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2010年6月10日 (木)

南北朝鮮の火縄線

今日もよく晴れ、朝の気温19度と暑い一日になりそうである。
菅内閣もやっと活動を開始した様だが,半数は留任だから,代わり映えはしない。
一応小沢一派を外してダーティな色合いは払拭した感じではあるが、さて政治がうまく行くかどうかはやってみなくては分らない。人気は60%以上に取り戻したといわれるのだが。

昨日届いた文芸春秋を読むと、先般の韓国哨戒艦の沈没は北朝鮮潜水艦の魚雷攻撃によるものと分ったが,韓国側の不手際でその潜水艦を見失い,爾後の対策も遅れてしまったらしい。
それにしても、北朝鮮は思いがけない時に変な挑発行為をするものである。
いつだったか日本領海侵犯事件もそうだった。

昔だったら直ちに戦争になったであろう。全く際どい仕掛けである。
オオカミ少年ではないが,何度も繰り返すと間違いなく戦争に発展するだろう。
文春も「世界が震えた第2次朝鮮戦争勃発」とショッキングな記事を掲載している。
日米安保のゆるぎが付け目と読んだのであろうか。むしろ米韓の裂け目を見たのかも知れない。
ミサイルや原爆に自信を持ちつつある北朝鮮には今が最大のチャンスと見たのであろうか。
もし戦火を交える事になったら,韓国はひとたまりもないのではないかと心配するものである。

お経の様に平和を唱えている日本だが、お隣の火事がなんでもないと手を拱いて見物出来るのであろうか。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その2)

その後輸送船確保の見通しもなく、また敵の制空権下における兵員、物資のダンピール海峡の輸送はまず夜間に駆逐艦による兵員等の輸送を試みた。同時に潜水艦によるドラム缶に詰めた米など食料品の輸送が密かに続けられた。

しかし敵機、敵高速魚雷艇等の跳梁激しくその被害多く,最後にはやむなく100kmを超えるダンピール海峡を,夜間に船舶工兵隊の大発動舟艇でニューブリテン島の基地から兵員、弾薬、食糧の前送をし、ニューギニア島から傷病患者の後送を命がけで行うなどと苦心惨憺たる輸送が行われた。
が、終に昭和18年の後半に入り拠点ラエ、フィンシハーヘンと次々と敵の手に落ち、事後フィリッピン島に向かい連合軍の北上が急速に進んで行ったのである。

ついでフィリッピン、沖縄と激戦の末,日本軍の撤退が続き,最後には日本の主要都市が猛爆で逐次壊滅し,更に広島、長崎の原子爆弾を機に終戦となったのである。一口に言ってこのダンピール海峡の戦闘の敗北はその後の日本の敗戦につながる転機となったといっても過言ではないという戦闘だったといえる。

次にこの東部の悲惨な戦闘が起きていた同時期に、西部ニューギニア地区ではシンガポール進攻作戦で中心的役割を果たした第5師団が、先ずこの島の西部要衝の地バボで飛行場建設に取りかかり(隔日の猛爆撃で未完成に終わる)、次に島の南部カイマナに師団司令部を移し、各部隊は豪州方面のカイ、アル諸島とタンニバル島及びセラム島に分散して駐屯し、この地区の防衛にあたっていた。

後方からの補給困難な折から食糧の自給自足をしながら最前線の防衛に当たっていた。そしてその食糧の自給自足の手段として師団野戦倉庫隊に「特設水上隊」という物資収拾とその輸送を行う特殊部隊が創設された。

この部隊は現地で雇用した7tから15t程度のプラオ(帆船)31隻とこれを操作する現地人船員110数人を雇傭して、セラム、アラフラ、パンダ海の荒波をついて食糧等の収集と輸送に励んだ。そしてこの隊の隊員34名のうち、本部要員4人を除いた30人は各プラオ1隻に1人づつ乗船し、現地船員とともに個別にその責務を果たすため,前記海域の荒波をものともせず食糧等の輸送に努めた。

この隊の行動は敵機の攻撃に加えて,荒海での難破もともなう頗る危険な任務であったが、全く知られていない特別の作戦だったので,敢えて記録に残す事とした。
(つづく)
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