« 突然妹死す | トップページ | 死んでもタダでは転ばぬ女 »

2010年7月31日 (土)

最悪の年か

最悪の日が終わり,疲労困憊しながらも寝付きはよくなかった。うなされたかもしれない。
今更ながら妹の魂の強さをまざまざと実感する。
私も巻添えになるとすら思わざるを得ない。

今朝もうっとうしく濃霧に包まれた夜明けである。気温27度。
家内の弟が何処で聞きつけたか妹の死を知っていて,香典の依頼を昨夜遅く家内に言付けて来る。
内輪で済ます訳にも行かぬようだ。

家内が喪服を買うというから一緒にデパートに行く。手頃のが無かったらしく止めにしてうどんを食べに行く。
帰宅して昼寝。暑い時はこれが一番。

昨日からねじれ国会開幕。どうなることやら。
カープは頼みの前田健太投手が巨人に8失点して逆転負け、今年もカープは駄目だな。あきらめたよ。

  _______________________
(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その41)

砲塔の回りに群がっている兵には「砲が撃てないぞ、お前たちそんな所にいると吹っ飛んでしまうぞ」と大声でせき立てながら船室に降ろした。第3次の攻撃を予想した艦長は救助作業を急がせ、まだ海面にちらほらと漂っている兵を認めながら、やむなく救助作業を打ち切って出航の命令を下した。乗り換えた艦はスクリューシャフトが破損したらしく、高速の回転をすると艦尾が大きく振動しまるで人間が篩に掛けられているようで気持ちが悪くなる。

この様にダンピール海峡は漂流する将兵と沢山の軍需品とでいっぱいとなり、ラエ上陸作戦は一変して救助作戦に変わってしまい、残存の4隻の駆逐艦は全力を挙げて遭難者の救助に没頭した。

さて、この輸送作戦が全滅した事は先行してラエに上陸した第51師団長(中野英光中将)に伝えられた。我々が待望していた船団は遂にラエに姿を見せることなく終ってしまったのである。

ラエに先行していた一部の吉田中隊の隊員は、船舶工兵第5聯隊第3中隊長の厚志により、この隊の大発動艇を借用して捜索を開始した。しかし漂流者の総ての者が敵の勢力下にある海峡の南ソロモン海方面に流されてしまった。ということは漂流者は海峡の時速1.5ノットの海流に乗って、ゲットエナフ島方面のスミル、ブナ、マンバレー地域にまで及んだようである。そしてこの敵方面に流れて行った漂流者は相当数の者が連合軍の捕虜となったという。吉田中隊に居た杉本修二上等兵もその一人であった。戦後に厚生省で見せてもらった戦死者連名簿に彼については、戦死日:3月25日、死亡場所:行方不明と記載してあった。が、彼は漂流中豪州軍に捉えられ、戦後彼の郷里の京都府久美浜に帰還して運送業を営んで未だに健在である事を仄聞した。
(つづく)
    _________________________

|

« 突然妹死す | トップページ | 死んでもタダでは転ばぬ女 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/49019458

この記事へのトラックバック一覧です: 最悪の年か:

« 突然妹死す | トップページ | 死んでもタダでは転ばぬ女 »