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2010年6月22日 (火)

梅雨の合間

梅雨だからからっとした空になる訳は無い。霧で沖の島島は今朝も見えない。
気温は遂に24度。もう少しで熱帯夜となりそうである。
毎朝聞き流しているラジオのバロック音楽の調子の良い響きが何となく身体の動きを支えてくれる。
寝苦しい夜だったが、夜半まで扇風機でしのいだせいか、身体の節々が固まって動かし難い。
こんな日が続く事になるだろう。

掃除機の集塵袋が切れたのでデオデオに買いに行く。帰路道路境界の垣にほん僅か接触して車に傷を与えてしまった。やっぱり運転能力が落ちたらしい。がっかりする。独り相撲だから言うて行くところは無い。来月の車検整備で大分取られる事だろう。

午後はかんかん照りになる。しかし風が結構強いから何とか我慢出来る。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その9)

戦後防衛庁防衛研究所戦史室の発行した公開戦史の中に,当時直接この第81号作戦の決定に参画した幕僚の述懐が記録されているのでここに掲げてみた。

この幕僚の言、「第81号作戦計画は自分が主任となって計画した。成功率は40%、不成功率は60%.或いは五分五分と主張した」と。
又ある参謀は「・・・・航空参謀S少佐はラエ進攻に対して確算がない。成否五分五分だ」と主張した。
そして結論として作戦の能否よりは要否に議論が傾き、必然的にサラモア地区確保のために、危険を冒しても強行せざるを得ないとして、ラエ上陸案が採択されたようである。

誰もがよく承知して居るように、この度の緒戦は日本軍の絶対的な制空権下においての上陸作戦,渡河作戦であった。そしてマレー、フィリッピン.その他すべての戦いの同様であった。しかも緒戦は敵対した敵陸上部隊は植民地軍が殆どでありすべての面で弱体であった。
しかしながらこの度のガダルカナル島に上陸してからの米軍はいままでの植民地軍とは全く質が違っていた。
この進攻軍はいづれも装備も十分に整えた米・豪の本土正規軍である。そして航空勢力も優勢で日本軍を凌駕していた。まして上陸作戦、輸送作戦の成否を決するのは、この航空勢力如何にある。このことを最も良く承知している航空参謀が成功する確信がないと言っていた訳である。

果たして3月2日朝敵のボーイングB25の編隊が大挙襲来して来た時,常時百機という陸海軍の協定にも拘らず事実は僅かな戦闘機が応戦したのに過ぎなかった。それは自明の理であり、足の短い戦闘機が600kmの遠くまで援護するには余りにも距離があり過ぎる。敵の前進飛行場ワウからはこの距離の3分の1に過ぎない。これはダンピール海峡南口で輸送船が全没し時の地点から計算した距離である。

当日その時吉田中尉は輸送船旭盛丸に乗っていた。米軍の編隊が群れをなしてやって来たが,友軍の戦闘機の攻撃に対して,全くその編隊を崩す事無く,一直線に輸送船団目指して攻撃を仕掛けて来た。
あれよあれよと言う間に左の先頭輸送船旭盛丸は、一番と二番ハッチに直撃弾を受けて一時間後に沈没した。茲に航空兵力の劣勢下に置ける上陸作戦が如何に困難であり,無為であるかということをを骨の髄まで体験させられた。殊に前述の「作戦の能否よりも要否が強く支配した」という参謀の述懐については考えさせられるものがある。戦後、当時作戦の掌に当たった人たちが、いずれも前記のように無理な作戦だった事を認めている。要否に強く左右されたことで、結局は日本を敗戦の淵へ追い込んだのである。
(つづく)
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