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2010年7月16日 (金)

70年前の新京地図

濃霧甚だし。気温23度。
昼は外食と決めて楽々園に行く。私の掛け布団を1枚買う。カバーも買ったがこちらの方が少し高い。
生産方式の違いだろうか。
もう何年前になるか、私のブログで新京地図を掲載したのが未だに検索ランキングに登場する。
康徳7年(昭和15年)のものだが、まだまだ往時の記憶を尋ねる人がこんなにあるのだろうか。

午后3時やっと日光が雲間を抜けて窓辺に注ぎかける。空を仰ぐと所々に青空がのぞいている。
もう忘れた位前だった空の色。
気温はもう30度を超えている。

夕方になると又降り始める。奥の方では大雨警報まで発令している。どうしようもない天気である。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その29)

小泉日記には旭盛丸の最後の状況を次の様に記録している。
「旭盛丸は如何なったかと波間から伺うと,黒煙を吐きつつ迎えた最後の光景がはっきりと見えた。それは船首を真下にして船尾を高く空中に持上げたかと思うと,甲板上のあらゆる物品がガラガラと音を立てつつ,茶色の埃を噴き上げて海中に引き入れられて行った。そして、旭盛丸自体も右に体を捩る様にして,急速に海面から消えて行った。ハッチの上に搭載されていた大発動艇が海上に押し出され、ブスブスと余燼を揚げながら海面を漂いつつ海中に消えていった。
あの艇内には戦友の遺体が幾体も横たわっているのだと思うと心が痛む。やがてギシっと腹に強いショックを受けたが船体が海底に達した瞬間であろうか」と。

暫く泳いでいると中隊本部の湯田曹長のグループが見つかり,互いに大声でそれぞれ名前を呼び交した。湯田曹長は中隊の先任下士官であった。彼は大声で「各人、名前を言え」と怒鳴った。彼方此方からそれぞれ名前を名乗って来たが,名前が抜けて出て来ない者が沢山いるようだった。將兵たちは呼んでも返事の返って来ない戦友たちの名前を繰り返して呼び続けたが,そのものたちのの応答はなかった。此の戦友を呼ぶ声は空しい事と知りながら,その後いつまでも続いていた。
(つづく)
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