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2010年5月25日 (火)

いつのまにか、又”さざん会幹事役”

雨雲と黄砂が入り交じった様な灰色の空が相も変わらずすっぽりと覆いかぶさっている。
風でも強く吹かないと青空は見えない。
空気環境はもう往古を取り戻す事は不可能と思わずにはいられない。
文明の進化とはこういうことかと今更の思い,50年100年先を考えると恐ろしい。
やはり人類は自滅への道をどんどん走っているのだろう。

今朝も気温は18度,初夏のそれに間違いは無い。さわやかにはちょっと遠いか。
8時半すぐ目の前まで靄っている。

11時半陽光がやっと深い霧を通り抜けて我が家までやってくる。
水戸君が孫の結婚式とぶっつかっていたのを忘れて鳳陽会出席を申し込んでいたが,出来なくなったと断って来る。早速鳳陽会にも電話を入れて先程照会のあった33期5名出席届けの件は4名出席に変更してくれと申し入れる。
やっぱり幹事役にひとりでになってしまってあちこち連絡に忙しい。

午後になって風が出ると、霧は吹き払われたが、雨雲がせり出して来て天候悪化の兆し。
お天気様はほんとにままならない。

午後家内と一緒に銀行やデオデオなどを回る。
デオデオでは携帯用のハードディスク500GBを一つ買う。¥10000.を切っているのに驚く。SDも2GB1個が¥700.である。DVD−Rも一枚¥20.の相場となっている。
市況がおかしくなるのも無理ないなと思う。
何にしても値下がりの速度が速すぎる気がする。
電気業会は大変なんだなあ。

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(5月23日の西部ニューギニア戦記のつづき)
カイマナ駐留の後、再び遠くセラム島へと1000kmを帆走することとなるのだが、このカイマナ駐留は半年と短かった。しかし、生活を共にしたプラオの現地人船員が病気で死亡するという悲しい事件があった。敵機の襲撃はバボと異なり散発的で平穏、東部ニューギニア戦線に比べると至極平穏そのものであったようだ。

時々早朝に敵戦闘機が定期的にカイマナ周辺を巡回、偵察をする程度でここでの話題は少ない。この偵察にやってくる敵機は確か米軍のグラマン戦闘機を主体に時折カーチスP38という双発双胴の偵察機であった。

そして昭和18年11月から翌年5月までのカイマナの隊の任務は、バボの時と同様に食糧物資等の蒐集と輸送とであった。ただバボの時と異なる点は駐留軍の為にのみ諸物資を集め輸送したということである。これは当時後方からの諸物資特に食糧の輸送は輸送船の激減に加えて伸び切った輸送路に対し敵機、敵潜水艦の攻撃が激しく、輸送は途切れ侭ならぬ様相になっていた。そこでこの濠北地区に展開している各部隊は已む無く自給自足を強いられていた。水上隊もこの各部隊の自給自足を補うよう今まで以上に激しい物資の蒐集と輸送が強いられたのであった。

夫々のプラオは東はモドウイ、ロア、西はカルフ、マンザウイトフ島、北はカイマナ湾奥のタマロメ、イモンバそして東はロボ、モドウイにと分かれて行動し、激しい往復輸送を繰り返した。船員たちにとっても不眠不休の激務となっていたのである。

この為か船員たちの中に足が浮腫み、そして痺れを訴える者が9人に及んでおり、その中の二人は重症で歩行困難になっていたのに驚き、急遽9人を本部事務所に収容し休養させることとした。他方島衛生上等兵をカイマナの野戦病院に派遣して,この病状の報告と共に、今後の対応について軍医の所見助言を求めた。

島衛生上等兵の報告によるとこれは疲れから来たものでなく、原因はビタミンb1不足による脚気症状だといわれたという。そして以後病人の食生活をよく検討して改善することが第一に必要だとのことだった。
この助言に基づいて船員たちのこの1ヶ年の食生活を振り返ってみた。彼らが軍に徴用されてからは水上隊から十二分に米が支給され、船員たちは白米の美味しさにかまけて、従来の混食をやめて米食一辺倒になってしまった。

以前日本でも白米一辺倒暮らしで、ビタミンb1不足から脚気にかかったものが多かったという。
この事例を思い起こしてその後は彼らに対して白米の支給を減らして、旧来のようにサゴ椰子澱粉とタピオカ澱粉の加工品を多くし、副食にはしっかりと野菜、豆類や魚肉等を食べるよう説得し実行に移した。予防として全船員に対してもこの食事療法をじっこうさせる事とした。

結果として新しく患者の発生は見られず、罹病した患者のうち軽い患者は徐々に快方に向かい一先ず安心をした。しかし重症の二人については病院から支給されたビタミン錠などを与え懸命に看護したが、足元に腫れが徐々に下半身に移り、残念なことに終に心臓に痺れが達し息を引き取ってしまった。
早くこの食生活の変化に気づいていればと今でも残念に思っている。

その後この死亡した船員については彼らの宗教によって葬ると共に、プラオ1隻に隊員2人を彼らの郷里に派遣して、その家族に死亡した経過を報告さし、哀悼の意を伝えると共に弔慰金を支給する事とした。カイマナで起きた痛恨の悲しい出来事であった。
(つづく)(今田勇氏手記による西部ニューギニア戦記より)
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