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2010年7月29日 (木)

アメリカ大使始めて原爆式典参加

午前6時小雨がしょぼついている。気温25度。涼しい。
ちょっとうっとうしいが、暑いよりはましで文句は言えない。

睡眠は足りてるから、目覚めるとなかなか寝付かれない。こうしてパソコンをいじるわけだが、最近は何事にも興味はわかない。惰性で過ごしているだけだ。老いぼれた証拠か。そもそも生きる興味すら乏しくなったのだからなにおかいわんやでる。

夏の甲子園の広島県代表は下馬評通り好投手有原を擁する広陵高校に決まった。打ち勝って上がって来た打力の如水館を4安打無得点に抑え切った。春同様有原の勇姿が見られそうだ。頑張って期待に応えてもらいたい。

昼前雨は上がったかに思えるが、霧が深くて空も何も、日射すらとんと見えない。

今朝の新聞を見ると、アメリカの駐日大使が始めて国を代表して原爆式典に花束を捧げるらしい。謝罪するとは云ってないから、依然として行為責任は感じてないということだ。悪いのはやはりやられた日本国だというわけである。
いずれ何時の日かこんな馬鹿な歴史観は改めざるを得なくなるだろう。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その40)

敵の大編隊が来襲し攻撃されたときの状況を、駆逐艦朝雲に乗っていた小泉軍曹は日記の中で更に次の様に述べている。
「大空を圧する轟音と全艦船が発する大砲の響き、その上自分の居る部屋は砲塔の真下にあったので、側壁を上下する弾薬運搬のエレベーターの騒音、高角砲の発射音等が天井の鉄板や床板に反響して耳も破れんばかりの騒音であった。
それに弾幕をくぐって接近して来る敵機の爆音、騒音も混じって聞こえ、正に回りのすべてを圧する大音響である。
約30分も続いたであろうか、やがて辺りが静かになった。

水兵の一人ががっくりとした表情で「ああ、皆やられてしまったよ、輸送船を残らずさ。残っているのは駆逐艦4隻だけさ。陸軍さんの乗って居た舟はどれも火を噴いて次々沈んで行くよ。ラバウル出港の時から敵さんは我々船団を狙っていたようだ」と、呟いていた。海に飛び込んでボートや筏に取りすがった兵も、空からの機銃掃射で多数戦死した。
生き残った駆逐艦は搭載していた総ての舟を降ろして救助に大活躍した。広い海面に浮遊している2700余名の生存者を各艦に収容しなければならない。敷浪と浦波の2艦で1500人余りの収容者は甲板からこぼれ落ちそうである。自分の乗っている艦も収容限度を超えていたため他の艦に横付けして歩板を渡して移乗させられた。乗り込みの海軍士官が声を嗄らしてぐったりして座り込んだ陸兵を整理し各室に誘導している。
(つづく)
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