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2010年6月 6日 (日)

隣人疎き事,戦前と隔世の感あり

久しぶりに雲の多い天気。気温は19度だから例年通り。
昨夕ダイキから物置の代金の請求を受けたので,今朝10時を過ぎて支払いに出掛ける。
代金¥87150.と言われて驚く。注文請書を見せて¥112050.では無いのかと言うと向こうが驚いて調べてみますと暫く電話して確認をしている。
結局メーカー・ヨド物置の展示価格が間違っていたらしい。安くなったのだから文句はないのだが、狐につままれた様な気持ちである。
世の中いろいろあるなあ。

胃腸の具合がよくないので、薬を買って帰る。

お隣の植野さんには空き地を利用させてもらったお礼に家内がビールを提げて行く。

今朝は8時から町内の道路,排水溝の掃除である。皆でやれば早い。大したゴミもたまっていないし,簡単に終る。
近所といっても滅多に顔を会わす事が無いので、この人がと改めて見つめ直す。
隣人と疎き時代となったものである。
戦前の世相とは正に隔世の感ありと今更しみじみと思う。

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(今田勇著「西部ニューギニア戦記」より転載)
張り切った船舶工兵隊員、グラマン戦闘機を撃墜して、手酷いシッペ返しを受ける
この話はゲッセル島で機帆船が爆撃機の低空攻撃で沈没した翌日のことであった。
このゲッセル島のすぐ東隣のゴロン島で徹底した報復爆撃を受け、更に退避した山越えの途中高空を北方に向かい通過する夥しい数の敵爆撃機の編隊に脅威を覚える。

昨日に続いてここゴロン島の中継基地にも連絡をということで、早朝この島の西海岸に上陸した。今までこの島の日本兵は野戦倉庫の少数の隊員以外はいなかったこの部落に、新しい軍服姿の日本兵数人の姿が目に付いた。近くに居た上等兵に所属の隊の名を尋ねると、最近満州の地からこの島に転進してきた船舶工兵隊のものだという。そしてこのゲッセル、ゴロン両島に集積した物資を、4隻の大発動艇で島伝いにケイ、アル諸島に輸送する任務についているとのことだった。ここに分駐している兵力は2個分隊で分隊長の軍曹以下22名だという。

ふとこの部落の北端を見ると椰子の木陰に高射機関銃一基が据えられており、その傍らに伍長のほか射手の兵2人が待機していた。
北の満州から初めてこの南の第一線に転進し布陣したということですごく張り切っていた。そしてこの伍長いわく「毎朝偵察にやってくるグラマン戦闘機を絶対に撃墜してやる」と息巻いていた。これに対して私は「1,2機ここで打ち落としてみても大勢には全く影響がない、却ってそのためにする彼らの報復活動の方が怖いのではなかろうか、触らぬ神に祟りなし」だと話したが、かの伍長は怒りを露にして全く耳を貸そうとしない。簡単に撃墜することもあるまいと高を括っていたところ、その日の朝遅く11時ごろ偵察にやって来たグラマン戦闘機3機のうち1機を打ち落としてしまった。私たちはどえらい報復の攻撃が今日、明日にもあると考え、とりあえずこの部落を遠く離れた後方の山中に退避して、そこからこの部落を観察することとした。

ところでこの報復攻撃は意外に早く、午後3時過ぎ同行の船員の一人がトゥアン飛行機だというので、耳を澄ましてみると遥か南の海上から複数と思われる爆音がだんだんと大きくなってきた。
山裾の木立越しに見上げると点々と双発の爆撃機3機がこの島目掛けて飛んでくる姿がはっきりと見えた。これはボーイングB25型爆撃機であったが、この部落の上空に達するや否や海岸線に沿って並行して爆弾の雨を降らし始めた。

3機それぞれ往復を繰り返すこと三度その都度爆弾を撒き散らし悠々と南の空に消えていった。急いで部落の様子を見に現地に帰ってみると、正に絨毯爆撃そのもので数戸の民家は勿論の事、これを囲んでいたココ椰子の樹も総て吹っ飛んで、そこら一面が大きな穴ぼこだらけの荒地と化した無残な姿になっていた。
何処で難を避けたものか判らないが、船舶工兵隊の者たちの姿は全く見かけなかった。悪くすると大きな損害を受けていないかと心配した。あの張り切った伍長たちもかなりのダメージを受け、今後二度とかかる愚行は繰り返すことはなかろうと思った。

その夜は山裾の小さな小屋で一夜を明かし、翌朝9時に峠を越えて南海岸に向かっていた時、南の高い上空から下腹にずっしりと響く飛行機の爆音が聞こえてきた。

樹の葉越しに空を見上げると紺碧の空に大型爆撃機の大編隊が頭上に迫ってくるのが見えた。この爆撃機は先般ゴロン島で機帆船を襲ったコンソリデーテッドB24型機蚊と思ったが、何しろ9千m以上の高空のこと今にして思えば、日本の各都市で猛威を振るって日本の主要都市を壊滅状態に追い込んだ、ボーイングB29型機も既にこの編隊に加わっていたのだろうかとも思われる。

この編隊は左側斜めに3機、右側斜めに4機とへの字に組んだ編隊が、前後左右に翼を連ねて空一杯に広く広がっていた。見る限りの空一面を覆い尽くして北方のハルマヘラ島の方向に飛んでゆく。この編隊の間を縫ってキラッキラッと光って飛んでいるのは直衛の戦闘機だろうと思った。
こまめに150機くらいまで数えたが、まだまだ少し離れて編隊が続々と続いてくる有様、余りの数に数えることは諦めたが、優に200機は越えていただろうと思った。正に空を圧すると言う言葉はこの様な状態を言うのだろうと何となく胴震いを覚えた。

今にして思えばこの時期はセラム島にいた私にはわかっていなかったが、昭和19年7月から暮れにかけては確かにサイパン、テニアン、グアム等の各島が次々と占拠され、一方では連合軍はこの時期の前後にフィリッピン、レーテ島への進攻と太平洋での戦局は徐々に日本に近づいていた時期であったと思う。そしてこの爆撃機の大群は戦争末期に日本本土に来襲し、日本の主要都市を爆撃して壊滅状態に追い込み、多数の非戦闘員を殺傷した爆撃だったのであろう。

そしてその当時はこの南方地方では日本機の機影等全く見ることなく、ただ敵機の跳梁に任すばかりという戦況だった。
  (つづく)
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