても残念な事である。

そして明治時代の戦争に比べて、この第81号作戦という第二次世界大戦に於いては、すべての兵器の発達に伴い、戦闘に於ける破壊及び殺傷力が頗る大きくなって居り、これは留まる事なく拡大されて来た。そして如何にして大量の殺戮、大規模の破壊を達成する事のみが戦争の目的となり、今や兵器は戦争目的の手段ではなくなった。そして、殺戮兵器は際限なく発達発展して今や留まる所を知らない状態に陥ってしまったのである。

(つづく)

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2010年8月 6日 (金)

原爆被爆死者66回忌

原爆の日、彩寧の誕生日、悲喜こもごもといった日である。

昨日から手のひらにしこりが2個出来てなんだか痒くて気になって仕方が無い。

どうして出来たのか思い当たることは何も無い。

足の裏にまめが出来たことは何度もあって、不思議でもなんでもないのだが。

豆というほど大きなものではないが、触ると少し固い。そして痒くくすばい。

まあ、神経質になることもないだろうが。

階下暮らしが身に付いてきたというか、今の所快適である。

気力の回復にも繋がっているらしい。

平和式典の放送を襟を正して見聞きした。国連事務次長やアメリカ大使などの参加は伝えられた通りで,圧巻だった。この式典の意義が一段も二段も向上した。

関係者の努力が称えられる。

世界人民の思いは当然ながら多様である。原爆でなければ制覇できないと思っている国民も大国には多い.痛い目にあわなければ判らない。これらの国にこそ原爆を破裂させたい。

翻って思うのに、平和という理念は最高ではあるが、いまだに実現は不可能だし、永久に実現されることはあるまい。

人類が百億にでも到達したら原爆以上の自壊作用が起きなければと懸念する。

世界はその真っ暗な淵に向かって直進しているのではと恐ろしい。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その4

太平洋戦争に負けた日本人は、敗戦に伴ってシベリアに送られて苦役させられたり、連合軍の裁判に懸けられて受刑者を出したりした。即ち勝者は自由勝手に敗者を処理して来たのである。そして、この近代戦にあって相手国の遭難者を救助し合った例は極めて稀である。これは今日の戦争に対する考え方からすれば当然かもしれない。それ故に今後の戦争については、今は根本的に考え直さねばならない時代になったのではないかと思う。

   ラエに上陸して船舶工兵聯隊第3中隊の露営地を定め、輸送任務に就く

第81号作戦に失敗しダンピール海峡北口で沈没した船舶工兵聯隊の第3中隊の主力80名は駆逐艦朝雲に救助され、第51師団長中野英光中将の乗艦する駆逐艦雪風と共に、3月2日夜半に他に先行してラエに上陸した事は既に述べた通りである。第3中隊はとりあえずラエ東方約2kmの海岸近くに集結し、海岸正面の整備を命じられ配備について、更に別命を待つ事になった。

この隊は本来上陸作戦を本務とする船舶中隊であるが輸送船に積み込んだ艇は1隻も残らず撃沈された。そしてただ身につけているものは銃剣と3食分の携行口糧のみで、所謂丸裸でニューギニアに上陸したのである。

(つづく)

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2010年8月 7日 (土)

踊らされる国民

朝曇、気温25度とやや涼しい夜明け、でも間もなく蒸し暑さがじわじわと身体に迫ってくる。

ネット報道を見ると、原爆を投下した機長の息子がアメリカ大使の式典参加を非難している。暗に謝罪を表現しているように見えるというわけである。

日本側もどの発言も投下した行為を非難するものは無い。

それなのに原爆の苦しみ、原爆を無くせよばかりを言う。発言の弱さがまことに気になるし、国民の納得、共感を受ける者は何一つ無い。

我々命を賭して戦った草莽を逆なでするようにのんきな発言で満ち満ちている。

こんな式典なんていらない。

真剣に真摯に式典を見守っただけに余計に腹立たしかった。米大使もだんまりで謝罪のひとこともなかった。ただ偵察に来ただけだという感じに見えた。

新聞報道も原爆関係報道で満ち満ちている。戦争中の報道といっしょで大勢に並ばねば損だとばかりの論調である。

私たちは新聞に乗せられた。そして命を捨てた。二度と繰り返したくない。

高校野球始まる。猛暑の最中気の毒な気がしてならない。

見る私の気が弱ってるのかな。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その4

翌3日夜が明けると師団参謀の篠原少佐から地形偵察に行くから同行せよとの連絡を受けた。先ずラエ地区を俯瞰出来る飛行場の東側台地に登った。底は海軍の警備隊の飛行場援護の対空陣地が築いてあった。陣地は四周360度が洩れなく射撃出来る様に円陣に掘り下げてあるが、掩蓋も偽装網も全くない完全な暴露陣地であった。精悍な顔つきの水兵が四周の上空を警戒していた。眼下にラエ飛行場が見え、その滑走路の末端は海に接している。ラエの街は見渡す限り荒れ果てて人影は全く見えない。台上は敵機の連日の銃爆撃により穴ぼこだらけに掘り起こされていた。守備兵の話では飛行場とここの陣地には毎日何回か敵機が来襲して来るので油断は出来ないという。すぐ前に見える山並みの向こうは敵の飛行場ワウである。

突然対空陣地より激しい射撃音が聞こえて来た。振り返って見ると海の彼方の山波を這う様に乗り越えて、この陣地に向って超低空で襲って来る数機の敵機が見えた。次の瞬間陣地帯を覆うような猛烈な射撃に見舞われた。一瞬の事身を隠す暇も無い激しい攻撃である。土石に打ち当たる激しい機銃の弾着音に続いて敵機の地軸を揺るがす爆音と爆風にただその場に身を伏せるのがやっとであった。薬莢の降り注ぐ音を残して、敵機は急上昇して林辺の彼方に消えて行った。平穏なラバウルから来てこの東部ニューギニアの前線の激しさを、我が身に叩き込まれたように感じたのはこの時であった。

(つづく)

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2010年8月 8日 (日)

クーラーの中での暮らし

クーラーを利用しての生活が続いているので、猛暑というのに思いもかけず日々快調である。

やはり文明の利器にはかなわないな。

二階に住んでいたときは頑なにクーラーを使わないで天然の風に任せて汗まみれになって暮らしていたが、誤りとは言わないが、老体にはやはりむごい仕打ちだったかもしれない。

肉体の消耗度が随分違う。

それでも昼寝はちょいちょい二階のベッドに転がる。涼しい日だけではあるが。

盆休みには未だ早いはずなのに、高速道路は割安効果もあってか各地で渋滞が続いているようだ。盆にはとてつもない混雑になるかもしれない。

民主党の無料宣言は間違いだったとの声もちらほら聞こえるようだ。

試験的にという政府のいいぐさだから、何時やめてもいいということか。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その4

さて、一隻の舟艇も持たない吉田中隊は、船舶工兵第3聯隊鵜飼中尉から舟艇4、5隻を借用して、当時ここラエ、サラモア地区において、とりあえず大発艇による輸送任務、それは、この地区に到着した潜水艦からドラム缶に詰めて送って来た米の揚陸と、それと引き換えに患者等の後送作業を担当する任務についていた。

敵機の来襲の頻繁なこの地区の事、舟艇はラエ西側のマーカム河の河口の近くに秘匿した。中隊の露営地から3km近く離れていて不便であったが,其処には交代で常に舟艇の監視員をつけ警戒することとしていた。

ここの露営地の海岸近くに一隻の沈没船が見られた。これは妙高丸という特に優秀な機能を持ち,当時の日本の輸送船としては第1級のディーゼル船として有名な船であった。この妙高丸はこの年の1月8日の岡部支隊のワウ攻撃のために、ラエの泊地に停泊して揚陸作業中に同日の12時半敵機の攻撃により船腹に被弾した。この船はそのまま海岸に直進して擱座したのであった。この上陸作戦は第102聯隊を基幹とする輸送船5隻で編成された兵団の作戦であった。

参加した輸送船は知福丸、白龍丸、くらいど丸、ぶらじる丸と妙高丸の5隻であって、此の船団を護衛した駆逐艦は谷風、浜風、磯風、舞風の4隻であった。そしてこの上陸作戦では妙高丸(4000t)及び白龍丸(5444t)の2隻が沈没し,擱座をしたのである。

(つづく)

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2010年8月10日 (火)

また文春に教えられる

昨日は甲子園ではナイターをやってしまった。

選手も観客もさぞ疲れたことだろう。

49校も集めたのだから、試合消化に余裕が無いのだろう。

お蔭でこちらは十分楽しませてもらっている、ありがとう。

今朝は台風の影響もあってか、時折小雨がちらつく不安定な空模様。

快晴が続きすぎたのだから仕方が無い。老人にはこのくらいが丁度よい所である。

昼も夜もよく眠れて文句のつけようはない。

昨日送ってきた文春の記事で、李明博韓国大統領が普天間基地を韓国に移設してもよいと極秘提案したと驚くべきニュースを載せている。

新聞もテレビも報道したことも無いテーマだから我ながらドキッとした。今この時期だからこそありそうな話である。

北との関係は一挙にとんがりそうである。

文春という雑誌は昔から時々凄い特ダネを披露する。田中角栄は平たく言えば文春につぶされた。

沖縄の人は喜ぶだろうな。しかし日本政府は震えそうな話である。

もう一つ中国の80后のストライキ頻発がある。

ホンダの子会社はその矢玉に降伏した。味を占めた80后は他の企業に電波で拡大させている。政府はこの抑制に躍起となっているようだが、民主化された人民は簡単には引き下がらない。第2第3の天安門にならねばよいが。

たまには文春などというメディアに啓発されつつ老いて行く私。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その50

第2中隊の隊員が舟艇でここの露営地に出入りする場合には、サラモア方面から,ラエに進入する時も,又フィンシハーヘンからラエに進入する場合でも,沈没船の妙高丸は進路の絶好の目標となった。ラエ正面の海岸はフォン湾と言われ、兎に角海岸がのっぺりしていた所で夜間に沖から露営地に向って進入する時には目標がとり難い地形であった。この妙高丸のお蔭で随分と助かったものでである。

戦場の生活には後々思い出となる数多くのものがあるが、それは自然の風物であり,地形であり,花木であり,現地で出会った人々たち等であるが、このラエで最も懐かしく印象に残ったものの一つにこの沈没船妙高丸の姿がある。この擱座して動かぬ船は四六時中,隊員と生活をともにしてきたもの言わぬ友であった。戦後20数年経った今日でもラエを訪れた時にはこの残骸に会えることであろう。

(つづく)

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2010年8月11日 (水)

我が屍体を見る

台風が近づいているお蔭で空はどんよりと冴えない。

いくらか涼しいかも。

CDを鳴らす。ベートーベンの田園が楽しく家鳴りを共鳴する。

それにしても邦人の海外での事故が相次ぐ。絶対量が増えてるせいかもしれないが。

出掛けるなとは言えないが、いつ起きるかわからないとの心の準備は怠らないことが大切だろう。

私も妹を事故で失った直後だけに人ごととは思えない。

自分よりも近しい人の悲しみは大きい。

手のひらのしこりが段々指の中ほど、親指との間と、点々とひろがる。何でだろう、不思議でならない。死の前兆にはこんなのもあるのだろうか。聞いたことが無いが。

横になっていると腕のしわの多さが目に付く。手首から肘にかけて大きな溝が彫れている。足首に手を伸ばして触ってみると改めてかさかさな皺に驚く。

もう紛れも無い卒翁である。

献体として大学に届けられてもこんなに皺々では、学生たちに魅力無いな。

気の毒に。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その1

潜水艦による苦難の輸送作戦で揚陸作業を担当する

さて、昭和18年3月2日にラエに上陸した中隊は,差し向きの任務としてはとりあえず潜水艦だけで送られて来る補給品等の揚陸と,後送する戦傷、病患者の搭載作戦に加えて,ブナ方面からの撤退に伴う輸送作戦の支援をすることとなった。3日に1度の割でここラエにはラバウルから潜水艦が入港し,主としてドラム缶に詰め込んだ米の揚陸とその帰りには患者を乗せて後送していた。当時制空権はほとんど全部敵の手に握られており、輸送船はもちろんのこと駆逐艦でさえラエ地区への輸送は全く出来なかった。この為窮余の一策として潜水艦に頼って米の輸送をしたのであった。

なお、米以外の副食の食料品等については艦には全く場所がなく,送る余裕はなかった。そして米以外にはせいぜいマラリアの薬等の場所をとらない一部のものに限られていた。

そこでこの米の輸送する容器として使われたのは,堅牢で気密性が高くその上浮揚力の大きいドラム缶であった。試してみた結果米を運搬する容器として最良のものと考えられこれが使われたのであった。それは狭い潜水艦で場所もとらずこれに勝るもは無いと考え出されてものであった。その当時このラエ地区の前線では食糧が極度に欠乏しており、1日の米の割当は1合あまりしかなかった。潜水艦は米を詰め込んだドラム缶を艦上のハッチの上に積載し,この艦が潜水しても航行中の圧力に耐えられる様に個々に艦に縛り付けられた。

ラバルツから700kmの行程を夜は浮上して海上を,昼は潜水しながら敵の制空権下に航行してくるのだから、それは容易な事では無かった筈である。しかし前線にいる将兵たちにとっては唯一の命綱の糧であったわけで、この潜水艦の入港する日を待ちわびていた。たまたま何かの都合で予定が変わり遅れる事があったが、この時には将兵全員が気が滅入ったものである。それに引き換えて入泊の予定日が決まると誰の目にも朝から活気が溢れ出ていた。

(つづく)

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2010年8月13日 (金)

寝耳に水

午前中家内の印鑑証明を貰いに市役所に行く。
昨日岩国市役所から,随分昔に村役場が区画整理のため強制買収した土地代金を当事者の親父さんがなくなっているので、相続者に分割支払うという通知があり、お金を届けに来週わざわざ家にやって来るというのだが,印鑑とその照明書を準備しろと云う訳である。
寝耳の水の話だが,家内は既に他の弟妹から聞いていたので驚かない。

少し早いがと言いながら出かける。簡単に済む。
帰路近くのス—パーで買い物をして帰宅。何処もかしこも車だらけで交通渋滞は激しい。
今日から盆だからしかたがない。
全国的に凄い事になってる様だ。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その52)

その日は潜水艦は薄暮にラエ沖に浮上する事になっていた。浮上の位置は海岸から凡そ3km 離れた位置だったが、時には4km以上離れて浮上する事もあった。揚陸を担当する舟艇隊は予め夕刻には舟艇の秘匿基地であるマーカム河の河畔から、露営地付近に回送しておいて、潜水艦の浮上を今か今かと待っていた。浮上したことを認めるや一斉に沖の潜水艦に向って発進し、息をつく間もなく揚陸作業に取り掛かるのであった。これは、日暮れの時刻には目の前にあるワウ飛行場から敵機が急発進して、何時激しい攻撃を仕掛けて来るか分らないからであった。
その日、薄暮の海の彼方に潜水艦の潜望鏡が見えた。静かに海面に浮き上がる艦の起てる渦紋が盛り上がって見える。待機していた大発艇は一斉に沖に向う。夕刻の静粛なラエの海上は大発艇のエンジンの音が慌ただしく響き渡った。
それは何時もの様に5、6隻の大発艇が使われていた。

この艇にはラバウルに輸送する患者が乗っていた。潜水艦からは何時もの通り先ず連絡員が艇に飛び乗り、次に医薬品等の緊急品が降ろされた。これと同時に患者が艦に移乗した。この総ての行動は敏速に処理されなければならない。日が落ちたと言っても眼前にはワウの敵飛行場があり常にラエの動向は監視されているのだ。
米の入ったドラム缶は浮き上がると同時に潜水艦の乗組員の手で縛り付けたテープが切り離され、それは直ちに艦上から海中に転がり込んで来た。(つづく)
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2010年8月14日 (土)

我が家のお盆

長女の家に招待を受けているので、それまでに妹のうちに盆参りに行かねばならず、起きるとすぐから気ぜわしい。

昨日すさまじい交通量を経験しているだけに、順調に広島市内に入って行けるのかいなと気がかりなのである。

広島市の死体焼却場のある尾長山の山裾にある妹宅までうねうねと辿り着く。やはり4,50分かかる。
長男が昨夜中に横浜から帰っていてくれたので、遺骨との対面は果たせた。明日は岩国のお寺に預託するのだそうだ。
簡単には会いにも行かれなくなる訳だ。
もっとも私もまもなく同じ世界に移転するのだろうが、私の思慮では永遠の別れは既に終わっている。
1時間ばかり話したりして辞去し、長女宅に出かける。
予定時間をかなりすぎていたが仕方がない。

曾孫が3人になったから、大分騒がしい。もっとも0才の男児二人は泣き声くらいで、それぞれの親たちが忙しいだけである。
来年となると大変だろうなと思うのだが,今度はコチラが今年見たいに楽に応ずる事が出来るかどうか。

帰りは婿が途中まで車で送ってくれたりして、負担が少なくて済んだ。
終日深い曇天で幾分涼しく、まあまあ何とかお付き合いの責任が果たせて助かった。

新しく仲間入りした新しい家族たちも皆心掛けがよく、和やかな団らんに終始し、心置きなく過ごす事が出来てほんとに楽しかった。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その53)

潜水艦が少しでも夕刻早めに浮き上がる事があると間髪を入れずに敵機が飛来し潜水艦目がけて突っ込んで攻撃を仕掛けて来るのが何時ものことであった。この日も同様であったが、この時潜水艦はいち早く作業を中断して緊急潜航をした。全く急な攻撃だったので艦上に縛り付けていたロープを切り離す事が出来なかったので、改めて日没後再び浮上してこの作業を続行したのである。潜水艦はこの作業が終り次第に潜航して去って行ったが、海面にはかなりのドラム缶だけが散乱して残っていた。暗闇にドラム缶はその頭を僅かに海上に出してぷかぷかと波間に浮かび、彼方此方へと流されて行く。米を詰めたドラム缶の運搬は毎度一回に20本ぐらい届けられていたので、艇員はこれだけのものを暗闇の海面を目を皿の様にして探し回った。それはなかなかの難作業であった。

このフオン湾の奥まった所には大きなマーカム河が流れ込んでいた。この河から流れ込む濁流は湾の一部を茶褐色に染めていたが、それは河口から数kmにも及んでいた。又この湾内は複雑な地形をしており、海水の流入によって潮の流れが複雑になっていた。為にドラム缶は思い思いの方向に流れて行って、何時も探すのに随分と苦労したものである。(つづく)

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2010年8月15日 (日)

終戦の日から65年

朝早くから日射しの強い好天気、7時現在気温27度、湿度75%。
8時を過ぎるともうむしむしとたまらない。幸い窓際から風がすべりこむ。それでもたかが知れてるので、やはり扇風機がたより。

終戦の日、私たちは遠く中南支境の山岳地帯をうろうろしていて,何も知る事はなかった。敗戦の厳しさはその数週間後までは感ずることは何もなかった。
それにしても平穏な日本国である。誰が当時この国のこの現実を予想し得たであろうか。

戦には敗れた。しかし営々として臥薪嘗胆,苦難の日々を耐え抜けた。
その成果を今享受している私たち世代にもう悔いは無い。

終戦時生まれたものも65才、戦争記憶を残し,戦争後遺症に苦しむものはまだまだ多い。政府もその対策に手を差し伸べているが、十二分とはいえない。

実戦渦中に居たものは、名利は勿論捨てて国の為命を捨てた。
しかし戦後の世論は実戦体験者に必ずしも好感を持たれているとは思えない。又長い間無駄死にの地位に置かれた。
生き残った私には何も悔いは無いが,共に戦って死んだ戦友たちが哀れである。人間の世の宿命か。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その54)

隊員は集めたドラム缶をロープで大発艇の艫部に括って曳航したが、これは自動車が道路をブレーキをかけたまま走る事にも似て艇は遅々として進まず、全く速度が上がらない。結局作業は夜明け迄かかることもあった。
更にこれに加えてドラム缶は潮の流れに逆らって流れ、又風の吹く方向によっては思い思いの方向に流れてしまう事が多く、誠に厄介な作業であった。この暗夜の複雑な動きをする海の中でドラム缶を探す事は並大抵のことではなかった。しかし暗夜と言ってもこの南の星空の下は案外と明るく、海上は金波、銀波とまるでいぶし銀のようにきらきらとかがやいている。が、なにしろ缶の先端が僅かに波間に出ているだけで目標が小さく、その確認は誠に難しいものであった。あれはドラム缶だと言って潜水艦の舳先に向って舷側を走り出てみると今ドラム缶だと思ったものは波だったというような勘違いはしばしばあった。

そして、疲れきった頭には何時もドラム缶の幻影が浮かんで来たものである。夜通し海上をさまよって眠い目を無理矢理に開けていると、神経が疲れ果てて瞬きする度に、ギシギシと音を立てる様に感じその上塩を被った瞼が傷んだものである。(つづく)
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2010年8月16日 (月)

寂しき老人たちの盆休日

家内の慫慂を受けて,少し暑そうだがまあいいかと諾し、岩国に出かける。
大竹のスーパーでお供えするものを買い求め,11時頃になったので、軽く食事をして、先ず田賀の墓参りから始める。
日はかんかん弟りだが,風が強く、火をともすなどという事は全然できない。灯明なしで拝んで去る。

田賀の仏前に詣でて、久しぶりの雑談永くなる。
昼食の時間になってしまって、急遽そうめんを頂く事になってしまう。食事時を避けるつもりが、積る話が長引いて迷惑をかけてしまった。

おばあさんと娘さんを相継いで失った静ちゃんのところに盆参りに立寄る。予め連絡はしてなかったので、突然の訪問となり驚かす。

家内はそれらの葬儀には参列していたが、私は欠礼していたので改めてお悔やみを申し上げる。
妹婿の森重さんもおばあさんの死去の1週間前に亡くなって居り、不幸続きを嘆かれ,同情の涙うるむを覚える。
悪いときはよく重なると古来言い伝える言葉、実際に直面するとやはり痛々しい。
1時間半位お邪魔して,今度は弟のうちに行く。
今年になって始めてではなかったか、先般の妹の不慮の死の時,死体の移動に関わったりして,対面は果たしているから、ひさしぶりというわけでもなかったっが、世間話はあるものである。
1時間位はあっという間に過ぎる。4時、ラッシュに引っかかると大変なので,急いで辞去する。

盆が過ぎれば何処も同じ夫婦二人の家庭ばかり。特に急に家族を失った静子さん夫婦は大きな邸宅を持て余すのではと,要らぬ御せっかいだが気の毒な気持ちを強く抱きつつ後にした。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その55)

時には夜が明けて来たのでやむなく断念してマーカム河の秘匿基地にすごすごと帰って来た事もあった。またこんな記憶もあったが、舟艇を繋留して露営地に向って歩きながら、明けて行く水平線の彼方を眺めていると、そこにドラム缶らしいものを発見した。直ちに艇を海上に乗り出してそこに引き返す事にした。今から出掛けると必ず敵機の急襲を受けるのは間違いない事と思ったが、当時ラエ飛行場にはまだ海軍のゼロ戦が10数機居たので、直ちに連絡を取って支援を求めた。舟艇は沖に漂っているドラム缶を目掛けて夜明けの海を突っ走った。そしてこのドラム缶は艇に引かれて帰途についた。艇は案外にドラム缶が重いので遅々として前に進まない。全速で走る艇の後尾には白波が立っているが、その割合には速度が出ていなかった。時速3、4kmという程度の遅い速度だったが、なかなか岸に辿り着くには時間がかかりそうであった。

突然敵機が2機低空で襲撃して来たが、艇のものは誰もまだ気づいていなかった。あっという間にバリバリと機銃掃射をしつつ密林の彼方に消えていった。それと全く時を一つにして零戦が一機飛び立って来て、敵機を追って朝靄のかかった密林に消えていった。とどの詰まり何とか無事にドラム缶を陸揚げする事が出来た。

なお、4月そうそうにはこの零戦も他所の基地に転進して行き、それ以来ラエ地区で艇の白昼での運行は全く出来なくなった。(つづく)
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2010年8月17日 (火)

私の銷夏法

白雲が点々と青空に浮かぶ正に典型的な快晴の秋空。朝6時半現在気温26度。
風少々,涼しくて心地よい。
昨日の疲れは一掃された感じ。

先般来手のひらに出来たしこりは、皮膚の剝ける前兆だったらしい。今は綺麗に剝け取れて,新しい皮膚が顔を出して、すっきりと綺麗になった。昆虫の脱皮だな。
乾癬で年中表皮がはげ落ちて、赤味が露出している我が身にも、こんな部分が残されていたらしい。何でも無い事に却って驚かされる。

正午を過ぎると、天候は一変する。猛暑に堪え難く、風呂場に入り冷たいシャワーを心行くまで浴びる。
若いときなら定めし海や川で寒気がする程潜るところだろうが、この老い耄れにその元気は無い。

夕方にはまた堪え難くなる。シャワー程度ではどうにもならない。
病気を避ける為にはやはりクーラーか。

蟻がここのところ猖獗を極める。珍しく蚊はほとんどいない。
夕方庭の水やりを手伝う。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その56)

このドラム缶一個には160kgの米が入っていて、これは700人の兵士を一日養う事の出来る量であり、命より大切なものであった。その後当分の間潜水艦によって運ばれて来るドラム缶の揚陸作業は続けられた。

この潜水艦による揚陸作業中敵機の攻撃で破損し砂浜に擱座した潜水艦にまつわる一つの挿話がある。
去る3月3日の第81号作戦のラエ上陸作戦が失敗したために、ラエ、サラモア地区に集結した前線の戦闘部隊は、食糧の補給がまったく途絶えたことによって緊急な事態に陥っていた。ここに苦肉の策として潜水艦による米の輸送が始まった訳である。勿論大がかりではないが大発艇によっても人員、弾薬、糧食等の輸送も並行して開始されていた。
戦闘を本務とする潜水艦が補給船代わりにに使われる事は、海軍として頗る不本意な任務に就かされたと悲憤やるかたない思いであったこととさっするが、これも陸軍の前線での窮状を見るに忍びなかったことと、また軍の作戦推進の全般的視野に立ってもやむをえないことだったのであろう。

18年3月20日、3日に一度の計画にのってラエに糧食等を輸送して来た潜水艦が,予定通りラエ沖に到着し浮上した。第2中隊が当日の輸送を担当し、陽のあるうちにに何時もの様にマーカム河からラエの浜辺に大発艇を回送して潜水艦の到着を待っていた。当日は全く風がなく海面は凄く凪いでいて静かな夕暮れであった。(つづく)
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2010年8月18日 (水)

甲子園の熱闘

昨日に変わらず好天気。といっても好ましいわけではない。
9時を過ぎるともう耐えられない。

岩国市役所が来るというので、少し部屋の片付けをしない訳には行かない。ちょっとばたばたするだけで汗が噴き出す。
応接間兼寝室が窮屈なので、棚を整理する事にして音楽カセット棚を先ず整理を始める。

予定より小1時間も早く岩国市役所の職員がやってくる。
手早く片付けてくれたので良かったが、早すぎた来宅に、当事者の家内はちょっと慌てた風情だった。
それにしても昭和28年頃の土地収用代金が今頃清算されるなどとは、官庁のスローモーぶりにあきれ果てる。

甲子園の炎熱下の激闘はすさまじい。攻撃力の関東一高は思いもかけず成田高校に先手をとられて先ず敗れ、よく踏ん張って勝ち上がった聖光学園はやはり興南の打力には及ばなかった。

春夏連覇を狙う興南の野望は実現するか、ベスト4の熱闘が見ものである。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その57)

毎度のことで隊員は大凡日没30分前に浜辺に出て、潜水艦が何時浮上しても直ちに揚陸に応じられる様に気持ちを引き締めて待機していた。艦が浮上したら直ちに対応し、何時もの事ながら接舷して最短時間で作業を終了させなければならなかった。
いつもながら沖に出て見えるサラモア半島に映える夕日を眺めながら、浮上して来るであろう潜水艦を待っていた。

突然「潜水艦だ」という叫び声に咄嗟に沖を見ると、静かな海面にニョッキリと潜望鏡が突き出ていた。今日は馬鹿に早い到着だと思いつつも、各艇は直ちに全速で発進し沖合の潜水艦に向った。
見る見るうちに潜水艦はその全貌を海面に現した。今迄静かだったラエ沖は一瞬にして舟艇のエンジン音で騒々しくなって来た。大発艇からもあい綱が潜水艦に投げかけられた。艦の乗組員は素早くこの綱を舷側の欄干に括り着けた。艦上に括り着けられていた米のつまったドラム缶のロープが切り離された。

一方艦内からは狭いハッチの口から連絡員が上がって来て、医薬品等が甲板に送り出され舟艇に積み込まれた。艦と大発艇の乗組員は共に一体となって、手早くこの作業を片付けようと行動していた。敵機のことなど全く意中にもなく懸命に作業をしていたが、作業半ばにして突然甲板上でただならぬ動揺が起きた。咄嗟にこの騒ぎは敵機の不意打ちの襲撃だろうと思った。甲板で作業していた乗組員たちは艦内に雪崩れ込んだが、それはほんの一瞬の出来事であった。(つづく)
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2010年8月20日 (金)

再度新京の地図のこと

猛暑はまだまだつづきそうである。
今朝も気温は27度と変わらない。風がないので体感温度は余計に高い。

昔2年半過ごした、冬は酷寒零下30度だった東安今の密山の地が羨ましいくらいだが、世界温暖化の影響で彼の地も夏の気候は変わってしまったかな。

私のブログの検索ランキングを見ると、依然として新京地図が毎日のごとく入っている。ということは新京に縁の深い人が多いという事である。
康徳7年即ち昭和15年(1940)の地図だから、時期から言うと満洲のことを調べるには欠かせない地図という事になる。
ランキング位置の高い事はよく分かる。
5年前長春を訪れたとき、大同大街の旧ヤマトホテルのロビーに陳列してあった地図を¥1000.だったか¥2000.だったかで買ったのだが、これがこんなに評判になるとは思っても見なかった。

昭和15年は私の社会人生出発の年だし、新京はその発足の地だったから、買わんかと差し出された時即座に言い値で受け取ったものだった。

今の時世だからこぴーは簡単である。要望いただければ喜んで差し上げるつもりでいる。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その58)

最後の乗組員が艦内に入る頃には甲板の近くにまで海水は迫っていた。ハッチを締め終わるか終らないうちに艦は海中に潜って行った。一隻の大発艇はもあい綱が離れずに正に引き込まれんとした時、綱が離れて海面に浮き上がって危ない所で沈没を免れた。がその瞬間艇はもんどりうって海面に叩き付けられたが、正に危機一髪の出来事であった。

気がついた時には既に敵機2機は爆弾の雨を降らして飛び去って行った。この当時の記録によるとこの襲撃を受けた時艦上で作業中の潜水艦乗組員2名が被弾して戦死したとある。海上に残された作業員は直ちに作業を中止して、再度の敵機の襲来に備えて各艇は分散して襲撃に備えたが、暫くしても敵機は二度と上空に現れなかった。

大陽は既に西に沈んでその残照はサラモア半島を真っ赤に染めて早くも空には星がまばらに瞬いているのが見えて来た。
先程敵機の投下した爆弾が確かに潜水艦に命中したかに見えたが、爆弾の投下と潜水艦の水中に潜ったのが同時だった様に見えたので、どうなったのか状況ははっきりとはしなかった。何にしても専任士官の顔は見えたものの話し合う余裕すらない瞬時の出来事であった。
そのうちに海面にむくむくと油が浮き上がって来て、夕暮れの付近の海面は五色の光が揺れ動き不吉な予感に包まれた。

当日4隻の大発艇が作業実施のため出動していたが日の暮れかけた時に海上に集結してお互いの異常を確かめ合ったが、幸にして艇の損害も艇員の戦死者もなかったので、ひとまず海岸に向い積み荷を揚陸することとした。(つづく)
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2010年8月21日 (土)

興南大差で優勝

朝8時半せいこう外科に膝の具合を見てもらうために行く。
9時から始まるだけに未だ3番目の外来だった。
40分ぐらい待たされて、診察をうける。
注射を打ってもらい、レントゲン写真も撮られる。
さして異常は無い由。まあ無理して沢山のカセットテープの廃棄処理をしたのがたたったのであろう。膝に掛かる負担が意外におおきかったのかも。
今日は入浴も禁止。すわる事も歩くこともするなといわれる。寝てる以外に無い。

甲子園は決勝戦。
興南高校が沖縄県ではじめての全国制覇を果たす。それにしても東海大相模高校を13-1という大差で破っての勝利、ここぞとなると凄い連打は全員の力が揃っていたということであろう。
興南高校はそのうえ春夏連続優勝という華やかな記録まで成し遂げた。
驚嘆以外に無い。

夕方になるも猛暑衰えず。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その59)
海面に溢れ出た油を見て潜水艦は恐らく撃沈されたのではなかろうかと語り合った。海岸で荷揚げをしていた所のすぐ近くの浅い海に突然巨大な異様の姿のものが現れた。よく見た所艦艇だろうとは思ったが、今迄このあたりでは見た事のない船だった。次の瞬間大波が海岸に打ち上げて来たが、その巨大な物体は先程沈没したかと思った潜水艦であった。

この潜水艦は戦後の戦史によると伊号167号である事がわかった。当時の館長は田辺海軍中佐、甲板士官は荒木海軍大尉であったことは、戦後に元伊号潜水艦板倉艦長の著書「ああ伊号潜水艦」によって解明された。

私(吉田)は直ちに擱座した潜水艦に接舷して甲板に乗り移り副艦長の荒木大尉と打ち合わせをした。話では田辺艦長は敵機の空襲時に胸部を負傷して瀕死の重傷を負っているようだった。
荒木大尉は言った。「至近弾によって燃料タンクをやられているが、応急修理をすれば動けるので、全力を挙げて離州したい。幸に内部の機関はやられていない」と。そこで荒木大尉に一つの提案をした。「直ちにドラム缶を集め出来るだけ多くのドラム缶を甲板上にくくり付け離州時に浮力を少しでも増やしたがよいだろう」と。
荒木大尉は藁をも掴む思いで、この提案をこころよく受け止めて舟艇隊の協力に感謝した。
星の光に照らし出された擱座している潜水艦の前半分は完全に砂浜にのし上がっていた。各舟艇は直ちに桟橋に急行し、そこで空の重油ドラム缶を積載して潜水艦の場所に引き返した。幸に今日の潮時は今夜半が満潮であり、潜水艦は最も干潮に当たった時に擱座したわけであった。(つづく)
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2010年8月22日 (日)

伊号第176潜水艦のラエの死闘

朝6時晴、気温26度。無風。相変わらず蒸し暑し。
ニューギニア戦記を読み返す。
昨日のブログに搭載した伊号第176潜水艦の死闘ぶり気になり、ネット検索で屡次調査する。
(昭和18年)3月19日 ラエに陸軍の便乗者20名を乗せ物資揚陸作業中、敵機の攻撃を受け損傷、田辺弥八艦長重傷。先任将校の指揮で浮上、潜行を繰り返しながらラバウルへ向かう)とwikipediaに掲載しあり、
その死闘の船舶工兵隊側から見た経緯を昨日以来搭載して居る訳である。
故吉田武中尉、今田勇氏の共同労作もここに来て、重大な戦争記録としてやはり残して置くべきだと感ずる。

昨夕橋本純一君の娘安倍さんから、電話で橋本君が6月28日に亡くなっている旨お知らせを受けた。遺品を整理しているうちに私からの同窓会の案内などの手紙の束が出て来て、ほったらかして失礼しているのではと連絡してくれた訳。
奥さんも病床に臥せって居られてなにも出来ないので、変わって連絡したとのことであった。

最近は油断がならない程、次から次へと黄泉へ急ぎ始めた。

今テレビで評判の水木しげるもラバウルで全員玉砕の中の生き残りの戦中派らしいが、強運に恵まれて米寿を通り抜けた多くのものも、天寿には逆らえない。
橋本君は海外支店勤務が永く、帰国してからは関東在住同窓会の幹事として永く尽力してくれた。熱海温泉が十八番だった。会場はいつも熱海の錦城館だった。何度開いたか4度は覚えているが,もう定かではない。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その60)

先のダンピール海峡戦闘の時にドラム缶の威力を十二分に体験している。それは第81号作戦で旭盛丸が沈没した時に空のドラム缶3本で41式山砲を救い上げた事があり、その砲一門は海面から拾い上げられた後ラエに揚陸され、その後ニューギニアの前線で数少ない砲の一つとして大活躍しているということがあった。

舟艇隊員としては潜水艦に関しての知識は乏しいと思うが、協力出来る事があれば何でもするからと協力を申し出た。
この潜水艦の艦内の被爆後の状況はよく判らなかったが、前に述べた「ああ伊号潜水艦」の中で次の様に書かれている。「沈没の危機迫る。浸水と誰かが絶叫する。見ると左舷中央の上から海水が音を立てて流れ込んで来た。続いて電信室への浸水が伝えられてる。作業衣を脱ぎ、ズボンを脱いで滅茶苦茶に押し込むが水勢は激しく、とても防ぎきれるものではなく、半ば自棄的な気分が胸の中を吹き捲くる・・・・・最後に信号兵がハッチを閉め終わった時、ザーと頭上の艦橋甲板を海水が流れ、艦は傾きながら沈み始めた」とある。
艦はその後浸水が激しくなり、一時は浮上も不可能下という危険状態に陥ったが、海岸に伸し上げて修理する事に方針を決めたようだ。
先ず吃水を深くしつつ海岸に座礁することによって、激しい干満の差を最大限に利用して、その後はあまり苦労する事もなく離州することができたと記述されていた。さらに付け加えるならば幸運にも当夜には再度の敵機の来襲がなかったことである。
敵は潜水艦を撃沈したと確信していたのだろうか、翌日の敵方の無線を傍受したところによると、同日ラエ沖において日本の潜水艦一隻を撃沈したと放送していたことを露営地で知ったが、、敵は攻撃の成果ありと確信していたのだろう。
(つづく)
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2010年8月23日 (月)

老いの難儀はつづく

少し霞んでは居るがよい天気、午前6時現在気温27度と熱帯夜は続いている。夜半2度クーラーを起動する。
一応眠りは快適としておこう。

今朝下の歯が痛い。どうやら入れ歯の基幹になっている犬歯らしい。手で触るとぐらぐらして痛い。
8時に三島歯科に電話して予約をとる。

日射しが20cmくらい室内に入り込む。もうこんな時節なのにこんなに暑い。昔からこうなのだろうが,耐えられなくなって来たこの頃。老いを生き抜くのも簡単ではなさそうだ。

10時過ぎ三島に出かける。痛い歯を抜く事になったが,麻酔を3本も打ったが利かず。結局歯茎の腫れの治まるを待って再度挑戦する事になる。痛い歯を短く削って当たりを少なくしてもらって今日のところは帰る。
とうとう昼飯はぬける。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その61)

当時、舟艇隊のものたちはその後の情勢を海岸で見守っていたが、この潜水艦がラエ沖の海底を潜航し、海底に沈んで行き、海岸に擱座させるまでは危険な状況の連続であった。兎に角にもラエ海岸に擱座さしたことは幸運という以外に言葉が無い。このあたりの状況は前述の記録に極めて詳細に、更に技術的な方法も含めて記載されているが、これは省略する事としたい。

その後艦の修理を終り一方では舟艇隊の運んで来た空のドラム缶が次々に甲板上に運び上げられ、此の缶はロープで艦の欄干等に括り着けられて行った。
舟艇隊員が大発艇からドラム缶を持上げ、艦の乗組員が甲板上からこれらを受け取り、陸海軍が共に一体となって50個に及ぶドラム缶を艦に積載したが、甲板上はこのドラム缶で埋めつくされた様であった。

やがて潜水艦の離州の作業は総て終り後は満潮を待つばかりとなった。舟艇隊は潜水艦側の希望に添って戦死者2名と負傷者を一部の大発艇に移し替えると共に、揚陸していなかった弾薬その他の必需品を積み込んで、ラエ桟橋に向って先行させた。艦の乗組員は作業の手を止めて戦死者の載った艇を見送った。田辺艦長は重傷にも拘らず気丈にも遂に艦から下りて来なかった。
(つづく)
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2010年8月24日 (火)

医者通いはつづく

朝6時半、気温26度、灰色の空霧深し。雨の気配は全く無い。

同じ暑さが未だ続きそうだ。

昨日の歯医者だが、レントゲン写真で歯が折れていると言われ,抜く事になったのだが,考えてみると堅いものは食わないし、なんで歯が折れたか心当たりが無い。

寝苦しい晩がつづくから、はぎしりでもひどくしたのだろうか。

そういえば朝起きた時口の回りが異常にしびれていたな。

これ以外に考えられない。副先生が私が歯の表彰状をお届けに上がったことがありましたねと言ったが,あれからもう十年。

丈夫な歯だったのに、老い先極まれりということだろう。

自慢話にはならないと思うが、中支に転戦した昭和19年、揚子江を北上し、石灰窰に上陸して、給食を受けた時、米飯に沢山の砂利が混じっていた。うっかり噛み砕いて歯が欠てしまった。

記憶に残る虫歯の原因はこれにつきる。勿論戦いの最中どうすることも出来なかったのだから。

戦後永年の間に自慢の歯も全部入れ歯に変わった。ただ根は自分の歯が20本以上あるからと80歳の時表彰された。

この表彰状をわざわざ届けてくれたのが、ここの副先生だったらしい。

あれから1本2本と抜かれたと思うからもう過去の夢物語だが。

今日はせいこう外科,毎日医者通いが続き,いやだいやだ。

朝早く行き過ぎてドアの外で待たされる。ほかに二人三人とこの暑いのにはやるんだなあ。

もう痛くなくなったからと言って今日でお通いは終わりにしてもらう。

28日には妹の法事を正覚寺でやると,哲郎が一昨日電話して来た。

この暑いのに用事の多いこと。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その6

総ての作業は一段落した。ラエ海岸に引き返した私は指揮艇の隊員と共に艦の近くに残り、潜水艦の離州を確認することとした。海岸は今は全く静かになっていたが、艦からに溢れ出た重油は澄んだ星空の下でギラギラと光っていた。

夜も更けて海の潮も次第に満ちて来たようで、最良の条件が整ってきた。副館長は「これから離州します、お世話になりました」と、お互いに手をしっかりと握り合った。私は「無事にラバウルに帰られる事を祈ります」と言いつつ甲板から大発艇に乗り移った。これで潜水艦の離州の準備は十二分に整った。そして、最初の試験的な後進では艦体は微動だにしなかったが、次に乗組員を左右の舷側に移動させながら後進を懸けた所、艦が僅かに動いたと見えたとともに加速的に一気に海中目掛けて滑り込んだ。無事に離州に成功したのであった。陸岸でこれを見ていた舟艇隊一同は「よかったのう」と手を取り合って喜んだ。潜水艦はそのまま沖に向って去って行ったが、その後の艦の状況は全く判らなかった。その後ふとした機会にこの時から数日の後にラバウルに無事帰還したことを聞いたが、今でも荒木大尉と甲板上で固く握手したときの感激は忘れられない。

しかしながらこの陸海軍の力を合わせて懸命に取り付けたドラム缶が、潜水艦の離州にどれほど役に立ったかはわからない。しかし、離州さすという事は、極僅かな浮力、衝撃によって初動がつけば後は惰力でもって容易に動き出すものである。ドラム缶の浮力も6、7缶で1tの力を出すので案外に馬鹿にならない力といえる。

そして戦場での行動に十分だと言う事はなく、如何に協力してもし過ぎるという事も無い。一を得るためには十倍、百倍の努力が必要である。この事はスポーツ、芸術そして仕事にも否万般に通ずる大原則かもしれないと思う。(つづく)

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2010年8月26日 (木)

悼む心

朝6時気温25度、やや低い。

しかし日が昇るに連れ急上昇。

正午には相変わらずの暑さ。

日の足はもう50cmも窓際から延び込んでいる。

部屋にはもうじーっとしては居られない。

急ぎ下階に下りる。

日記は下のパソコンで続ける。

膝の痛みは未だじわーっと残っている。階段を下りるときやはりかなり気を使わなくてはいけない。

ギクッとやったら、元の木阿弥である。

テレビで若者たちが飛んだり跳ねたりしている.羨ましい限り。

86歳のばあさんも踊っている。

元気だった妹が突然髣髴として浮かび上がる。

小さいときから私より活発だった。家の中の拭き掃きも私より敏捷だった。憎たらしくよく喧嘩もした。

田舎に帰っても山川はいっしょでも語る話題も相手ももういない。

明後日はお寺での法事に出かけなくてはならない。

なぜ私より早く死んだんだ。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その6

人はこの文明の時代に擱座した潜水艦をドラム缶にて助けるなど、大それた考え方だと人は笑うかもしれないが、これは不可能を可能に変える努力であろうと思う。しかしこの事件、このことを通じて陸、海軍の隔たりなど全くなく、その心が通じ合ってした行動にほかならないものと考える。

二度と会う事の無いだろう者達がお互いに喜び感謝し合って、手を振りながら別れたが、私は艦が離州した時に海が山の様に盛り上がり、岸辺に躍り込んで来た大波が今でもしっかりと瞼にやきついている。そして次の瞬間、岸辺近くに座礁している艦の前半分がじわじわと動きだし、その後一気に海中に滑り込んだ光景は、今後一生忘れない光景であったと思う。

この伊号第176号は昭和17年に竣工した新しい艦であり、排水量は1500tというから中型の潜水艦だといえる。

この事があった後、此の艦は内地に一旦帰還し修理を行い更に出陣したという。そして、昭和19年2月11日に南溟の果てソロモン海域で沈没したと聞く。僅か2カ年という短い生涯だったと仄聞している。(つづく)

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2010年8月27日 (金)

医者通い続く

夜半少し雨が降ったらしい、ベランダが濡れている。

随分珍しい。6時の気温は27度だが、温度に拘らず涼しい。

雲が多いから日中このままなら少し楽かな。

午前10時過ぎ三島歯科に行く。先日抜歯しかけた歯は抜かないように頼みそのままにしてもらう。

前歯の残った8本だけで結構食事が出来るから、何も入れ歯を入れる必要はないと主張したわけである。

結局先生もその主張を認め8本の前歯の補強をして終わる。

ただ次の機会に問題の歯の状況を見て、かぶせることが出来れば元通りかぶせて入れ歯が使えるようにしたいと言って帰される。

条件つきと言うわけである。

夕方薬が切れるので、内藤内科に出かける。

血圧が低すぎるらしい。看護師二人が変わり合って計るが変わらない。95-50といったところらしい。

立ちくらみのせいでしょうという。先生もなんなら点滴をしましょうかという。断って帰る。来月心臓の検査をするとも言う。

ぼつぼつあの世への支度が気ぜわしくなったようだ。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その64

   大発艇によって海峡横断を試み、続いて本格的な輸送作戦に入る

昭和18年4月に入りラバウルから東部ニューギニア南部地区への兵力輸送は、輸送船は勿論の事駆逐艦によっても困難な状況になっていた。4月2日の東部ニューギニアのフィンシハーヘンへの駆逐艦による輸送作戦は失敗に終わり、海峡輸送は大発動艇でする事のみに頼らざるを得ない状況になっていた。

だが、3日に一度の潜水艦による米等の食糧輸送は続けていたが、兵力の輸送は専ら大発艇に依存せざるを得なかったのである。

そこで、駆逐艦による兵力輸送は更に一歩後退して、海峡の北端にあるラバウルとの陸続きのニューブリテン島西北端に位置するツルブ地区から輸送を実施する事に変更した。この時期でのこの海峡の制空権は完全に敵の連合軍の手にあった。

本来大、小発動艇は上陸作戦の時、輸送船が進入した泊地において船と陸地との輸送を担うものであった。長距離輸送用として、いや、ましてや大洋を航行する様には建造されていない。従って僅か10t程度の艇で数100kmに及ぶ海洋を横断するのだから、その労苦は大変なものがあった。

(つづく)

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2010年8月28日 (土)

妹との最後の別れ

8月28日(土)晴れたり曇ったり

暑気相変わらず。

妹の満中陰の法事が正覚寺で極近い親族だけ呼ばれて開かれる。

暑い暑いの繰言ばかりが絶えない。それでも本堂はクーラーが利いていて文句は言えない。

先祖の倶会墓に無事納骨される。

嫁として他家に入り切ったわけである。

なんだか苗字が違うだけに少し縁が遠ざかった感じがしないでもない。

長い年月の間には、嫁ぎ先が間違っていたと私たちの母といさかいする場面もあったことを思い出す。

母が無理やり行かせたわけでもなかったろうが、多少の不満を乗り越えて70年よく辛抱したと賞賛せざるを得ない。

何よりよき後継者に恵まれたことは女親としての一番の功績だろう。

宿命とはいえ女には男と違った生死のあることを今更のごとく思わざるを得ない。

写真は妹の最近の元気な姿

Photo

今日は朝早くから、ごそごそせざるを得なかったせいか、膝の痛みがひどくなる。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その6

「ああ、堂々の輸送船」と歌に歌われたには開戦初期の事であって、中期以後にあってはどの作戦でも輸送船は連合軍側の格好の餌食となっていた。

第8方面軍今村司令官は、北岸のツルブ駐在の歩兵第66聯隊とその他の部隊を、5月中旬から約1ヶ月のうちに大発艇を総動員して海峡を横断してラエに投入する方針を決めた。

当時ツルブ以西において大発動艇で稼働しうるものは40隻足らずしか居ない有様であった。そしてラエ、サラモア方面は主として船舶工兵第3聯隊の鵜飼中隊、ダンピール海峡は船舶工兵第8聯隊吉田中隊が主軸となって担当する事になった。この海峡横断には石原後に原小隊が(隊長共に戦死)特大発動艇をもって参加した。

大発動艇は目標が小さく海峡や沿岸の航行輸送には最適であり、友軍の期待を担って連日、連夜敵機や敵潜水艦又は魚雷艇の攻撃を受けながら・ラバウルーツルブーブッシングーフィンシハーヘンーと接岸航行をしつつ海峡を渡り、兵員の輸送と患者の後送にと全力を注いで任務を果たした。その一部ではニューブリテン島の南側を廻って輸送する艇隊もあり、その延べ距離は7800kmに及んだという。(つづく)

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2010年8月29日 (日)

人の用事の終わるをジーッと待つ心

朝6時気温27度と相変わらず。

膝の痛みも相変わらず。

体の不調を紛らわす方策見当たらず。

妹の死んだ先月末から殆ど雨らしい日もない。

炎熱に炙られて、国民の気力も萎えてしまった気すらする。

家内と昼飯を食いにデパートに出掛ける。

食事の後は家内がショッピングするのを1階の待合ベンチで一時間ばかりジーッと待つ。

杖をついているので、気になるし、痛みを我慢して歩き回る必要もない。

昔三生さんらと四国やしまなみを旅行したことがあって、観光地ごとに目の不自由な彼が残されてジーッと待っていたが、その姿がいみじくも目に浮かぶ。その時は思いもしなかったが、今その身になってみるとつらさが身に滲みる。

ブログを書くのにいい考えなど浮かばないかと模索したが、長いなあとの思いばかりで何も浮かばなかった。

帰宅して午後3時過ぎやっと小雨が風に乗って吹き込んでくる。

もう少し本格的にと思うのだが天は素知らぬ顔。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その6

前に言った様にラバウルからラエまでの7000kmのうち一番の難所はダンピール海峡であった。この海峡を渡るための両端の基地(舟艇の秘匿地)は、ニューブリテン島側はブッシング、東部ニューギニア島側はフィンシハーヘンの南側沿いのブブイ河口である。両基地間の距離は110kmであり、大発動艇で航行すれば約12時間は掛り、このためにはどうしても2、3時間は昼間航行を余儀なくされる事となる。

この昼間の航行を明け方にするか又夕方にするかと案じ、どちらかを選ぶ事となる。結局夜に向って夕方早めに出発する事となった。

そして一度舟艇基地を後にして海峡に出ると何より脅威なのは敵機の攻撃である。この海峡横断に当たっては友軍機の援護を受ける事等は全く期待する事は出来ない状況であった。最近この方面で翼に日の丸をつけた友軍機を見かける事は殆どなかったのである。

ただ、4月の下旬フィンシハーヘンで高高度の飛行をしている友軍機の編隊を2日間連続して見た事があった。異例な事だと思ったが、これは後日漏れ聞いたところでは、先般連合艦隊司令長官山本五十六元帥が,前線視察の際にブイン上空で敵機の攻撃を受け,戦死された事に対する報復の爆撃機の飛行行動だったという。そしてこの攻撃な目的地はポートモレスビーの基地だったということだった。(つづく)

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2010年8月30日 (月)

先始末も楽ではない

高曇り、青空もあっちこちみえる。朝6時の気温28度と依然として高い。湿度も75%ある。
今日の日中推して知るべしだな。

昨日は一日掛けて、1990年に録画した『シルクロード」13編をDVDにダビングする。
死ぬまでに不要品整理の一巻と考えての始末だが、カセットテープ千個の始末にはとうとう膝を痛めてしまって、未だに苦しんでいる。
ビデオテープも千個以上ある。捨てるとなると頭が痛い。
この方は大きいから、音楽家セットの比では無い。
大きな棚5本と別の整理箱まであって、もう不可能に近い。

もう一度見たい奴だけDVDにダビングしているわけだが、簡単には進まない。捨てるのは容易いことと思っていたが,大きな誤算だったらしい。
東京の娘一家はその後元気なかしらと,家内は時折私に洩らす。カナダに留学した娘ももう帰ったのだろうに何の話も無いとこぼしている。いつまでも子離れ孫離れは出来ないと見える。

台風7号が沖縄東方に発生したらしい。やはり紛れもなく秋だな。
台風が一過すればこの暑さも飛んで行くことだろう。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その67)

大発動艇には特に独立機関砲中隊が配属され,各艇に20mm機関砲一門が搭載された。勿論別に重機関銃も搭載され、艇の前部に機関砲が固定され,機関銃は艇の後部に据え付けられた。しかし、敵海軍の魚雷艇はその装備は重装備である上に,40ノットの高速で攻撃して来る。大発艇の装備と15ノットの速度では到底及ぶ所ではなかった。

大発艇は輸送が主な任務であったので,攻撃のための装備はしていない。これに反して敵の魚雷艇は攻撃専用の完全武装の艦として建造されているので、この応急に武装したくらいでは万事にわたり大きな隔たりがあった。

また一方には艇には敵機から襲撃を受ける脅威があり、コンソリデーテッドB24型機は高高度偵察が主な任務で殆ど攻撃してこなかったが、ノースアメリカンB25型機はこの艇に取って最も脅威となる存在であった。低空で頭上から林辺すれすれに飛んで来て、キーンという特有の金属音と共に頭上から降り注ぐ薬莢の殻は,今思い出しても身の毛がよだつ様である。なおこの他に自然現象から起きる海難事故も少なくなかった。(つづく)
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2010年8月31日 (火)

無駄なあがき

台風の影響などはまだまだで、炎熱の日は相変わらず続く。
1988年に録画した「ゲゲゲの鬼太郎」の東映映画をダビングする為にとりだして、SONYのテープデッキからDVDレコーダーにつなぐ。SCOTCHのテープだけど、やはり途中で何度もヘッドクリーニングの要求が出て画面が途切れる。
1時間ののアニメが1時間半以上もかかる。

やっと終わって三島歯科に駆けつける。先生はやはり抜いた方が良いと仰る。
逆らう訳には行かぬので,承諾して麻酔を掛け抜いてもらう。2cm近くもある深い歯根だった。
次は9月の7日、いよいよ入れ歯ということになる。
この老い耄れに今更と思うが,寿命がはっきりしないのでこちらも困る。
黙って従う以外に無い。

昨日家内が東京の娘に電話したところ朝子は元気に帰って来て,正式の留学を目指して勉強を開始したという。やっと本腰になったか。ともあれ目標を持つことは何より大切だ。共に喜ぶ。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その68)

4月から5月にかけて本格的な海峡輸送が軌道に乗って来た。それまでニューギニア側フィンシ基地に置いていた中隊本部をニューブリテン島側のブッシングに移して海峡横断の促進を図る事になった。部隊進出のネックとなっていたことは海峡への基地の場所が出発地点にあった方が良かろうという事から,中隊の中枢をこの地に移動したのであった。

当時の吉田中隊はラエ、ポポイ、フィンシ、ブッシング、ツルブにと、分散され配置に就いていた。これは中隊の単位としては指揮掌握の限界を超えたものであった。ツルブに上陸した第51師団第66聯隊を主力とする各部隊は,続々とブッシング近くに集結し始めた。この移動の殆どは大発動艇によったが、一部はやむを得ず獣道とおぼしき陸路を辿ってこの基地に前進したのであった。

ブッシングの河口地帯には集結した部隊のもので一杯となっていた。敵機はここに目を付けて朝に夕に激しく襲撃を繰り返した。湿地帯のこととて避難の壕が掘れる訳でもなく、また数日の滞在だからその余裕も無く,将兵は敵弾を避けるために密林の大木の根っこをくるくると廻ってこの難を避けていた。(つづく)
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