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2010年6月19日 (土)

ワールド・サッカー混戦か

朝7時気温23度と暖かい。すぐ庭先まで霧が漂い、四囲はすっぽり包まれて幽玄の趣。

昨日今津の藤本のおばあさんが亡くなって今日が葬式の由、芳邦さんから電話があって、家内一人参列する事にする。享年98才。2000年には一緒にハワイに出掛けたが、凄く元気だった。小柄でも足腰が丈夫だった。最近は物忘れが段々ひどくなっていたということだったが。

11時前家内を駅まで送る。日射しが無いから、暑からず寒からず。ゆっくり御弔いが出来そうである。
藤本には今年りえちゃんに続いて、二度目だし、娘婿の森重安正さんも今年亡くなっているので、引き続いての不幸という訳である。凶事は得てして続くというが。

ワールドサッカー、茲に来て番狂わせが続き始めた。フランスがメキシコに2ー0で、ドイツがセルビアに1-0で敗れた。混戦必至の様相だ。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その7)

さて、吉田中尉の所属する隊は船舶工兵第8連隊第3中隊だが、このダンピール海峡周辺を約半年間慌ただしく行動した。正確に言うとその期間は昭和18年3月2日から同年の9月ないし10月ということになる。
奇しくも今田一等兵(筆者)の属する第5師団輜重兵第5聯隊が、ジャワ島の高原都市マランで次期作戦の準備をしていたが、3月5日ジャワ島スラバヤ港を出航して,9日にアンポン港更にセラム島東岸沿いに航行し,11日西部ニューギニア・ペラウ湾南岸のバボに上陸していたのと期を一にしていた。
この第5師団の西部ニューギニア・ボランメイ地区での任務は、一兵卒である私の察知する所ではないが、このバボに飛行場を建設して、オーストラリアの連合軍の進出を牽制し、あわよくばオーストラリア方面に進出することも考えていたのであろう。

一方吉田中尉の率いる船舶中隊は激戦の続いたガダルカナル島を、同年2月7日夜何とか撤収した後ラバウル港に帰還、休む間もなく同月28日ラバウル港を出港して、ニューギニア上陸作戦に参加した。
この船舶工兵聯隊の任務はラエにて1ヶ師団の揚陸を担当することであり、上陸用舟艇を搭載した輸送船に乗りラバウルを出港したが,出港後7日目にかけて敵機の集中攻撃によって輸送船は全没した。

船団の各輸送船に乗っていた将兵7,000人有余の約半数は戦死し,残る半数は駆逐艦等に救助された。ただ救出は短いものでも数時間,長いものでは30余日海峡周辺を漂流した後救助された者もいたという。
我々漂流者は漂流中に敵機又は敵潜水艦の間断の無い攻撃を受けた上に、赤道直下の灼熱の太陽と冷たい海水との二重苦を受け、敵襲の脅威と渇と飢餓とに曝されたあげくに救助されたのである。
この時幸いに駆逐艦に救助された者のうちごく一部のものは目的地ラエに上陸できたが、大部分のものは乗船地ラバウルに揚げられ元の木阿弥、再び海峡の横断に挑戦しなければならなくなった。

以上この戦記の概要を走り書きしてみたが、この第81号作戦について今もう一度日を追って、詳しく書き留めておくと、次のように実行され,その悲惨な姿は,今までかってない結果となったのである。
(つづく)  
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