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2010年5月21日 (金)

ニューギニアで働いたヨット(プラオ)のこと

いい天気だ。家内も私も庭に出る。せっせと草をむしるのは家内。ぽつねんと見守るのは私。

昨日今田君からせっつかれたので,ニューギニア戦記を読み返す。
適当にチェックを入れて、この後に転記する事にする。
何時死ねるか分らないから,諾ったら直ちに実行しなければ、約が果たせないかも知れない。
いつもそうした脅迫観念の下に暮らしている。ある種の緊張があっていいかも知れないと思っている。

絶えず良い音楽を聴きながらこうして生活している。家内は私に習って窓を開いて応接間のステレオを庭に流している。
時々外交員などが、不思議そうに言い音楽ですねと世辞を言う。優雅な年寄りと思えばそれで好し。

昨日
今田君と私は偶々同時刻に同じ駐車場に並んで入るという奇遇にぶっつかって,私たちの同窓会は1時間も前から始まった。
予め彼に渡す為に用意していたブログ集を早速手渡し,彼の編集したニューギニア戦記の受領謝礼とその転載の件を予め念押しした。以前了承して呉れている事の繰返しだから、全く異存なくこんども了承してくれ、むしろ特設水上隊の事やヨットでアラフラ海を何千海里も走り回した事を是非転載してくれと懇望される始末であった。

彼の言う通り、この特設水上隊は私の想像もしてない,恐らく日本国民全部が知らされていない,特異な戦時輸送隊だったと思われる。
終戦直前まで約2ヶ年に亘りアラフラ海周辺の主として糧抹輸送に貢献した土着民帆船(プラオ)部隊の32隻131名であった。

以下今田君の懇望もだし難く、彼が記述した昭和18年5月6日の創設から昭和20年3月2日解散に至るまでの行動のすべてをそのままここに転記し紹介したい。
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昭和18年5月6日師団野戦倉庫隊に海上輸送隊として特設水上隊なる特異性のある輸送部隊が新設され,昭和20年3月2日解散した。ほぼ2カ年間この地方のプラオという帆船をその船員共々に雇用して,この時代にあっても非近代的な輸送部隊が編制されることとなった。
この輸送部隊が編成された発端はバボに飛行場を建設するため軍が徴用した現地労務者の宿舎を建設する諸材料、そして彼等の食料であるサゴ椰子の澱粉とこれを固めて焼いたサゴレンベンの他タピオカ等の主食と、この他に副食の鶏や魚、野菜等をベラウ海辺の集落で集め、これをバボに輸送するために作られた部隊であった。そしてこの対象となる労務者は一時100人を越え更に増える事になっていたので、この水上隊の本務はこのパプア人労務者の住居の建設の材料の木材や椰子の葉で編んだ屋根の材料アタッブ、そして彼等の主食であるサゴ澱粉やその加工品と、副食の鶏肉、魚、野菜等を今まで以上に多く買い集め、プラオという帆船でバボに運ぶ事が仕事であった。しかしその後一時は100人を上回りつつあった彼等も、引き続く空襲によって次第に減って行き、この水上隊の主目的の任務が次第に薄れていったのであった。

しかし、此の当時日本軍は各地の戦線でも戦局は急速に厳しくなりつつあった。この西ニューギニア戦線では此の時直接的に敵との戦闘は全くなかったが、後方からの輸送力がとみに減退し、ために後方ジャワ方面からの諸物資の補給が急激に減少しつつあった。
ここにやむなく駐屯地内で食料その他の物資の自給自足を余儀なくされつつあった。
そして現地で主食、副食から嗜好品とありとあらゆる物資を調達し、これを各隊に輸送し給与する事が必要となって来た。そして此の調達と輸送は軍の機動力である大小の輸送船舶等が少なくなったことから、ここに特設水上輸送隊の物資の収集と輸送力に頼らざるをなないことになってきたのである。

さてこの様に師団各隊への諸物資の収集と輸送の任務を担った特設水上隊の編成は次の通りであった。
まずその隊員として、輜重兵第5聯隊から下士官以下35名を派遣し、その隊本部をバボの埠頭に置いた。
隊長は半年後に憲兵隊に転出したが陸士出身の磯辺少尉でその後任はなし。隊付き下士官は龍谷大学出身で西広島で僧侶だった前田軍曹、総務事務関係の功績調書、陣中日誌の記録その他総務事務は今田上等兵、徴用されたプラオ(帆船)の借り上げ代金のほか、購入した食料品等の物資の買い入れ代金の支払いの経理事務は、下関商業を出て信用金庫に勤務していた矢吹上等兵のほか、広島県三原市の中学校を出て農業をしていた衛生兵の島上等兵と此の4名が本部要員であった。
この他、32隻の各プラオに乗船して、物資の収集と輸送に当たった隊員は、山口高商を出て銀行に勤務していた兼重上等兵の他29名であった。そしてこの地方各地から借り上げたプラオ32隻を操縦する現地人の船長以下131人を加えたものがこの隊の構成のすべてであった。

ここでこの輸送に使った木造のプラオについて話してみると,水上隊が借り上げたプラオは,2本マストで8tから13tの重量で、船長以下5、6人の船員で操縦する船が14隻、1本マストで3.5tから7tで3、4人の船員で操縦する船が18隻と,併せて32隻であった。この借り上げたプラオはどのクラスの船も、嵐に巻き込まれ、その高い荒波を受けて転覆しない様に吃水を深く取り,更にその船底には重心を低くする為にかなりの量の石が敷き詰めてあった。甲板の3分の2くらいに椰子の葉で編んだアタップで屋根を三角形に葺いた苫が作ってあって、ここに運搬する積み荷を入れた他,乗客や乗組員の部屋として使っていた。

プラオの長さは大型で30m、小型で25m弱であって、幅は共に3mくらいである。後甲板の中央に舵棒が突き出していた。
船長はこの舵棒の横に座って,片手で舵棒を操作し船を操る。
追い風に乗ると船体は20度以上に傾き、12、3ノットと快走するが、凪で風が落ちると櫂を漕いで進む以外に動かず,全く処置無しとなる代物である。
さて、ここで変な事で尾籠な話しになるが、舳に2mくらい突き出している棒の先から海面すれすれの舳先下に太い鎖が緩く渡してある。これは航海中に大の方の用をたす便所の役目を果たすものであった。上の横棒を両手でしっかりと握り,大きく両足を横に開いて鎖に乗りかかる。海面すれすれまで尻を落としてしゃがみ、遥かかなたの水平線を眺めつつ用をだす。海が荒れてるときは尻を波で洗われることもありうるが気分は爽快。時には大きな海亀やマンタ(えい)等が海に沈んで行く姿を見る事もある。用が済むと海水を左手で掬い後ろを洗って始末する。この地方の住民は回教の信者が多く右手は神聖で,左手は不浄の手となっている。
左手では絶対に食事を取らないしまた左手で人を叩く事は極めて相手を侮辱したこととなるので、常に用心して,この戒律は厳に守らねばいけないことであった。

この他回教の戒律では、豚、猪等の豚類の肉は食べると筋肉が腐ると信じ絶対に食べない。これを食べたものには当分の間まったく近寄らないという戒律があったので、至る所に子豚を引き連れた猪の群れが我が物顔でうろついていたが,殺してこの肉を食べる事は全くしなかった。後にセラム島に移住した当初これを軽く考えてこっそり食した所、これで船員をはじめ隊本部の使用人が当分の間我々の周辺に近寄らないのに弱った事があった。
これに懲りそれ以後セラム島を去るまでこの肉にはまったく手をつけなかった。
さて
余談はさておき、このプラオは昔からこの地方の海の足であり,人々の行き来や物資の輸送には欠かす事の出来ない乗り物で,遠くはバンダ列島、ジャワ、セレベス、セラム、ニューギニア島とこの周辺の海を縦横に走り回っていたという。
このプラオの船長ともなると年期が入っていて,簡単な磁石一つで後はその地方の潮の流れ,季節による風向き等を熟知して居り、また夜には星を見上げて走る方向を見定めるなど何時も正確に目的地についていたという。
(つづく)
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