« スイスの列車事故 | トップページ | 藤沢周平作品の映画を見る »

2010年7月25日 (日)

旧友の墓参を果たす

高曇り、午前6時気温25度。予想では33度まで上がりそうだ。夕方には雨が降る地域もあるとか報道されている。
不安定な気候だという。熱中症患者300名を超えたとか。

新聞に氷河特急は年配に人気とある。年輩ではないのかなあ。乗客の3割が日本人ともある。あまり驚かさないで欲しい。

念願だった横山君の墓参りを実現する。若い時なら決心したら何でもなかったことでも此の歳ではなかなか思うに任せなかった。しかし数日前からどうでも盆になる前に墓参りをしておきたいと、気がむずむずしていた。
実行して見るとなんでもなかった。横山の奥さんは待っててくれてた様に外に出て来た途端に、私たちは車から降りた。
すぐ招き入れられて仏前に座り込んだ。マア形式だけではあるが数珠を腕に掛けて念仏を誦し、頭を下げやってきたよとつぶやく。

奥さんとの久しぶりの会話が暫く続く。家内が会話に加わるとすぐ賑やかになる。
長くなりそうである。
温度も段々暑くなったので、墓参りさせてもらいますと、座を外して外に出る。車に残した墓参り用の線香、ローソク、水、花など出して用意し、家内に声をかける。

私だけ先に山に登り墓前に佇む。お盆はまだ大分先だから、捧げしものはなにもない。
ゆっくりお飾りをしている間に家内もやってくる。一緒に礼拝を済ます。
夏の盛りだから、ちょっとの坂でも汗は噴き出す。

別れを告げて横山邸を辞去する。まっすぐ帰宅したのだが丁度正午だった。日曜日なので車は比較的に少なく助かった。
凄い暑さだったが、一仕事済ました思いで、安堵の気持ちは格別のものがある。
もう一度御参りする事が出来るかどうか誰にも分らない。

ここまで書き終わった途端、大阪の水戸君が電話をくれる。私の手紙を受け取ったらしい。メールは何時も見ているよと云う。唯一のメー友だから、間違いないが、先般のメールは添付書類の容量が多すぎて届かなかったらしい。
ともあれ未だ元気で彼も息をすってるらしい。
  _________________________
(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その37)

漂流していた陸兵を救助した2艦は敵の攻撃を受けることなく暗夜のダンピール海峡をひた走りに走ってラエ沖に到着した。先にラエに駐留していた船舶工兵第5聯隊の鵜飼第3中隊長は、その所属する大発動艇をもって、師団長以下の救出された陸兵をラエの海岸に揚陸した。駆逐艦にはかなりの数の負傷者が収容されていたが、傷病者はそのまま駆逐艦に残り、翌3月3日の船団全滅の状況を目の前にした小泉軍曹が書き残した記録を見てみよう。
「救援駆逐艦の水兵の誘導で狭い階段を降りて医務室付近に蹲る。この廊下の一隅にあった鏡を覗いてみてハッと息を呑んだ。自分の顔が二目と見られない程に傷ついていた。爆弾を受けた時に桁が折れ、その上に載せてあった大発艇が自分の乗っていた艇にのしかかり、左右に並んでいた戦友が押し潰された。その際自分も全身を圧迫されると共に、爆弾の破片で数カ所顔に傷を負って、右の目が腫れて塞がり二目と見られないご面相となったのである。また右胸が痛み呼吸も苦しく、更に腰も起たない全身の異常に気がついた。あの爆発の直後戦友を担いで運んだが、今はあの気力、体力が何処に消えてしまったか不思議に思った。この駆逐艦は船団に追いついたが、此の船団の列から離れて、当夜のうちに陸兵を揚陸する事としてラエに直行し、深夜に到着したのである。
甲板上から我々に向って「陸軍兵の丈夫な者は上がれ、傷の軽い者も続いて上陸せよ」と叫んでいる。しかし自分は寝返りも侭ならぬ有様、上陸しても皆の邪魔になるだけであった。「もう居ないか、引き返すぞ」とだめ押しの言葉が聞こえて来た。

この様にして小泉軍曹の他傷病者は駆逐艦に残りラバウルに帰還したのである。
そして後日再び再編成してニューギニア島のフィンシハーヘンの中隊に舟艇機動によってダンピール海峡を横断して復帰したのである。更に日記を続けよう。
(つづく)
   _________________________

|

« スイスの列車事故 | トップページ | 藤沢周平作品の映画を見る »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/48971382

この記事へのトラックバック一覧です: 旧友の墓参を果たす:

« スイスの列車事故 | トップページ | 藤沢周平作品の映画を見る »