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2010年7月28日 (水)

原爆被害の責任

朝気温27度、雨の気配濃厚。8時過ぎにはぱらぱらと降り始める。
庭の木の蝉の鳴き声も中断する。
烏が何処か近くで子育てしているらしい。朝早くから巻き声が何時迄も続いている。

原爆投下の日が又近づく。曾孫の誕生日が重なったりして、今や忘れようも無い日になってしまった。
戦争を始めたのが日本だから、原爆の被害の責任も当然日本が負うべきだと、世界中が思っているらしい。
日本国民は未だにその責任を血税をしぼられて負い続けている。
使った当事国のアメリカは未だに責任を負うなどと一言もしゃべっていない。
その補償額はいくらぐらいになっているのだろう。誰も云わないし計算もしない。
2発落とされた国だけが責任を負う、なんともやり切れない不思議な気持ちである。

戦後帰還船で戦地から鹿児島に送り返され、専用列車の車窓から見渡す限り焼け野が原になった故国の町町を無気力に眺めながら、同じく壊滅していた故郷に帰り着いた日のことが忘れられない。
皆一様にゼロから立ち上がった。それでも生きている限り補償を払えと云われているわけか。

勝てば官軍の論理は日本国だけのものではない。
世界大戦の一次でも二次でも通用した。その怨念は永く残るのではと思われる。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その39)

3月3日、この日は船団が全滅した運命の日である。日本の主要な作戦は日本古来の吉日に決行されている。例えば8の日の縁起をかついで日本の戦争宣言は昭和16年12月8日を卜して開始された。マレー作戦でのシンガポール攻略の日を2月11日の紀元節を目指したが、これは少し遅れて15日となった。フィリッピン戦では4月3日の神武天皇祭がバターン半島の第二次攻撃開始の日であり、5月5日の端午の節句がコレヒドールの上陸作戦というように、我々の経験した戦闘だけについてもこのようにかなり多くの例が見られる。この度の第81号作戦でもラエ上陸の日を3月3日の節句の日に会わせて決定していた。

この日は早くも未明から敵の哨戒機が飛んで来た。以下この日の状況をかいつまんで述べてみようと思うが、午前8時から百数十機の爆撃機の大編隊が攻撃して来た。いよいよ敵の腹中に突入した訳である。これに対し陸海軍が協力して迎撃した友軍機は僅かに30機の戦闘機では如何ともし難く、何としても手の打ちようがなかったわけである。
そして更に友軍機は敵機の中高度からの攻撃を予想して待機していたのに、連合軍爆撃機の攻撃の仕方は予想外の低空からの反跳爆撃を繰り返す新戦法をとっていた。この為僅か数十分の内に全輸送船は炎上し、また駆逐艦も次々に沈没して行った。この戦法はスキッピング攻撃法と言われ、ラエ直前迄辿り着いた輸送船団はこの新戦法に翻弄され、あえなく全滅したわけである。
(つづく)
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