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2010年6月17日 (木)

老人なかなか閑居出来ない

土田君からいかの生きたままのを冷凍便で一箱送って来る。
今度の旅行のお礼という事だろうが、またまた大げさなと驚く。
政治家はやる事が違うなと思ったがやった事は仕方がない。お礼といっしょに今後こんな事はすんなよと念惜しするだけ。
とても老夫婦で食う訳には行かないので、早速娘のところへ持参して半分取ってもらう。
朝早くから忙しい。

そして暫くすると速達便が戸を叩く。見れば郵便貯金共用のクレジットカードを廃止するから期日が来たら鋏で切って処分してくれと書いてある。期日は3年先の7月で未だ随分先の話である。速達で通知するようなことか。クレジットでないキャッシュカードは別にあるから出し入れに困る事は無いからまあいいが。
もっとも携帯電話料が此のクレジットで落ちる事になってるから、これは何時の日か停止の連絡をしないといけないな。
世の中なかなかのほほんとは暮らせない。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その6)

さて、吉田中尉の所属する隊は船舶工兵第8連隊第3中隊だが、このダンピール海峡周辺を約半年間慌ただしく行動した。正確に言うとその期間は昭和18年3月2日から同年の9月ないし10月ということになる。
奇しくも今田一等兵(筆者)の属する第5師団輜重兵第5聯隊が、ジャワ島の高原都市マランで次期作戦の準備をしていたが、3月5日ジャワ島スラバヤ港を出航して,9日にアンポン港更にセラム島東岸沿いに航行し,11日西部ニューギニア・ペラウ湾南岸のバボに上陸していたのと期を一にしていた。
この第5師団の西部ニューギニア・ボランメイ地区での任務は、一兵卒である私の察知する所ではないが、このバボに飛行場を建設して、オーストラリアの連合軍の進出を牽制し、あわよくばオーストラリア方面に進出することも考えていたのであろう。

一方吉田中尉の率いる船舶中隊は激戦の続いたガダルカナル島を、同年2月7日夜何とか撤収した後ラバウル港に帰還、休む間もなく同月28日ラバウル港を出港して、ニューギニア上陸作戦に参加した。
この船舶工兵聯隊の任務はラエにて1ヶ師団の揚陸を担当することであり、上陸用舟艇を搭載した輸送船に乗りラバウルを出港したが,出港後7日目にかけて敵機の集中攻撃によって輸送船は全没した。

船団の各輸送船に乗っていた将兵7,000人有余の約半数は戦死し,残る半数は駆逐艦等に救助された。ただ救出は短いものでも数時間,長いものでは30余日海峡周辺を漂流した後救助された者もいたという。
我々漂流者は漂流中に敵機又は敵潜水艦の間断の無い攻撃を受けた上に、赤道直下の灼熱の太陽と冷たい海水との二重苦を受け、敵襲の脅威と渇と飢餓とに曝されたあげくに救助されたのである。
この時幸いに駆逐艦に救助された者は、ごく一部のものは目的地ラエに上陸できたが、大部分のものは乗船地ラバウルに揚げられ元の木阿弥、再び海峡の横断に挑戦しなければならなくなった。

以上この戦記の概要を走り書きしてみたが、この第81号作戦について今もう一度日を追って、詳しく書き留めておくと、次のように実行され,その悲惨な姿は,今までかってない結果となったのである。
(つづく)
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