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2010年6月 1日 (火)

どこに行くにも連れが要る

灰色に幾分もやってはいるが,その雲を抜けて来る日の光は結構強く眩しい。気温18度。
今日もいい天気になりそうだ。
6月になっていよいよ夏だなと実感する。それにしても5月が永かったなあ。時間に変わりはない筈なのに、どうしてそんなに永く感ずるのだろう。
人間の感覚なんて案外いい加減なものなのかも知れない。

6月12日の鳳陽会には家内を連れて行くことにした。といっても会に出席さすのではないが,翌日奈良平城京展を見物する事にしたので,サポートしてもらう事にしたわけ。
私も、一人でうろうろするには、やはり体調に、も一つ自信が無くなった。
杖もついて歩かねばならないだろう。凄い人ごみの中だろうから。
先の奥州旅行の様に転んで怪我をした、同じ失敗を繰り返してはならない。
宿はもう昨日手配した。

家内が貰って来た老人会の名簿を見ると,明治生まれの百才の人が最近亡くなって、明治生まれは一人も居ない。私より年上が7人程居る。
60才以上が入会資格となっているが、60代は一人も居ない。
会員65名、全部70才以上だ。全くの老人部落なんだなと気付く。

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(今田勇著「西部ニューギニア戦記」より連載)
駐留隊員の一人マラリア3日熱に罹り苦しむ

ガア本部の隣地区のワルのポリースマンの知らせで、ここの駐在隊員の横山上等兵がマラリアに罹り苦しんでいると言う。直ちに本部に連れ戻し治療に専念させることとした。南の戦線でよく患う病気と言えば先ずこのマラリアが第一であった。その次はアメーバ赤痢だったようだ。
私はこの赤痢に犯されることはなかったが、このマラリアには過去4度に及んで罹病していた。最初は上海で輸送船に乗る直前に、次の2,3回目はマレー作戦中のアロール、スター市と駐留したクアラ、ルンプール市郊外のカジャンで。そして4度目はジャワ島の高原都市マラン市であった。しかし不思議なことに昭和18年3月以降僻地の西ニューギニア島又はセラム島に渡ってから病院も無く軍医も居ない辺境の地でこのマラリア病には全く縁がなくなっていたのは、至極運がよかったことと思っている。
幸いに彼のマラリアは軽い3日熱だったので、1週間ぐらいで元気を取り戻し予防薬のキニーネを持ってワルに復帰して行き一同やれやれと安堵する。
南方の地に行った人はよくご存知のことと思うが、このマラリアには軽い3日熱と悪性の熱帯熱との二通りある。前者は3日おきに震えと共に高熱を発し、これを2,3度繰り返すと治癒するが、後者に罹るとひどい高熱が5,6日ぶっ通しに続き、頗る体力を消耗してしまい悪くすると死に到ることも稀ではないという。
いずれにしてもこの病に罹る体全体に悪寒が走りその寒気から来る震えはこの寒気を防ぐために毛布を何枚も身体に巻きつけるもその効果は全く無く歯がガチガチと鳴るほどの寒気が何時までも続く。3,40分この寒気が続くと今度は体全体が猛烈に熱くなり、体温は40度を越すほどに高くなり、全身に汗が噴出して意識が朦朧となってくる。何にしても体力を酷く消耗する病気で、消耗した体力を取り戻すにはかなりの日数が必要だった様だ。
南の戦地でこの病気の予防としては、先ずこの病菌を媒介するハマダラ蚊に刺されないことが第一でそして運悪く発熱した時は唯一つの薬キニーネを飲んで安静にして耐えることだけである。ただ治癒してからは無理にでも十二分に食事を取って体力の回復をまつだけであった。(つづく)
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2010年6月 2日 (水)

物置の建て替え工事始まる

昨夕ダイキに行き。ヨドの物置を注文しておく。やはり十万円は超える。工事などこちらに出来ない事があるので仕方がない。

今朝も昨日同様いい天気。気温も16度。
昨晩少しの間雷鳴が轟いたが,雨にはならなかった。奥の方は所により豪雨があったらしいが。

午前中ダイキから請負の職人が現場の確認に来て,内容物を整理しておいてくれという。
早速家内と二人で物置の整理と,必要ないものを選び出すのに,折からのかんかん照りに汗ぐっしょりになりながら精を出す。午前中にはとても片付かない。
午後は日射しが後ろに廻って蔭が無く、とうとう休止に追い込まれる。
それでも明後日新しいのを建ててもらうことになってるから、明日中には終るだろう。
年寄り夫婦の仕事だから、もうどうにもならない。情けなさが身にしみる。
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(今田勇著「西部ニューギニア戦記」より転載)  
   ガア地区で強姦未遂事件の訴えを受けてその処置に悩む

余り後味の良い話で無いのでこの事件の起きた時期ははっきりと覚えていない。
この事件の訴えがあったのは、敵機の朝の定期便の来襲が終わった後のことであった。この部落のカバラ、カンポンが中年の2人の男女を引っ張って本部にやって来た。その後ろには大勢の住民、所謂野次馬がぞろぞろと付いてきたのには驚いた。

私たちの前に来た時前に居た30歳半ばの女性が、その隣に立っていた40歳くらいの男性を指差して早口に甲高い声で語り始めた。そしてすぐ地面に転がって、この男がサロンをこの様に引っ張ってこのようにしたと喚く。何のことだろうかと呆然としていると傍に居たカパラ、カンポンがゆっくりと説明を加えて、初めて事の真相がはっきりとし合点した。

敵機の来襲に同じ山の方向に退避していた2人は、部落に向かって帰る際に山裾のところでぱったり出くわしたと言う。3年位前妻に先立たれ今は一人身の彼は、暫く彼女と話をしているうちにむらむらとしたらしい。突然に彼女に抱きついて押し倒した。彼女の方も夫を失い一人身であったが、気の強い女性だったらしく、猛烈に抵抗して未遂に終わったという。

未遂の事件ではあったが、この後始末をどうするかと頭を悩ます仕儀になってしまった。結局これからの皆の戒めにもなるだろうからと、カパラ、カンポンの意見を聞き、この罰として、この男を部落の広場の片隅に3日間縛り付けて曝して置くことにした。これはうかつに殴ったり体罰を加えたりすると、特に左手で殴ることなどすると、回教で左手は不浄だという島全体に、悪い印象しか残らないのではないかといろいろと案じた末の刑罰であった。

これは毎朝偵察にやってくる戦闘機が頭上を廻るので、何時撃たれるかと身に応える罰だろうと考えた訳である。そしてこのことは私たちが考えた以上に戦闘機が彼の頭上を旋回することが恐怖を呼んだらしく、2日目の夕食を与えた時に、涙ながらに今後一切かかることはしないと深く謝った。そこでカパラ、カンポンの了承の下に縄を解いて放免してやった。その後彼は早めの解放に感謝したのか、又罪滅ぼしの気持ちもあったのか、時々事務所にやってきて一生懸命に雑用に精を出す様になった。今考えてみると戦闘機の銃撃を受けなかったことは彼にとって全く幸運であったが、もし起こったとしても撃った飛行機が悪いと言うこととなる筈だった。
(つづく)
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2010年6月 3日 (木)

戦地でのロマンス

昨晩は昼間の疲れが出たのか、それとも食い過ぎたか、風呂から出た後急に嘔吐し始め、夜中まで繰り返し嘔吐がつづき、とうとう腹の中がカッラッポになってしまった。

今朝は食慾が今ひとつなので,お粥にしてもらう。ほんちょっと上澄みをすするだけで終る。
未だ元気はでるので、ついでに物置を手早く片付けて明日を待つ事にする。

岡山の山田君から電話で体調が悪くなって,鳳陽会に出席出来ないと言って来る。
土田君に連絡すると共に,鳳陽会にも電話してお断りする。残念だがとうとう3人になってしまった。老人は全く当てにならない。
私は家内を同伴するのでその旨土田君にいうと、それなら安心だ。年寄りばかりで大丈夫かと息子が心配してたが、それなら大丈夫だと賛成の声を出す。
ただ帰りがいっしょ出来ないのが悪いのだが。

廿日市駅に出掛けたが窓口が3時過ぎまで休んでいるので,五日市駅まで行って、乗車指定席などを購入する。土田君のは新幹線特急指定席だけ。早速土田君に知らせておく。

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(今田勇著「西部ニューギニア戦記」より転載)
セラム島の美人娘とある隊員とのロマンス

これはセラム島の北海岸ゴビに駐在していた兵長の話である。彼は広島県の出身、高等商業学校出のインテリ。現地の言葉を滑らかに使いこなす優秀な隊員であった。彼も軍隊の勤務を2ヶ年で私同様に将校になることを忌避したらしいが、私と同様目算が狂った一人であったようだ。

昭和19年12月に任務の報告と打ち合わせに本部にやってきた時、話が済んでもなかなか腰を上げない。前田隊長が何か相談でもあるのかと聞きただしたところ重い口を開いた話は次の通りであった。
彼はゴビの任地に着いた6月5日以降サゴ椰子澱粉の委託生産等の打ち合わせの為その後屡この部落のカパラ、カンポンの家を訪れていた。
このカパラ、カンポンの一家は40歳半ばを越した夫婦に18歳と13歳の娘二人と16歳の息子に加えて、年寄りの母親一人の6人家族だったという。
彼は此処に来てから隊の任務の打ち合わせに屡この家を訪れているうちに、彼は言葉が良く通じることもあってこの一家と親しく付き合うようになっていった。そのうちに子供3人も彼の宿舎に遊びにやってくることも増え特に長女はやって来た都度食事のことだけでなく、彼のいろんな身の回りの世話もしてくれるようになった。

彼は目鼻立ちもすっきりした男前、背も高く色白でこの隊一番の美男子だったと覚えている。
この島の北岸の住民はセレベス島から移住して来たものが多い。この島のメナドやミナハサ地方の出身の女性は日本の女性以上に色白で美人の多いところであった。私がこの島の北側の部落を訪れた都度、ミナハサ出身の女性を見かけたが、色白の美人が多く日本の女性を此処に見る思いをしたものであった。

とどの詰まりこの一家と付き合っているうちに、彼のほうは消極的だったというが、訪れてくる長女と相思相愛の割りない中になって行き、最近彼女が身ごもったようだという。そこで娘の両親から正式に結婚をと迫られているがどうしたらいいだろうかという相談であった。

どえらい難しい問題が持ち込まれたものだと額を集め半日に亘り協議した結果、前田隊長の決断で結論的にあいての意思を尊重し、波風を立てない方向で処理することとなった。というのは彼は軍務から離れるわけにはいかないが、妻としての彼女の世話を受けることは止むを得ないこととした。
水上隊の責務を順調に進めるためには、全島に影響するようなトラブルは起こさないことが必要だった。その代わりに何時彼は軍の命令で移動させられ、この地を遠く離れることが起きても仕方が無いとの事、相手方一家に十分納得さしておくことは必要だとした。

そして1ヶ月後彼からこの島の慣習に従い簡単な結婚式も済んでカパラ、カンポン一家も大変喜んでいるとの報告があった。
しかしこの喜びも束の間のこと、昭和20年3月21日突然特設水上隊に解散し原隊復帰せよとの命令が下り、各駐留地から個々にこの島西部ビル駐屯の輜重第5連隊に帰隊することとなった。月末に掛けて全員元気に復帰を完了しこの時を以って特設水上隊の任務は終了したのである。

この解散でゴビの二人は当然別れることになったが、このカパラ、カンポンの一家特に結婚した彼女は悲痛なおもいであったろうと思った。原隊復帰をした私はその後2ヶ月足らずの同年5月6日シンガポールの独立混成旅団への転属命令を受けセラム島を去った。そしてビルに残留した彼とは二度と会うことは無かった。
   (つづく)
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2010年6月 4日 (金)

空襲に危機一髪

快晴が続く。朝の気温18度。
今日の物置の建て替えに支障が無くて何より有り難い。
今朝早く塀越しに隣りの上野さんにお目にかかり、上野さんの空き地を利用して,物置の資材の搬入や撤去を了承してもらった。楽に工事が出来る事だろう。

午前11時きっかりにやって来た。すぐ後ろに廻ってもらって仕事にかかってもらう。
53才だと言う職人さん,元気よく愛嬌も良い。3時間ばかりで片付けてくれる。
家内が昼はというと、食べないでするというから、それでは気の毒とのり巻の結びを作って出す。
1時頃私が顔を出すと奥さんに結びを作ってもらってありがとうございました。おいしく頂きましたと礼を言う。

終ってから荷物を又しまい込む。雨にならなくて良かったが暑さには参った。職人も大変だった様だ。

工事の進捗を見ながら、庭木の剪定をする。久しぶりに身体を動かしたので大いに疲れる。
なによりも昨日からのお粥腹だから、底力が出ない。ふらふらになってしまう。
やっぱり老骨は使いもにはならないな。

新しい物置は流石にそれだけの値打ちがある。軽く荷物が収まる。鍵までついた居るが,貴重なものはなにもない。少し立派すぎたかな。

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(今田勇著「西部ニューギニア戦記」より転載)
   突然にグラマン戦闘機の攻撃を受け九死に一生をうる

これは昭和18年9月初旬に回教のムニャリ(祭り)を引き受け、地区の住民たちと祭りを楽しんだ、翌10月8日の朝ガアの隣部落アンガルで起きた出来事である。
私は前日の夕刻このアンガル部落を訪れ、ここの駐在隊員の富坂上等兵と一緒にこの部落のカパラ、カンポンたちとの打ち合わせを済ましてこの部落に一泊した。

この部落のカパラ、カンポンの家を出て約50m離れた部落道に差し掛かったとき、前方の広場に軍服で身を固めた武装した日本兵5,6人が立ち話をしているのが見えた。彼等は何処から何をしに来たのだろうかと話しつつ、プラオの桟橋に向かう彼と別れた直後、突然キーンという音と共に低空で迫ってくる戦闘機の姿が目に入った。私はこれは危ないと咄嗟にすぐ前の道端にあった根元の四方に厚い襞が張っている大樹のこの襞と襞の間に入って身を伏せた。咄嗟に両手で目と耳を堅く押さえた途端に大きな爆発音と共に、尖った小石や薄く削がれた大小の破片が沢山交じっていて、強い硝煙の臭いのする粉塵が全身に降りかかってきた。

敵戦闘機の爆音が遠のいたのでそって頭をもたげて辺りを見廻すと、40mくらい離れた浅い窪地に伏せたまま唸っている富坂上等兵の姿が見えた。驚いて駆け寄ってみると彼の左の尻の肉が爆弾の薄い鋭い破片で浅く削り取られ、その傷口からぶつぶつと血が湧き出ていた。早速に近くに居た住民の手を借りて彼をカパラ、カンポンの家に担ぎこんだ。そこで綺麗な布や手拭で一応止血の手当てはしたものの、全く薬も無く素人の私ではどうにもならないので、急いでポリスマンをガアに走らして島衛生兵長を呼ぶこととした。
そして今一度爆発した現地の確認のため私が伏して難を逃れた大樹のところに行って見ると、この大樹の前側20m辺りの所に3m幅の浅い爆弾の穴が開いていた。そしてこの私が伏せていた大樹の前面に廻ってみると地面すれすれの所から上に向かって2m幅の樹の幹に爆弾の鋭い鉄片や砕けて尖った石塊等が無数に食い込んでいた。もしこの大樹が無かったら私は蜂の巣のように全身に傷を負い、即死だろうと一瞬鳥肌の立つ思いだった。

偶然にこの戦闘機が爆弾を放つ瞬間を見ていた住民の話によると爆弾には小さい落下傘が付けられていてゆらゆらと落ちてきたと言う。これはこの度の爆弾が殺傷力の強い瞬発性のものなので、落下傘をつけてゆっくりと落とさないとこの爆発の余波を機体に受ける恐れがあるので、これを避けるために落下傘を付けるのだろうと思った。
なお私たちが見かけて軍服の兵士たちはすぐ傍らのバナナ畑に駆け込み身を隠したらしいが、姿を隠したものの不用意に立ったままで居たらしい2人の兵士は、もろに爆弾の破片を全身に受けたらしく即死したとのことであった。残った4人の兵士たちは叫びながら慌しく右往左往していた。

何にしても身を隠したというものの、幹の柔らかいバナナ畑にたったままで隠れていたとは論外なことと思った。そして彼等はどこの隊の者か知らないが、最近この前線の島に来た戦地経験の浅い連中だったのだろうと思った。そしてこの突然の敵機の襲撃は遮蔽物のなかったこの広場に立って、不用意に雑談をしていた彼らの姿が敵機に発見されたのだろうと思った。

午後遅く島衛生兵長が到着し消毒と治療を済まし傷が浅かったので一応は安堵した者の、その傷口は酷暑のため化膿し始めていた。そしてこの血の臭いに群がる蝿のために傷口に蛆がわいてくる有様だったので、軽傷とはおもったものの用心してアンポンの病院に後送することにした。早速島衛生兵長に伴われて彼が乗船したプラオを見送ってほっとしたが、日は暮れていたのでもう一晩ここに泊まることとなった。
   (つづく)
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2010年6月 5日 (土)

”空の要塞”と言われた米軍機

ともかくも好天期が続く。午前6時現在気温16度5分。今日も真夏日になりそうである。
めざめの瞬間思い出して、新幹線の特急券を土田君に郵送する事にする。
ホームで会う為には切符が無ければ改札が抜けられない。

奈良へ行くのに荷物はどうするか、今迷っている。見物に歩くのに荷物をさげ歩くのは考えものだ。京都での苦い経験がある。
大阪駅のロッカーに入れとくか,出た宿に一旦預けるか、奈良駅まで持参するか,宅急便で送るか。
簡単な様で案外面倒なものだ。

切符でも何処か外で待ち合わせれば何でもない事なのだが、案外それが難しい。
考えてるうちに面倒くさくなって送る事にした。
何も無いところで人ごみの中をぼつねんと人を待つのはたとえ10分でもしんどいものだから。

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(今田勇著「西部ニューギニア戦記」より転載)
 眼の前で積み込み中の機帆船、大型爆撃機に襲われて沈没する

昭和19年10月中旬午後2時過ぎ、それは突然中継基地ゲッセル島の東海岸の波止場で起きた衝撃的な光景であった。

たまたま連絡用務でこの島に来ていた私と吉永兵長はカイ、アル諸島に物資を輸送する500tぐらいの機帆船が、波止場で懸命に貨物の積み込み作業をしている時に立会していた。

その時監視役の船員が沖の方を指差して大声を挙げたので、その方向を見ると低空でこの波止場目掛けて向かってくる大きな爆撃機が目に入った。これは巨大な怪物のような米軍の四発爆撃機コンソリデーテッドB24型爆撃機であった。
機帆船の上空に達するや否や先ず針鼠のように装備している銃座から機関砲、大小の機関銃を一斉に撃って通り過ぎた。そして更に悠々と反転して今度は落下傘の付いた小型爆弾5発を落としてそのまま飛び去った。

この爆弾は機帆船の後半部を直撃したらしく、あっというまに黒煙に包まれて、桟橋の横手に船首だけを海上に突き出して沈没してしまった。

全員敵機だと言う叫び声で咄嗟に後方の岩場に退避していたので無事だったが、この猛烈な攻撃は恐怖を通り越して暫しの間呆然という状態であった。
なおこの時まじかに見えたこの爆撃機の前後左右と下方に突き出していた丸くて透明な銃座の中から、こちらを睨んで撃っている米兵の顔がはっきりと目に入ったが、何とどえらい怪物のような飛行機が作られたものだと心底から恐怖を感じた事件であった。
  (つづく)
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2010年6月 6日 (日)

隣人疎き事,戦前と隔世の感あり

久しぶりに雲の多い天気。気温は19度だから例年通り。
昨夕ダイキから物置の代金の請求を受けたので,今朝10時を過ぎて支払いに出掛ける。
代金¥87150.と言われて驚く。注文請書を見せて¥112050.では無いのかと言うと向こうが驚いて調べてみますと暫く電話して確認をしている。
結局メーカー・ヨド物置の展示価格が間違っていたらしい。安くなったのだから文句はないのだが、狐につままれた様な気持ちである。
世の中いろいろあるなあ。

胃腸の具合がよくないので、薬を買って帰る。

お隣の植野さんには空き地を利用させてもらったお礼に家内がビールを提げて行く。

今朝は8時から町内の道路,排水溝の掃除である。皆でやれば早い。大したゴミもたまっていないし,簡単に終る。
近所といっても滅多に顔を会わす事が無いので、この人がと改めて見つめ直す。
隣人と疎き時代となったものである。
戦前の世相とは正に隔世の感ありと今更しみじみと思う。

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(今田勇著「西部ニューギニア戦記」より転載)
張り切った船舶工兵隊員、グラマン戦闘機を撃墜して、手酷いシッペ返しを受ける
この話はゲッセル島で機帆船が爆撃機の低空攻撃で沈没した翌日のことであった。
このゲッセル島のすぐ東隣のゴロン島で徹底した報復爆撃を受け、更に退避した山越えの途中高空を北方に向かい通過する夥しい数の敵爆撃機の編隊に脅威を覚える。

昨日に続いてここゴロン島の中継基地にも連絡をということで、早朝この島の西海岸に上陸した。今までこの島の日本兵は野戦倉庫の少数の隊員以外はいなかったこの部落に、新しい軍服姿の日本兵数人の姿が目に付いた。近くに居た上等兵に所属の隊の名を尋ねると、最近満州の地からこの島に転進してきた船舶工兵隊のものだという。そしてこのゲッセル、ゴロン両島に集積した物資を、4隻の大発動艇で島伝いにケイ、アル諸島に輸送する任務についているとのことだった。ここに分駐している兵力は2個分隊で分隊長の軍曹以下22名だという。

ふとこの部落の北端を見ると椰子の木陰に高射機関銃一基が据えられており、その傍らに伍長のほか射手の兵2人が待機していた。
北の満州から初めてこの南の第一線に転進し布陣したということですごく張り切っていた。そしてこの伍長いわく「毎朝偵察にやってくるグラマン戦闘機を絶対に撃墜してやる」と息巻いていた。これに対して私は「1,2機ここで打ち落としてみても大勢には全く影響がない、却ってそのためにする彼らの報復活動の方が怖いのではなかろうか、触らぬ神に祟りなし」だと話したが、かの伍長は怒りを露にして全く耳を貸そうとしない。簡単に撃墜することもあるまいと高を括っていたところ、その日の朝遅く11時ごろ偵察にやって来たグラマン戦闘機3機のうち1機を打ち落としてしまった。私たちはどえらい報復の攻撃が今日、明日にもあると考え、とりあえずこの部落を遠く離れた後方の山中に退避して、そこからこの部落を観察することとした。

ところでこの報復攻撃は意外に早く、午後3時過ぎ同行の船員の一人がトゥアン飛行機だというので、耳を澄ましてみると遥か南の海上から複数と思われる爆音がだんだんと大きくなってきた。
山裾の木立越しに見上げると点々と双発の爆撃機3機がこの島目掛けて飛んでくる姿がはっきりと見えた。これはボーイングB25型爆撃機であったが、この部落の上空に達するや否や海岸線に沿って並行して爆弾の雨を降らし始めた。

3機それぞれ往復を繰り返すこと三度その都度爆弾を撒き散らし悠々と南の空に消えていった。急いで部落の様子を見に現地に帰ってみると、正に絨毯爆撃そのもので数戸の民家は勿論の事、これを囲んでいたココ椰子の樹も総て吹っ飛んで、そこら一面が大きな穴ぼこだらけの荒地と化した無残な姿になっていた。
何処で難を避けたものか判らないが、船舶工兵隊の者たちの姿は全く見かけなかった。悪くすると大きな損害を受けていないかと心配した。あの張り切った伍長たちもかなりのダメージを受け、今後二度とかかる愚行は繰り返すことはなかろうと思った。

その夜は山裾の小さな小屋で一夜を明かし、翌朝9時に峠を越えて南海岸に向かっていた時、南の高い上空から下腹にずっしりと響く飛行機の爆音が聞こえてきた。

樹の葉越しに空を見上げると紺碧の空に大型爆撃機の大編隊が頭上に迫ってくるのが見えた。この爆撃機は先般ゴロン島で機帆船を襲ったコンソリデーテッドB24型機蚊と思ったが、何しろ9千m以上の高空のこと今にして思えば、日本の各都市で猛威を振るって日本の主要都市を壊滅状態に追い込んだ、ボーイングB29型機も既にこの編隊に加わっていたのだろうかとも思われる。

この編隊は左側斜めに3機、右側斜めに4機とへの字に組んだ編隊が、前後左右に翼を連ねて空一杯に広く広がっていた。見る限りの空一面を覆い尽くして北方のハルマヘラ島の方向に飛んでゆく。この編隊の間を縫ってキラッキラッと光って飛んでいるのは直衛の戦闘機だろうと思った。
こまめに150機くらいまで数えたが、まだまだ少し離れて編隊が続々と続いてくる有様、余りの数に数えることは諦めたが、優に200機は越えていただろうと思った。正に空を圧すると言う言葉はこの様な状態を言うのだろうと何となく胴震いを覚えた。

今にして思えばこの時期はセラム島にいた私にはわかっていなかったが、昭和19年7月から暮れにかけては確かにサイパン、テニアン、グアム等の各島が次々と占拠され、一方では連合軍はこの時期の前後にフィリッピン、レーテ島への進攻と太平洋での戦局は徐々に日本に近づいていた時期であったと思う。そしてこの爆撃機の大群は戦争末期に日本本土に来襲し、日本の主要都市を爆撃して壊滅状態に追い込み、多数の非戦闘員を殺傷した爆撃だったのであろう。

そしてその当時はこの南方地方では日本機の機影等全く見ることなく、ただ敵機の跳梁に任すばかりという戦況だった。
  (つづく)
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2010年6月 7日 (月)

菅内閣自然発生的に誕生

朝6時雨丁度降り始める。気温20度、もう寒さは感じない。

からからに乾いていた庭の、草花や木々たちは喜んで枝を伸ばしに掛かることだろう。

旅の日が近づくと何となく落ち着かない。目覚めが早くなる。

若かりしときも今も変わらない。

ベッドでごろごろして、食事にあわせて起き上がる。

食事を終わると又ベッドイン。お決まりの老人の生活コースである。

こーなるとパソコンいじりもそのうちの必須アイテム。

駄文を書く時間も多くなる所以である。

雨はしょぼしょぼと降ったり止んだり、老人といっしょで元気は無い。

菅内閣誕生はやはり書いておかないといけないだろう。

政治には、関心はもうとみに薄れたこの頃だが、鳩山の余りの無策に国民が飽きてしまい、自然発生的に副首相だった菅にお鉢が廻ってきたということである。小沢が鳩山に抱き合い心中されたことは、結果として大きかった。

小沢はもう総理にはなれないな。本人も政治よりお金のほうが好きらしいからまあそれで満足なのだろう。家内が言うには沖縄にも土地をかったらしい。

平成の長者になるつもりかいな。

しかし蜜を求めて集まる昆虫のごとく、小沢の身辺には権威のおこぼれをと、150名もの族議員が集まっているとか。叛乱を起こすまでの勢いはないのか。

サッカーのワールドカップが間もなく開かれるが、わが日本は屠所に引かれる子羊のごとく哀れな状況だが、一発奮起して欲しい。

神風は先の大戦では吹くことはなかったが、いつも吹かないとは限らないぞ。

先だってトーリオが2度3度やったようにオウンゴールというのもあるからな。

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2010年6月 8日 (火)

セラム島のバザール

雨は上がっているが,空は灰色一色。霧深く島影は依然見えない。
朝の気温18度。安定した空模様ではなさそうだ。

昼前には雲を貫いて届いて来る日光に、急激に地上は暑くなった来た。
雨の恐れが無い訳ではないが,気温は大分上昇しそうだ。
外の仕事をする気にはならない。

夕方5時ぽつりぽつりと降り始める。南の風で窓から降り込む。涼しいのはいいんだが。

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(今田勇著「西部ニューギニア戦記」より転載)

セラム東部地区にバザールを開設して便宜を図る

当時この僻地の島で過疎地帯であったセラム島では、マレー半島、シンガポール島、ジャワ島のような人口過密な地方と異なり、諸物資の取引を市場を通して行う等の流通組織の全くない地方であった。
普段この辺りで諸物資の流れは、移住してきた華僑の商人が大きい部落に店舗を構え、此処で住民に食糧物資や日用雑貨品等の売買の仲介を一手に行っていた。そして其の他の取引は直接農民と漁民等の住民の間で、物と物との等価交換をしているのが通例の取引であった。

地区のカパラ、カンポンたちの話では、各地に店舗を構えている華僑の商人は、その手先の仲買人に現地住民を使い、独占的に農、漁民の生産物、漁獲物を安く買い取ってこれを周辺住民に割高に売却し、又遠隔地から仕入れた衣料、雑貨品等も独占的に大きく利益をかけて売却し、この取引で法外な利益を挙げていたようだという。

そこでこの話を聞いた私たちはせめて地元農民の生産する青果物の野菜、果物や漁民の獲る漁獲物等はバサールを作り、此処を通して適正な価格で取引をしたらどうかと提案した。そしてこのセラム島東部地区の南北両側の大きい部落に、それぞれ1ヶ所づつ青果物、漁獲物の市場を開設することとした。そしてこの市場には管理人を2人置いて、この管理人の報酬は水上隊で支払うこととした。

そしてこの市場内には日本の軍票の品目別の買い取り価格を掲示しておいて、この売買の手数料は5%とした。そしてこの手数料対応分は品物で残すこととしその残った現物は我々の副食として隊で使うことを考えた。

東部全地域に檄を飛ばし市場関係者に周知を図り、機会あるごとに今までの物々交換は止めてこのバサーるを利用するように指導した。しかしその後市場取引はなかなか軌道に乗らず苛立ちを覚えていた。

12月に入りやっと少量だが野菜や魚類が一部入荷し始め、次第に取引量も増えたし市場の取引も何とか格好が付くようになっていった。

そして戦後50年も経った現在ではこの島の市場組織も年とともに改善整備されその取り扱い物資の種類や量も増加し、殆どの物資が市場を通して取引が行われているのだろうと想像し推察をしている。

以上このセラム島の戦地生活で平穏な戦地の裏話をいろいろ書き流したが、この他に隊員の駐留地でも私の知らないいろんな寓話が多くあったことだろうと思っている。しかしこの当時は未だ戦争の最中の事、平穏に時が過ぎたと言うもののこのセラム島周辺でも偶には戦争の表の顔、言い換えると直接敵の攻撃にさらされたことも当然の成り行でもあった。
(おわり)
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2010年6月 9日 (水)

ニューギニア戦記転載を始める

高空には白い靄がかかっているが,青空ものぞき今日はいい天気のようである。
気温18度と昨日と同じ朝明け。爽快、申し分ない。 
朝の音楽もヴュータンやサンサーンスの綺麗なバイオリン協奏曲が次々と並び,気分いやがうえにもさわやかにさせられる。

先月になったしまったが、旧制中学校の同窓会が今年も同じ錦帯橋畔の岩国観光ホテルで開かれ,最後の生き残りになるらしい5名が集まった。
その際、山口からやって来た今田勇君に昨年いただいた彼の編集になる「ニューギニア戦記」の読後感を話しているうちに、何とか此の記事を後世に残したいとの彼の意志を聞いた。
当然だと思ったので、なんとかしようとその努力を続ける事を誓った。
しかし考えてみるともう余生は幾ばくも無い。

とりあえず,私のブログに転載して反響を見ながら、手段を講ずる事にしようと思い立った。
思いつくままにすでに一部をとびとびにブログの中に転載しているのだが、関心のある人もあると見え反応も少なくない。

そこで改めて今田さんの編集著述の最初から、そのまま転載する事を決心、その序文から転載しますので、関心のある方はどうかお読みいただきたい。
長文なので幾日かかるか見当が立たない。
もちろんブログの事あまりの長文は許されないので,細切れになる事はやむをえない。
ご容赦願って続ける事にいたします。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その1)
序文
___ダンピール海峡の戦闘(東部ニューギニア)と季節風に荒れる海を突っ切って、師団の食糧の自給自足に活躍した特設水上隊(西武ニューギニア)の物語___

私今田勇(編集者)は昭和16年4月から同21年の6月までの5カ年あまりに亘り,日本の広島市,中国の寧波(ニンポ)と上海市での服役期間6ヶ月を除いた4カ年半を、マレー半島、シンガポール、ジャワ,西部ニューギニア、そしてセラムの各島と南方戦線を遥々遠く転戦し,最後は昭南島(シンガポール)防衛の陣地構築に従事して居たとき,この地で終戦を迎える事となった。

シンガポール島沖の無人島ガァラムの収容所で抑留10ヶ月の後、昭和21年5月25日解放され,6月3日広島県大竹市に帰還し、ここで除隊となった。

ところで、数多の太平洋戦争の記録はどちらかというと日本軍が昭和18年前期まで破竹の勢いで進撃していた時の物語が多い。
今茲に7年前82歳で病没された船舶工兵第8聯隊の中隊長だった吉田武中尉(戦後自衛隊勤務)が書き残された遺稿のメモを整理した記録は,昭和18年3月上旬の「ダンピール海峡の戦闘とその後の戦い」という物語で。これまでと違って痛ましい受け身の戦闘記録である。
ごく簡単にそのあらましを書いてみると次の通りである。

要約するにこれは先の世界大戦で日本が敗戦に向かって,雪崩れて行くきっかけとなったという受け身一方の凄惨な戦いの姿の様である。即ち,この戦闘の直前にガダルカナル島に上陸した第17軍が,米,濠正規軍の攻撃を受けて無惨な撤退をした直後、これで勢いに乗った連合軍の東部ニューギニアへの攻勢は強烈になって行った。

ここで大本営はこれに対応して,決戦場の東部ニューギニア戦線強化のため、この方面での戦闘力不足を知りながら、無理を承知の上で急遽第81号作戦を企画,決定して、現地の第8軍司令部に指示をした。

この作戦は、ニューブリテン島に待機していた第8軍の3ヶ師団を東部ニューギニアに急遽投入し、ここの戦線の強化を図るための渡海作戦であった。

即ち、これはニューブリテン島の第8軍麾下の3ヶ師団を三つのルートに分けて,ニューギニア東部3拠点に渡航を試み、その一つのルートがニューブリテン島ラバウルからダンピール海峡(約100km)を横断して,ニューギニア島ラエの拠点に渡ろうとした軍団の輸送作戦であった。
これは第51師団とその関連部隊の他、ラエ到達後に揚陸を担当する船舶工兵第8連隊等、約7,300人の将兵と軍需品7,240屯、燃料750ドラム缶の他、火砲33門をやっと集めた7隻の古い輸送船に搭載して渡航作戦を決行したのである。この船団を護衛する海軍の艦艇は駆逐艦8隻であった。

3月1日船団はラバウルを出航して3日目ダンピール海峡に差し掛かったとき、米軍のボーイングB17型爆撃機大編隊の熾烈な反復攻撃を受け,3日間で全輸送船7隻と駆逐艦8隻のうち4隻が撃沈されたのである。この時の損害は戦死者約3,600名の他,積載した武器、弾薬、上陸用舟艇、燃料と諸軍需品のすべてを失う。結局駆逐艦に救助された約3,600人のうち、目的地ラエに運ばれ、ここに上陸したものは兵員のみで900人程度だったという。

ただ別のルートの輸送は攻撃を受ける事なく,無事に渡海したという。
(つづく)
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2010年6月10日 (木)

南北朝鮮の火縄線

今日もよく晴れ、朝の気温19度と暑い一日になりそうである。
菅内閣もやっと活動を開始した様だが,半数は留任だから,代わり映えはしない。
一応小沢一派を外してダーティな色合いは払拭した感じではあるが、さて政治がうまく行くかどうかはやってみなくては分らない。人気は60%以上に取り戻したといわれるのだが。

昨日届いた文芸春秋を読むと、先般の韓国哨戒艦の沈没は北朝鮮潜水艦の魚雷攻撃によるものと分ったが,韓国側の不手際でその潜水艦を見失い,爾後の対策も遅れてしまったらしい。
それにしても、北朝鮮は思いがけない時に変な挑発行為をするものである。
いつだったか日本領海侵犯事件もそうだった。

昔だったら直ちに戦争になったであろう。全く際どい仕掛けである。
オオカミ少年ではないが,何度も繰り返すと間違いなく戦争に発展するだろう。
文春も「世界が震えた第2次朝鮮戦争勃発」とショッキングな記事を掲載している。
日米安保のゆるぎが付け目と読んだのであろうか。むしろ米韓の裂け目を見たのかも知れない。
ミサイルや原爆に自信を持ちつつある北朝鮮には今が最大のチャンスと見たのであろうか。
もし戦火を交える事になったら,韓国はひとたまりもないのではないかと心配するものである。

お経の様に平和を唱えている日本だが、お隣の火事がなんでもないと手を拱いて見物出来るのであろうか。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その2)

その後輸送船確保の見通しもなく、また敵の制空権下における兵員、物資のダンピール海峡の輸送はまず夜間に駆逐艦による兵員等の輸送を試みた。同時に潜水艦によるドラム缶に詰めた米など食料品の輸送が密かに続けられた。

しかし敵機、敵高速魚雷艇等の跳梁激しくその被害多く,最後にはやむなく100kmを超えるダンピール海峡を,夜間に船舶工兵隊の大発動舟艇でニューブリテン島の基地から兵員、弾薬、食糧の前送をし、ニューギニア島から傷病患者の後送を命がけで行うなどと苦心惨憺たる輸送が行われた。
が、終に昭和18年の後半に入り拠点ラエ、フィンシハーヘンと次々と敵の手に落ち、事後フィリッピン島に向かい連合軍の北上が急速に進んで行ったのである。

ついでフィリッピン、沖縄と激戦の末,日本軍の撤退が続き,最後には日本の主要都市が猛爆で逐次壊滅し,更に広島、長崎の原子爆弾を機に終戦となったのである。一口に言ってこのダンピール海峡の戦闘の敗北はその後の日本の敗戦につながる転機となったといっても過言ではないという戦闘だったといえる。

次にこの東部の悲惨な戦闘が起きていた同時期に、西部ニューギニア地区ではシンガポール進攻作戦で中心的役割を果たした第5師団が、先ずこの島の西部要衝の地バボで飛行場建設に取りかかり(隔日の猛爆撃で未完成に終わる)、次に島の南部カイマナに師団司令部を移し、各部隊は豪州方面のカイ、アル諸島とタンニバル島及びセラム島に分散して駐屯し、この地区の防衛にあたっていた。

後方からの補給困難な折から食糧の自給自足をしながら最前線の防衛に当たっていた。そしてその食糧の自給自足の手段として師団野戦倉庫隊に「特設水上隊」という物資収拾とその輸送を行う特殊部隊が創設された。

この部隊は現地で雇用した7tから15t程度のプラオ(帆船)31隻とこれを操作する現地人船員110数人を雇傭して、セラム、アラフラ、パンダ海の荒波をついて食糧等の収集と輸送に励んだ。そしてこの隊の隊員34名のうち、本部要員4人を除いた30人は各プラオ1隻に1人づつ乗船し、現地船員とともに個別にその責務を果たすため,前記海域の荒波をものともせず食糧等の輸送に努めた。

この隊の行動は敵機の攻撃に加えて,荒海での難破もともなう頗る危険な任務であったが、全く知られていない特別の作戦だったので,敢えて記録に残す事とした。
(つづく)
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2010年6月11日 (金)

平城京

朝気温18度。ややもやっているがいい天気である。
家内は記念病院に行く日なので朝から忙しい。1時間前には家を出なければ間にあわないからだ。
最近手の痛みが激しくなっている。リウマチが悪化しはじめたらしい。薬を少なくしたのが原因ともいっている。副作用との狭間で家内の心が揺れている。
私は側から只見てるだけで何のアドバイスのしようも無い。

9時半広電駅まで車で送る。12時半には帰宅する。
風があって、割合涼しいので過ごし易い。明日も此の調子ならよいが。

明日の大阪行きに併せて、今話題になっている奈良平城京跡を見て来ようと,数日前から計画を練っているのだが、どうも体力に自信が持てないので,広く見歩く事は矢張り無理な様だ。
一応切符は奈良まで買ってあるので、行くだけ行ってみようと思うのだが,天気予報が良くない。
又神頼みが出来てしまった。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その3)

その後輸送船確保の見通しもなく、また敵の制空権下における兵員、物資のダンピール海峡の輸送はまず夜間に駆逐艦による兵員等の輸送を試みた。同時に潜水艦によるドラム缶に詰めた米など食料品の輸送が密かに続けられた。

しかし敵機、敵高速魚雷艇等の跳梁激しくその被害多く,最後にはやむなく100kmを超えるダンピール海峡を,夜間に船舶工兵隊の大発動舟艇でニューブリテン島の基地から兵員、弾薬、食糧の前送をし、ニューギニア島から傷病患者の後送を命がけで行うなどと苦心惨憺たる輸送が行われた。
が、終に昭和18年の後半に入り拠点ラエ、フィンシハーヘンと次々と敵の手に落ち、事後フィリッピン島に向かい連合軍の北上が急速に進んで行ったのである。

ついでフィリッピン、沖縄と激戦の末,日本軍の撤退が続き,最後には日本の主要都市が猛爆で逐次壊滅し,更に広島、長崎の原子爆弾を機に終戦となったのである。一口に言ってこのダンピール海峡の戦闘の敗北はその後の日本の敗戦につながる転機となったといっても過言ではないという戦闘だったといえる。

次にこの東部の悲惨な戦闘が起きていた同時期に、西部ニューギニア地区ではシンガポール進攻作戦で中心的役割を果たした第5師団が、先ずこの島の西部要衝の地バボで飛行場建設に取りかかり(隔日の猛爆撃で未完成に終わる)、次に島の南部カイマナに師団司令部を移し、各部隊は豪州方面のカイ、アル諸島とタンニバル島及びセラム島に分散して駐屯し、この地区の防衛にあたっていた。

後方からの補給困難な折から食糧の自給自足をしながら最前線の防衛に当たっていた。そしてその食糧の自給自足の手段として師団野戦倉庫隊に「特設水上隊」という物資収拾とその輸送を行う特殊部隊が創設された。

この部隊は現地で雇用した7tから15t程度のプラオ(帆船)31隻とこれを操作する現地人船員110数人を雇傭して、セラム、アラフラ、パンダ海の荒波をついて食糧等の収集と輸送に励んだ。そしてこの隊の隊員34名のうち、本部要員4人を除いた30人は各プラオ1隻に1人づつ乗船し、現地船員とともに個別にその責務を果たすため,前記海域の荒波をものともせず食糧等の輸送に努めた。

この隊の行動は敵機の攻撃に加えて,荒海での難破もともなう頗る危険な任務であったが、全く知られていない特別の作戦だったので,敢えて記録に残す事とした。

よく考えてみると一つのニューギニア島で、東は表の顔の激闘に明け暮れた吉田中尉以下舟艇隊員の決死の行動と、西では敵機の攻撃と荒い波風とで緊張の連続の激務だったが,敵機等の襲撃は受けずまた難波することもなく、通常に日々は戦争の裏の顔として至極地味な働きをしていた特設水上隊員と、同時期に全く不可思議な戦争の二つの顔を対照的に書き残してみたらと思って筆を執った次第である。
只今88歳と米寿を超した老人の綴る記録であるので、どんなものになるか分からないが,読んでみる事を御願い致します。
(つづく)
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2010年6月12日 (土)

鳳陽会へ

早朝より気が立って寝ては居られない。
5時26分起き上がってパソコンに向う。ベランダの寒暖計は19度を指している。
ラヂオで”新聞を読む”をしゃべっている、菅総理の所信演説は概ね好評のようだ。

若干の不安を蔵しながら,まあまあ元気で鳳陽会の総会に出席する事になる。
着るものは結局永年着た事の無かった背広にして,白いカッターシャツにネクタイ。
勤め人時代に戻った感じである。先後輩入り交じっての同窓会だからかしこまるのは仕方がない。
一番嫌な場面だがなあ。

妻が言う様に早昼を食べて11時半家を出れば間違いない。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その4)

東部ニューギニアの戦局
東部ニューギニアの戦況と第81号作戦の概要
ダンピール海峡の戦闘等と海峡横断の輸送と基地

昭和18年2月初旬、第17軍(軍司令官百武中将)がガダルカナル島を撤退してからは、東部ニューギニア方面に対する連合軍の攻撃が本格的に強くなって来た。
日本の大本営に於いてもこの東部ニューギニア方面の重要性に鑑みて、ここに安達中将の指揮する協力な第18軍を昭和17年12月以降速やかにこの地区に展開させ,防衛の掌に任ずる事としていた。

安達司令官は指揮下にあった20、41、51の3ヶ師団をニューギニア東部に移動させ集中する事に決めた。この重大な急務の一つとして第81号作戦が計画され、ラバウルに集結中の第51師団を東部ニューギニアの要衝ラエに転進させる事となった。同時に第41師団をニューギニア東北部マダンへ、同じく第20師団をウエワークへ前進させる事とした。

ラエには3月3日、マダンへは3月10日、ウエワークには2月2日を各師団の上陸日と定め、陸海空の共同作戦の準備を開始した。この作戦で2ヶ師団は予定通り上陸に成功した。然し乍ら第51師団はラエに向かって航行中の3月2、3の両日に米軍爆撃機編隊の猛攻を受けダンピール海峡で全没した。

船舶工兵第8連隊の任務は第51師団のラエ揚陸を担当する事だった。先のガダルカナル撤退直後の作戦だったが部隊はほとんど無傷であったので、全員体力気力共に旺盛だった,当時ニューブリテン島とニューギニア縞の間にあるダンピール海峡は、日米海・空軍の接触点に当たり戦略上の重要な地点であり,第18軍がニューギニアに展開し防衛に当たるには大きな障壁となっていた場所でもある。

当時この海峡は既に連合軍空軍の勢力圏内にあり、特に上陸地のラエは敵の航空基地ポートモレスビーから近く,その上敵の前進基地ワウ飛行場はラエと指呼の間にあって、1個師団の兵員が白昼上陸する事は至難の業であった。

この作戦より先に連合軍の空軍基地ポートモレスビー攻略のためにその背後の当たるブナに上陸し前進中の南海支隊は。東部ビスマルク山脈を越えモレスビーの街の灯りを眼下にしながら,後続隊との連携と武器・物資の補給が途絶え,一方では連合軍の大部隊に退路を遮断され,撤退のやむなきに至って居た。この撤退作戦はガダルカナルの撤退にも劣らない惨状となり,生存者は僅かという事であった。

このような状況から一刻でも早く第51師団1個師団をの拠点ラエ方面に展開させる事は焦眉の急務であった。
そしてこのためにニューギニアの海岸を北上するマックアーサーの指揮する連合軍と、これを迎え撃つ第18軍とがこの海峡を中心として,熾烈な戦闘を交える事となったのである。
即ちダンピールを制する事は、事後の戦闘を有利に展開する不可決な要件であった。

僅か100kmばかりの海峡での戦いが、日米両軍の中期以降の戦いの山場ともなったのである。

(つづく)
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2010年6月13日 (日)

平城京を見学する

昨日は予定した通り進行し,無事16時の鳳陽会総会に駆けつける事が出来た。
もちろん田舎者の事,混雑する大阪駅の中をうろうろする珍相は免れ得なかったが,ともかくも大過なくこぎ着けたということであった。
出席者280名というのは何とも凄かった。
総会議場は別に問題は無かったが,懇親会場ともなると隙間無くつまったテーブル椅子、会員,食物を運ぶ人と時間が経つとともに喧噪極まって,もう大混乱の様相を呈したと言っても過言ではない。
余興に鼓笛隊をどぎつくした様な大音響の演奏につれて、半裸の美少女たちがかわいらしく腰を振り舞い踊る。いかにも大阪人らしい思い切った趣向に一同啞然とする。楽団のの痛烈なる音響と共に会場は沸き返り,もう隣りの人の声が分らないという事態にまでに発展した。
来賓の丸本学長まで舞台に上がって踊り出すに至っては,もう他は推して知るべしである。

予定時刻には一応締めくくったが、えらく盛会だったと言えばその通り、むしろ過ぎたというべきかもしれない。

いろいろ面白い話も聞いて随分参考にもなった。有意義な総会ではあった。
我々も長老仲間に名を連ねちやほやされたが、最長老の98才の第26期生にはその矍鑠さに全く驚かされた。長老とうぬぼれるのがほんと恥ずかしかった。

騒ぎしゃべっただけだから、さほど身体にこたえる事は無くその夜を此のホテルのベッドで過ごし、本日は土田君を階下の大阪駅で送って、すぐ奈良に向った。無料バスというのがあったのでそれに便乗して平城京に行ったのだが、これが大変だった。
折から雨は降り始めるし人は日曜日とあって大変な混雑。あの広い会場の中でも迷って探しまわる程であった。

老骨も人につられて雨の中を歩き回ったが,最後には参った。資料館や歴史館の参観は省略し,家内が希望する薬師寺に向った。此の頃から雨が本格的になり、池のようになった広い庭を渡り歩き,最後には土砂降りの雨よけのつもりで,お堂で坊さんの講釈を聴いていたが、帰るのが遅くなるので,途中から抜け出す。

通りすがりの人のアドバイスでバスで奈良まで引き返し、そのまま予定していた唐招提寺や法隆寺の見学は取りやめて,大阪行きの電車に乗る。

17時丁度くらいの特急で19時前には広島に帰ってくる。こちらはもう雨のけも無い。駅の中の食堂に入って夕食を済まして,日曜の人けの減った夕闇迫る時刻の電車で無事忙しい旅行を終える事が出来た。やれやれ。Img_1634


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2010年6月14日 (月)

旅の疲れ

霧は深いがまあまあの曇り空。勝手なものでかんかん照りよりは過ごしよくて良い。
昨夜はぐっすり眠れて気分はさわやかである。

昨日の平城京はそれのみの目標だったから,のぞみを達成出来て言う事は無い。
雨の中の薬師寺は苦労だったがもうけものだった。前回伺ったときより遥か充実していたと思う。


残念だったのは唐招提寺,雨がひどくなり行く事は出来なかった。

昨日の朝土田君は一人で郷里へ帰るので,いっしょにホテルの支払いを済ませ,荷物を宅急便に依頼し,外に出て駅構内を先ず彼の行くプラットホームを探して歩く。階段が多くて老人には辛い。
杖を突く土田君には尚更大変な様に見える。

新幹線駅に向うホームの昇りエスカレーターの口で一旦別れたのだが,家内が彼のよたよたした歩きぶりに不安を感じたか,”未だ時間があるから、乗られるまで送りましょうよ”と言う。
すぐ急いでエスカレーターに乗り込む。
もう一度ホームで捕まえ、握手して別れの言葉をかける。
まも無く列車到着,乗り込み終わると、大丈夫と彼は盛んに手を振る。
来年の広島大会に又出ようと言っていた,彼の言葉にうなづきながら,元気を祈りつつ過ぎゆく車窓を見送った。

彼が昨日無事帰ったかしらと,今日昼電話を入れる。元気な声が響く。
予定通り広島駅に昼つき,1時のバスで浜田に帰ったという。元気だと声が還って来る。
ひと安心。やれやれこれで終った。

今朝は家内は足が立たないという。私も昨夜膝が痛むので湿布薬を貼って寝たのだが,家内も足の裏に湿布薬を貼っていて,私に見せる。老体には変わりない。
もうこれが最後の旅になるかもしれない。

午前中2時間またグッスリ眠る。疲れは未だ取れていないらしい。Img_1638_2


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2010年6月15日 (火)

日本カメルーンに勝つ

13日梅雨入り宣言が出て,今日は本格的な雨となる。
ざあざあと夜中から喧しい。かなりの量になりそうである。
朝の気温は21度,日中も上がらないとの予報。まあいいだろう。

昨夜はワールドサッカーE組の対戦第1日目。オランダ―デンマーク、日本ーカメルーン戦と続けてテレビで見る。
日本と反対の気候の南アフリカだから、定めし秋深き時期、かなり冷えるらしい。

オランダは2ー0とデンマークに,日本は1-0でカメルーンに勝つ。
次は19日に日本ーオランダがある。大勝負である。
智恵を使った日本の守備的サッカーがカメルーン戦では見事に的中した。終始押されて危ない場面も多かったが,よく全員でその猛攻を凌ぎ切った。
ワールドサッカーではともかく勝たねば駄目である。1得点が大切である。よくやった。
次のオランダ戦もこれで行こう。いずれも格上のチームだから当たり前の戦法では通じない。

井上に彩寧など曾孫たちを見に行く。すくすくと大きくなっている。
発育の早さに驚く。彩寧はよくしゃべり,おしめがびちゃびちゃだといい、代わりを出して来て母親に交換を要求している。ズボン着脱など自分でさっさとやってのける。1才10ヶ月の赤子のすることだろうか。
ちょろちょろ走り回って,目油断が出来ない。私たちが子育てしたころとは趣の変わり様に驚く。
たまに行く私には抱かれようとしない。未だ他人だな。

午後帰宅してまた昼寝、昨夜の疲れもあってぐっすり。
寝不足するとふらふらと夢遊病の感じである。老人はやはり眠らないと駄目だ。
(産経Netviewより転載)
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2010年6月16日 (水)

老人の長談義だらだらと続く

朝の気温20度、雲は多いが青空も見える。過ごしよい一日になりそうだ。
出掛ける用事はないのだから,快晴でなくても良いし,大雨でなければ又好しである。

昨日はサッカーの勝利が日本中を沸き立たせた。これほどの反響が出るとは誰も思わなかったのではあるまいか。
夜中の1時に終ったのに,新聞朝刊一面に大きく報道されるなど,寝ずに印刷し配布した事蹟が歴然として人々を驚かす。凄いとしか言い様が無い。

昨日は鞠子が電話して来て、昨年度のブログ集を皆読んだという。家内が電話に出て聞いたのだから,他に何を言いたかったかは分らない。私の妹として書いた一文に文句の一つも言いたかったかも知れないが。
未だ週に一度は百姓をしに多田に通っているという。流石に最近は疲れが出て、その翌日の仲間との会合に遅れて出たりして文句を言われたりする由。JRで1時間以上かかる距離を往復するのだから,通うだけでも大変なのに,偉い奴だ。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その5)
約1ヶ年後海峡とここを取り囲む両島の海岸周辺は殆ど連合軍の手に落ちることとなり、これ以降マックアーサー指揮する連合軍は、ニューギニア東海岸沿いに北上をつづけ、この島の北西部ビヤク島からハルマヘラ、モロタイ島伝いにフィリッピン諸島,更には沖縄へと矛先を向けて進攻、昭和20年の終戦いや日本の敗戦に繋がったのである。

そこで、この日米の運命を分ける戦いの場所であるが、世界地図を開いてみると、オーストラリア大陸の北方に東西に長く伸びたニューギニア島が見られる。そしてその東にこれに対面するニューブリテン島が見られる。この島はこの大戦で勇名を馳せた日本軍のラバウル航空隊の活躍した古都ラバウル(別名ラボールともいう)のある島である。このニューブリテン島の北側に横たわるダンピール海峡は、この大戦さえなければ、我々日本人にとって全く縁もゆかりもない無名の地域、いや海峡であった。
この海峡の概略の位置は南緯6度、東経148度で、南十字星の良く見える静かな僅か100kmあまりのなんの変哲もない海峡である。

この方面の島々や海岸は地図で見ると不明瞭線(点線)で表してある。そのことは特にこの地区の人々のために測量等する必要のないことを意味する未開の地域だということである。

緑の鮮やかな密林,明るい大陽の目映い輝き,紺碧の空、透き通った海底の藻が潮の流れに揺らぐ風景等々と残り少ない地上の最後の楽園といえる美しい地域である。

しかしながらこの楽園もこの時は「魔」ののダンピールといわれる程に厳しい、日米両国軍,特に日本軍からは恐れられた地域であった。そして此所で言語に絶する激戦が日米両国の陸海空軍によって展開されたのである。

日本軍はいつも不利な条件に置かれて、戦うたびに多くの犠牲を強いられた。結局ガダルカナル島の戦いと同様戦闘の度に、日本軍が惨敗に終わる結果になった。

兎に角に人々が地球上で平和に向かって相携え前進するか、武器を手にして相争うか、そのいずれかにより、この美しい大自然も地獄ともなり、また楽園ともなるのである。
しかし、この海峡で戦ったものたちにとっては、このダンピールといえば「魔」の海以外に思い出されるものはない。この海には今日も幾千人の戦友の魂が眠っている。いや、恐らく眠る事なく生きて魂は叫び続けていることだろう。

第81号作戦だけを見ても、3,700人余の兵が戦死した。戦後各地の戦場で遺骨の収集が行われて来たが、この海底に沈んだ将兵は永久に帰って来ることは無いというのは残念である。私たちの通って来た戦場には忘れ得ない地名等数多くあるが、この海峡の名前はその最たるものの一つであろう。
(つづく)
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2010年6月17日 (木)

老人なかなか閑居出来ない

土田君からいかの生きたままのを冷凍便で一箱送って来る。
今度の旅行のお礼という事だろうが、またまた大げさなと驚く。
政治家はやる事が違うなと思ったがやった事は仕方がない。お礼といっしょに今後こんな事はすんなよと念惜しするだけ。
とても老夫婦で食う訳には行かないので、早速娘のところへ持参して半分取ってもらう。
朝早くから忙しい。

そして暫くすると速達便が戸を叩く。見れば郵便貯金共用のクレジットカードを廃止するから期日が来たら鋏で切って処分してくれと書いてある。期日は3年先の7月で未だ随分先の話である。速達で通知するようなことか。クレジットでないキャッシュカードは別にあるから出し入れに困る事は無いからまあいいが。
もっとも携帯電話料が此のクレジットで落ちる事になってるから、これは何時の日か停止の連絡をしないといけないな。
世の中なかなかのほほんとは暮らせない。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その6)

さて、吉田中尉の所属する隊は船舶工兵第8連隊第3中隊だが、このダンピール海峡周辺を約半年間慌ただしく行動した。正確に言うとその期間は昭和18年3月2日から同年の9月ないし10月ということになる。
奇しくも今田一等兵(筆者)の属する第5師団輜重兵第5聯隊が、ジャワ島の高原都市マランで次期作戦の準備をしていたが、3月5日ジャワ島スラバヤ港を出航して,9日にアンポン港更にセラム島東岸沿いに航行し,11日西部ニューギニア・ペラウ湾南岸のバボに上陸していたのと期を一にしていた。
この第5師団の西部ニューギニア・ボランメイ地区での任務は、一兵卒である私の察知する所ではないが、このバボに飛行場を建設して、オーストラリアの連合軍の進出を牽制し、あわよくばオーストラリア方面に進出することも考えていたのであろう。

一方吉田中尉の率いる船舶中隊は激戦の続いたガダルカナル島を、同年2月7日夜何とか撤収した後ラバウル港に帰還、休む間もなく同月28日ラバウル港を出港して、ニューギニア上陸作戦に参加した。
この船舶工兵聯隊の任務はラエにて1ヶ師団の揚陸を担当することであり、上陸用舟艇を搭載した輸送船に乗りラバウルを出港したが,出港後7日目にかけて敵機の集中攻撃によって輸送船は全没した。

船団の各輸送船に乗っていた将兵7,000人有余の約半数は戦死し,残る半数は駆逐艦等に救助された。ただ救出は短いものでも数時間,長いものでは30余日海峡周辺を漂流した後救助された者もいたという。
我々漂流者は漂流中に敵機又は敵潜水艦の間断の無い攻撃を受けた上に、赤道直下の灼熱の太陽と冷たい海水との二重苦を受け、敵襲の脅威と渇と飢餓とに曝されたあげくに救助されたのである。
この時幸いに駆逐艦に救助された者は、ごく一部のものは目的地ラエに上陸できたが、大部分のものは乗船地ラバウルに揚げられ元の木阿弥、再び海峡の横断に挑戦しなければならなくなった。

以上この戦記の概要を走り書きしてみたが、この第81号作戦について今もう一度日を追って、詳しく書き留めておくと、次のように実行され,その悲惨な姿は,今までかってない結果となったのである。
(つづく)
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2010年6月19日 (土)

ワールド・サッカー混戦か

朝7時気温23度と暖かい。すぐ庭先まで霧が漂い、四囲はすっぽり包まれて幽玄の趣。

昨日今津の藤本のおばあさんが亡くなって今日が葬式の由、芳邦さんから電話があって、家内一人参列する事にする。享年98才。2000年には一緒にハワイに出掛けたが、凄く元気だった。小柄でも足腰が丈夫だった。最近は物忘れが段々ひどくなっていたということだったが。

11時前家内を駅まで送る。日射しが無いから、暑からず寒からず。ゆっくり御弔いが出来そうである。
藤本には今年りえちゃんに続いて、二度目だし、娘婿の森重安正さんも今年亡くなっているので、引き続いての不幸という訳である。凶事は得てして続くというが。

ワールドサッカー、茲に来て番狂わせが続き始めた。フランスがメキシコに2ー0で、ドイツがセルビアに1-0で敗れた。混戦必至の様相だ。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その7)

さて、吉田中尉の所属する隊は船舶工兵第8連隊第3中隊だが、このダンピール海峡周辺を約半年間慌ただしく行動した。正確に言うとその期間は昭和18年3月2日から同年の9月ないし10月ということになる。
奇しくも今田一等兵(筆者)の属する第5師団輜重兵第5聯隊が、ジャワ島の高原都市マランで次期作戦の準備をしていたが、3月5日ジャワ島スラバヤ港を出航して,9日にアンポン港更にセラム島東岸沿いに航行し,11日西部ニューギニア・ペラウ湾南岸のバボに上陸していたのと期を一にしていた。
この第5師団の西部ニューギニア・ボランメイ地区での任務は、一兵卒である私の察知する所ではないが、このバボに飛行場を建設して、オーストラリアの連合軍の進出を牽制し、あわよくばオーストラリア方面に進出することも考えていたのであろう。

一方吉田中尉の率いる船舶中隊は激戦の続いたガダルカナル島を、同年2月7日夜何とか撤収した後ラバウル港に帰還、休む間もなく同月28日ラバウル港を出港して、ニューギニア上陸作戦に参加した。
この船舶工兵聯隊の任務はラエにて1ヶ師団の揚陸を担当することであり、上陸用舟艇を搭載した輸送船に乗りラバウルを出港したが,出港後7日目にかけて敵機の集中攻撃によって輸送船は全没した。

船団の各輸送船に乗っていた将兵7,000人有余の約半数は戦死し,残る半数は駆逐艦等に救助された。ただ救出は短いものでも数時間,長いものでは30余日海峡周辺を漂流した後救助された者もいたという。
我々漂流者は漂流中に敵機又は敵潜水艦の間断の無い攻撃を受けた上に、赤道直下の灼熱の太陽と冷たい海水との二重苦を受け、敵襲の脅威と渇と飢餓とに曝されたあげくに救助されたのである。
この時幸いに駆逐艦に救助された者のうちごく一部のものは目的地ラエに上陸できたが、大部分のものは乗船地ラバウルに揚げられ元の木阿弥、再び海峡の横断に挑戦しなければならなくなった。

以上この戦記の概要を走り書きしてみたが、この第81号作戦について今もう一度日を追って、詳しく書き留めておくと、次のように実行され,その悲惨な姿は,今までかってない結果となったのである。
(つづく)  
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2010年6月20日 (日)

ニッポン、オランダに敗れる

気温23度、昨日全く同じ様な朝。昨日は濃霧注意報が出たらしいが、今日も同様な空模様。
窓から吹き込む風は湿気を伴って冷たく顔を濡らす。
湿度80%。
藤本の葬式に出た家内は足のリウマチが痛んで歩き難いとこぼしている。
駅から歩いて帰ったのが悪かった。

昨日夕方土田君から写真受け取ったと電話あり。

昨夜はオランダとのサッカー戦、0ー1で敗退。実力通りよく防いだが、防戦一方では勝てる訳は無い。
カメルーンに2-1で勝ったデンマークと23日、正に決勝リーグ勝ち残りベスト16を掛けて戦う。
勝敗は神のみぞ知る。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その8)

先ずこの作戦の概要だが、前に述べた事の繰り返しにもなるが、第8方面軍(今村均大将)は大本営の基本方針に従って、昭和18年3月初旬指揮下の第18軍(安達中将)に対して速やかに東部ニューギニアに進出して、同方面の基地を確保、ポートモレスビー方面に対する作戦を準備する事を命じた。

これを受けた安達司令官はラバウルに待機中の第51師団(中野中将)をラエに前進せしめる事を決めた。同時に第41師団はマダンへ、第20師団をウエワクへ前進させることとした。ラエには3月3日、マダンへは3月10日、ウエワークには2月28日を各師団の上陸日と定め、陸海空の共同作戦の準備を開始した。

この上陸作戦で2ヶ師団は予定通り上陸に成功した。しかしながら第51師団はラエに向かって航行中3月2、3日の両日敵爆撃機編隊の猛攻撃を受け,ダンピール海峡で全没した。吉田中尉の所属した船舶工兵連隊は第51師団のラエ到着後直ちに第51師団を揚陸する任務であった。先のガダルカナル撤退直後の作戦であったが,部隊はもとんど無傷であったので,全員体力気力共旺盛であった。

当時のダンピール海峡は既に連合軍の航空勢力圏内に置かれ,上陸地点のラエは敵の航空基地ポートモレスビーから近く,その上敵の前進基地であるワウ飛行場はラエと指呼の間にあり、一個師団の兵員が白昼上陸することは至難の技であった。
船舶工兵聯隊長は上陸作戦の打ち合わせの際、白昼の揚陸は何としてでも無理だと強く進言したという。作戦命令を受けて帰って,激しい口調でつぶやいた「この状況ではラエに行き着く事は出来ない。たとえ着いたとしても揚陸作業中に泊地で全部やられることは必定である。無謀極まりない作戦だ」と。

船舶工兵隊の誰もが同感で、「この上陸作戦は足は遅くしかも火力の弱い輸送船団で敵の懐に飛び込むには,絶対に優勢な航空戦力を投入するか,少なくとも伯仲の航空戦力を維持しなければ上陸は成功しない。」と。

この甘い作戦は緒戦に味わった勝ち戦の夢を追っていたのであろう。今までマレー作戦、フィリッピン作戦、近くはガダルカナル島作戦等で体験している。ともに成功しているのは日本軍の航空勢力が絶対に優位にあった時のみであった。

小池船舶工兵聯隊長が1ヶ師団の揚陸作業の責任者として、この作戦に反対意見を提言した事は,隊の者であればよく理解出来得ることであった。
隊の主だった者は聯隊長の心中を察し同調していたが、そんな泣き言を言っている場合ではないと乗船の準備に取りかかった。ところがいつの間にか隊の兵士たちの間には,この度の『苦々81号作戦」といいはじめていた。そして今度は必ずやられてしまうぞと話し合っていたようだ。そして、果たして兵士たちの予言は的中してしまった。

戦後この第81号作戦と呼称したのは8がつけば末広がりで縁起が良いからと名付けたのだと記録に残っている。しかし中枢部の縁起を担いだ期待に反して惨敗に終わった事は,第一線の兵士の勘の方がよく当たったという事である。これは、第一線の将兵は現地の何も理屈なしに肌で次の運命を予測するからだった。

この時の戦局から見て東部ニューギニアの要所を確保する事は絶対に必要な行動であることは間違いないことである。このため軍の中枢部は現地の第18軍に対して、至上命令としてニューギニア拠点確保のため、そこへの進出を図り展開する事を強く要請した。しかしこれは「かくありたい」という願望であって「かくあるべし」ということにはならならなかった。単に期待や願望によって軍の行動を左右さるべきでないものと考える。
万一此所で失敗すれば数千人の将兵を死に追い込む事になる。
一人の将兵の後には数人の家族が控え養われている。人の命の去就が五分五分という曖昧な判断で決められてよいものかと思われた。
(つづく)
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2010年6月22日 (火)

梅雨の合間

梅雨だからからっとした空になる訳は無い。霧で沖の島島は今朝も見えない。
気温は遂に24度。もう少しで熱帯夜となりそうである。
毎朝聞き流しているラジオのバロック音楽の調子の良い響きが何となく身体の動きを支えてくれる。
寝苦しい夜だったが、夜半まで扇風機でしのいだせいか、身体の節々が固まって動かし難い。
こんな日が続く事になるだろう。

掃除機の集塵袋が切れたのでデオデオに買いに行く。帰路道路境界の垣にほん僅か接触して車に傷を与えてしまった。やっぱり運転能力が落ちたらしい。がっかりする。独り相撲だから言うて行くところは無い。来月の車検整備で大分取られる事だろう。

午後はかんかん照りになる。しかし風が結構強いから何とか我慢出来る。
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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その9)

戦後防衛庁防衛研究所戦史室の発行した公開戦史の中に,当時直接この第81号作戦の決定に参画した幕僚の述懐が記録されているのでここに掲げてみた。

この幕僚の言、「第81号作戦計画は自分が主任となって計画した。成功率は40%、不成功率は60%.或いは五分五分と主張した」と。
又ある参謀は「・・・・航空参謀S少佐はラエ進攻に対して確算がない。成否五分五分だ」と主張した。
そして結論として作戦の能否よりは要否に議論が傾き、必然的にサラモア地区確保のために、危険を冒しても強行せざるを得ないとして、ラエ上陸案が採択されたようである。

誰もがよく承知して居るように、この度の緒戦は日本軍の絶対的な制空権下においての上陸作戦,渡河作戦であった。そしてマレー、フィリッピン.その他すべての戦いの同様であった。しかも緒戦は敵対した敵陸上部隊は植民地軍が殆どでありすべての面で弱体であった。
しかしながらこの度のガダルカナル島に上陸してからの米軍はいままでの植民地軍とは全く質が違っていた。
この進攻軍はいづれも装備も十分に整えた米・豪の本土正規軍である。そして航空勢力も優勢で日本軍を凌駕していた。まして上陸作戦、輸送作戦の成否を決するのは、この航空勢力如何にある。このことを最も良く承知している航空参謀が成功する確信がないと言っていた訳である。

果たして3月2日朝敵のボーイングB25の編隊が大挙襲来して来た時,常時百機という陸海軍の協定にも拘らず事実は僅かな戦闘機が応戦したのに過ぎなかった。それは自明の理であり、足の短い戦闘機が600kmの遠くまで援護するには余りにも距離があり過ぎる。敵の前進飛行場ワウからはこの距離の3分の1に過ぎない。これはダンピール海峡南口で輸送船が全没し時の地点から計算した距離である。

当日その時吉田中尉は輸送船旭盛丸に乗っていた。米軍の編隊が群れをなしてやって来たが,友軍の戦闘機の攻撃に対して,全くその編隊を崩す事無く,一直線に輸送船団目指して攻撃を仕掛けて来た。
あれよあれよと言う間に左の先頭輸送船旭盛丸は、一番と二番ハッチに直撃弾を受けて一時間後に沈没した。茲に航空兵力の劣勢下に置ける上陸作戦が如何に困難であり,無為であるかということをを骨の髄まで体験させられた。殊に前述の「作戦の能否よりも要否が強く支配した」という参謀の述懐については考えさせられるものがある。戦後、当時作戦の掌に当たった人たちが、いずれも前記のように無理な作戦だった事を認めている。要否に強く左右されたことで、結局は日本を敗戦の淵へ追い込んだのである。
(つづく)
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2010年6月24日 (木)

たまには多忙な日もある

5時目ざましに起こされる。うっかりスイッチを入れていたらしい。警戒本能が無意識に働いたか。そういえば昨晩はアマデュースという、例のモーツァルトの映画を夜遅くまで一生懸命見たので寝過ごすといけないと思ったっけ。

熱中するのは我輩の癖で今はサッカー、そして音楽に関するものは得てして見始めるとのぼせこむ。最後まで我を忘れてきっちり見る。だからテレビとはいえ随分精力を使い込むらしくぐったりと疲れる。

今日は総合病院に行く日である.朝一番に予約している。いつも1時間前には控え室に入る。駐車場が込むのが嫌なのである。年寄りのせっかちというところか。

今朝の気温は20度一寸涼しい。しかしいい気分だ。空は何時も通り靄ってはいるが,いい天気になりそうだ。

昨日朝からお粥をやめて普通食にしたが、腹の渋る気配は無い。整腸薬は未だ飲んではいる。どうやら落ち着いたらしい。原因不明の下痢だった。

もう50%以下の人並みだから仕方ないか。

ご飯も茶碗一杯はとても無理最近は六分目である。おかずも残すことが多くなった。

こうしても体重はなかなか減らない。土田君は随分減ったと先だって言ってた,会食ではとてもよく食ってたのに。

2,3日前の新聞に、大学に献体した遺骨の返還式が死後1年半ぶりにあった人の投書が載っていた。2百名の学生の厳粛な式に参列して感激したとあった。そうなのかと一寸感心。

家内も次の白菊会の総会には行って見たいと言っている。藤本のおばあさんが亡くなったりして順番は愈々近い。心構えはとっくに出来てるつもりだが、例の認知症のようになって、心あらざることを口走ったらいけないがと今は心配している所だ。

総合病院に行く.早すぎて40分ばかり新聞を読む。

中村先生は手っ取り早くて、飲み薬は中止、頭は新しくローションとし、身体も混合薬2セットに変更するとパッパと手際が良い。

2分間で診察終わり、料金も950円と大幅安。

帰りは先ず車検の木元と日時と代車の打ち合わせ、市役所に廻って納税証明を、ガソリンスタンドに行って注油と段取りよく片付けて帰宅、10時にはなっていなかった。

来月は病気の様子をみたいからと(投薬変更の結果)7月15日来いと言う。

車検は7月12日ー14日ということになり、忙しいぞ。

昔は何人前からくらくこなせたが、今はそうはいかない。せいぜい4分の1人前だろうから。

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2010年6月25日 (金)

ワールドサッカー日本決勝へ

濃い霧の空、今にも雨になりそうな気配、気温20度少し低めか。
門横のクチナシの花が咲き乱れ芳香を放っている。
予報では前線が又北上を始めているとか。大雨の被害が怖い。
今早朝サッカーの日本対デンマーク、健闘よく押し気味に来るデンマークを逆に効果的な二つのフリーキックを決めて前半から優位に立ち、後半もペナルティキックの1点に凌ぎ、絶妙の本田、岡崎の連係プレイで3点目の駄目を押し、勝利をもぎ取った。全勝のオランダに次いで第2位で決勝トーナメントに進み、次はパラグアイと戦う事となった。
海外ワールドサッカー史上始めての決勝出場である。
朝早く起きて興奮し過ぎたのか体調が悪い。食事の落ち着きが又悪くなる。胃腸薬を飲んで暫く休む。

昨日から参院選が始まった。ヒロシマでは候補者5人の戦いである。民主党は二人立てたがそんなにうまく行くかな。

大相撲は琴光喜を始め多くの野球賭博容疑者を出し、大揺れに揺れている。名古屋場所の開催が危ぶまれているというのだから深刻だ。
ただ大衆人気の上にあぐらをかくという事の危うさを痛感する。こつこつと雑草のごとく積み上げる底辺の労苦を忘れたか。スポーツ界、芸能界の現在の風潮は恐ろしい程脆いものを秘めていると思うがどうか。

家内は朝早くから庭の草をがさごそと削っている。かんかん照りの中でないのがいいらしい。
枯れ枝の処分を手伝う。そのうち小雨がちらつき始める。
足腰に負担が大きいしゃがみ仕事は私はもう全然だめだが、家内でもしんどいという。
山村の主を失った空屋が雑草に巻かれて、狐狸のすみかに化さんとしている話をよく聞くが、ここは別だと言い切る自信はもうない。

午後はとうとう降り始めたが、大雨という程ではない。
録画したサッカーの模様を繰り返し見る。やはりオランダより格下とみえ日本チームの危ない場面は少なかった。フリーキックがあんなに正確に決まるとは本人たちも思わなかったのであるまいか。
良いまぐれが肝腎な勝負に現れて幸運だったといえそう。
あの2発が無くても引き分けで決勝には進めたわけで先ずはおめでたい。

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2010年6月27日 (日)

高速道路無料化始まる

降り続く雨、止む気配はまるでない。気温23度とほとんど変わらない。

梅雨たけなわとはこのことか。

どこにゆくつもりもない、いくら降っても構わないと家内も言う。

押し気味だった韓国、惜しくもウルグアイに1-2で屈した。

次は日本だがパラグアイとはてどうだか。ラプラタ河口に国境を接するブラジル、アルゼンチンと共に並みの強さではない南米の国たち。当たって砕けるだけか。

ひょうひょうとした司令官(岡田監督)には印象的な言葉がある。ハエがたかるように何度もチャレンジする」。うるさく飛び回ってボールに食らいつく。追い払われても、すぐに別の仲間が群れをなして寄ってくる。そんな青いユニホームの動きが運も引き寄せたのだろう}と中国新聞コラムで言ってることが再現できるかどうか、大いに期待している私だが。

前回大会優勝を争ったイタリア、フランス共に一次リーグに勝ち残れなかった。欧州勢の不振と南米勢の躍進が特に目立つ。番狂わせは何時の時にも起こる。

午前11時雨が一時中断している。空やや明るみを増す。

明日から一部の高速道路が無料になる。広島では広島ー呉道路、浜田道路がそれ。

ワアッーと一斉に混むのではと新聞は心配している。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その10)

さて、この3月2日ダンピール海峡の北口付近において、編隊を組んだ敵機の猛攻を受けて旭盛丸が先ず撃沈されたが,この時点でラエへの上陸をニューギニア北側のマダンに変更すべきではという策が問われた。他の2ヶ師団は上陸に成功している.上陸地をマダンに変更しても多少の損害は受けたかもしれないが、全滅の憂き目にあうことは避けられたであろうし遭難者の救助も十二分に出来たであろう。

戦後この作戦について天皇が次のように発言しておられたと藤原彰氏は「天皇制と軍隊」の記述の中で「何故すぐに決心を変えてマダンに上陸しなかったのか、この度のことは失敗といえば失敗であるが,今後における成功の基となるならば、却って将来のために教訓になると思う.将来に安心のできるようにやってくれ」と。

このお言葉は当時杉山参謀総長への伝達を記録した真田一郎作戦課長の業務メモの一部である。天皇は旭盛丸が撃沈された時点で,決心を変更すべきであったことを指摘されたのである。従来の計画通りの輸送船による上陸作戦では、敵の手のうちにあったラエへは全く無理な事であった。「夢よもう一度」という期待もほど遠く実現にいたらず、敵軍は3月3日には自陣の懐に船団を深く引き込んで完膚なきまでに叩き潰したのである。

幸いに命を失う事無く海中に落ちて浮遊した戦友たちは,敵の制海権下の海上を南へ東へと流され、船舶工兵第8聯隊第2中隊の小隊長小崎中尉などは30余日漂流した後,ニューブリテン島南側中央部にまで漂流しここで土人に助けられたのであった。

この作戦により船舶工兵聯隊は壊滅的打撃を受けたが,生き残った者は引き続きこの海峡を挟んで,大、小発動艇を駆使して、兵力の前線輸送、患者の後送等に従事した。しかしながら隊員将兵の損耗も激しく半年後ラバウルに終結を命じられることとなった。

これより先に9月4日ラエ地区に居た吉田中隊もフィンシハーヘンに米軍が上陸した時点でニューギニア島からニューブリテン島へと撤退したのであった。

振り返って第51師団の上陸作戦の概要を見ると、7月21日ラバウルの第8艦隊司令部(司令官三川中将)において、陸海軍及び陸海の各航空隊最高指揮官は一堂に会してラエ輸送作戦実施の細部協定を締結した。

上陸作戦にあっては、陸海空の緊密なる連絡がとられる事によって初めて成功するが、このためには事前の調整は細部に至るまで綿密に定めておかなければならない。

(つづく)

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2010年6月28日 (月)

赤名峠か浜田道か

今朝6時の気温は23度と変わらない。雨の痕跡は歴然としているが現在はちらとも降っていない。僅かに西南の空に青天がのぞいている。

雨が止んでいる間に買い物に出かける。ついでに食事も済ませて帰る。

午後2時前になるとやはり予報どおりにざあざあと本格的な雨になる。
年によると空梅雨なんて名ばかりの梅雨シーズンがあったりするのだが、今年は真摯に暦通りの筋書きが追われる。
こうなると老いぼれはますます外出が困難になる。旅になど予定は全く立てられない。

念願だった出雲大社参りもなかなか実現までには程遠い。
いや今からなら、浜田道を利用すればただなんだがなと気づいたりする。
本来は赤名峠越え(トンネルを通らずに旧来の)をもくろんでいたのだから、道筋が違うのだが、まあいいかと妥協する。
18歳の時自転車で越えた赤名峠は難路だったが、雄大な中国山脈連峰を横目に心広がるなかなかの思いで深い旅路だった。若し舗装がしてなければ、車でも難路に変わりは無いであろうが。
実現となると、今は若くないのでと逡巡の気持ちが先にたつ。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その11)

この協定した上陸作戦の大要を述べると次の通りであった。
○輸送部隊の集合地及び出発日時 集合地・・・ラバウル
出発・・・・2月28日 23:00
○揚陸開始日時及び揚陸日程 ラエ入泊・・3月3日 16:30
                揚陸開始時刻・入泊直後
揚陸終了時刻・3月5日 04:30
○輸送船隊の区分 第2分隊・・・神愛、帝洋、愛洋
第3分隊・・・旭盛、大井川、太明、野島
○船隊の航路 往路・・・ニューブリテン島北側近く
復路・・・ニューブリテン島北迂回
○航行速力 原則・・・9ノット
○指揮官以下の乗艦船区分 第18司令官・・・駆逐艦 時津風
第51師団長・・・駆逐艦 雪風
護衛指揮官・・・・駆逐艦 白雪
○師団主力 輸送船8隻に分乗
○海上の護衛艦艇(駆逐艦) 荒潮、朝雪、時津風、白雪、浦波、雪風、朝風、敷浪計8隻
(各艦は小発2隻、折り畳み舟各6隻積載)
○陸海航空部隊の対空区分 それぞれ午前,午後に分けて分担、常時100機が協力
○その他 輸送船の故障の措置、遭難時の措置、灯火管制、泊地進入
                揚陸後の行動

以上の事が更に細部に亘って決められ、今は28日の出発を待つばかりになった。
なお、補足すれば護衛艦はすべて駆逐艦が使用された。又、駆逐艦に搭載された小発動艇及び折り畳み舟は遭難時の救助舟艇であり,各艦にはそれぞれ舟艇隊員が分乗していた。

ところで、船舶工兵第8聯隊はガダルカナル島の撤退作戦を完了した後、ブーゲンビル島のエレベンタ海岸に集結が終わったのは2月8日だった。次の作戦に入るため2月12日、第18軍の隷下に入り,既に述べたように第51師団の指揮下に入り,第81号作戦のラエでの揚陸を担当する事が決まり,急遽ラバウルに帰還する事になった。
2月13日ブーゲンビル島を出発、同15日に懐かしいラバウル港に帰還し、そのまま湾口のココホの露営地に入った。此所に残留していた中隊員が出迎えてくれ,お互いの無事を喜び合ったがこれも一時の事,休む間もなく隊員には次の作戦が待ち構えていた。

小池聯隊長は新たに第81号作戦のラエ揚陸隊長に任命された。陸海軍の協定が終わった所で,ラエ地区の揚陸作業準備のため聯隊長は本部付きの中尾中尉(陸士53期生,後に死亡)を中本少佐に同行させ、潜水艦により先行させた。

2月25日小池聯隊長は配属部隊(第3揚陸隊)及び乗船諸部隊の指揮官並びに輸送指揮官との最後の調整を終わり揚陸作業命令を下達した。この日連隊本部付き坂大尉を飛行機によりラエに派遣し、決定した揚陸作業命令及び計画を現地の部隊に届けさした。

その前後ラバウル地区に対する敵機の来襲は殆どなく、吉田中尉は僅かな期間を利用して舟艇の運行の訓練を行い、又この作戦に携行使用する大、小発動艇の整備に全力を注いだ。
(つづく)
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2010年6月29日 (火)

はかなきは人の世

朝6時半いくらか日の光が雲の隙間を通して届く。雨雲が遠のいたのかな。
気温25度、裸で居ても気持ちよい。
昨夕出掛けて、人が多過ぎたので帰って来た内藤内科に11時又出掛ける事にする。

昨日に比べて外来が少なかったので間もなく先生の診察となる。腎臓が気になるとかで血液を採取される。
30分で終わり薬局に廻って帰宅、丁度正午ということだった。

家内が千代に電話して、福間さんの奥さんが亡くなられたと聞く。どうやら奈良を訪ねた今月中旬頃らしい。いつも元気で海外旅行のお葉書など頂いていたのに。千代もよそから聞いたらしく残されたお宅がどうなってるのか聞き様が無い。
御悔やみしたいのだが、いずれ訃報が届くだろうから待つ以外に無いか。77才だったという。心筋梗塞とか。
はかなき人の世、何が起きるか分らない。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その12)

船団のラバウルの出港予定は2月28日であり、この出港までの10日の間、毎朝中隊員は露営地を出てココボの浜の舟艇の係留場のある小さな桟橋まで歩いて通った。海も空も澄み切った港口であり、又対岸の花咲山の噴煙が高く立ちのぼっている風景は、盆栽のように浮き上がって一幅の絵のように美しく見えた。ガダルカナル島に出発するまでの約1ヶ月間は此所ラバウルで連日連夜空襲を受けたが、この度は不思議な事に全く敵機の来襲がなく、みんな狐に化かされたように感じていた。

こんなに静かすぎる後には,必ず何か異変の起きる前触れではないかと隊員たちは話し合っていたようだ、

中隊の揚陸訓練のためこの地に来て2ヶ月も経たないというのに、もう中隊の殆ど全員が熱帯性潰瘍にやられていた。この時の隊員は普段の生活も又訓練中もすべて半ズボンで過ごしていた。皮膚の露出して居る所には、所構わず蚊がたかってきた。刺されると忽ち大きく腫れ上がり2、3日すると化膿して来る。
体質の弱いもの程特にひどい状態になる。一般にやせ得型のものよりも、肥満型の方が化膿し腫れる度合いがひどく、そして治り難い誠に厄介なものであった。なおこれ以外にマラリアもあったが、全員が既にマラリア菌の保菌者であったので、このマラリアに罹る事は全く気にしなかったようであった。

中隊長は訓練を終わり湾口を通る時には、必ず花咲山の山麓の海岸に艇を着けた。これはそこの砂丘が山頂から噴流して来る硫黄によって、天然の砂風呂温泉が出来ていたからであった。2、30分余り湯気の立つ砂湯に身体を浸していると、数日たつとほとんど化膿が止まるからである。38年以上経った今では、この火山は活動していないようだが、ラバウルの名所の一つが無くなってしまった事は残念なことである。

今思えばこの砂湯は訓練の疲れを癒す為には多大な効果があったし、中隊員の唯一の慰安でもあったが、やがて第81号作戦の出発が迫って来るに従って、この楽しみを享受する暇はなくなってきた。

当時の記録によると、その頃の日の出は4時58分、日没は5時15分であった。起床後朝食までの間中隊員は三々五々連れ立ってよく浜まで出掛け散歩をした。
この近くの係留場には中隊で装備した大小発動艇や高速艇そして装甲艇等が係留してあった。そしてこの艇の後尾から海中を覗くと海底がすぐ近くに見えた。海水は全く澄み切って海の深さが判断し難いのか、竿をさしても底には届かない深さがあった。
日本近海にはこんなに深いのに海底がはっきり見える海はないだろうと思った。そして、当時この浜を歩く事は皆好きだったし、しばしの間、郷里の夢を見るのもこの浜辺であった。

ある日桟橋伝いに歩いていると、澄み切った海底に大発動艇の沈没しているのが見えた。その艇の四周を南方独特の原色鮮やかな色彩をした小魚の群れが泳ぎ回っていた。この沈んでいた大発動艇は吉田中隊より以前に此所に駐屯していた舟艇部隊の残して行った艇であった。隊員は使用している艇の整備には,故障して使えない舟艇の部品を取り外して使っていた。
ある兵士の一人が沈没して海底にある艇の部品は錆びていないといった。半信半疑であったが,事実その兵士が取り外してきた部品は全く錆びていなかった。艇も完全にすっぽりと海没していると錆びない事が分かった。しかし、一旦空気に晒されると忽ちにして発錆して数日経つと使用出来ない事も体験した。
それからは沈没した艇が部品庫代わりとなったが、これは貴重な体験であった。
舟艇は沈没してしまうと敵機も銃撃しないので,沈没した艇はあわてて引き揚げないで,必要に応じて部品を取り出して使えばよかったのである。
(つづく)
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2010年6月30日 (水)

ワールドサッカー、日本一回戦で散る

小雨ながら降り続く雨。気温23度。梅雨空に変化は無い。
昨夜のサッカーの惜しい敗戦のおかげで、頭も身体も半病人だ。目が覚めても寝床からなかなか起き上がれなかった。
一瞬の蹴りが勝負を決める、考えてみると最大の簡単な賭博の感じがしてならない。
此の段階になると個々の選手の巧拙、優劣はもう論外だ。サイコロの一振りと同じく運だな。

しかし日本選手はほんとによくやった。サッカーはまだまだ後進国だが、もう間もなく世界に伍して行ける所まで来た。これだけやれば文句あるまい。後はサッカー界全体のレベルアップということになる。南米なんか地域全体が高レベルに達している事を痛感する。
個々の素質が高い。PK戦の結果がよく証明している。パラグアイ選手のシュート力は真に強烈で、どのキーパーでも阻止出来なかっただろう。

梅雨と言っても悪い事ばかりはなくて、少し湿っぽいのを我慢すれば、暑からず寒からず毎日過ごしよい。
仕事でもある人には嫌がられても、生きてるだけの老人にはまことに都合は良い。
文句を言っては申しわけない気分である。
無芸の私でもそう思うのだから、芸のある人たちには堪らなく時のうつろいの早さを悔やんで居られる事だろうと思ったりする。
幾ばくも残されていない時間、今の一刻をやはりもっともっと大事に過ごさなければ与えられた余生がもったいないわけだ。

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(平成20年今田勇編集著述「ニューギニア戦記」より)(その13)

ある日ある隊員が目星を付けていた部品を外しに行ってみたら,既に他の部隊のものに持って行かれたらしく,大笑いした事もあった。いずれにしても艇の修理部品の補給は十分ではなかった。兎に角舟艇隊員は皆部品を大事にしていた。特に歴戦の兵士はその点に抜け目なく、常に艇に予備の部品を備える事に努力を惜しまなかった。艇を完全に保持するために特にその修理部品に執着が深かったのである。

人間であれば手足の一部を少々負傷してもヨーチンに包帯があれば何とか行動出来るが、舟艇ではそんな訳には行かない。噴射ポンプのプランジャー・スプリング1本折損していてもエンジンは動いてくれない。また、人間は30秒、1分は呼吸しなくても動作は出来るが、重油の燃料パイプに僅かでも空気が混入すれば,エンジンの始動は絶対に出来ない。

兎に角舟艇隊員が任務を全うするには予備部品が必要である。今日のように部品が何時何処でも手に入る状態にあっては,部品の有り難さはわからない。

これは整備のことばかりではなく、我々舟艇隊員はすべてのものが操艇し整備も出来なければならない。勿論海図も判読し手旗通信も出来なければならない。そしてそれは常に訓練して向上が図られなければならなかった。
さて、2月26日輸送船7隻がラバウル湾内に集結した。緒戦以来輸送船は度重なる輸送作戦及び上陸作戦に休む事無く使用されて来た。所詮,沈没するまで動き続けなければならない運命にあった。

ソロモン諸島特にガダルカナル島上陸作戦では、優秀な輸送船ほとんどが敵の飛行機や潜水艦の餌食となって撃沈された。そしてこの度の作戦には船と名のつくものは一切が動員されたが,ラバウル方面には数える程しか残っていなかった。このために大規模な上陸作戦は出来難い状況となっていた。勿論、船足の早い船等論外の有様であった。

戦後、第18軍の参謀長吉原短中将は,この作戦は一六勝負であったと述懐しているが,それほど戦況は不利だし,船舶を始めあらゆる装備も劣勢であった。特に空軍の援護が少なかった事は致命的だったといえる。

そして、当時苦労して集めた輸送船名は次の通りであった。
大明・・2773t・・10ノット     帝洋・・2746t・・10ノット
神愛・・3793t・・ 8ノット     旭盛丸・5498t・・10ノット
大井川・6493t・・10ノット     愛洋・・2746t・・9ノット
建武・・・300t・・9ノット     以上7隻
これが当時苦労して集められた輸送船である。船団を組むと2割程度は速度が落ちるので,船団での速度は7ノットを超える事は無い。1ノットは1時間に1,852mであるから、7ノットは13kmぐらいの速度である。その上敵潜水艦の攻撃を避けるためジグザグ航行するので,更に速度が落ちて来る。
(つづく)
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