« ニューギニアで働いたヨット(プラオ)のこと | トップページ | 西部ニューギニアのバボという街 »

2010年5月22日 (土)

鳳陽会総会へ集団参加

今にも降りそうな空が午後4時になっても変わらない。やはり予報通り夕方にならないと雨にはならないらしい。

家内の言いつけで牛乳を買いに行く。明日のがないらしい。
ついでに夏みかんを一束買って帰る。
我が家ので味をしめ、郷愁を憶えて時に食べたくなる。

土田好治君が大阪で開かれる同窓会の全国大会に出席し,その懇親会を借りて旧交を温め様ではないかと,電話で私に提案があり、それは都合が良いと賛成する。水戸君も出席するというから,私も協力して,あちこち電話し山田、坂口、畠中の3君を口説き落として参加予約を取り,結局6名参加という事になる。他人の牛蒡で法事をするがごとき有様になったが,この際形式はどうでも良い集まって元気な顔を見さえすればいい。もう飲み食いはどうでもよいことであるのだから。全国総会に卒寿の退役老人が6名も面をならべると,ひと話題になるかな。

私が全学同窓会の全国大会に出席したのは、もう4,50年前にでもなるだろう1回きりである。あの時も同期の者5、6名が示し合わせて参加した覚えがある。今度は上席に座るのだから肩が張る事になりそうだ。

まだ2旬を残しているから,健康が保たれればいいがと,今度はこちらが心配である。
一昨年大学を訪問した際いろいろ御高配を賜った藤井学部長がご出席であればお礼を申し上げたいとも思っているのだが。
   ________________________
プラオ、バラッツ(西風)を帆一杯に受け、800km余を走破する

西部ニューギニア島バボに駐留していた第5師団はその師団本部をボンメライ地区の海岸のカイマナに移動することとなった。これはこの島の東部戦線の緊迫した戦闘を牽制し、少しでも敵の矛先を逸らす意図があったのかと推察したが,師団傘下の広島、山口及び島根の歩兵3部隊と、工兵、野砲の2部隊の戦闘集団部隊をオーストラリア大陸に正対するタンニバル島トケイ、アル両群島に分散配置をした。なお輜重隊だけは諸物資の中継輸送の関係か、セラム島でアンポン市に近い島西部のビルに転進することとなった。
特設水上隊もこの師団の転進に追随して自力で帆走し、約800kmもあるカイマナに転進することとなった。

昭和18年10月9日敵機の攻撃を気にしながら隊員32人と現地船員131人は、12隻のプラオに分乗して、その日の朝から夕刻にかけて順次バボの桟橋を出発した。
バボでの7ヶ月間を私は本部事務所で事務に専念していて、プラオに乗るのはこの日が始めての経験であり、一抹の不安を抱いていた。

私がこの時に乗ったプラオは、この船を作った地名の「トラーム」を船名としていた。
2本マスト10tのスマートな船で、その走りはとても早いということであった。船長は50歳前後で経験豊かな男といい、船員は18歳から20歳位の若者4人、この中で肌の色は黒いが、その丸い眼がキラキラと輝いていたハッサンという若者は,特に私の世話をよくしてくれていた。今でも人の良い彼の顔ははっきりと思い出すことができる。

さて、初めて乗ったプラオで先ず感じた事は、古い木造船独特の異臭が漂い、また寝起きする苫の中が狭く臭くその丈が低いことであった。一見してこれからカイマナまでの長い船旅に耐えられるだろうかと思った。しかし人間は環境の変化にはすぐ馴染むものらしく、2,3日経つと異臭など全く気にならなくなった。
恐れていた船酔いなどもどこ吹く風と昼間は舷側に足を支えて苫の屋根に寝そべり青い空や水平線に沈む大きな真っ赤な太陽を眺め、夜は満天にキラキラ輝く星を眺め、また船尾に尾を引いて流れる白い航跡を眺めつつ時が過ごせるようになっていた。

バボ桟橋を発って軽く波の立つベラウ湾の南岸に沿って西に向かって走る。ただ目に写るものは海中に深く根を張って密生している、マングローブに覆われた濃緑の海岸線がつづいているだけで、全く変化の無い景色だった。

なお、バラッツに逆らって西に走るためには常に後ろから帆に風を受ける必要があり、度々左右に方向を転じながら走る事となる。このため意外に時間を食って地図上では近いと思っていたカバス湾まで丸3日も掛かってしまった。
カバスの見えにくい狭い入り口を通り抜けると大きな湾が眼前に広がっており、この広い湾内には驚くほどの鮮やかな緑に覆われた無数の小島が存在していた。正に仙台の日本三景の一つ松島をここに見る景色であった。

湾の深く切り込んだ奥に入ってゆくと緩く湾曲し扇形に広がった白砂の浜がありこの真ん中あたりにココ椰子の林があった。
この椰子林周辺に椰子の葉で編んだアタッブで屋根を葺き壁を張った住民の部落があったが、上陸してみると戦争のためか部落には全く人影を見ることはできなかった。船員たちは良く知っているところらしく慣れた様子で何処からか飲料水や薪を提げて帰りプラオに積み込んでいた。

ここで丸一日プラオの点検をした後名残を惜しみつつこの美しいカバス湾を後にする。次いでサテータ島を遥か水平線に望むあたりから追い風に変わり、帆一杯にバラッツを含みかなりの速度でファダカル岬を左手に回りこんで順調に走る。

しかしカバルを発ってから4日目の夕刻風が全く吹かない凪となった。
深紅の大きくなった太陽が西の水平線に沈んでから翌日の午後までプラオは波のうねりに乗ってノックを繰り返すだけで全く前に進もうとせずうんざりする。
一昼夜この状態が続いた後その日の夕刻から陸のほうからの風が立ち、これを受けて走り出したプラオにほっとしやれやれと胸を撫でおろした。

バボを発ってから11日目に西部ニューギニア島ボンメライ地区の中心の基地ファファックの港に到着する。この町はこの地方の物資輸送の中継基地らしく石畳の広い埠頭の階段を上がると、右手に幾棟かの倉庫が立ち並びその合間を通して奥に向かって町並みが広がっていた。かなりの人が住んでいたと思われるも今は全く無人であった。
バボで時間をずらして出発した上にそれぞれの舟の速度が違うために、ばらばらになっていたプラオをこの地で纏めてその無事を確認し、船体、帆その他について点検、修理を行い、また船員の休息の為4日間をここで過ごす。

早朝ファクファク港を発ち順風に乗って帆走すること4日目カラヌ島向かいの深く切れ込んだ無名の湾に入る。素人の私たちの目にはこの湾の入り口は全く判らなかったが、船員たちは良く知っているところらしく全くためらうことなく狭い入り口に舳先を向けてするすると湾内に入って行った。

湾に入ってみるとぐるり四方が30mは越す高い絶壁に囲まれ、その上ジャングルに覆われて薄暗い。そして驚いたことには東の正面にこの高さの断崖から直接海面に向かって幅広い滝が水煙を揚げて滔々と海面を叩いている威容に驚いた。
船員たちの話ではこの湾の中でこの滝が落ちているところで淡水が海水と交わっている辺りは魚の宝庫となっているという。

彼らの勧めに従ってカヌーを降ろし魚つりを試みたところ、ちぬ、石鯛に似た中型の魚が面白いように釣れた。ここで丸2日魚釣りに励みこれを干物にして後々のためにとしっかりと蓄えておくことが出来た。
その後この湾を出てマンタウイトワ島を微かに右手に望みつつハイビノ岬を大きく左に迂回してカルフまで6日、目的地のカイマナの」師団本部野戦倉庫隊到着の申告をしたのは、バボを発ってから丁度1ヶ月余であった。

兎に角この1ヶ月の間ひどい風に遭うことは一度も無く、また何回か敵機の姿を見かけ遠くに爆音を耳にしたが、一度として攻撃されることもなく無事にこの航海が終わった事は、幸運だったとしか言いようが無いことであった。まあ、現地のプラオでの航海だったから敵機は案外この地方の民船と思ったのかもしれない。
その後カイマナから約5kmはなれた指定された箔地に上陸し、あらかじめ作ってあった隊本部の事務所(隊員、船員の休憩、宿泊所を兼ねる)に落ち着いた。

数日後無事全船が到着したが、隊員はこの事務所に集まり椰子の花芽を切って採った樹液を蒸留して作ったソビーという酒で乾杯をし,心から無事到着を喜びあった。なお今後こことカイマナとの往復は自動車のエンジンを付けたカヌーで行うことにした。

この航海中滝のある湾で釣りをしたと話したが、この航海中にはこれとは別にトローリングも試みた。この豪快なトローリングのことにちょっと触れてみようと思う。
このプラオで1ヶ月に亘って移動するに際して、船員たちはいつも忙しく立ち働いているが、ただ乗っているだけの私たちには飛行機の監視をする他には何もすることが無い。そこでいつもプラオに乗っている隊員が暇つぶしに教えてくれたのがこの帆走中のトローリングであり、その豪快さは言葉では言い表せないくらいという。
プラオが7,8ノット以上で走り出すと、大きな釣り針をつけた釣り糸を30m以上後ろに流してこの釣りを行う。このトローリングの仕掛けは現在と違って昔、いやここ戦地ではすべて手作りのものを使った。
これは先ず釣り糸だが白い軍用靴下をほぐして、これを2本づつ縒り合わしたものを更に3本縒りあわせ、出来上がったこの糸にマングローブの樹液で渋をかける。これを道糸としこの先に細い鋼の針金を3本強く堅く縒りあわせた60cmくらいの者をハリスとして結ぶ。釣り針は焼きを入れた手製のもので魚が外れないように切り返しをつけた4cm位のものを付ける。
そして、この釣り針を隠すように3,4本の白い鶏の羽毛と、その上に40cmくらいの芋づるの茎を縦に細長く幾条にも裂いたものを細い糸で釣り針の針の上に巻きつけるとこれが疑似餌となるのである。
帆走中にこの釣り糸を後ろに長く流していると、1から1.5mに及ぶ大物が食いつく。時にはプラオと魚が並行して走り魚が急に反転すると、プラオの速度と魚の反転した力が加わって鋼の釣り糸が折れてしまうこともあった。
この釣った魚の名はそのときはよくわからなかった、今考えるとかじき鮪か鰆の類ではなかったかと思う。

釣った魚を船に引き上げる際、物凄い魚の力で引っ張られるので手袋だけは嵌めて置かないと指を切られる恐れがある。やっとのこと魚を甲板に引き上げると、待ち構えていた船員が丸太棒で頭を殴って殺し,器用にすぐ魚の身を捌く。私たちに「トゥアン刺身か」と尋ね一部を刺身を作ると、大部分は大きく裂いてこの切り身に塩を塗り、天日で干して保存食とする。

カイマナへの航海は経理担当の矢吹上等兵と二人だったが、釣り果は1mぐらいのものが1匹だけ(後のセラム島では3匹)だったが、このトローリングの爽快な気分を味わった物である。と同時にこの生きの良い刺身や生しびの切り身を軽く焼いたものを肴に、船上で飲んだ椰子酒のソビーは特別の味で、今でも忘れられないものである。
(つづく)(今田君手記「西部ニューギニア戦記」より)
   ________________________

|

« ニューギニアで働いたヨット(プラオ)のこと | トップページ | 西部ニューギニアのバボという街 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/48427899

この記事へのトラックバック一覧です: 鳳陽会総会へ集団参加:

« ニューギニアで働いたヨット(プラオ)のこと | トップページ | 西部ニューギニアのバボという街 »