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2010年6月11日 (金)

平城京

朝気温18度。ややもやっているがいい天気である。
家内は記念病院に行く日なので朝から忙しい。1時間前には家を出なければ間にあわないからだ。
最近手の痛みが激しくなっている。リウマチが悪化しはじめたらしい。薬を少なくしたのが原因ともいっている。副作用との狭間で家内の心が揺れている。
私は側から只見てるだけで何のアドバイスのしようも無い。

9時半広電駅まで車で送る。12時半には帰宅する。
風があって、割合涼しいので過ごし易い。明日も此の調子ならよいが。

明日の大阪行きに併せて、今話題になっている奈良平城京跡を見て来ようと,数日前から計画を練っているのだが、どうも体力に自信が持てないので,広く見歩く事は矢張り無理な様だ。
一応切符は奈良まで買ってあるので、行くだけ行ってみようと思うのだが,天気予報が良くない。
又神頼みが出来てしまった。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その3)

その後輸送船確保の見通しもなく、また敵の制空権下における兵員、物資のダンピール海峡の輸送はまず夜間に駆逐艦による兵員等の輸送を試みた。同時に潜水艦によるドラム缶に詰めた米など食料品の輸送が密かに続けられた。

しかし敵機、敵高速魚雷艇等の跳梁激しくその被害多く,最後にはやむなく100kmを超えるダンピール海峡を,夜間に船舶工兵隊の大発動舟艇でニューブリテン島の基地から兵員、弾薬、食糧の前送をし、ニューギニア島から傷病患者の後送を命がけで行うなどと苦心惨憺たる輸送が行われた。
が、終に昭和18年の後半に入り拠点ラエ、フィンシハーヘンと次々と敵の手に落ち、事後フィリッピン島に向かい連合軍の北上が急速に進んで行ったのである。

ついでフィリッピン、沖縄と激戦の末,日本軍の撤退が続き,最後には日本の主要都市が猛爆で逐次壊滅し,更に広島、長崎の原子爆弾を機に終戦となったのである。一口に言ってこのダンピール海峡の戦闘の敗北はその後の日本の敗戦につながる転機となったといっても過言ではないという戦闘だったといえる。

次にこの東部の悲惨な戦闘が起きていた同時期に、西部ニューギニア地区ではシンガポール進攻作戦で中心的役割を果たした第5師団が、先ずこの島の西部要衝の地バボで飛行場建設に取りかかり(隔日の猛爆撃で未完成に終わる)、次に島の南部カイマナに師団司令部を移し、各部隊は豪州方面のカイ、アル諸島とタンニバル島及びセラム島に分散して駐屯し、この地区の防衛にあたっていた。

後方からの補給困難な折から食糧の自給自足をしながら最前線の防衛に当たっていた。そしてその食糧の自給自足の手段として師団野戦倉庫隊に「特設水上隊」という物資収拾とその輸送を行う特殊部隊が創設された。

この部隊は現地で雇用した7tから15t程度のプラオ(帆船)31隻とこれを操作する現地人船員110数人を雇傭して、セラム、アラフラ、パンダ海の荒波をついて食糧等の収集と輸送に励んだ。そしてこの隊の隊員34名のうち、本部要員4人を除いた30人は各プラオ1隻に1人づつ乗船し、現地船員とともに個別にその責務を果たすため,前記海域の荒波をものともせず食糧等の輸送に努めた。

この隊の行動は敵機の攻撃に加えて,荒海での難破もともなう頗る危険な任務であったが、全く知られていない特別の作戦だったので,敢えて記録に残す事とした。

よく考えてみると一つのニューギニア島で、東は表の顔の激闘に明け暮れた吉田中尉以下舟艇隊員の決死の行動と、西では敵機の攻撃と荒い波風とで緊張の連続の激務だったが,敵機等の襲撃は受けずまた難波することもなく、通常に日々は戦争の裏の顔として至極地味な働きをしていた特設水上隊員と、同時期に全く不可思議な戦争の二つの顔を対照的に書き残してみたらと思って筆を執った次第である。
只今88歳と米寿を超した老人の綴る記録であるので、どんなものになるか分からないが,読んでみる事を御願い致します。
(つづく)
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