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2010年5月27日 (木)

南の国のお祭り(1)

青空も見えるが雲も多い。気温15度とやや冷たい。
もう喜びが待っている歳でもないので、日々夜明けまでがうとましい。
折角決めた事だから来月の鳳陽会が無事済めが良いがとちょっぴり気がかり。
家内が手足が又痛むというので、ひと事ではない。
こちらの体調がいくら良くても、家内が悪いと何にもならない。ままならぬものである。

今日は戦前は海軍記念日と言って、日露戦争の終結をもたらした日本海海戦の大勝利の日である。この日がなかったら、日本は今次大戦を待たずに滅亡していたかもしれない。
天下分け目の一戦だった。ただ大勝の仕方があまりにも見事だったのが、後世のおごりに繋がった。
今次大戦の発生の遠因をなしたとも思われる。

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(今田勇著「西部ニューギニア戦記」よりつづき)
  住民の要望に応え、水上隊で回教の祭(ムニャリ)を引き受ける

昭和19年8月から9月後半頃というと敵の攻勢が激しく、吉田中尉が率いる船舶工兵隊が奮闘していた東部ニューギニア戦線では、連合軍がこの地方での日本軍の拠点であった、プラ、フィンシ、ラエ、マダン、ウエワークそしてアイタベと、激戦の末次々に占領しつつ北上、次はフィリッピン攻撃にかかる時期だった様である。+
しかし逆に西部ニューギニア島とその付近の島嶼に取り残された格好の私たちはその当時の東部地区の状況を知る由も無く、唯米軍のグラマン戦闘機が毎朝頭上に飛来するだけという至極平穏で半端な毎日が続いていた。
8月上旬にガアの部落に住んでいたラジャーが、彼の管轄している3地区のカパラ、カンポンを伴って事務所を訪れてきた。彼等は前田隊長に対して異口同音に次のことを申し出た。「殆ど総ての住民が回教徒であるこの島では昔から回教の祝祭日には先ず回教の祈祷の儀式を行った後、近隣の部落民総出でお祭り行事を行っていた。そして手分けしてお祭りの会場や料理を作りみんなで会食をした後夜を徹して賑やかに歌い踊ったものだ」といい「この戦争のためにこの祭りの行事が途絶えて終い寂しい限りである」とも云う。「トゥアンたちのお蔭で今は部落の者全員が我が家に帰り落ち着いた生活をしている。そして依頼されたサゴ椰子澱粉の仕事にも励んでいる。そこで是非お願いしたいことは水上隊の皆さんの肝いりで何とか私たちのこのお祭りが出来ないものだろうか」という願いであった。

確かに私たちがこの島に来た当時は何処の部落も無人だったが、今はバボ以来生死を共にして来た現地船員たちの仲立ちもあって、殆どの住民は部落に帰っている。
各駐在地でも隊員がそこの住民たちと親しく付き合っている様子も伺われ、ガアの本部でも日本兵を警戒してその姿を全く見せなかった若い娘たちも、ちょっとした手足の怪我や小さい腫瘍等の治療にやってくるようになっていた。ひょうきんな島衛生兵長が赤チンやヨーチンを塗るために、一寸サロンを摘み上げると奇声を挙げて笑い転げる等和やかな雰囲気に包まれていた。

その後前田軍曹を囲んでいろいろと検討した結果として、地区民一同がこの回教のお祭りを是非実現したいというたっての願いであれば、何とかこの要望を受けて祭りを行うことも必要だと決めた。そして、この行事の世話を行う効果として考えられることは、今より更に地区住民の水上隊への信頼も大きくなり、これから先の隊の任務も今以上にスムースに事が運ぶようになるだろうと考えた。
9月上旬に祭りを開催することをガアのラジーとカバラ、カンポンに伝えて、この実施について打ち合わせをした結果、祭りの開催日は9月上旬がよかろうということになった。毎月の上旬は丁度月初めの委託料等の支払日に当たるので、祭りの前日か、その日の午前中早々に、各地区のカバラ、カンポン達に前月の委託料等の代金の支払いを済ました後、ゆっくりと会食をし、引き続いて前の広場でお祭りの踊り等を始めたらということになった。

早速にガア地区近辺の住民の協力を求めてお祭りの準備にとりかかることとなった。
その手筈は先ず祭りの会場の設営はガアの奥山から切り出した木を使って、広場の前に横に長い大きい小屋2棟を並列して建てアタップの屋根だけを葺いておく。
この建設に5日間をかける。会食のための食器は70人位のものを各部落から持ち寄ることとなった。この集められた食器類を見ると彼らの粗末な家には不似合いな立派で大きなスープ皿から大皿、小皿及びコップそしてフォーク、ナイフまで総ての用具が集まったのには驚いた。祭りの料理の材料は総て水上隊が買い上げて用意することとし、山羊3匹、鶏20数羽、これに魚、卵、野菜とバナナ、パイナップル等の果物をかなり多い目に集めることとなった。

そしてこの材料で当日の会食料理を作る者は、日本の集会でよくやっている様に中年の腕自慢の女性6,7人を中心として、この指図に従って老若10数人の女性たちが作ることとなった。会場の飾りつけは若者の手で2日位前に緑の小枝や花を飾ることとした。そして最後の準備として夕食とそれに続く踊りの行事が夜半にかかることが予想されたので、この夜の灯火として平たい大鍋に椰子油を入れ、この中に灯心を12,3本差し込んだランプを3基用意して屋根の梁3ヶ所に吊り下げることとした。会食の机と腰掛を各地から持ち込み、机には白い新しい布それはプラオの新しい帆切れを掛けると、至極綺麗で立派な宴会場が出来上がった。
当日の祭りの会食に出す料理は前日に材料の下拵えをし、当日の早朝から腕自慢の女性たちの指揮で次々に作られてゆく。スープから煮物、焼き物、揚げ物そして蒸し物等々とセラム島の郷土料理が種々作られて行った。

さて祭りにつき物の酒はこの島の住民たちはあまり飲まないと聞いていたが、それでもと予めアルコールの少ない椰子酒のサゲールをドラム缶2本と酋長たちとの会食用としてアルコールの度数の高い椰子酒のソピーを15,6本用意しておいた。
祭りの前日この料理に掛かる前に私たちを吃驚させたことが一つあった。

それは山羊のとさつの仕方である、先ず山羊の四つの足をロープで括りこのロープを太い木の枝に引っ掛けてこの山羊を逆さに地面すれすれに吊るす。その山羊の背首のところには木枕が当ててある。やおら年配の男が進み出て山羊に向かって長々とお祈りを捧げ、これが終わると若い男が包丁で山羊の頚動脈を切り溢れる血を総て壷に取る。この血が出切ると頭部を切り離し次いで全身の皮を剥いで手際よく肉を外す。この一連の作業を見ていると胸が悪くなるようであった。後でわかったことであるがこの切り取った3匹の山羊の頭は、そのまま長々と煮込んでメイン料理となるスープを採り、また抜き取った血はいろんな料理の味付けに使われたようだった。
(つづく)   
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