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2010年7月 1日 (木)

参議院選挙戦酣なれど腹決まらず

靄に包まれた空に変わりはないが、淡い光がもやを通して地上に達し、山野は明るく映えている。
早朝の気温24度。何時もと変わらない。

参議院選挙運動の声が日に日に高まりつつあるのだが、老人の私にはどうしたらいいか迷いばかりが高まる。
誰がやっても同じだなとは何時も思う事だが、日本そのものの国力が低下したお蔭か、生活は苦しくなるばかりである。
私などはまあまあ税金も払えるし,食うに困っている訳でないから好しとしなければとは思っているが,その税金にしても年金所得だけで十数年も暮らしていて,収入は同じでも税金は5倍にも6倍にもなっている。その他の掛も並みではない。
庶民にははっきり税金の取り過ぎだとの感覚がある。それにも拘らず国家は借金だらけで何時国がつぶれるかと心配が絶えない。
だから消費税を倍にするという。ますます国民は金が使えなくなる。不景気はひどくなるばかりだろう。

こんな時どこを選べというのだろう。政権に関係ない政党を選んだところでどうしようもないし、いっそヒットラーの見たいな独創的な指導者がいないものかと思ったりする。
しかし見渡したところその萌芽すら見当たらない。
誰も彼も迷ってるのと違うだろうか。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その14)

この船団は丸3日かけて直線距離にして600kmあるラエに行き着く計画であったので、近代戦というにはほど遠い,余りにもかけ離れた戦争と言える。とは言っても当時なけなしの船を掻き集めて実施したのがこの作戦であった。今から考えてみると,標的を流しながら敵のただ中に飛び込む行動であったかもしれない。
これらの輸送船へ26日早朝から搭載を開始した。搭載は概ね揚陸の逆順で実施する。1ヶ師団の人員及び軍需品その他はある程度制限されていたが,相当の量になっていた。
主要な品目は次の通りであった。
人員・・5916名  軍需品・・6500立米  弾薬・・740立米  燃料等・・750ドラム
その他・・1500立米  大砲(口径10)・・33門
これらのものがそれぞれ輸送船に分載された。
そしてどの船が撃沈されても人員その他の損耗が片寄らない様に各船に配分された。

上陸作戦のための揚陸には大発動艇が使用されるが、この度は全部で38隻が各輸送船に分けて積み込まれた。そして小発動艇及び折り畳み舟(ベニア板製)はそれぞれ駆逐艦に救助用として分けて積まれた。

この大戦の前半の作戦には優秀なディーゼル船が第一線の上陸作戦には使われた。
それぞれ15、16ノットが出る足の速い輸送船であった。以前は「ああ堂々の輸送船」の歌の通りの華やかなものであったが、今回はそんな光景ではなく屠場に引かれる牛のような感じであった。昼間は敵機の,夜間は敵潜水艦の襲撃が何時来るか何時来るかと待っていたのであった。
兵士たちの間ではこの度は何処まで行けるかが話題であった。我々舟艇隊員は輸送船に乗ってるときが一番不安な時であった。敵機、敵潜水艦の襲撃に対して何らなす術が無いからである。如何に小なりといえども、大、小発動艇に拘らずこれに乗って行動している時は,敵機、敵潜水艦の攻撃に対して心の不安はなかった。
これは駆逐艦乗組員が艦に乗り、陸上部隊の将兵が陸に居るのと同じ気持ちだろうかと思う。
(つづく)
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2010年7月 2日 (金)

東部ニューギニア戦記佳境に入る

朝6時半霧深し,視界混迷して本日の天候いかなるや占う能わず。
気温25度。

窓は開放したまま眠ったのだが、室温29度と熱気がこもって蒸し暑い。湿度70%。
時々雨がちらつくが本降りにはならない。
相変わらず寝たり起きたりしながら,聞くとも無くDVDの音楽を楽しむ。
自分で録音したものでも時折珍しくいいなあと聞き惚れる瞬間もあったり。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その15)

26、7日の両日で総ての搭載を終わり,最後の乗船部隊を陸岸から輸送船に送り込んで全搭載が終わった。
第3中隊は吉田中尉以下の主力が旭盛丸に乗り込んだ。この船には第115聯隊第3大隊(西川少佐)の主力や高射砲隊が乗船した。
その主なものは
人員・・1316名  大砲(15榴)・・2門  高射砲・・3門
速射砲・・2門  山砲・・2門  大隊砲・・2門  車両・・20台
大発動艇・・4隻  軍需品・・2000立米  その他空ドラム缶・数十本
を積み込み,甲板上の大砲には沈没時に浮くようにドラム缶を縛り付けた。
ありとあらゆる浮遊物は甲板上に配置した。総ては沈没を前提として準備をしたのであった。そして積み込んだ山砲のうち1門はドラム缶3個が縛り付けてあったため,沈没した時海上に浮き残り,駆逐艦に引き揚げられラエまで運ばれた。恐らくこの大戦にあって遭難時に砲を拾い上げた例は他にないのではなかろうかと思う。このようにして準備は進んで行ったのである。

今回の上陸作戦では特に指揮官以下遭難時の研究,訓練は真剣であった。
船舶工兵第8聯隊は緒戦以来,釜山ーサンジャック(仏印)ーシンゴラ(タイ南部)ーシンガポールーリンガエン(フィリッピン)ー大連ー釜山ー宇品ーラバウルと常に輸送船のお世話になった。
航行延べ移動距離も1万kmに及び,100余日の輸送船上の体験をして今日に至っている。しかしながらこの間遭難時の対策は起てては来たが、今日まで一度も遭難の経験はしていなかった。
(つづく)
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2010年7月 3日 (土)

DVDアルバムを又作る

昨夜から降ったり止んだり,梅雨だからしかたがない。
気温は今朝も24度。濃霧も相変わらず。湿度遂に80%。

昨夜は夜遅くまでかかって、又貯まった音楽をDVDアルバムに仕込む。
今それを聞きながら,パソコンに向っている。20時間以上録音してあるので架け替えの心配は無い。正に無精者にはもってこいである。それでも時々近所迷惑ではと思ったりしてボリュームをいじったりする。
何時だったか,隣りの奥さんが音楽は好きだから一向に構いませんよと、家内に言ったそうだから安心はしているのだが。
それでもショスタコビッチやストラビンスキーの不協和音はやはり私自身が気になる。
音楽も食事と一緒で、いつも舌触りの良いものばかりでは飽きる。時には風変わりな現代音楽も聴きたいし。
しかしだ。
深夜など演奏の終わりの熱狂的な拍手喝采なども時に困り者である。

先程家内が買い物に出掛けたが,10時半の今雨脚が強くなる。足元がちょっと気になる。どこまで行ったのか。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その16)

然し乍ら今回は今までとは状況が全く違う。準備段階においても今回は異常な程の緊張感があった。
それはガダルカナル島の敗北を目の前に見たからである。今まで戦えばどんなに損害が出ようとも必ず勝った。そして日章旗が高々と揚がった。然し乍らこの2ヶ月間に見たものは全く聯隊員が経験した事も無い、勿論想像もしない日本軍の哀れな姿であった。吉田中隊の将来を悲観的に感じ、不吉な暗示を受けるのは致し方がなかった。その上にポートモレスビーの攻撃に向った南海支隊の悲惨な撤退状況も伝わって来た。兎に角なに一つ明るいニュースは無かったのである。ただその中にあって、無傷精鋭の九州健児・第6師団が到着して元気溌剌であるという噂を耳にした。ある時本部の下士官が中隊本部にやって来て、6師団の将兵はこんな所まで銃剣術の道具を持って来て朝夕に稽古している。極めて士気旺盛だといったが、このことは中隊員の士気が昂揚されるのに役立っているようだった。
その後何かにつけて第6師団は元気旺盛であることが口伝えに伝わって来た。軍歌演習なども盛んにやっていたと言う。こんな話を聞いていた時第6師団第6聯隊に、吉田中尉と同期だった松崎盤雄中尉がいた。彼は陸士の生徒時代から詩吟や軍歌が好きで、中隊の詩吟の会が行われる時は何時も前に出て吟じていたことを思い出した。

彼の得意は王維作「充二の安西に使いするを送る」の「渭城朝雨・・・・西出関無故人」であった。特に最後の一句を心を込めて二度繰り返し歌っている姿が目に映る、松崎中尉もその後ブーゲンビル島で詩吟で歌ったように故人となった。

2月28日夕刻総ての作業が終了し、今は今夜の出帆を待つばかりになっていた。吉田第3中値は2番のハッチに入る事となった。夜になって風雨が強くなって来た。船倉内はそれでなくても湿気が多くじめじめして息苦しい場所である。

雨が降り込んで来るためタラップ(梯子)の出入り口の蓋を閉める。全く蒸し暑い。中隊員は鮒底に積み込まれた軍需品の間に挟まって休む。船が動き始めれば風が入って来て少しは楽になるだろう。だが多数の兵士たちは甲板の大発動艇などの下に雨宿りして暑さを凌いでいる。雨が止めばハッチ内から皆甲板に上がって来て涼む事も出来るが、この雨ではどうにもならない。

ここ数日の積み込み作業の疲れにも拘らず、これからの戦場の事を考えると目が冴えてなかなか眠れない.皆板敷きの上に横になり黙して語らない。時々風雨に叩かれる音がザーザーと大きくなったり小さくなったりして聞こえて来る。
やがて船が少し揺れ始めた。いよいよ出港である。時刻は22時20分であった。
雨の中を甲板に出る.ラバウル港内は全く暗闇であった。船は湾口を北方に向って前進をはじめた。
もうそろそろ月が出る時分であった。
(つづく)
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2010年7月 4日 (日)

家内眼鏡を壊して困惑

若干雲が薄いのか,雲を通して明かりが四方を照らす。まあまあの夜明け。しかし相変わらずの霧で沖合は霞んで見えない。此の風景はもう何日つづくことだろう。

ワールドサッカー、ベストエイトの戦いが始まる。ドイツがアルゼンチンに4-0と完勝し、昨夜オランダがブラジルに2-1と勝ち、スペインが今早朝パラグアイを1ー0で下して,PK戦でガーナを辛うじて破ったウルグアイを残してヨーロッパ勢がいずれも南米勢を退けた。

一頃劣勢に見えたヨーロッパ勢流石に底力があった。
次はドイツ対スペインが見物だが、オランダもウルグアアイに勝てば初優勝が見えて来る。今回も欧州勢の決勝か。

家内が眼鏡を壊したので,アルパークに修理か新規購入かするために出掛ける。
どちらでも1週間かかるので,新規に一つ作り、出来上がった段階で修理を依頼する事にして頼んで帰る。
眼鏡一つがもう10万もかかる時代だから、簡単ではない。

千代さんからさぬきうどんを送って来る。中の手紙で夏休みにはやって来たいと書いてある。
孫共皆つれて来いと言えと、家内にいうのだが、家内はもてなしが辛いらしく喜びの色は見せない。
80才を過ぎるとやはり家事が一番辛くなるようだ。
昔だったら皆嫁の仕事だったからなあ。無理ないな,面倒かけてすまんと心の中。

朝子はカナダに留学するというから、死ぬまでに会っておきたいし、晴子は依然として悩みが消えないというから、是非聞いてやりたいし。
役に立たないかなあ。
大正生まれの老人の話なんど,もう通じない世代だろうな。
今の大学生は何を習っているのだろう。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その17)

吉田中隊の乗った7隻の輸送船を護衛してくれる駆逐艦は次の8隻であった。それは、荒瀬、朝雲、時津風、白雲、浦波、雪風、朝風、敷波の諸艦であった。

船団の進路はニューブリテン島の北側を遠く離れながらダンピール海峡を南下して、ラエに向うコースをとる予定であった。ラエ到着の予定は3月3日の16時30分であるから、丸3昼夜の航行となる。
恐らくこの3日間は身体は休んでも気は休まることは無いであろう。今向いつつあるニューギニアの南部地区の戦況はとても厳しいものがあったようだ。

さる1月2日ブナの守備隊が玉砕した。丁度時を一にして岡部支隊がその後方の敵飛行場ワウ占領の目的で1月5日ラエに上陸するが、1ヶ月余りで攻撃を断念しラエ方面に後退した。

第51師団はラエ及びその前方のサラモア地区を確保するためにラエに向って前進しているのであるが、気分的に先行きには厳しいものがあった。

3月1日朝、航行第一夜は明けた。船団はニューブリテン島の遥か北方を西に向って前進している。もう四周に陸地は全く見えない。船団の速度は8ノット、護衛の駆逐艦は二列で前進している船団の四周を遠巻きに警護しつつ航行している。
船団は敵の潜水艦の攻撃を予想してジグザグ航行を続けている。進路を変える旅に船は大きく右、左にと傾く。間もなく上陸部署の打ち合わせが船橋で行われた。
本船の輸送指揮官西川大隊長の許に各乗船部隊の指揮官が参集した。歩兵の各中隊長、各砲兵、速射砲の小隊長のほか、船舶工兵の中隊長等である。

打ち合わせが終った後、船舶工兵隊の中隊長は各艇長以上を集めて、上陸部署に付いて詳細な説明を行った。戦後当時の分隊長だった小泉繁次軍曹はその時の模様を次の様に手記に書き残している。
吉田中隊長は各分隊長を集めて上陸の担当区分を詳細に指示した後、檄文を与えられた。それは「船橋が如何に凄惨苛烈を極めようとも、諸氏は己が責務を重んじ、断固として任務に邁進すべし」であった。今はそのような事を言ったかどうか記憶に残っていないが、当然当時の状況からは十分推察出来ることである。
(つづく)
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2010年7月 5日 (月)

ちょっぴり歩く不安

朝5時目覚める。外気浸入と扇風機で涼しすぎて眠れない。
とうとう起き出してパソコンに向う。
産経ネットに入り記事を読む。
ワールドサッカーの審判員西村主審のオランダ対ブラジル戦でのファウル一発退場の公正さが好評らしい。誤審の多い今回のワールドサッカーで光る名審判と讃えられているとか。

貴乃花親方が理事辞退を申し出て却下されたとか,日本で人気のあったパクという韓国俳優が日本人になれと言われて自殺したとか、世の中いろいろあるな。
選挙戦も影が薄くなりそうだ。

ちょっと横になり7時又起き上がる。気温25度,正に熱帯夜だ。今朝も濃霧注意報が出てるかも知れない。凄い霧だ。
湿度はやはり80%。じぐじぐと汗が滲み出そうだ。
食慾はない。お義理でパンを齧る。

午前中やや小雨が混じった天候も、昼頃から雲を通して洩れる光で明るくなる。
おかげで蒸し暑さが蘇る。

昼食の時,菖蒲やあじさいの話が出て、後で植物園に行く事にする。
一寝入りした後、何となくふらふらして体調が思わしくない。蒸し暑いし,身体に良くないかも知れないと取りやめにする。
昨日のデパートでといい、歩きに少し不安が出て来たのが気になって,出掛けるのを躊躇したのだが、段々こうなるのかな。家内は気力の問題だと言うが。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その18)

船舶工兵中隊は今日までマレー、フィリッピン、ガダルカナルと上陸作戦に参加して来たが、今度の作戦は今までと全く異なった雰囲気の漂った作戦であった。

友軍の直衞戦闘機が時々船団の上空に飛来して来た。本作戦の直衞戦闘機の援護は常時100機で、陸軍60機、海軍40機という取り決めであった。

当時の東部ニューギニアの敵飛行機は合計189機の地上機の存在が我が軍の司令偵察機により確認されていた。そして、その60%は大型機であったが、隠された在庫機もかなりあるものと予想されていた。

これは我々輸送船団には最大の脅威であったわけで、一歩一歩死に近づきつつあったようである。潜水艦の情報は今の所出ていないようであったが、万一を考えて航行中には甲板に出ている様に指示されていた。従来は航行中は一切甲板に出る事は禁止されていたが、度々の経験から潜水艦の攻撃を受ける恐れのある場合は、魚雷の爆発の衝撃でハッチが閉まって、ハッチから脱出出来なくなり、大きな損害を受ける事となるからである。

航行2日目に入った。繰り返すようだがこれまでは船団航行中は主として飛行機の襲撃を受ける事が多く、これの銃爆撃を避けるためハッチの中に入っているように指導されたが、潜水艦の魚雷攻撃を受けると、その一撃によってハッチの昇り降りするクラップ(梯子)又はジャコップ(縄梯子)等が爆風のために吹っ飛んで、ハッチの中に居るものは脱出する事が出来ず、みすみす多くの将兵を失う事がある。

昨年の今頃はシンガポールの作戦が終わり、フィリッピンに転進のためシンガポール港に集結し、3月4日出港のための積み込み作業の最中であった。

当時は連戦連勝の勢いに乗っていたので、我々は意気軒昂であった。次はフィリッピンでというのでお互いにまだ見ても居ないこの未知のフィリッピンを想像しながら語り合ったものだった。当時の我々は将来への大きな夢を持っていた。

そして間もなく中隊員の乗った対馬丸は南シナ海に向って出帆し、この海の荒波にもまれつつリンガエン湾に向った。この航行中手ひどい時化に出会った。平常でも、この海は東南の貿易風が強い所で、その風浪に向って前進する老朽船にとっては手痛い苦難であった。船は木の葉の様に翻弄されてハッチから出るものも無く、食事もほとんど出来ない有様であった。それでも今までの勝ち戦には希望と明るさがあったものだ。しかしこの一年で戦況は全く変わり今輸送船中の隊員は皆心は重く、重い鉛が身体にぶら下がっているようであった。
(つづく)
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2010年7月 6日 (火)

今年何度目か植物園

珍しく目覚めが遅れて7時23分になっていた。気温25度,相変わらずの霧の朝。
昨夕森藤さんから思いがけなく長文の手紙を頂いた。もうあれから8年になるとか、薫くんの自殺未遂事件。あのまま未だに植物人間をつづけているそうで、なんとも言葉の掛け様が無い。
残された一人の父親として日夜煩もんをくりかえしているのだろう。手紙を読み返すと今更ながらその苦しさが想像されてやりきれない。なにか声を掛けてやりたいが,良い考えが浮かばない。
是非会いたいとも言っている。会って彼の得心がえられるかどうか,老体を鞭打って6里の道を行くのも大変だし。
降って沸いた悩みかも。
こちらが余りにも幸福な余生を過ごしているだけに引け目を感ずる事甚だしい。家内の助けを借りて,見舞に参上するしかないかなと思案を始めたところである。

午前中植物園に出掛ける。客足は少なく見るべきものは殆ど無い。だが、あじさいだけは花盛り。
雨が降ればと家内が言う様に,眺めとしては但しつきかも知れない。しかし一列に並ぶ白あじさいは遠目にも見事だ。
園内の軽食堂でカレーライスを食って帰る。



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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その19)

午後潜水艦情報が伝わって来たが、当然のものが来たのである。午後過ぎになったと思う、敵のコンソリデーテッドB24型機が高空偵察にやってきた。船団の進路を偵察しているのだろう。この偵察機に接触されると必ず次ぎには戦闘・爆撃機の大編隊がやって来る。これは敵の定石の攻撃法である。

直ちに輸送船は対空戦闘準備にかかる。舟艇部隊は船上の大発動艇,救命ブイその他の救助資材を点検する。大発動艇や折り畳み舟等の舟艇類は湖底資材が外せる様に準備して、これに付くための人員を甲板に待機させる。俄に船上が慌ただしくなって来た。ハッチ内に居た人員は全部甲板に上って敵機の来襲を待っていた。
甲板上には足の踏み場も無いほどに救助のための浮遊物が置いてある。夕陽が傾いて来た、もう敵機の襲来の恐れはなくなった。だれの顔にも明るさが戻って来た。

  航行第3日ーー敵爆撃機編隊の来襲
長かった昼がやっと幕を下ろし、何とか今日も無事に過ぎた。海上には夜の帳がすっかり降りて甲板にはしっとりと夜露が降りてきた。月の無い真っ黒な海の暗闇は隊員を不安と緊張から解放してくれ、これからしばしの安息を与えてくれた。
西方の水平線上に吊り星が一つ又一つと落ちて来る。これと本船との距離はかなり遠い。暫くすると吊り星は水平線の下に沈んで見えなくなった。当分の間は夜空を明るく照らし続けたが、そのうちパット消え再び周辺は元の様に真っ暗になった。
照明の吊り星は海面下に落ちたようであるが敵の哨戒機が夜間の探索を始めたようだ。
しかし敵哨戒機は我々の船団を発見する事は出来なかったようであった。

3月2日相変わらず見渡す限り四周には陸地はおろか島一つ見えない。空は南方特有の紺碧の空が広がり、海も又静かそのものであった。この穏やかな景色を眺めつつ今日一日が無事に過ぎる事を祈った。

この南方の晴れ渡ったこの地方では10km近くまで目視が出来る。日本ではせいぜい2、3kmぐらいであるが、この違いは空気の透明度によるものである。しかし陸地や島等が全く見えないという事は頗る心細いものである。
(つづく)
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2010年7月 7日 (水)

オランダ先ず決勝へ

相変わらず霧深き夜明け。6時現在気温23度。湿度63%。無風、蒸し暑し。
小型扇風機のささやかな風が救い。

ごろ寝で文庫本を読む、これが私の基本スタイルだったが,暑くなった最近はどうも長続きしない。
少し目も悪くなったらしい。もちろん裸眼で読むのだが、うろうろと字が霞むことが多くなって来た。
目医者に行った事がないので分らないが,白内障などという病気にとりつかれたのかもしれない。此の歳ではなんと言われてももう仕方ないな。

こんなに毎日景色も何も見えないのでは,外を眺めるのが腹立たしいが、大自然の神様を恨んでみてもしかたがない。
植物園の木々が禄一色でまことに元気よかったが、ささやかでも我が庭の松なども緑が冴え渡っている。
連日の雨の影響が歴然としている。自然の巧妙さに感服せざるをえない。

終日立ちくらみが激しい。特に寝起きが悪い。寿命が尽きる前兆か。

ワールドサッカー、オランダ遂にウルグアイの粘りを退け、3−2で勝って念願の決勝に進んだ。
ゆっくりしたサッカーだがここぞと言う時のシュート力が凄い。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その20)

8時からブリッジで各隊の指揮官の打ち合わせが行われた。吉田中尉は揚陸指揮官として出席するために3番ハッチの中隊本部を出て会議場に向ったが、途中必要な書類を忘れていた事に気づいて引き返そうとした時、空襲警報がけたたましく鳴り始めた。船上あちこちから「敵機」という大声が聞こえてきた。
左舷の斜め前方上空に微かに敵影が見えてきた。船団をめがけて一直線に突っ込んで来る。マストの陰から前方を見ると1機2機と飛行機の数は次第に増えて来る。敵の編隊の来襲である事は間違いないことであった。高度は約3000m位であったろう。友軍機はと見渡しがまだ全く姿が見つからない。次第に編隊は数を増しつつ船団に向って一直線に近づいて来る。

しかしよく見るとこの編隊の上になり下になりして纏わりついている小さな飛行機がキラリキラリと白く光って見える。これは友軍の戦闘機であり朝日に映えて見え隠れしてるのだ。
友軍機は精一杯勇敢に攻撃しているが、敵機はそのまま編隊を全く崩す事なく船団をめがけて突っ込んで来る。忽ちにしてボーイングB17爆撃機は左前方の上空に大きくその機影を表してきた。このとき船団の上空は澄み切って雲一つなく晴れ渡っていた。

待ち構えていた各艦船は十分に敵機を引きつけて、編隊をめがけて一斉に砲撃を開始した。そして編隊の進路は忽ちにして弾幕に包まれたが、相変わらず敵機の編隊が崩れる事はなかった。

船団はそのまま前進した。短機の攻撃ならばこの投下爆弾を避ける事も可能であろうが、この様に編隊を組んでの絨毯爆撃をかけられてはなす術は全くない。とにもかくにも碁盤目の様に爆弾の雨を降らされては全く逃げ場がなかった。
(つづく)
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2010年7月 8日 (木)

思いがけず義弟と旧交を温む

何時もの様に霧の朝だが,いくらか明るく雨の気配は薄い。午前6時気温22度、湿度73%。
今朝は森藤さんへのお見舞いに出掛けるつもりだが、先に都合を電話で確認するので,決定はそれからだ。
何もこちらから話す事は無いが,但話を良く聞いてあげたいということ。
ここ2、3日立ちくらみが気になるのだがしかたがない。もちろん家内に助けてもらっての行動になる。

葬式以来公式の行事などは家内に任せて、一度も訪問した事が無かったのはまことに申し訳無い。深くお詫びをするつもりだ。もっとも春ちゃんのお墓には家内にせかれて,5度参詣したが20年間に5回だから多くはない。しかし分り難いあの山の中の墓地はもう訪れる事はないだろう。4年前小百合等に連れて行かせたのが最後と言えよう。
取り付け道路の1km以上の一人やっとの小さな山路は,雨の為に掘り崩され、剰え滑り易い赤土土壌で,一度も夕立にあって帰り道で随分苦労した覚えがある。もう無理だ。

10時半頃着いて、待ってましたとの歓迎の態で迎えてもらう。
若くて体力のあった薫くんのこと、胃に穴を開けて人工注入だけでもう8年も生存を続けているとの事。
人間の生命力そして現代医学の進歩、話を詳しく聞くと、まったく驚嘆するばかりである。
人間共よ生命を粗末にするなと心から叫びたくなる。
今までの日本人は特にひどかった。もう馬鹿な事はやめよう。

12時まで歓談がつづく。墓道の補修のこともは昔は部落総出で行われたのだが,今は何処も同じ過疎に悩む部落の事分っていても何ともならないとの話。

当人たちが知らぬ間に、身近な人々は皆それぞれの思いで,故人の魂を慰めていた。
こちらのささやかな、春ちゃんに寄せる思いが何とか分ってもらえたようだった。

昼は近くのさざん亭で食事をおごって貰ったりして別れる。
田賀にも立寄り1時間ばかり居て帰路に着く。思いがけず疲れずに一仕事済ました感じで一日が終わる。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その21)

先頭の敵機がやや高度を下げて爆弾を投じた。最初の爆弾は旭盛丸の左斜め前方に水煙が高く立ち昇ったが、次々に投下される爆弾は忽ちにして本船に近い所に落ちてき始めた。
敵機は旭盛丸を最初の目標にしているらしい。敵の編隊は先ずこの船団の一角を崩す事を狙って、先頭の旭盛丸に集中攻撃をかけてきたと思った。当時旭盛丸は二列縦隊で進む船団の、左の列の先頭をきって前進していたのである。
数発目の一発が左舷の数米先に落下して、船は大きく衝撃を受けて激しく揺れた。その瞬間続いて落下してきた爆弾が1番ハッチと2番ハッチを同時に直撃した。後々の記録によると8時15分に被弾したと書かれていた。

耳を突き破る爆風と衝撃とによって、船上に積んである資材も人も吹き上げられ、甲板上に打ち付けられた。同時に1、2番ハッチから真っ黒い煙が立ち昇った。
ブリッジは2番ハッチのあふりを食って前半分が引き千切られふっとんでしまった。今まで平穏であった船上は一瞬のうちに騒然となり、目の前が真っ黒になる様な衝撃を受けた。

敵編隊は悠々と煙の立つ中を轟音を残しながら飛び去ったいった。
2番ハッチの上には大発動艇が二段に積載してあった。蛙を押しつぶした様に支柱が折れて飛び、ペシャンコになっている。
暫くするとハッチに積み込んであった弾丸が火に巻かれて誘発し始めた。
(つづく)
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2010年7月 9日 (金)

スペインが決勝へ

今朝も濃霧,気温25度、湿度75%。無風。
なぜか薫くんの事頭から離れず。8年間果たして無感動無意志で生きていられるのか。
考える程こちらがおかしくなりそうだ。頭を振り払っても去りそうにない。

スペインがあの攻撃力のドイツを1-0で降した。新聞評ではパスとドリブルの多彩さでドイツの攻撃を塞いだとある。
素人目には端倪すべからざるいろいろな工夫があるものだなと感心する。
勢いから言えばドイツの圧勝だろうと始めから問題にしていなかったのに,後で聞くとスペインが勝ったという。一瞬耳を疑った。私に取ってはとんでもない番狂わせにうつった。
がデジタルの世界ではやはり勝つべくして勝ったらしい。力だけでは駄目なんだ。
勝負の世界はやはり面白い。
スペインとオランダの決勝戦という事だが,私の予想は全然だったが,予想外の人が案外多数などでは。

家内を送って角さん宅に行く。付近の道路工事を暫く眺める。立ち退く家など大変だな。
どうやら進捗方向を見るととりあえずバイパスへ繋ぐらしい。佐方川まで来て急に左折して神社の脇まで来ている。

午後4時突然ぱらぱらと降り出す。空は朝から灰色のママだから予測はつけがたい。
現在は風もあるし,涼しくて却って過ごしよい。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その22)

破裂音、煙、怒号と船舶砲を打ち上げる発射音と、狭い船上を右往左往する将兵たちの呼び合う声等、忽ちにして船内は修羅場と化した。隊員は何から手を付ければ良いか迷った。本船のエンジンは停止しているが、船は惰性でまだ前に進んでいた。
ハッチから黒煙が猛烈な勢いで吹き上げているし、また赤い炎も吹き出していて、船は非常に不安定な状態になっていた。
ハッチの中での火災が大きくなったようで、火が回ったらしく、砲弾が破裂する音が甲板まで伝わってきた。船の速度が次第に遅くなってきて、左舷側に向って徐々に傾き始めた。忽ちにして本船は船団から離れてしまった。

遥か向こうに離れた船団に対して、まだ敵機の編隊の攻撃が続いていた。そこの空一面に白煙、黒煙が入り乱れて、敵味方の弾幕が一群の雲となって棚引いている。

船上にある浮遊物を左の舷側に運び海中に投げ入れる準備をする。
当時の海上の状況を詳しく記録に残した小泉分隊長の日記によると、「1番船倉は火の海となり中の兵員室は飛び散った肉塊と血の海の中で、負傷兵たちがのたうち回っている光景はまさに地獄であった。
底に積み込んだガソリンへの引火爆発による火災は手のつけようが無い。甲板に昇るための階段が爆風により吹き飛ばされたため、船倉に居た兵たちは逃げる事が出来す、阿鼻叫喚の巷となった。

助かったものはただ一人のみで船倉の桁から垂れ下がったロープにすがり、必死に甲板に昇り付いたのである。
(つづく)
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2010年7月10日 (土)

食慾がない

就寝前に呑んだ下剤が効いて,早朝から便所に通う。
本格的に起き上がったのは午前9時半となった。
朝のルールが崩れたので、なんとなくしまらない。

天気は相変わらずで霧の深さはこれ又変わらない。コチラが定形かも知れない。

春先までは何を食べてもおいしくて、出されるものは概ね平らげていたのだが,暑くなって来るともういけない。
どう努力しても食が進まない。途中で投げ出す。だから毎食食べ残す。家内には済まないと心を責めながらも仕方がない。
明らかに自分では先が見えてるのだが、生命の不思議で人の意志に関係なく8年も生きられると言われると却って恐ろしい。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その23)

吉田中尉は自分の乗る艇の乗組員はどうなったかと見渡したところ、いづれも甲板の上を右往左往していることが分かった。只、中に大発艇からの爆風の衝撃によって吹き飛ばされた辻喜代三一等兵が蹌踉めきながら助けを求めている。更に甲板上には松田時男上等兵が右足首をだらりとさせて、青ざめて横になった躯を起こそうともがいていた。ハッチの上に二段に積んだ大発艇は爆弾の爆発のショックで横に渡した木組みが折れて、下の邸内に居た兵士は押しつぶされていた。そのうえ更に横倒しになったのであろうか数人の兵が甲板の上や船倉の中に振り落とされたものもあったようである。
船の中央にあるブリッジは前半分が大きく破壊されて、為に指揮統制の機能は全く失われていた。

右舷通路の角にある消火ホースから海水が噴き出していたが、これを操作する人は見当たらない。中尉はこれはいいとホースを抱え上げて、焼き焦げた資材を乗り越えて、目の前の担当する大発艇にこの海水をかけた。しかし艇はまるで空の鍋を火にかけた様に、船倉内から噴き上げてくる火炎に煽られて全く焼け石に水である。これは先ず船倉内の火災を消すのが先決だと思うが、今はもはや消火の見込みは全くない状況であった。

目を転じて見ると、本船は船首を右に傾けながらいつの間にか停止している。後続の輸送船の兵の中には沈没の瀬戸際にたつ旭盛丸に向って手を合わせている姿が見受けられた。
(つづく)
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2010年7月11日 (日)

雨中の参院選挙投票

夜半から降り続く雨。ときにざーざーとベランダを激しく叩く。
選挙投票に出掛けるのも楽じゃないな。
朝7時の気温23度、湿度は82%を指している。
幾分立ちくらみがなくなったのはどうしたことか。疲労が取れたという事かな。
昨日あたりから随分楽になった。
良い事は良いと自分で納得しなければ,物事はいい方向に進む訳は無い。

大相撲の実況放送が今回からなくなった。最近歳のせいで、殆ど見なくなったから別に私は何でもないが、好きな人たちはたまらないだろうな。野球もプロ野球はもう殆ど見ない。しかし不思議にサッカーは熱心に見る。
どうしてかよくわからない。昔は点が入らなくて面白くないスポーツだなと見向きもしなかったのに不思議である。
やはり歳のせいかなあ。

大体が、テレビを見るのが億劫でたまに食事時、ついているから見るだけで、自分で付けて見るなんてことはしない。
やはり歳のせいである。そのかわりラジオはほとんど一日中鳴りっぱなしである。
これもさほど熱心に聞いては居ないと思う。無駄な事ではあるが、いつか阪神大地震のときなどのように凄く役に立つ事もたまにはあるからなあ。
何か事が起きると一番早いのはやはりラジオである。

午前中に投票を済ませ、買い物の済ます。丁度雨が小やみになっていて助かった。
3時頃娘が彩寧を預かって連れて夫婦でやって来る。
私が言うことに返事はしてくれたのだが、握手しようとして手を差し出すと泣き出す。まだ私が怖いらしい。
女の子は本能的に警戒心が強いのだろうな。
1時間位居てバイバイしながら帰って行った。
もう父母から放されても大丈夫らしい。よく話すし楽になったものだ。後1ヶ月で満2歳になる。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その24)

煙に咽びながら大発艇内に潜り込んで戦友の姿を探し求めた。数人の兵はうつぶせに、或いは仰向けに倒れたまま動かない。つい先程まで右隣に居た筈の松江茂春(自動車手、京都府出身)は後頭部をまるで西瓜を割った様に潰されて息が絶えていた。その隣の笠原太郎吉上等兵(仙台市出身)も血の海の中で死んでいた。詳しく調べたいが火の手に追われているのでその暇は全くない。

私は危うく大発艇から脱出したが、せめてものこと戦死者の歯一枚でも指の1本でもよいから遺骨として持ち帰ってやるのが戦友としての情けでありながら、これが果たせなかったことは後々まで悔いが残っている。なお生存者探しをしながら彼等を纏めて、後部甲板の安全地帯に誘導する。

この中で松田上等兵は足首が落ちそうになりながら、巻き脚絆により危うくぶら下がっていた。彼を背負って後部甲板に運んだ。生存者の整列を待っている中隊長に全部甲板の被害状況を報告したのち、再び一番ハッチに引き返して、更に負傷者が居ないか探して救出を続ける。自重7tの大発艇二隻を支えていた角材(35cm)が折れて飛んで、その先端が一兵士の腹を串刺しにして押さえつけている。朝食時に食べたばかりの米粒が傷口から溢れ出ていた。この角材を持上げようとしても、艇の重みがかかってびくともしない。(以上この段小泉日記より)
(つづく)
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2010年7月12日 (月)

スペイン初優勝

早朝2時過ぎから始まったワールドサッカーにスイッチを入れる。
決勝戦とあってか、固さが見られたが、オランダ、スペイン両者の必死の攻防は正にもつれにもつれた、ファウルが続発した。両者ともゴールキーパーのスーパーチャージに救われる事二度三度、0対0のまま延長戦に入り、後半残り数分でPK戦に入るかと思われた瞬間、攻め込んだスペイン勢のパス回しの最後の最右翼のNO.6の放った強烈なシュートが、キーパーの手先をかすめてゴールの反対隅に突き刺さって万事窮した。
120分の戦いの残りはもうなかった。オランダ側に警告2枚で退場者が出て、後半10名で戦わなければならなかった事も不利を招いたかも知れない。
善戦敢闘決勝にふさわしい戦いだった。

終ったのはもう6時を過ぎていて眠る事も出来ない。
睡眠不足のママ今日が始まる。

参議院選挙は自民党の圧勝に終った。前回の衆議院選の揺り戻しであろう。国民は浮気なもので、少し民主党に入れ過ぎたから今度は自民党にしようという意志が働いた訳。政治の中身はどちらでも大して変わりはないのだから。
ともかく小沢色が一掃されてよかった。今更金権政治でもあるまい。

午前10時車検のため車を木元自動車に持って行く。明日までかかるというので、代車を借りて帰る。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その25)

小泉分隊長が背負ってきた松田上等兵については私は次の記憶がある。運ばれてきた松田上等兵は甲板上に寝かせられた。彼は「中隊長足を切ってくれ」と盛んに嘆願する様に大声で叫んだ。中隊長は一瞬躊躇したが見ると足首の上部の骨は砕けて、やっと皮膚の皮で繋がって居るだけだ。「今切り離すぞ」と大声で彼を励ました。彼の顔は蒼白でそこら中血の海になっていた。思い切って傷口に刀を当てて切り落とした。足首は彼の足から離れて転がった。近くに居た兵士たちが彼を戸板にくくり付けて海中に投げ込むために後甲板に運んで行った。
彼はその日の夕方救援艦朝雲に救助され、3月4日ラバウルに揚陸され、直ちに第九兵站病院に収容されたが、3日目の3月7日に戦病死した。
また全身打撲を受けた辻上等兵は沈んだ船と運命を共にしたかと思った。というのはラエに上陸する姿を見る事も無いし、又ラバウルからの帰還名簿の中にも彼の名前は書いてなかった。

旭盛丸は惰性によってまだ動いていた。船内への浸水は少しづつ増えて行き左舷側への傾きがひどくなってきた。ふと回りを見回すと兵士たちが飛び込んでいるのが見え、これにつられて他の兵士たちも次々に飛び込み始めた。
船上の悲惨な光景を目の前にした兵士たちは、最早一刻たりとも船にとどまる事が出来なかったのであろう。「退避」との命令が出るまでは絶対に船から離れては行けない、と平素から厳しく教育もし、また命令も達してあるに拘らず此の状態である。これは船が動いている間に海に退避すると、戦友と離れ離れになって仲間を見失い、太洋の中でひとりぼっちになってしまうからである。広い海原にあって孤独になってしまうことは、最も警戒しなければならないことであるからだ。そして海中では適度に集結して互いに激励し合う事が生き残るための要件であるのだ。
(つづく)
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2010年7月13日 (火)

大雨洪水警報

凄い雨音に驚いて目覚める。ラジオが此の地方に大雨洪水警報が出ていると伝えている。
我が家には心配は無いが、この付近は山裾だし、なんどか雨の被害を受けているので、そちらが心配だ。

寝たり起きたりの怠惰な暮らしだが、それが出来るという事はやはり幸福である。
が、そとはザーザーと気にしないで済む様な音ではない。
ちょっと窓を開けても湿風が舞込んで,面も向けられない。

午後4時早くも日暮れの感じ。とばりにあたりはすっかり包まれる。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その26)

人は平素から分かっている事でも実行する事はなかなか難しい。時に目の前の惨状に幻惑されるものである。先に勝手に早く海中に飛び込んだ兵士たちは見る見るうちに本船から遠ざかっていってしまった。

  旭盛丸の最後・・・・海上に退避する
30分くらい経った頃船長が巡回してきて、機関室に火が回ってきたのでエンジンが爆発する恐れがあると伝えにきた。既に下船準備の命令が出されていたので、中隊員は銃を斜めに担い、雑嚢に最小限の食糧(乾パン)を入れていた。三人一組のグループを作り、各組は乾パンの空き箱で作った浮きを持って舷側の近くに待機した。
船は殆ど停止していた。「退船用意」の命令で兵士たちは先ず乾パンの箱で作った浮きを投げ込み、次いで携行糧抹や乾燥野菜の入った缶,ブイ、竹材、予備の浮き胴衣等あらゆる浮くものを投げ込んだ。
本船付近の海面は多くの浮遊物が散乱し、暴風雨の過ぎ去った後の港の中のようであった。
輸送指揮官の「全員退避」の命令で一斉に海に飛び込み始めた。

舷側に吊るされていた救命ボートが海中に下ろされていた。下半身を打ち付けて半身不随となっていた中村軍曹が戸板に括りつけられて運ばれてきて、そのまま舷側からロープで吊り下ろされ救命艇に収容された。この様に重傷者はすべてロープや戸板で吊り下ろされたが、無傷のものは自分で、舷側に吊り下げられたロープを伝って海面に降りて行ったのである。
戸板で降ろされた中村軍曹は当夜ラエに揚げられたが、3月7日に死亡した。
(つづく)
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2010年7月14日 (水)

愛車の車検これが最後か

昨夕6時頃札幌の山崎さんから電話がかかる。突然の事で驚く。テレビで大雨の情報を見て心配して掛けて来たようだ。私の家が出来たばかりの35年くらい前に,建築士である彼に建前などを見てもらう為来てもらった事があって、私の家を知っている友人のひとりである。
彼も元気で孫8人、曾孫4人と恵まれて楽しく暮らしているらしい。昔お世話になったからと云って心配して掛けたと言う。有り難い事だ。

今朝も昨日からの雨がざーざーと軒端を叩いている。テレビは九州地方の洪水の様相を丁寧に映し出している。
どこまでつづくやら。このまま大水害となるかもしれない。
時に慈雨ともいわれる雨だが,度を越すと恐怖の魔神と化す。

昨夜車検が終わったからと電話が入った。今朝取りに行かねばならないがこの雨ではと気が重い。
車検料¥62000.この車もこれが最後だろう。
最近では昨年11月さざん会に出席したとき、浜田、益田、山口,防府と300kmを一周したのが、最長距離だった。
もう長距離は無理だろう。
2年後の車検,3年後の免許更新、いずれも返納ということか。それとも死のお迎えが先か。

大雨のせいか道路の渋滞がひどく,車を取りに行くのも楽ではない。
やっと何とかくぐり抜けて帰宅したらもう正午。歩いて行く程時間がかかって大草臥。
軽く食事を済ませるとすぐベッドイン。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その27)

相変わらず砲弾は間断なく誘発を繰り返し船倉の中は黒煙が濛々と充満して近寄る事は出来ない。負傷者は見つけ次第元気な兵士に担がれて右舷に運ばれて行く。
当初負傷者は一人一人吊り下げていたが、今はその余裕もなくなった。戸板に括りつけてまま海中に投げ下ろす。戸板が裏返しになるのもあるがそれをかまっている余裕は全くなかった。生も死も投げ入れる一瞬で決まる。表が出れば生、裏が出れば死である。しかし表が出ても生きるという保証はなにもない。烈日の大陽をまともに受けて漂流すれば、命は何時間と保たないであろう。船に残っていてもいずれは沈む船と運命を共にしなければならない。元気な者は生き残っている負傷者に対しとり得る処置にも限界があった。負傷者に対し詫びながら彼等を次々に海中に投げ入れていった。戦友を助けるためだと言いながらこんな方法しかとれなかったことはなんとしても惨い仕打ちであった。

船は最悪の状態となって、右舷は海面すれすれに傾き、左舷側は船の赤い横腹を剥き出してきた。これは恰も巨大な怪物が眼前に迫って様であった。最早スマートな船の姿は目の前には見られず、捕鯨船の銛を打ち込まれて曳航されている鯨にも似ている哀れな姿をしていた。予想外に船の横っ腹の大きいのに驚いた。

ついさっき迄の甲板上の騒ぎはまるで嘘の様に静かになっていた。早くも一時間近くたっていたようだが、見渡す限り周辺の海上に船らしいものの姿は全く見えない。
(つづく)
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2010年7月15日 (木)

病院通い

午前6時起床、気温23度、軽い雨音。
7時半家を出て広島総合病院に行く。勿論1番目の診察。やはりチガソンを又呑む事になる。
いろいろ試されるわけ。この病気はリウマチと一緒で治る病気ではないのだから。

雨がひどいせいか外来が驚く程少ない。はやばやと病院を後にする。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その28)

副中隊長の寺田中尉がやってきて、中隊員が全員退避したことを中隊長に告げた。
二人で船橋のタラップの下に腰を下ろし、寺田中尉が煙草を取り出してそれに火をつけて差し出した。二人は無言のうちに思いっきり煙草をふかした。

船は完全に停止していたが、船上には兵士の姿は全く見られず四周の海上には点々と漂流者が浮かんでいた。もう敵機の姿はなく、打ち上げた砲弾の名残らしい砲煙が薄雲の様に高い空に残っていた。ハッチ内の砲弾の破裂音もまばらになってきた。その時船長が走ってきて「もう危ない」と叫んだ。よし、行こうかと二人は腰を上げ、煙草を投げ捨てて右舷の欄干を越えて寺田中尉と共に一挙に海上目がけて飛び込んだ。これで二人も海上を漂流する仲間となったのだ。
飛び込む前に船上から中隊本部員の位置を確認して,其処に飛び込んだにも拘らず,一旦海上に入ると見通しが悪く皆目見当がつかない。何はともあれ沈む本船から離れる事が先決である。浮き胴衣をつけていると思う様には泳げない。

やっと本船から7、80mばかり本船から離れる事が出来た。大声で呼び交しているうちに中隊本部のグループを発見して,辿り着いてやっと彼等と一緒になることができた。

此の時、振り返って本船を見ると船首を海中に突っ込んでいた。次の瞬間船は逆立ちとなって船尾が水面に立ち上がり、やがてするすると海中に消えていった。
旭盛丸は実に他愛無く沈んで行ったが,暫くして水中を通して腹にずしんと衝撃があったが、これは船が海底に着いた音であろう。と海上に水しぶきが揚がり,暫くして海底から砲弾の破裂する振動音が思い出した様に伝わってきた。味気ない本船の最後であった。
(つづく)
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2010年7月16日 (金)

70年前の新京地図

濃霧甚だし。気温23度。
昼は外食と決めて楽々園に行く。私の掛け布団を1枚買う。カバーも買ったがこちらの方が少し高い。
生産方式の違いだろうか。
もう何年前になるか、私のブログで新京地図を掲載したのが未だに検索ランキングに登場する。
康徳7年(昭和15年)のものだが、まだまだ往時の記憶を尋ねる人がこんなにあるのだろうか。

午后3時やっと日光が雲間を抜けて窓辺に注ぎかける。空を仰ぐと所々に青空がのぞいている。
もう忘れた位前だった空の色。
気温はもう30度を超えている。

夕方になると又降り始める。奥の方では大雨警報まで発令している。どうしようもない天気である。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その29)

小泉日記には旭盛丸の最後の状況を次の様に記録している。
「旭盛丸は如何なったかと波間から伺うと,黒煙を吐きつつ迎えた最後の光景がはっきりと見えた。それは船首を真下にして船尾を高く空中に持上げたかと思うと,甲板上のあらゆる物品がガラガラと音を立てつつ,茶色の埃を噴き上げて海中に引き入れられて行った。そして、旭盛丸自体も右に体を捩る様にして,急速に海面から消えて行った。ハッチの上に搭載されていた大発動艇が海上に押し出され、ブスブスと余燼を揚げながら海面を漂いつつ海中に消えていった。
あの艇内には戦友の遺体が幾体も横たわっているのだと思うと心が痛む。やがてギシっと腹に強いショックを受けたが船体が海底に達した瞬間であろうか」と。

暫く泳いでいると中隊本部の湯田曹長のグループが見つかり,互いに大声でそれぞれ名前を呼び交した。湯田曹長は中隊の先任下士官であった。彼は大声で「各人、名前を言え」と怒鳴った。彼方此方からそれぞれ名前を名乗って来たが,名前が抜けて出て来ない者が沢山いるようだった。將兵たちは呼んでも返事の返って来ない戦友たちの名前を繰り返して呼び続けたが,そのものたちのの応答はなかった。此の戦友を呼ぶ声は空しい事と知りながら,その後いつまでも続いていた。
(つづく)
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2010年7月17日 (土)

民主党も一騒動あるか

珍しく高曇りの朝,6時現在気温24度。青い空が点々と見える。今日は暑くなりそうだ。
寝苦しい夜が続く様になって、目覚めの体調が良くない。

ここにきて、前原国交相が小沢の説明責任を果たせと言い,枝野幹事長は離党勧告を辞さないなどと言い出した。
民主党の大敗は小沢の責任だという訳。くるくる変わる世の中である。
民主党の分裂はもはや避けられそうにない雲行である。

朝9時、かんかん照りになる。
ぼつぼつ梅雨が明ける頃ではあるが。

間もなく昼のニュースで梅雨明けの気象庁宣言が出たと伝えている。思いつきが偶然当たった様だ。
しかし照り返しと蒸し暑さは凄く,もうこの部屋を明け渡したくなる。

半藤一利の「幕末史」という本を昨日買って来て今日一日掛けて読んだ。
著者本人が言う様に,反薩長史観に立ってもの言うと言ってる様に、幕府よりの論議が多いが,講談調で結構面白い文章である。ただ、時に坂本龍馬は大久保の使嗾によって佐々木只三郎が殺したとか,孝明天皇は女官の誰かが筆にヒ素を塗って毒殺したとか、面白くするのはいいが、行き過ぎた論調も多く頂けない。
噂として伝えられてはいるが、彼程の歴史家が、その様に自分も信じているというに至っては何おかいわんやである。

小さい時から薩長憎しと育てられたという,長岡生まれの父の薫陶のせいだという。
それにしても妙な思い込みをするものである。こうして歴史は曲げられて行くものだろう。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その30)

   海上に退避し,隊員を捜しつつ漂流する
旭盛丸の沈没した時刻は午前9時16分と陸幕公開戦史に載っているから,被爆してから沈没する迄1時間10分浮遊していたことになる。四周には陸地らしい姿は見る事が出来なかった。

然し乍ら海に浮かぶ一同にはこの先生きて行く自信があり,浮いていれば必ず助かるだろうという安易感があった。むしろ船上に居る時より海中にある方が安全と思っていたのだ。
もし船上に居たとすると,此の船に対し敵機、敵潜水艦の間断の無い襲撃に神経を尖らしていなければならないが、太洋の中に点々と浮いていれば,ここの隊員はただの豆粒くらいにしか見えないので,最早敵の目標にはならないだろう。敵の目標としているものは遠く離れて行った船団であり,太洋に浮かぶ漂流者ではないという安堵感であった。恐らく輸送船団は引き続いて攻撃を受けながら進み続けているだろうと思っていた。結局当日沈没したのは旭盛丸ただ一隻であった。大陽が中天に昇った時敵機が一機低空で接近して来たが,恐らく旭盛丸の沈没を確認に来たのだろう,我々には攻撃を加えて来なかった。

漂流者一同の気持ちに余裕が出てきて,互いの縋り付いていた浮遊物を引き寄せ,細い携帯用のロープで繋ぎ合わせた。そしてもし敵機が攻撃をしかけて来た時には此のロープを緩めて海中に潜り込める様にも工夫した。救助の艦艇が来てくれるのは恐らく夕刻だろう。敵機が飛び去ってからだろうから相当長時間海中で頑張らなくてはならないと考え、それまで体力を消耗しない様に気を配った。
(つづく)
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2010年7月18日 (日)

娘等の上海旅行

やっと青空が大きく広がった。気温24度。
朝はまあまあさわやか。
昨夜は蒸し暑くてどうにも我慢出来ず,1時間ばかりクーラーのお世話になる。
11時頃タイマーを入れたのだから,お蔭で布団を被ったまま朝までぐっすり眠る。時には文明の利器も利用しなければ仕方がない。

長雨のせいか夏みかんの実が沢山落果した。残った実は大きいものは3,4cmもありそうだ。去年は40個なったのだが、今年は百個もなれば良いがどうだろう。
人でも物でも成長を待ち望む心境は楽しい物だ。

東京の娘が連休を利用して,友人等と上海観光に出掛けている。孫等に手がかからなくなって、羽を伸ばしたくなったのだろう。同級生の男性も交えてというのだが、世の中も変わったものだなと思わずに居られない。
それにしても私たち夫婦が始めて上海に出掛けたのは丁度20年前になる。昨年亡くなった横山君の誘いで一緒に日中友好協会のお世話で行ったのだったが、その後上海は随分発展してまるきり様子が変わっている由。
横山君は友人などが居た関係上何度も訪れているが、私たちは中国は何度か訪れたが、上海はゆっくり落着いて見物した事はそれ以後無かった。
万博は見る予定は無いといってたが、過密都市無事に目的が果たせるかどうか。

今日は立ちくらみが激しい。何でも無い時にふらっとやってくる。嫌な気分だ。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その31)

体が冷えて来る、両股を支えている紐を締め直す。入水して暫くは大声を上げて互いに呼び合い又軍歌等を歌っていたが,今はその元気等も既になく互いに話合う元気すらない。それぞれに今後の成り行きを考えているのであろうか、どう考えても答えは出ない。皆そういうことは分っていながらも、繰り返し同じ事を考えているのだろう。大陽もどうやら傾き始めたので、もう救援艦もやってくる頃だろう。今は敵機からも見捨てられたようで、もう7、8時間近く海中を泳いでいることとなっている。                                                                     
このまま夜に入ってしまったら、仮令救援の駆逐艦がやってきても我々を発見することは難しかろうと思った。                      

水平線近くに垂直に紗幕を垂らしたようなスコールが見えて来たが、随分と遠くこちらまでとてもやって来そうにない。

中隊本部の浜田曹長は海に入った後も中隊員の掌握に努めていた。平素から生真面目で堅物だということで通っていた。34、5歳と思われる召集の下士官で、色の黒い頑強そうな身体と鋭い目つきの持ち主であった。ご面相に似ず心は至って優しく気のよく着く人柄であった。口数も少なく寄り付き難い風貌をしていたが部下からは大変信頼されていた。船舶兵として召集された者の中には泳げないものも居たが彼もその一人であり、どちらかといえば頑強な彼も水には弱かったのであった。そして、私は彼が泳げない事は以前から知っていた。
(つづく)
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2010年7月19日 (月)

浜田曹長の最後(ニューギニア戦記より)

今朝の気温は遂に26度、昨夜は熱帯夜という事になる。
寝られないので扇風機を3台にした。少しひどすぎたかな。タイマーが長過ぎて遅くなったらしく調子が悪い。
やっぱりクーラーの方がよかったかもしれない。
その前の日はクーラーが効き過ぎたので扇風機にしたのだが、温度調節はなかなか思う様にはゆかぬものだ。

昼は外食、うどんですます。
いつものスーパーでちょっと買い物。
暑さがこたえるのか、たちくらみが頻発する。危機的状況にあるを何となく感ずる。
転んで打ち所が悪くて、植物人間になるのはもっとも警戒しなければならない。

午後日が陰ってやや涼しくなる。良い風が入って来て頬をくすぐる。
  __________________________
(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その32)

さて、浜田曹長とは入水後に一緒のグループであったが、時間が経つに従って彼が心身共に消耗の度合いがひどくなっていることに気がついた。平素あれほど元気な彼には不似合いであったが、泳げないという事で水に対して人並み以上に恐怖感を持っていたのであろう。普段から中隊員によく言ってた事は「もし船で遭難した時、泳げるものが助かり泳げないものが死んでしまう事は無い、むしろその反対であろう。」と。今迄に実際にそんな事例が多くあったし、勿論彼はその事はよく聞かされていたらしい。これは泳げるために自分の力を過信し溺死した例が多いのは、泳ぎへの自信過剰のため動き回って却って体力を消耗してしまうからであろう。
彼は水を恐れていたがそれにも拘らず船舶兵として召集された事は彼にとっては誠に不運であった。彼は入水した後は我々の精神的苦痛に比べて数倍の苦痛を感じていた事だろうし、行く先を案じてかなり悩んでいた筈である。時間が経つにつれて気丈な彼も口数が減って来たようだ。私は彼を激励して言った。「救援艦が来なくともこのまま浮いていれば必ず陸地に流れ着くから心配ない」と。
しかし夕刻になっても島らしいものは全く見られなかった。ふと、彼の眼を見た時彼の様子が変わっている事に気がづいた。彼の顔に全く生気がなかったのは、何かと思い詰めて疲れ果てていたのであろうと不吉な予感に襲われた。何の変化もなく望みを繋ぐものも無い状態が続いていたが、むしろ敵機でもくれば此の沈滞した空気を打ち破られたであろう。この単調さと無聊を破る術は全くなくいくら慰めようとしても現実に何の変化も起きない事に気がついた。突然彼が大きな声で喚いたと見えた瞬間彼の姿は海中にかき消えていた。
彼は二度と海面上に現れてくることはなかった。彼はこれ以上の単調さと無聊さについて行けないので、到頭生きる望みを失って自分から命を断ったのであろう。
我々はラバウル出港以来敵機に遭遇し、敵潜水艦を警戒している間は絶えず緊張をし続け、沈没船を退避した後も熱さと渇きに堪えて来た。しかし彼は孤独感と単調さとこの海に対する恐怖感とにはついに勝つ事が出来なかったのであろう。
(つづく)
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2010年7月20日 (火)

家内眼の検査やっと終る次は半年先

朝から熱帯夜に続く猛暑。
汗の滲みた布団やシーツをベランダの手すりにかけて日干する。

家内が目の検査を受けに行くというので広島総合病院に車で送る。次々と医者に出掛ける事が多くてこぼす。
こぼされてもこちらはどうしようもない。
11時過ぎ家を出る。病院は凄い混雑。これが嫌なんだな。
結局検査が概ね済んだのが2時頃。次の予約日を決めたりして、昼飯を食いにスーパーに行く。買い物も少々済まして店から出たのはもう3時。

疲れ果てて帰宅。
シャワーを浴びて一休み。

思い出して20年前の上海旅行のムービーを、3時間ばかりかかってダビングする。我ながら案外よく写しているのに改めて感心する。
亡き友の墓前に捧げようと思って。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その33)

   救援の駆逐艦来たり、救出されてラエに先行し上陸する
遥か彼方に雲が沸き上って来てこちらに近づいて来るようだ。朝から水を取っていないので、水の事は忘れようと思っているが、そう思えば思う程益々水が欲しくなって来る。かなり近い所で水平線が見えなくなる程に雨が降るようだった。お互いその事はよく知っている事だが、水の事を口にする事は、お互いを苦しめることとなると思ってか誰もがみなこれを口にしない。我と我が心との対決以外には解決する方法はないのである。眠くなって来るそして現実と夢とが交錯する。幻影であろうか雲が目の前に現れるとこれが艦の姿に変わるや、次の瞬間これがパッと消えてしまう。
よく見ると空は相変わらず青くて深く、空も海も総てが静止している。全く変化のない元のままの姿が其処にあった。

誰かが「艦だ」と大声をあげる。水平線の彼方にぽつんと一点の黒い影が見えた様に思ったが、幻影であろうかいつのまにか何処かに消えてしまう。このような事が何回となく起きた。疲れ果てて眠くなった時に水平線を見る見るうちに近づいて来る船が見えた。紛れもなく友軍の駆逐艦である。喚声が彼方此方からあがったが、朝からなんと長い長い待望の時であった。艦は我々の群れに向かってやってくる。そしてその舷側には折り畳み舟が宙吊りにされ、此の救援の船に乗り込んでいる吉田中隊の分隊員たちの姿もはっきりと見えた。
(つづく)
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2010年7月21日 (水)

生きている疲れ

昨日は病院で3時間以上も待たされたので、余程疲れたらしく朝までぐっすり眠れ、食事を終ると又2時間眠る。
よく考えると寝るのも疲れるらしく、起き出てもまだあくびなど連発してすっきりしない。
どうやら生きてるだけで疲れるらしい。

今日も外はかんかん照りだ。風があるので助かる。

ダビングした20年前の上海旅行を眺めながら、元気だった友の在りし日の姿を偲ぶ。時に目頭が熱くなる。
もうどうにもならない時が来たのだと感ぜざるをえない。
20年なんて一瞬だったなあ。

昨日は近所の老人の保健を担当して居られる方が見えて、いろいろ保健施設を利用する様に勧めて帰られる。
試しに言われる事を聞いて覗いて見ようかなと心が動く。

東京の娘からは何の連絡も無いが、もう帰っているだろう。楽しく目的が果たせたかどうか、要らん事かも知れないがちょっと気にかかる。
20年前のビデオでも凄い人のラッシュだったが、当時の何倍にもなってるのだから、正に想像を絶するものだったろう。
もっとも東京、大阪、名古屋などに住み慣れているのだし、パリにもローマにも家内を世話をしながら旅をした経験者だから、改めて聞けば、これ位問題ないと云った素知らぬ答えが還って来るのだろうが。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その34)

艦上には沢山の兵士の姿も見られ、海面は忽ち騒々しくなっていった。そして、艦は微速で接近し直ちに中隊の分隊員の手で折り畳み舟が泛水されて救助作業が始まった。救助舟の折り畳み舟はそれぞれの駆逐艦に各中隊の小隊長又は古参分隊長の指揮する一個分隊の手で、予め6、7隻宛搭載されていたのである。
泛水された折り畳み舟は近くに漂流する兵士たちを手当り次第に収容しては駆逐艦に運んだ。また海中にいる兵士たちは一斉に駆逐艦を目指して泳ぎ始めた。
彼等の海水を含んだ被服は重くなって居り、勿論自力で舟に乗る事は出来ない。そして救援舟の乗組員に両方から抱えられて舟に引き揚げ収容されていた。
絶対に浮き胴衣を外しては行けないと言われながらも、早く舟に泳ぎ着きたいと脱ごうとする者も居た。そうこうするうちに30分余りで殆どの兵士が救助された。

舷側の高さが僅か3、40cmの折り畳み舟でさえ単独では乗り込めない。装具は海水をたっぷり吸い込んで居り、更に衣類と身体の間に海水が入って更に重くなっていた。救助員が両側から手を差し伸べてバンドに手を掛け、1、2、3のかけ声とともに舟に引き込む。引き込まれた兵士はやっとのことで舟の中に転げ込む。要領の悪い者はなかなか転げ込めず、何回も1、2、3を繰り返すが、そう簡単には舟に乗り込めない。普段の様に海水浴場でボートに拾われるようなわけには行かない。かなりの時間をかけて全員がやっとのことで艦上に人となる事が出来た。
幸いにこの間に敵機、敵潜水艦の攻撃がなかったことは幸運だった。
(つづく)
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2010年7月23日 (金)

大暑

熱帯夜変わらず。今朝は27度の夜明け。
家内予約している記念病院に8時半出掛ける。広電駅まで送る。
ちょっと動くともう流汗淋漓。

寒い時期には夏が待ち遠しかったが、良かったのは5、6月の初夏だけ、今となってはもういけない。
冬よりもっと身体が重くなった感じすらする。

アルゼンチン蟻も活動し始めた。今朝も机に寄ってると足元に噛みついて来る。痛いのに驚いて潰す。
夏も良いこと無いなあ。

昼近くベランダからの熱気が凄い。もう30度を越している。そよとした風も熱気を含んで却って暑さを増す。
新聞も暦通りの『大暑」と書いている。今度は全国くまなくらしい。
やはり裸になってシャワーを浴びる事にする。

午後1時近くなって、煮えた様になって家内が還って来る。
路面は50度くらいになっているだろうと喚く。よほど暑さが頭に来たのだろう。
体力が落ちると負担が大きくなる。仕方ないな。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その35)

駆逐艦に上がって見渡すと海面には全く人影は無くなっていた。時間的に余裕があったので兵器を引き揚げることになった。これは本船には山砲2門が積んであったが、遭難した時に沈まない様にドラム缶を3缶縛り付けておいた。
幸いにしてこのうちの一門が海面に浮かんでいた。三砲小隊長の意見を聞いてこれを引き揚げてニューギニアまで運ぶということになった。やがて山砲は舷側に引き寄せられ沢山の兵士を集めこれにロープを掛け、掛声もろとも艦上に引き揚げた。この後この山砲はニューギニアの前線に運ばれて、大変に貴重な武器として活躍したという。

艦上で中隊の兵員の点呼をした時は既に夕闇も迫り薄暗くなりかかっていた。
海上に浮遊していた将兵を救出した駆逐艦の朝雲と雪風は総ての救出が完了した後、一直線に暗闇のダンピール海峡に突入してニューギニア島のラエに向って急いだ。夜半にラエに到着して全員無事に上陸した。

船舶工兵第8聯隊第3中隊は吉田中隊長以下123名が旭盛丸に乗り込んでいたが3月2日最初の第一次の敵機の来襲攻撃によって沈没、海中を漂流した後駆逐艦に収容された者は89名であった。福地准尉、浜田曹長以下35名は敵機の襲撃によって亡くなり、その他一部の者は漂流中に亡くなったが、結局上記殆どの者が船上で戦死し輸送船と運命を共にしたということになる。

漂流者が駆逐艦に収容されたのは、薄暮の迫った時刻であった。救助された中隊員は二隻の駆逐艦と共にそのままラエに直行し上陸したが、漂流時のままの丸裸に近い姿であった。
(つづく)
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2010年7月24日 (土)

スイスの列車事故

連日好天気がつづく。今朝も26度、湿度はやや下がって66%。蒸し暑さはほとんど変わらない。
スイスで列車の脱線事故があり、日本人数十名の死傷者が出たらしい。数年前家内等が利用した旅行社のツアー客も含まれているとか。事故に遭ったものは勿論大変だが、主催した側も大変だなと思う。
私も先般の国内旅行で怪我をして保険金を沢山頂いて、所得税がかかりはしないかと心配している位だが、今度の事故は補償金も大変だろうなと、余計な心配を起こしたりする。

それにしてもスイスのこの列車1列車に百何十名も日本人が乗っていたという。日本は不景気ではないのかといいたくなる。

応接間の敷物を取り替える。老人二人でえっさえっさと大事である。生きてる事は食うだけではない。
暑い盛りにやる仕事ではないな。

熱中症患者がうなぎ上りらしい。特に老人が弱いという。家内がせっせとお茶を呑ませる。水分補給が一番大切な予防法だといいながら。

家内の眼は眼球が脆弱で白内障の手術も出来ないのだという。もっとも片方だけらしいが、当人で無ければ分らない事だが、不自由だろうな。好きな旅行もし辛くなるだろうし。

上海旅行の印象は20年前と一緒で、人の混雑が一番だったらしい。万博にも一日出掛けたらしいが、東京に居る人間には目新しい事は矢張りなにも無さそうである。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その36)

輸送船団は翌3日の夕刻にラエに上陸するために依然として航行を続けていた。
駆逐艦雪風には第51師団長中野英光中将の他司令部員が乗船していたが、旭盛丸が撃沈されたので急遽方針を変更し救助された旭盛丸にに乗っていた船舶工兵隊の800余名と共にラエに急行することとした。旭盛丸には歩兵第115聯隊の西川大隊長以下1316名の各兵種の将兵が乗っていて、朝雲に救助された者は819名であった。駆逐艦の甲板はもともと部隊の兵員を乗船させる様に作られていない。戦闘を主眼として軽快な行動が出来る様に設計して作られているので、この駆逐艦には部隊や人間を乗せる余裕など全くない訳である。従って甲板上の砲の蔭、煙突の側、階段や通路の一隅とか、ありとあらゆる場所にずぶぬれの陸兵が踞っている。そして被服に含んだ海水は何時迄も滴り落ちていた。

全速で走る駆逐艦には台風並みの風が当たる。この疾風は人の体温を奪い取り、夜気は湿気を含み身体を芯から冷やし、塩分を始めとして皮膚を刺す。耳をつんざくばかりのエンジンの轟音に遮られて只一人として話し合う者はいない。ただ黙々としているのみであった。
水兵たちは忙しそうに足取りも軽く行き来しているが、乗っている陸兵たちには為すべき事は何もなく、只艦の行く所に身を任せる以外にどうする事も出来ない。

大陽は既に沈み暗夜の満天の星空のもと、艦はダンピール海峡を全速力で南下して行った。我々は船舶工兵でありながら一隻の艇もなく、全力をかけて整備した舟艇は全没して艇なき船舶工兵となってしまった。あれを考えこれを思うとき今後の事が思いやられる。やがて上陸地ラエが近づいて来た。
(つづく)
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2010年7月25日 (日)

旧友の墓参を果たす

高曇り、午前6時気温25度。予想では33度まで上がりそうだ。夕方には雨が降る地域もあるとか報道されている。
不安定な気候だという。熱中症患者300名を超えたとか。

新聞に氷河特急は年配に人気とある。年輩ではないのかなあ。乗客の3割が日本人ともある。あまり驚かさないで欲しい。

念願だった横山君の墓参りを実現する。若い時なら決心したら何でもなかったことでも此の歳ではなかなか思うに任せなかった。しかし数日前からどうでも盆になる前に墓参りをしておきたいと、気がむずむずしていた。
実行して見るとなんでもなかった。横山の奥さんは待っててくれてた様に外に出て来た途端に、私たちは車から降りた。
すぐ招き入れられて仏前に座り込んだ。マア形式だけではあるが数珠を腕に掛けて念仏を誦し、頭を下げやってきたよとつぶやく。

奥さんとの久しぶりの会話が暫く続く。家内が会話に加わるとすぐ賑やかになる。
長くなりそうである。
温度も段々暑くなったので、墓参りさせてもらいますと、座を外して外に出る。車に残した墓参り用の線香、ローソク、水、花など出して用意し、家内に声をかける。

私だけ先に山に登り墓前に佇む。お盆はまだ大分先だから、捧げしものはなにもない。
ゆっくりお飾りをしている間に家内もやってくる。一緒に礼拝を済ます。
夏の盛りだから、ちょっとの坂でも汗は噴き出す。

別れを告げて横山邸を辞去する。まっすぐ帰宅したのだが丁度正午だった。日曜日なので車は比較的に少なく助かった。
凄い暑さだったが、一仕事済ました思いで、安堵の気持ちは格別のものがある。
もう一度御参りする事が出来るかどうか誰にも分らない。

ここまで書き終わった途端、大阪の水戸君が電話をくれる。私の手紙を受け取ったらしい。メールは何時も見ているよと云う。唯一のメー友だから、間違いないが、先般のメールは添付書類の容量が多すぎて届かなかったらしい。
ともあれ未だ元気で彼も息をすってるらしい。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その37)

漂流していた陸兵を救助した2艦は敵の攻撃を受けることなく暗夜のダンピール海峡をひた走りに走ってラエ沖に到着した。先にラエに駐留していた船舶工兵第5聯隊の鵜飼第3中隊長は、その所属する大発動艇をもって、師団長以下の救出された陸兵をラエの海岸に揚陸した。駆逐艦にはかなりの数の負傷者が収容されていたが、傷病者はそのまま駆逐艦に残り、翌3月3日の船団全滅の状況を目の前にした小泉軍曹が書き残した記録を見てみよう。
「救援駆逐艦の水兵の誘導で狭い階段を降りて医務室付近に蹲る。この廊下の一隅にあった鏡を覗いてみてハッと息を呑んだ。自分の顔が二目と見られない程に傷ついていた。爆弾を受けた時に桁が折れ、その上に載せてあった大発艇が自分の乗っていた艇にのしかかり、左右に並んでいた戦友が押し潰された。その際自分も全身を圧迫されると共に、爆弾の破片で数カ所顔に傷を負って、右の目が腫れて塞がり二目と見られないご面相となったのである。また右胸が痛み呼吸も苦しく、更に腰も起たない全身の異常に気がついた。あの爆発の直後戦友を担いで運んだが、今はあの気力、体力が何処に消えてしまったか不思議に思った。この駆逐艦は船団に追いついたが、此の船団の列から離れて、当夜のうちに陸兵を揚陸する事としてラエに直行し、深夜に到着したのである。
甲板上から我々に向って「陸軍兵の丈夫な者は上がれ、傷の軽い者も続いて上陸せよ」と叫んでいる。しかし自分は寝返りも侭ならぬ有様、上陸しても皆の邪魔になるだけであった。「もう居ないか、引き返すぞ」とだめ押しの言葉が聞こえて来た。

この様にして小泉軍曹の他傷病者は駆逐艦に残りラバウルに帰還したのである。
そして後日再び再編成してニューギニア島のフィンシハーヘンの中隊に舟艇機動によってダンピール海峡を横断して復帰したのである。更に日記を続けよう。
(つづく)
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2010年7月26日 (月)

藤沢周平作品の映画を見る

昨夜は雷予想だったが、2、3度ゴロゴロと鳴ったがそれきりで、固唾を呑んで待っていたがとうとう空振りに終った。
今朝は朝から暑い。気温は早くも6時現在27度である。

今日はこの地区一帯の配電線工事で10時から16時まで停電とある。
車の通行もどうやら難しい。クーラー、冷蔵庫、扇風機まで使えないとあると、逃げ出す以外にない。

昨夜からどこへ行くか夫婦で思案したが、山にでも逃げるか、クーラーの効いたデパートあたりしかない。
久しぶりに映画でも見るかと思ったが、縁の薄くなった映画館何を見たら良いのか皆目見当が立たない。

マア仕方がない、どこでもいいから、ぼつぼつ支度するか。

11時半過ぎに家を出てアルパークに行く。北棟の映画館に入る。
藤沢周平の『必死剣鳥刺し」というのをやっていた。筋は小説を耽読しているのでよく分かった。
大型のスクリーンで見る映画は迫力があって素晴しい。十分堪能出来て満足して帰宅した。
それでも少し早すぎて、工事の車の邪魔をすることにはなったが。
休日ではないので観客は少なかったが、デパートに廻ってみると今度は夏休みだからか子供連れが多く煩わしかった。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その38)

自分の隣に資材中隊の兵が瀕死の火傷で苦しんでいる。「水、水を呉れ」とうわごとを言って呻く。他の者が「水を飲ませるな、飲ますと死ぬるぞ」と叫ぶ。しかし、死に水を求めているのだろうか。やがてうつらうつらしていたが、何だか静かになったと思ったら、「あっ、死んだぞ」と騒がしい声。見れば私の水筒をしっかりと握り、口に宛てがったまま死んでいた。私はあ、あ、しまった、水筒を隠しておけば良かったと思ったが後の祭りであった。夜明け前に前歯を遺骨として残して、遺体は戦友たちの手によって水葬に付された。

負傷兵たちの血と膿の染み込んでいる包帯から発する嫌な臭いに包まれた艦内の薄暗い部屋であったが、支給された朝飯の握り飯を食べてやっと人心地がついた。

この駆逐艦は再び輸送船団の護衛に帰り、ニューブリテン島の西北端部でダンピール海峡の北口グロスター岬を左に見て南下を続けた。

この時は既に3月3日の拂曉近くになっていた。一方船団はどのような状況であったかというと前日の3月2日に3回に亘って敵のB17爆撃機編隊の攻撃を受け、かなりの損害を受けながらも沈没は免れて予定通り一路ダンピール海峡を南下して、ラエに向って航行中であった。
(つづく)
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2010年7月28日 (水)

原爆被害の責任

朝気温27度、雨の気配濃厚。8時過ぎにはぱらぱらと降り始める。
庭の木の蝉の鳴き声も中断する。
烏が何処か近くで子育てしているらしい。朝早くから巻き声が何時迄も続いている。

原爆投下の日が又近づく。曾孫の誕生日が重なったりして、今や忘れようも無い日になってしまった。
戦争を始めたのが日本だから、原爆の被害の責任も当然日本が負うべきだと、世界中が思っているらしい。
日本国民は未だにその責任を血税をしぼられて負い続けている。
使った当事国のアメリカは未だに責任を負うなどと一言もしゃべっていない。
その補償額はいくらぐらいになっているのだろう。誰も云わないし計算もしない。
2発落とされた国だけが責任を負う、なんともやり切れない不思議な気持ちである。

戦後帰還船で戦地から鹿児島に送り返され、専用列車の車窓から見渡す限り焼け野が原になった故国の町町を無気力に眺めながら、同じく壊滅していた故郷に帰り着いた日のことが忘れられない。
皆一様にゼロから立ち上がった。それでも生きている限り補償を払えと云われているわけか。

勝てば官軍の論理は日本国だけのものではない。
世界大戦の一次でも二次でも通用した。その怨念は永く残るのではと思われる。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その39)

3月3日、この日は船団が全滅した運命の日である。日本の主要な作戦は日本古来の吉日に決行されている。例えば8の日の縁起をかついで日本の戦争宣言は昭和16年12月8日を卜して開始された。マレー作戦でのシンガポール攻略の日を2月11日の紀元節を目指したが、これは少し遅れて15日となった。フィリッピン戦では4月3日の神武天皇祭がバターン半島の第二次攻撃開始の日であり、5月5日の端午の節句がコレヒドールの上陸作戦というように、我々の経験した戦闘だけについてもこのようにかなり多くの例が見られる。この度の第81号作戦でもラエ上陸の日を3月3日の節句の日に会わせて決定していた。

この日は早くも未明から敵の哨戒機が飛んで来た。以下この日の状況をかいつまんで述べてみようと思うが、午前8時から百数十機の爆撃機の大編隊が攻撃して来た。いよいよ敵の腹中に突入した訳である。これに対し陸海軍が協力して迎撃した友軍機は僅かに30機の戦闘機では如何ともし難く、何としても手の打ちようがなかったわけである。
そして更に友軍機は敵機の中高度からの攻撃を予想して待機していたのに、連合軍爆撃機の攻撃の仕方は予想外の低空からの反跳爆撃を繰り返す新戦法をとっていた。この為僅か数十分の内に全輸送船は炎上し、また駆逐艦も次々に沈没して行った。この戦法はスキッピング攻撃法と言われ、ラエ直前迄辿り着いた輸送船団はこの新戦法に翻弄され、あえなく全滅したわけである。
(つづく)
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2010年7月29日 (木)

アメリカ大使始めて原爆式典参加

午前6時小雨がしょぼついている。気温25度。涼しい。
ちょっとうっとうしいが、暑いよりはましで文句は言えない。

睡眠は足りてるから、目覚めるとなかなか寝付かれない。こうしてパソコンをいじるわけだが、最近は何事にも興味はわかない。惰性で過ごしているだけだ。老いぼれた証拠か。そもそも生きる興味すら乏しくなったのだからなにおかいわんやでる。

夏の甲子園の広島県代表は下馬評通り好投手有原を擁する広陵高校に決まった。打ち勝って上がって来た打力の如水館を4安打無得点に抑え切った。春同様有原の勇姿が見られそうだ。頑張って期待に応えてもらいたい。

昼前雨は上がったかに思えるが、霧が深くて空も何も、日射すらとんと見えない。

今朝の新聞を見ると、アメリカの駐日大使が始めて国を代表して原爆式典に花束を捧げるらしい。謝罪するとは云ってないから、依然として行為責任は感じてないということだ。悪いのはやはりやられた日本国だというわけである。
いずれ何時の日かこんな馬鹿な歴史観は改めざるを得なくなるだろう。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その40)

敵の大編隊が来襲し攻撃されたときの状況を、駆逐艦朝雲に乗っていた小泉軍曹は日記の中で更に次の様に述べている。
「大空を圧する轟音と全艦船が発する大砲の響き、その上自分の居る部屋は砲塔の真下にあったので、側壁を上下する弾薬運搬のエレベーターの騒音、高角砲の発射音等が天井の鉄板や床板に反響して耳も破れんばかりの騒音であった。
それに弾幕をくぐって接近して来る敵機の爆音、騒音も混じって聞こえ、正に回りのすべてを圧する大音響である。
約30分も続いたであろうか、やがて辺りが静かになった。

水兵の一人ががっくりとした表情で「ああ、皆やられてしまったよ、輸送船を残らずさ。残っているのは駆逐艦4隻だけさ。陸軍さんの乗って居た舟はどれも火を噴いて次々沈んで行くよ。ラバウル出港の時から敵さんは我々船団を狙っていたようだ」と、呟いていた。海に飛び込んでボートや筏に取りすがった兵も、空からの機銃掃射で多数戦死した。
生き残った駆逐艦は搭載していた総ての舟を降ろして救助に大活躍した。広い海面に浮遊している2700余名の生存者を各艦に収容しなければならない。敷浪と浦波の2艦で1500人余りの収容者は甲板からこぼれ落ちそうである。自分の乗っている艦も収容限度を超えていたため他の艦に横付けして歩板を渡して移乗させられた。乗り込みの海軍士官が声を嗄らしてぐったりして座り込んだ陸兵を整理し各室に誘導している。
(つづく)
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2010年7月30日 (金)

突然妹死す

昨夜8時20分、岩国警察より電話が入り、田丸の妹が交通事故で救急車で国立病院に搬送されたと知らせて来た。すぐ行く準備を始めたのだが、近くの幸雄に何故連絡しないかと聞くと電話が通じないという。改めて私が掛けても弟は出ない。仕方がないので娘に電話して連れて行ってもらう事にしたのだが、婿が何かの会合で酒が入っているからと車の運転を断られる。
仕方がないから汽車で行こうと準備を始める。

今から出掛けるからとこちらから警察に電話を入れたところ、今度は弟のところと連絡がついて、既に弟が病院に出かけたから良いですとの返事だった。

そのうち弟から電話が入り、妹は既に大腿骨折と頭もやられて意識を失ったまま9時13分亡くなったと伝えて来た。哲郎君にはすでに連絡して葬式は広島でするからとのことで時間などは分らないとの事であった。
後はもう連絡を待つ以外に無い。

後に聞くと担当医師から直接哲郎君に電話で詳細な病状の説明があり、その死を了承したとの事であった。

全く思いも掛けない突然のあの元気な妹の死であった。
直前まで農作業をしていたらしく、暗くなって多田の家を出て、新幹線口に歩いて向っていたのであろう。
7時半通行車両にはねられ、救急車で国立病院に運ばれたが、もう気がつく事はなかったらしい。
百までは生きるだろうと安心していた程元気だったが運命は分らない。神は強引に寿命を取り上げてしまった。
私と2年と1日違いで,満88才を超えていた。農業を楽しみに田舎まで新幹線で往復して倦む事を知らなかった。
何度か一緒に旅をしたが、その元気さは忘れられない。

今回警察からいち早く兄弟の私たちや横浜の息子や東京の娘にまで電話があったことが不思議でならなかったが、妹の所持品には健康保険証はもとより、緊急の際の連絡先など細かなメモを、沢山な携行品と一緒に身に付けてことがわかった。
えらいやつだなあと改めて感心する事しきりであった。
一人暮らしの危険を十分承知の上、油断無く日々暮らしていた事が窺われて、やはり賢い奴だったなあと認識し直しているところである。

すぐ後から追っかけるから待ってろよと、土色に変わった厳しそうな顔に語りかける私だった。
兄の私を差し置いて、死を自ら求めた様に急ぎ逝った彼女に今更言う言葉は他になかった。

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2010年7月31日 (土)

最悪の年か

最悪の日が終わり,疲労困憊しながらも寝付きはよくなかった。うなされたかもしれない。
今更ながら妹の魂の強さをまざまざと実感する。
私も巻添えになるとすら思わざるを得ない。

今朝もうっとうしく濃霧に包まれた夜明けである。気温27度。
家内の弟が何処で聞きつけたか妹の死を知っていて,香典の依頼を昨夜遅く家内に言付けて来る。
内輪で済ます訳にも行かぬようだ。

家内が喪服を買うというから一緒にデパートに行く。手頃のが無かったらしく止めにしてうどんを食べに行く。
帰宅して昼寝。暑い時はこれが一番。

昨日からねじれ国会開幕。どうなることやら。
カープは頼みの前田健太投手が巨人に8失点して逆転負け、今年もカープは駄目だな。あきらめたよ。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その41)

砲塔の回りに群がっている兵には「砲が撃てないぞ、お前たちそんな所にいると吹っ飛んでしまうぞ」と大声でせき立てながら船室に降ろした。第3次の攻撃を予想した艦長は救助作業を急がせ、まだ海面にちらほらと漂っている兵を認めながら、やむなく救助作業を打ち切って出航の命令を下した。乗り換えた艦はスクリューシャフトが破損したらしく、高速の回転をすると艦尾が大きく振動しまるで人間が篩に掛けられているようで気持ちが悪くなる。

この様にダンピール海峡は漂流する将兵と沢山の軍需品とでいっぱいとなり、ラエ上陸作戦は一変して救助作戦に変わってしまい、残存の4隻の駆逐艦は全力を挙げて遭難者の救助に没頭した。

さて、この輸送作戦が全滅した事は先行してラエに上陸した第51師団長(中野英光中将)に伝えられた。我々が待望していた船団は遂にラエに姿を見せることなく終ってしまったのである。

ラエに先行していた一部の吉田中隊の隊員は、船舶工兵第5聯隊第3中隊長の厚志により、この隊の大発動艇を借用して捜索を開始した。しかし漂流者の総ての者が敵の勢力下にある海峡の南ソロモン海方面に流されてしまった。ということは漂流者は海峡の時速1.5ノットの海流に乗って、ゲットエナフ島方面のスミル、ブナ、マンバレー地域にまで及んだようである。そしてこの敵方面に流れて行った漂流者は相当数の者が連合軍の捕虜となったという。吉田中隊に居た杉本修二上等兵もその一人であった。戦後に厚生省で見せてもらった戦死者連名簿に彼については、戦死日:3月25日、死亡場所:行方不明と記載してあった。が、彼は漂流中豪州軍に捉えられ、戦後彼の郷里の京都府久美浜に帰還して運送業を営んで未だに健在である事を仄聞した。
(つづく)
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