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2010年6月12日 (土)

鳳陽会へ

早朝より気が立って寝ては居られない。
5時26分起き上がってパソコンに向う。ベランダの寒暖計は19度を指している。
ラヂオで”新聞を読む”をしゃべっている、菅総理の所信演説は概ね好評のようだ。

若干の不安を蔵しながら,まあまあ元気で鳳陽会の総会に出席する事になる。
着るものは結局永年着た事の無かった背広にして,白いカッターシャツにネクタイ。
勤め人時代に戻った感じである。先後輩入り交じっての同窓会だからかしこまるのは仕方がない。
一番嫌な場面だがなあ。

妻が言う様に早昼を食べて11時半家を出れば間違いない。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その4)

東部ニューギニアの戦局
東部ニューギニアの戦況と第81号作戦の概要
ダンピール海峡の戦闘等と海峡横断の輸送と基地

昭和18年2月初旬、第17軍(軍司令官百武中将)がガダルカナル島を撤退してからは、東部ニューギニア方面に対する連合軍の攻撃が本格的に強くなって来た。
日本の大本営に於いてもこの東部ニューギニア方面の重要性に鑑みて、ここに安達中将の指揮する協力な第18軍を昭和17年12月以降速やかにこの地区に展開させ,防衛の掌に任ずる事としていた。

安達司令官は指揮下にあった20、41、51の3ヶ師団をニューギニア東部に移動させ集中する事に決めた。この重大な急務の一つとして第81号作戦が計画され、ラバウルに集結中の第51師団を東部ニューギニアの要衝ラエに転進させる事となった。同時に第41師団をニューギニア東北部マダンへ、同じく第20師団をウエワークへ前進させる事とした。

ラエには3月3日、マダンへは3月10日、ウエワークには2月2日を各師団の上陸日と定め、陸海空の共同作戦の準備を開始した。この作戦で2ヶ師団は予定通り上陸に成功した。然し乍ら第51師団はラエに向かって航行中の3月2、3の両日に米軍爆撃機編隊の猛攻を受けダンピール海峡で全没した。

船舶工兵第8連隊の任務は第51師団のラエ揚陸を担当する事だった。先のガダルカナル撤退直後の作戦だったが部隊はほとんど無傷であったので、全員体力気力共に旺盛だった,当時ニューブリテン島とニューギニア縞の間にあるダンピール海峡は、日米海・空軍の接触点に当たり戦略上の重要な地点であり,第18軍がニューギニアに展開し防衛に当たるには大きな障壁となっていた場所でもある。

当時この海峡は既に連合軍空軍の勢力圏内にあり、特に上陸地のラエは敵の航空基地ポートモレスビーから近く,その上敵の前進基地ワウ飛行場はラエと指呼の間にあって、1個師団の兵員が白昼上陸する事は至難の業であった。

この作戦より先に連合軍の空軍基地ポートモレスビー攻略のためにその背後の当たるブナに上陸し前進中の南海支隊は。東部ビスマルク山脈を越えモレスビーの街の灯りを眼下にしながら,後続隊との連携と武器・物資の補給が途絶え,一方では連合軍の大部隊に退路を遮断され,撤退のやむなきに至って居た。この撤退作戦はガダルカナルの撤退にも劣らない惨状となり,生存者は僅かという事であった。

このような状況から一刻でも早く第51師団1個師団をの拠点ラエ方面に展開させる事は焦眉の急務であった。
そしてこのためにニューギニアの海岸を北上するマックアーサーの指揮する連合軍と、これを迎え撃つ第18軍とがこの海峡を中心として,熾烈な戦闘を交える事となったのである。
即ちダンピールを制する事は、事後の戦闘を有利に展開する不可決な要件であった。

僅か100kmばかりの海峡での戦いが、日米両軍の中期以降の戦いの山場ともなったのである。

(つづく)
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