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2010年5月 1日 (土)

上海万博

娘が早く帰るというので、6時には起床。天気は良いし、気温7度とまずまず。
途中京都に立寄るという。7時半駅まで送る。
ゴールデンウイークだから旅行には厄介な日だが、本人の予定だから仕方がない。元気いっぱいだからマア問題はなさそう。

結局今回の来広は老人共の現状が心配で帰郷したのだろうが、安心はしてくれたと思っている。

土曜日だから医者も半ドン。しかし客も少なく簡単に済む。休日用のカットバンを少し貰って帰る。もう傷口が残るだけで治る寸前だとか。
マア軽くてよかった。

霧は相変わらず深いが明るく日射しが暖かい。
もう外の方がよい。

今日上海万博が開かれる。凄い人気らしい。
私たちが上海を訪れたのは1990年だからもう20年前になる。
その時同行した横山君はもうこの世に亡い。彼はその後4度も訪れたというが。
彼は戦争中上海で勤務していたから思いが深く強い。
私の捕虜時代で奥地から運び出されて、監禁されたまま此の地まで来て、帰国船に乗せられ、ただ通過しただけのえにしに比べると感情が違う。
当時は復興の最中だったようだ。
其の後凄い勢いで発展し世界でも屈指の産業都市に変貌しているらしい。
今度の万博は規模といい参加国といい世界最大で大阪万博の入場者数6500万人を凌駕して、7000万人を目指していると云う。

娘もこの秋に上海に友達と一緒に行くという。万博は見るつもりは無いと贅沢な事をいう。

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2010年5月 3日 (月)

60回目の結婚記念日

今日は憲法記念日、所謂現行の昭和憲法の発布記念日であると共に、私たちの結婚記念日でもある。
戦後直ぐの昭和21年11月3日マックアーサー司令部の命令により、当時の吉田内閣が公布し翌年5月3日施行した。それから3年目の今日私たちは結婚した。
さほど佳き日だからと選んだ訳ではなかった。ただ記憶し易いからとは思っていた。そして何時の年でも休日にはなるだろうと。
その方が都合がよさそうだからくらいは考えたかも知れない。

今になってみると、偶然とはいっても驚く程期日が鮮明で、記憶するに造作がかからないこと一番である。
結婚の年は昭和25年即ち西暦1950年である。金婚式は2000年ハワイ旅行がその記念行事になった。そして未だ生きてるので今年は60年目である。

折々の記念日は我が波乱の人生のお蔭で、苦楽相継ぎ、50年の区切りまでは殆ど思い出す暇はなかった。
お互いが元気でなければ到達出来ない。ベッドに伏したきりでは何の意味も無い。
こうして二人とも元気で喧嘩もせず60年過ごしたということは、やはり希少価値があると自画自賛せざるを得ない。

今日はどこかへ出掛けるかと朝の家内との会話から始まる。
結局植物園ということになる。一番花の咲き乱れる時期だけに見栄えがする筈だと両方の思いが一致した。
出掛けてみると流石に人が多い。広い駐車場もいっぱいである。次から次へと午後になっても来場者が連なっていた。
食堂もいっぱいで仕方なく軽食堂に入ったが、米の食事は準備してなくて、スーパーで売ってる焼きそばをチンして貰って食べることになってしまった。とんだ記念日の午餐ではあった。Photo


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2010年5月 4日 (火)

ゴールデンウイークは嫌い

空は一面灰色、黄砂が飛んで来ているのかも知れない。
雨の気配はない。
昨日のフェスチバル初日の人出は65万人だったとか、凄いとしか言い様が無い。
植物園も多かったがとてもとても追っ付かない。
今日も大変だろう、勿論老人の寄り付く所ではない。

昨日は展望塔の脇の藤棚の前で、携帯腰掛けに腰掛けて写生を始めた、4,50才くらいと思われる女性たちが元気な声を出していたが、世の中もすっかり変わったなとその姿を眺めつつ、感慨はひとしお深い。
私の幼き日、終戦のころ、もうはるか昔のことで、今に通用するものは何も無い。

今日の新聞を読むと、オリオン座のペテルギウスが爆発しそうだという。太陽系をすっぽり覆うくらいの大きな星である。ただし600年前の話だからもう消えてなくなっているかもしれないという。光は確かに早い。しかし600年前のペテルギウスからの光を今見ているのだから、もう少し経ってみないと分らないわけ。いやになっちゃうな。
ついでの話だが太陽も50億年後には消えて無くなるという。未来永劫なんて誰が言ったんだ。

昼の気温がとうとう25度を超えて夏の気候になったという。
私もやっとスエーターを脱ぐ気になった。高速道はラッシュが続いている様だ。明日まではどうにも仕方がない。政府の下らぬ庶民サービスの行き過ぎ以外の何ものでもない。
大借金の財政、大丈夫なのかと問いたい、ギリシャやアイスランドの二の舞はごめんだよ。

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2010年5月 5日 (水)

鳩山さん可哀想

子供の日という。
対総人口割合が13.3%で、4千万人以上の国26ヶ国中で最下位の割合だそうだ。
最長寿国で頭でっかちだから致し方ないだろう。私もその原因を担っていて申しわけない。

此の部落でも赤子の泣き声を聞く事はもう何年もまるでない。鳴くのは犬だけである。
どうしてこうなったんだろう。さして便利の悪い所でもないし、適当に閑静で子育てには向いていると思われるのだが、若い人に嫌われているのだろうか。

フラワーフェスチバルは好天に恵まれて、例年以上の盛況だったろうことが予想される。
其処へ行くと、上海の万博は少し低調な滑り出しの様だ。前宣伝が大きすぎて恐れをなしたのではなかろうか。日本人客を大いに当てにしているらしいがさてどうだろう。

鳩山首相が沖縄訪問をして、総スカンを食らい立ち往生の感がしないでもないが、しかし相変わらず低姿勢でソフトに受け答えしていて、哀れで涙ぐましい。タッタ一人の総理をこんなにいじめていいのだろうか。
なんとかしてやれやとヤジ声でも出そうである。

次は徳の島にも行くのだそうだが、とても花は持たせてくれないだろう。
どこか無人島のいいところはないかなあ。
それとも今度は人の住んでいない所は嫌だと先方に嫌われるかも。

もう日本はどうなっても構わんから、皆帰ってくれとお願いしたらどうだろう。
北朝鮮は喜ぶし、中国は安心するだろうし、いいのでは。ただ台湾と韓国が何とか言って来そうな気もするのだが。

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2010年5月 6日 (木)

天下太平

凄いもやで前景はまるで見えない。雨は間違いなく降りそうだ。
気温17度。

旅行で怪我した傷害保険金の請求を旅行会社の薦めにしたがって請求書を書いて送っておく。大した怪我ではないのだが、別に遠慮する筋合いのものでもなさそうだ。
過去何十回も旅行して、始めての経験だが、やはり起きる事があるのだなとやっと気がついた。孫等は既にベトナムやカンボジアに行って二人とも入院経験をしている。その話を聞いていたから今度もまじめに保険に入っておいて良かったという訳だった。

やっぱり人生何が起きるか分らない。神のみぞ知るである。

フラワーフェスチバルも昨日で終った。160万以上の人が見物に集まったという。
もちろん私らはその中には入っていない。多ければ多いほど私らはお呼びでないと思っているから、出掛ける事は無い。よちよち歩きの坊やよりもっと危ないから来てみてもらっては困るのである。
毎年1日は雨に祟られるのだが、今年はとうとう降る事は無かった。珍しいことなのである。その割には少なかったとも言える。
地元の新聞は大騒ぎして記事や写真を載せている。正に世は太平のごとく、全く言う事はない。

国連はやっと核廃絶に向って世論統一に歩き出したようである。
もう後戻りしないようにして欲しい。
この小さい地球を人間が壊すなどという事があってはならない。

世界戦争は終ってから65年になる。その恐ろしい教訓が行き渡ったとも言える。
広島、長崎の犠牲も其の意味で大きな値打ちを持っている。
ただ小紛争は後を絶っていない。国連はここにも指導力を発揮して欲しいものである。
慾が深すぎるであろうか。

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2010年5月 7日 (金)

昔は遠くなりにけり

切れ間の多い曇り空から時に強い日射しがこぼれる。もう初夏と行ってもいいようだ。
つい十日前には福島で雪の中を、桜を求めて歩き回ったのが嘘のようである。

しかし吹き込んで来る風はまだ冷たくさほど心地よいものではない。
日の当たっているベランダでも寒暖計の温度は27度を表示している。

午前中に早くもあいおい損保から、昨日請求書を出した傷害保険金を来週始めに払い込むからと電話して来る。
最近はこうした市民応対もてきぱきと迅速になって来た。コンピューターの後押しや世論の喧噪によるものだろう。
相変わらずゆっくりしているのは官庁だけのようだ。

傷跡は残っているが、もう洗顔にも何ら支障はない。しわだらけの顔だからさして目立つほどのことはない。

夕方近くのスーパーに買い物に行く。カンカン照りの西日が衰えた目を刺す。
何とも運転し辛い。おまけに自転車の往来が激しい。超遅速で走る。後続は殆どなかったからよかったが。
家内がクリーニング料金が高いと言ってこぼす。40年前30分ドライという商売を、器械を据え付けて3年ばかりやった経験があるから、余計に腹立たしいらしい。当時はセーター一着50円だった。今は700円だそうだ。ちょっと上がり過ぎではないかな。40年経つとこんなものなのかなあ。

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2010年5月 8日 (土)

後悔先に立たず

空は一面灰色だが、日光はさすがに厳しい。もうまぎれもなく夏の気候だ。
黄砂が飛んで来ているのかも知れない。予報では何とも言っていないが。ひょっとしたらアイスランドの灰かも分らない。

今日も終日寝たり起きたりと怠惰に過ごす。起きてるときは過去の写真を一枚一枚pictからjpegに変換する作業に取り組んでいる。子供や孫等が皆windows方式のパソコンを持ってるから、そちらでも見られる様にとの遺言的操作をしている訳である。
見る見ないはそれぞれの勝手だが、もし見てくれるなら見える様にして置こうという親心である。
pictは画質は良いのだが、マックだけしか見られないというのが今となっては面倒な事である。

去年の夏頃からかかっているのだが、未だ前途遼遠である。
1950年代までは大体片付いたのだが、それからが永いからなあ。
ただしかし、最近のは殆どデジカメで撮ってるから,ほとんどjpegだし、変換の必要はないだけに安心ではあるのだが。
人間のすることは何でも後悔する事が多い。
お金も時間もむだにする事がなんと多い事だろう。
取り返しのつかない年齢になってしまって、悔しい事の多さに呆れているところである。

中国語の出来る女優になって、海外で活躍する事を夢見て、大学時代から心がけ、先ず台湾から映画界に入って頭角を現し、中国映画にも認められつつあり、将来はアメリカにも進出したいという日本人女優のことが、先程お茶の間のテレビで放映されていた。
こんなのは逆の例で、素晴しい先見というべきだろう。しかし後悔ということになると、ちょっと思考軸が違う様な気もするが。

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2010年5月 9日 (日)

歌詞不明確な歌い方

暖かくまあまあいい天気が続いて、老人でもまことに過ごしよい。
ありがとうと天に謝したい気持ちである。

たまに見るテレビで、派手に踊りながら、若い人が何か叫びながら歌を歌っている。もっとも歌だか何だか定かではないのだが、節回しがついてるからやはり歌だろう。
歌なら歌詞が付いてるのだろうが、これが皆目分からない。もちろんわかる言葉もちょいちょい顔を出す。

何時頃からこんな風になったのだろう。私の様に戦時中に一人前になったものには、誰にも分る明快な言葉で歌は歌われた。今に残る藤山一郎や東海林太郎などの歌っているのを聞いてご覧。日本人なら誰でも分る筈だ。意味も分るし、悲しみ喜び、苦しみ、寂しさ、なんでも歌に込められていたし、共感出来た。

今頃の歌でそんな感情になれるだろうか。
第一、何をしゃべってるかよく分からないので、感情腺をヒットしない。
ここ何年か、老人だけでなく、皆理解が出来難くなったと見え、字幕が画面の端に表示されるようになった。これが老人には大変なのである。
いい加減目が薄くなってるところに小さい字でちらちらと写されると、虻蜂取らずで感情など起こす暇はない。
先般東京にオペラを始めて見に行ったが、この時は舞台の袖に日本字が表示されていた。
なるほどなと感心はしたが、見る気はしなかった。筋はよく知ってる「トスカ」だったから、歌う言葉を勝手に解釈しながら観賞した。

此の時にも思ったのだが,いたずらに字幕を使うよりは、歌う前に詩を朗読させるなり,大意を話して聞かすなりすれば、どうだろうかと思ったりするのである。
時間がかかり過ぎるからと反論があるだろうが、訳の判らない歌を聞くよりはずっといいと思う。

又現在でもさだまさしなどの様によく分かる歌い方をしている人もいるのだから、皆がそのつもりで歌ってくれれば文句はない。

折角歌い,聞いてもらいたいのであれば,そのくらいの工夫や努力は歌手本人が当然すべきであると思うのだがどうだろう。

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2010年5月10日 (月)

藤沢周平記念館

今朝郵便受けに新聞と文芸春秋が入っている。
文春の表紙に爾後鳩山政権ヲ対手トセズと朱塗りの文字が見える。
巻頭のグラビやをめくると,藤沢周平記念館というのがある。
先だっての4月23、24日に山形に行って来たばかりだから,気になって先ず読む。
私みたいな愛好者が沢山いるらしい。早く死んで惜しまれる姿が良い。
生まれ故郷でも愛されて,遂に4月29日記念館になった。
またいつか機会があったら訪れてみたいが、先ず無理だろうな。

今までに読了した手元の文庫本などを数えてみると73冊になる。
繰返し読むことも多いから、自分ながら相当なものだなと感心する。
家内もいつか読みたいなどと調子を合わせる。

小説だから映画やドラマと一緒で先ず面白くなくては駄目だ。兎に角独特の風味があって面白い。私の嗜好に合っているのだろう。

終日写真のウインドウズ機でも読める様に拡張子の変換に費える。
20年近くアップルで保存して来たのでやはり面倒な事になった。
勿論最近の7,8年はデジカメ時代だから別に問題なくなったが、それまでのものでも少なくはない。まだしばらくかかりそうだ。
けっこう毎日なにやかやと仕事があるものだ。

サッカーの世界選手権出場選手が決まった。地元のサンフレッチェからは一人も選ばれなかった。残念だが仕方がない。図抜けた選手がいないということか。

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2010年5月11日 (火)

人間の業

朝起きると小雨が音も無く降っている。
ポストの新聞は幸いに濡れてはいない。昨日も降ったり止んだりしていたが、そのまま続いていたのか。外に出る事も無いので,忍び足の雨には気づく事は無かった。

老人の毎日は怠惰なものである。母が生きていたら”この穀潰しが”とののしられることだろう。60才の母にでも仕事について行けなくてよくどやされたものであるが、生来の怠け癖は一生治らなかった。
考えてみると、もともと母がその様に小さいときから育ててくれたのだから仕方がない。
惣領の甚六で随分と甘やかされたらしい。

こんな事は子や孫に知ってもらいたくはないのだが、こうしてブログにまで書いてしまっては,自分で宣伝している様なものである。馬鹿な奴だ!

それにしても母が死んだ年齢になって、こんな思いを語った所で無駄な事だが,なってみないと分らない事でもあるから人間って業なものである。

菊さんもいっこうに電話を掛けて来ない。どうするのと聞きたい所だが止めて置こう。
今年の同窓会は止めにしたらしい。お互い皆90才を超え,人生を卒業したのだからなあ。
そろっとして置くのが自然というものだ。
もう一つの同窓会—さざん会は昨年暮れ散会したままになっていて、次回は決まっていない。
これはこちらの決めるべき番なのだが、相手が一人として顔を出してないので決め様は無い。

こうして身の回りから昔というこけは消えて行くものらしい。

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2010年5月12日 (水)

いろいろなけじめ

朝の気温は14度,雲が多いが時々日射しがこぼれる。雨にはなりそうにない。

昨夕遅くなって菊谷君から手紙で同窓会の案内が来る。やっぱりやる気が残っていたようだ。
20日にやるという。場所は例の観光ホテルだが会費などは書いていない。
もうよく飲んでいた奴も最近はぐっと量が落ちた。従って会費が足りなくなる様な事はもうない。だから書いて来ない。大体同窓会そのものが酒好きな奴の会合みたいなもので,呑めないのに参加するのは私くらいのものである。ここ数年私は酒もビールも飲んだ事は無い。もっとも車で行くから遠慮しているのでもあるのだが。
呑まずに相手になれるのは私の特質と云ってよいかもしれない。

もう集まるのは多くて5人かな。前回も6人だったから。

生きてても歩けないのでは参加出来ない。90才とはそういう年齢なんだ。
海軍を運良く生き抜いた若重も2年前には歩行困難で娘さんが付き添ってやって来たが,昨年はとうとう来なかった。こうして歯が抜け落ちるごとく姿を消して行く。

私は不思議に昨年よりも調子が良い。此の4月には福島,山形まで桜を見物に出かけた。
もっとも会津では転んで怪我をしたが、もう完全に治ったし。欠席する理由はない。

どうしても会いたい今田君はどうするだろう。以前は山口から車で泊まりがけでやってきていたが、前回の閉会の時、これで終わりにしようやと席を立った。逢ってニューギニア戦記のことで了承を得たい事があるのだが。

雅代に二番目の子供が無事生まれたらしい。今度は男の子という。こちらも少し予定より早く出て来たのかな。
長女も相継ぐおめでたに超多忙。家内はそちらの方を心配して、ぐずぐず言っている。
経験者だからその後の事をあれこれ心配しているのだろうが,男の私には訳は分らない。

昼前から出掛けて、井上に行く。孫等も退院して来ていて,早速お祝いをする。元気そうなあまり泣顔もしないいい子である。もう名前がついて、篤洸(あつひろ)というのだそうだ。
今年はどういう年廻りなのだろう。我が家系に男子が二名も生まれた。私らが結婚して丁度60年目、暦で言えば,還暦という事になる。女系だったのが男系に変わる転機となるのかもしれない。

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2010年5月14日 (金)

横山幸雄ショパン全曲演奏

ショパン生誕200年というのだから、私と110年開きがある。

1世紀一寸時代が違うわけだ。

故国が無くなり、若くして亡くなった。

しかしその偉大さはその比類ない美しいピアノの音色と共に永遠に不滅である。

そのソロ全曲を私の好きなピアニスト横山幸雄が一日で公衆の面前で弾ききったというのだからこれまた凄い。

160曲以上もあるというのだが、それを暗譜で弾いたとある。

いったい彼の頭の構造はどうなってるのだろう。

私はお目にかかったことは一度きりしかない。

しかしどうしたわけか彼が子供の時から、私の記憶の中に入っている。

日本航空の盆の飛行機事故で亡くなった坂本九の司会する某ラジオの子供音楽会で、自作のピアノ曲を巧みに演奏して聞かせてくれたのが彼だった。

たまたま私は仕事をしながらカセットテープにそれを録音した。

繰り返し聞きながらこれが10歳に足りない子供の作った曲の自作自演だろうかと信じがたい気持ちだった。

ただ名前はその時はっきり記憶した。

それから10年くらい経ったころだったか、ショパン・コンクールに入賞したということを聞いた。優勝者第1位は無く第3位だということだったと思う。

やっぱり栴檀は双葉より芳しかったのだなあと感激し、わがことのよう嬉しかった。

広響と共演しに当地に一度やって来て、あの時はグリーグのピアノ協奏曲を熱演した。迫力のあるダイナミックな演奏に私はしびれた。

出口で彼の演奏したショパンのピアノ協奏曲第1番のCDを買ってサインをしてもらい、がんばれよと声を掛けた。何者かと彼は怪訝な目をして私を見つめた。

これが正に一期一会の瞬間であった。

聞くところによると最近は広島の音楽学校でも教鞭をとり、その関係もあってちょくちょく來広されておられるらしい。

別に会いたいとは思わないが、私の半分にも足りない前途遼遠の若者だし、この快挙を礎に、今後ますます立派な精進を望みたい。

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2010年5月15日 (土)

老いのたわごと

昨日はいつか録音したショパン生誕200年記念の終日番組などなど16時間分をDVDにダビングした。夜中の12時過ぎまでかかった。ときどきうとうとしながら終るのを待ったので今朝は起きるのが眠かった。
今早速掛け直して出来具合を聞いている所である。
当日は何か用事が出来てほとんど聞いていなかったから、今聞き直している訳でもある。

5月になって随分暖かくなったのだが、老骨には朝のちょっとした冷たさが気になる。
我が家の建物の構造にも原因があるのかもしれない。
2階と1階の寒暖の格差があり過ぎる。日によると2、3度違う事がある。
ぶつぶつ言った所でてめえの家だからどうしようもない。

私は本来2階住まいが好きなたちであるようだ。青少年時代から,読書好きで引きこもりの激しかった私は、親離れするとすぐ二階に勉強部屋というのをしつらえてもらって、其処での毎日のくらしが続いた。戦後帰郷してみると爆撃を食らって跡形も無くなっていて、しかたなくバラックで当座は過ごした。
3月もしないうちに東京に出たりして、転々とした人生が始まったのだが、途中10年ばかり職が安定したときには,家内の里の空いた二階部屋に転がり込んだ。

事業に失敗して,転々を再開しても,二階以上の高い所に寝起きする事が多かった。
そしてオイルショックの年建てた此の家では、娘たちを嫁に出してから、もう30年くらい二階暮らししているのではないかと思ったりしている。

永年階段を上下しているので、どこにでかけても階段の昇り降りには自信がある。
ただ今度の立石寺の1000段には参った。半分がやっとだった。しかも下りの500段は膝がもう弾力を失ってどうにも困った。てすりに縋って何とか下りられたが。
翌日ガラス館でわずかの段差で転んだのも、この失われた弾力のせいだったに違いない。

老残はもう争えない。
つい一昨日も腕を振った途端に綴じファイルの角で指二本の皮が剥かれてしまった。
大した傷ではないが出血が大げさで我ながら慌てたりする。風呂に入っても,右手が使えないので半分しか洗えないし、朝も洗顔を省略ということになる。

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2010年5月16日 (日)

老人はもう半人前でもない

朝花火が上がる。何事だと聞くと、家内が町内の運動会だと教えてくれる。
足ごなしに行ってみるかと私が言う。

昨夜入浴の時使った、ポリ手袋をはめて、なんなく顔を洗う。うまいものが出来てるんだなあ。
顔の傷と違って、指の怪我はなんでもなかった。
それにしても永い事顔を洗わなかったな。便利な方法があることに気づかなかった。
元来無精な男だから一向気にはならなかったが、やはり洗ってみると気持ちがよい。

足もよく怪我をするのだが、ポリの足ふくろなんてないのかな。一度百円ショップあたりで探してみよう。

人騒がせな”IQ84"という本が、本屋の店頭にうず高く積まれてあったので、一冊買って帰っていた。
寝転がって読むのだが重くて長読み出来ない。ほん未だ序の口だが,いっこうに面白くない。失敗したかな。

娘が大分前に、プリントした写真は変色が早くて駄目だ、DVDに入れたままの方が良いから、拵えてくれと言った。やっと最近一応4枚に分けて出来上がったので、送ってやったのだが、なんとも言っては来ない。
娘等の赤ちゃん時代から,皆取り込んである。
あまり嬉しい気はしないかも知れないが。

それにしても写真が変色する事は昔の写真でも同じで,経年と酸化の問題だ。
50年以上古いものでも,保存が良ければほとんど変色していない。しかし百年、二百年となるとそれはやはり無理だろう。
DVDという技術がいつまで残って行くかという問題でもある。先の事はもう分らない。

昼前になるとかーっと日射しが暑くなる。とても歩いて出る気にはなれない。
要らなくなったVHFアンテナを撤去にかかる。5mの支柱に乗せたのだから,倒れない様に四方八方に針金を引っ張っているので,それを切るのも大変。脚立を持って来てもたわない。
最後にはとうとう何とか全体を横倒しにして,鉄線を除去する。
半日たっぷりかかる。老人は何をやっても駄目だ。
運動会を見に行くどころではなくなってしまった。

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2010年5月17日 (月)

馬鹿げた事

続き始めると連日好天気が続くものだ。
昨日はまるで夏日となって,暑くてとても外出出来そうになく、運動会もあきらめてしまった。

家に居ても暑いのか寒いのか、身体が戸惑って体調が変になったようだ。
夜は疲れて死んだ様になって眠った。
今朝こうして起きられたので、まだ生きてはいるらしい。

千代からDVDが届いたとメールをくれてる。DVD4枚になったので自分でもその分量に今更驚いているのだが、jpegに変換したものだから、本来のpictの何分の一かの分量に縮まっている筈である。元のママなら10枚以上になったかもしれない。恐ろしいことである。

考えてみると、まだこうして変換が出来たから良い様なものの、同じアップルでも最初に古い器械で保存したものは、今の器械では読み取る事が困難である。勿論ウインドウズ機では全然受け付けない。どんどん進化の激しい時代だから、現在のものがいつまで通用するか甚だ疑問である。まあどうしようもないな。
バカらしいから止めとけと言われそうだが、先の事はどうでも当座役に立てば良いとしなければ何事もなりたたない。

午前中に門脇の丸く仕立てたツゲが冗長して、門扉に近づき過ぎ邪魔になったのでその1本をのこぎりや電動のこぎりを使ってとうとう取り除いてしまう。根っこは残ったけどそのうち枯れるだろう。将棋の駒になる位だから案外固くて驚く。

ここの所肉体を使う事が多いせいか昼寝の度合いが深いのを感ずる。
昼なのにぐっすり2時間位眠ってしまう。
何をやっても人並ではない。ぽくっといかないかな。

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2010年5月18日 (火)

病院通い

診療予約時間が9時となっていたので、そのせいか或は9時という時間がみんなに都合が良い時間なのか、総合病院の駐車場は既に十数台の車の列が門前に出来ている。

列のけつに就かないでいるといくらでも後から後からと割り込んでくる。

都合よく9時には診察してくれたからいいのだが、やはり列を作るのは嫌だから、木曜日の8時半というのにしてもらう。8時半という診療開始は木、金しかないらしい。

だから次は6月24日ということになった。

幸い最近病状は比較的安穏で気になることは滅多に無い。

ときどき発疹が出来るのはもう仕方が無い。チガソンも半分にしてもらう。副作用の方が嫌だからである。

私の前に座っている年配の女性が、待っても待っても自分の呼び出しが無いと怒り出し、受付嬢と口論してとうとうこんな病院に来るものかと捨て台詞を投げかけて帰ってしまった。細身の上品な奥さんだったが、普段から女房関白のうちの奥方だろうか。

大病院の混雑は今に始まったことではない。誰しも困ったものだと思っているが、名案は無い。せめてもの予約制度なのだが、初診者には案外厄介なのだろうな。

今日始めてセーターを脱いだまま行動する。急に夏になったかという感じである。

窓から吹き込む風が涼しくて気持ちが良い。前から来る風だから、多少海の空気も混ざっているに違いない。後ろはすぐ7百米の極楽寺山だし、昼は海、夜は山からと、年中綺麗な空気に育てられていて云うこと無し。

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2010年5月19日 (水)

老い先日々疎し

昨夜来の雨が音さえ立てて降り続いている。
ダムの水はこのところ余って、先般も勢い良く放水している映像が放送されていた。
マア良い事だが、出掛けなくてはならないときはうっとうしい。
毎日仕事のある人は大変だな、私のはもう昔のことになってしまった。いや、あまり気にしなかったかな。

今度の怪我が思った以上にひどく、二つの指にまたがって傷が出来てふさがらないので、治療が面倒だ。明日の同窓会までには治ると思ってたけど治りそうに無い。大げさでも包帯でもして行くか。

最近歩くのに時々よろよろして心もとない。やはり足腰が弱ったらしい。
皆元気な仲間の前だから、すこし格好つけないといけないのだが、杖を持ち歩くことになりそうである。参ったなあ。

思い出してみると私の縁者では不思議に杖をついて歩き回った年寄りは思い出せない。
早死にしたものは別として,長寿のものは皆足腰は丈夫だったようだ。もっとも母は82才で脳梗塞で倒れ、約7年半殆ど寝た切りだったから、関係ないが。
家内の両親も90過ぎて、死ぬまで杖を引く様な事は無かった。
私が嚆矢となるのかもしれない。

雨午後遅くまで降り止まず,霧深くなりて煙雨益々濃し。夕景早まり従容としてまま黄昏れんか。

”1Q84”やはり老人のしょうには合い難い。推理が七面倒くさくて,飛ばし読みしてあらかた読了したが、私には藤沢周平の方がスラスラ読めて楽しい。
流行作家というのはこんなものを書くのかいなとわかっただけでもいい。

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2010年5月20日 (木)

卒寿の同窓会

雨は上がっているが灰色の雲が空を埋め尽くし,直ぐ百米先が霞む凄い霧の朝。
これが最後の同窓会になるであろうとやはり気になって5時過ぎ目覚めるともう寝ては居られない。6時起床。
偶々書棚に挟まっていた母校の昭和33年(1958)の同窓会名簿から、同期の者の名簿を複写し、5部程プリントして今日の議題にもと持参の用意をする。
4名の准卒者(4年で上級学校に進んだ者)を含めて109名の卒業生中25名が既に此の名簿上で死亡と記載されている。殆ど戦死者だろう。

このうち何人生き残っていることだろう。今日の話題として友を偲ぶよすがとしたい。
もちろん進学校、勤務先、住所なども併記されている。改めて知る事も多い。

10時過ぎ家を出て会場の岩国観光ホテルに向う。駐車場で山口から来た今田君に出会う。
娘さん夫婦に送ってもらって車でやって来たのだそうだ。
娘等は錦帯橋などを見て歩き,終るをまっていっしょに帰るとのこと。
まだ11時にもなっていなかったので、待つ事ひさしで、予定通り12時から始まる。菊谷君と坂川君それに今年の1月に亡くなったという野村君に代って奥さんが出席してくれる。
都合5人で大竹の川上君は体調が悪くて来なかった。

一人賑やかな菊さんが相変わらずの説教調で会をリードする。
私は何時もの通りノンアルコールビールだが、他の連中もさして呑むようでもない。
勢い盛り上がることもない。どうやら今年で最後の同窓会になりそうである。

生きてる奴の話題に集中したが,米国籍の連中がかなりいて、話題は国際的になったりして面白い。弱小野球チームだった我が母校のマウンドを守った堀本君など敵兵になって,戦後こちらに進駐してきたことがあるなどと。その女房役キャッチャーだった今田君が今目の前にいる。
彼は英語がぺらぺらで英語の先生も顔負けだったのだが。
野村君も2世で戦後何十年も米軍の通訳をしていた。当然奥さんからもそうした話題が出たりする。しかしもう回顧想像するしかない。往きて還らず、余りにも時間がたちすぎた。

午后3時になり、今田君が立ち上がる。きぬぎぬの別れにも似て、立ち去り難く,野村さん,私と続いて立ち上がりながら辞去の言葉をつぶやく。

こうべを上げれば、城山の若葉が桜花にすっかり変わって美しい。
めぐらして一路帰路に向う。
20分にして帰宅。家内驚く。しかし老体はやはり疲労激しく,なにはともあれ、何時もの通り午睡に入る。

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2010年5月21日 (金)

ニューギニアで働いたヨット(プラオ)のこと

いい天気だ。家内も私も庭に出る。せっせと草をむしるのは家内。ぽつねんと見守るのは私。

昨日今田君からせっつかれたので,ニューギニア戦記を読み返す。
適当にチェックを入れて、この後に転記する事にする。
何時死ねるか分らないから,諾ったら直ちに実行しなければ、約が果たせないかも知れない。
いつもそうした脅迫観念の下に暮らしている。ある種の緊張があっていいかも知れないと思っている。

絶えず良い音楽を聴きながらこうして生活している。家内は私に習って窓を開いて応接間のステレオを庭に流している。
時々外交員などが、不思議そうに言い音楽ですねと世辞を言う。優雅な年寄りと思えばそれで好し。

昨日
今田君と私は偶々同時刻に同じ駐車場に並んで入るという奇遇にぶっつかって,私たちの同窓会は1時間も前から始まった。
予め彼に渡す為に用意していたブログ集を早速手渡し,彼の編集したニューギニア戦記の受領謝礼とその転載の件を予め念押しした。以前了承して呉れている事の繰返しだから、全く異存なくこんども了承してくれ、むしろ特設水上隊の事やヨットでアラフラ海を何千海里も走り回した事を是非転載してくれと懇望される始末であった。

彼の言う通り、この特設水上隊は私の想像もしてない,恐らく日本国民全部が知らされていない,特異な戦時輸送隊だったと思われる。
終戦直前まで約2ヶ年に亘りアラフラ海周辺の主として糧抹輸送に貢献した土着民帆船(プラオ)部隊の32隻131名であった。

以下今田君の懇望もだし難く、彼が記述した昭和18年5月6日の創設から昭和20年3月2日解散に至るまでの行動のすべてをそのままここに転記し紹介したい。
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昭和18年5月6日師団野戦倉庫隊に海上輸送隊として特設水上隊なる特異性のある輸送部隊が新設され,昭和20年3月2日解散した。ほぼ2カ年間この地方のプラオという帆船をその船員共々に雇用して,この時代にあっても非近代的な輸送部隊が編制されることとなった。
この輸送部隊が編成された発端はバボに飛行場を建設するため軍が徴用した現地労務者の宿舎を建設する諸材料、そして彼等の食料であるサゴ椰子の澱粉とこれを固めて焼いたサゴレンベンの他タピオカ等の主食と、この他に副食の鶏や魚、野菜等をベラウ海辺の集落で集め、これをバボに輸送するために作られた部隊であった。そしてこの対象となる労務者は一時100人を越え更に増える事になっていたので、この水上隊の本務はこのパプア人労務者の住居の建設の材料の木材や椰子の葉で編んだ屋根の材料アタッブ、そして彼等の主食であるサゴ澱粉やその加工品と、副食の鶏肉、魚、野菜等を今まで以上に多く買い集め、プラオという帆船でバボに運ぶ事が仕事であった。しかしその後一時は100人を上回りつつあった彼等も、引き続く空襲によって次第に減って行き、この水上隊の主目的の任務が次第に薄れていったのであった。

しかし、此の当時日本軍は各地の戦線でも戦局は急速に厳しくなりつつあった。この西ニューギニア戦線では此の時直接的に敵との戦闘は全くなかったが、後方からの輸送力がとみに減退し、ために後方ジャワ方面からの諸物資の補給が急激に減少しつつあった。
ここにやむなく駐屯地内で食料その他の物資の自給自足を余儀なくされつつあった。
そして現地で主食、副食から嗜好品とありとあらゆる物資を調達し、これを各隊に輸送し給与する事が必要となって来た。そして此の調達と輸送は軍の機動力である大小の輸送船舶等が少なくなったことから、ここに特設水上輸送隊の物資の収集と輸送力に頼らざるをなないことになってきたのである。

さてこの様に師団各隊への諸物資の収集と輸送の任務を担った特設水上隊の編成は次の通りであった。
まずその隊員として、輜重兵第5聯隊から下士官以下35名を派遣し、その隊本部をバボの埠頭に置いた。
隊長は半年後に憲兵隊に転出したが陸士出身の磯辺少尉でその後任はなし。隊付き下士官は龍谷大学出身で西広島で僧侶だった前田軍曹、総務事務関係の功績調書、陣中日誌の記録その他総務事務は今田上等兵、徴用されたプラオ(帆船)の借り上げ代金のほか、購入した食料品等の物資の買い入れ代金の支払いの経理事務は、下関商業を出て信用金庫に勤務していた矢吹上等兵のほか、広島県三原市の中学校を出て農業をしていた衛生兵の島上等兵と此の4名が本部要員であった。
この他、32隻の各プラオに乗船して、物資の収集と輸送に当たった隊員は、山口高商を出て銀行に勤務していた兼重上等兵の他29名であった。そしてこの地方各地から借り上げたプラオ32隻を操縦する現地人の船長以下131人を加えたものがこの隊の構成のすべてであった。

ここでこの輸送に使った木造のプラオについて話してみると,水上隊が借り上げたプラオは,2本マストで8tから13tの重量で、船長以下5、6人の船員で操縦する船が14隻、1本マストで3.5tから7tで3、4人の船員で操縦する船が18隻と,併せて32隻であった。この借り上げたプラオはどのクラスの船も、嵐に巻き込まれ、その高い荒波を受けて転覆しない様に吃水を深く取り,更にその船底には重心を低くする為にかなりの量の石が敷き詰めてあった。甲板の3分の2くらいに椰子の葉で編んだアタップで屋根を三角形に葺いた苫が作ってあって、ここに運搬する積み荷を入れた他,乗客や乗組員の部屋として使っていた。

プラオの長さは大型で30m、小型で25m弱であって、幅は共に3mくらいである。後甲板の中央に舵棒が突き出していた。
船長はこの舵棒の横に座って,片手で舵棒を操作し船を操る。
追い風に乗ると船体は20度以上に傾き、12、3ノットと快走するが、凪で風が落ちると櫂を漕いで進む以外に動かず,全く処置無しとなる代物である。
さて、ここで変な事で尾籠な話しになるが、舳に2mくらい突き出している棒の先から海面すれすれの舳先下に太い鎖が緩く渡してある。これは航海中に大の方の用をたす便所の役目を果たすものであった。上の横棒を両手でしっかりと握り,大きく両足を横に開いて鎖に乗りかかる。海面すれすれまで尻を落としてしゃがみ、遥かかなたの水平線を眺めつつ用をだす。海が荒れてるときは尻を波で洗われることもありうるが気分は爽快。時には大きな海亀やマンタ(えい)等が海に沈んで行く姿を見る事もある。用が済むと海水を左手で掬い後ろを洗って始末する。この地方の住民は回教の信者が多く右手は神聖で,左手は不浄の手となっている。
左手では絶対に食事を取らないしまた左手で人を叩く事は極めて相手を侮辱したこととなるので、常に用心して,この戒律は厳に守らねばいけないことであった。

この他回教の戒律では、豚、猪等の豚類の肉は食べると筋肉が腐ると信じ絶対に食べない。これを食べたものには当分の間まったく近寄らないという戒律があったので、至る所に子豚を引き連れた猪の群れが我が物顔でうろついていたが,殺してこの肉を食べる事は全くしなかった。後にセラム島に移住した当初これを軽く考えてこっそり食した所、これで船員をはじめ隊本部の使用人が当分の間我々の周辺に近寄らないのに弱った事があった。
これに懲りそれ以後セラム島を去るまでこの肉にはまったく手をつけなかった。
さて
余談はさておき、このプラオは昔からこの地方の海の足であり,人々の行き来や物資の輸送には欠かす事の出来ない乗り物で,遠くはバンダ列島、ジャワ、セレベス、セラム、ニューギニア島とこの周辺の海を縦横に走り回っていたという。
このプラオの船長ともなると年期が入っていて,簡単な磁石一つで後はその地方の潮の流れ,季節による風向き等を熟知して居り、また夜には星を見上げて走る方向を見定めるなど何時も正確に目的地についていたという。
(つづく)
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2010年5月22日 (土)

鳳陽会総会へ集団参加

今にも降りそうな空が午後4時になっても変わらない。やはり予報通り夕方にならないと雨にはならないらしい。

家内の言いつけで牛乳を買いに行く。明日のがないらしい。
ついでに夏みかんを一束買って帰る。
我が家ので味をしめ、郷愁を憶えて時に食べたくなる。

土田好治君が大阪で開かれる同窓会の全国大会に出席し,その懇親会を借りて旧交を温め様ではないかと,電話で私に提案があり、それは都合が良いと賛成する。水戸君も出席するというから,私も協力して,あちこち電話し山田、坂口、畠中の3君を口説き落として参加予約を取り,結局6名参加という事になる。他人の牛蒡で法事をするがごとき有様になったが,この際形式はどうでも良い集まって元気な顔を見さえすればいい。もう飲み食いはどうでもよいことであるのだから。全国総会に卒寿の退役老人が6名も面をならべると,ひと話題になるかな。

私が全学同窓会の全国大会に出席したのは、もう4,50年前にでもなるだろう1回きりである。あの時も同期の者5、6名が示し合わせて参加した覚えがある。今度は上席に座るのだから肩が張る事になりそうだ。

まだ2旬を残しているから,健康が保たれればいいがと,今度はこちらが心配である。
一昨年大学を訪問した際いろいろ御高配を賜った藤井学部長がご出席であればお礼を申し上げたいとも思っているのだが。
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プラオ、バラッツ(西風)を帆一杯に受け、800km余を走破する

西部ニューギニア島バボに駐留していた第5師団はその師団本部をボンメライ地区の海岸のカイマナに移動することとなった。これはこの島の東部戦線の緊迫した戦闘を牽制し、少しでも敵の矛先を逸らす意図があったのかと推察したが,師団傘下の広島、山口及び島根の歩兵3部隊と、工兵、野砲の2部隊の戦闘集団部隊をオーストラリア大陸に正対するタンニバル島トケイ、アル両群島に分散配置をした。なお輜重隊だけは諸物資の中継輸送の関係か、セラム島でアンポン市に近い島西部のビルに転進することとなった。
特設水上隊もこの師団の転進に追随して自力で帆走し、約800kmもあるカイマナに転進することとなった。

昭和18年10月9日敵機の攻撃を気にしながら隊員32人と現地船員131人は、12隻のプラオに分乗して、その日の朝から夕刻にかけて順次バボの桟橋を出発した。
バボでの7ヶ月間を私は本部事務所で事務に専念していて、プラオに乗るのはこの日が始めての経験であり、一抹の不安を抱いていた。

私がこの時に乗ったプラオは、この船を作った地名の「トラーム」を船名としていた。
2本マスト10tのスマートな船で、その走りはとても早いということであった。船長は50歳前後で経験豊かな男といい、船員は18歳から20歳位の若者4人、この中で肌の色は黒いが、その丸い眼がキラキラと輝いていたハッサンという若者は,特に私の世話をよくしてくれていた。今でも人の良い彼の顔ははっきりと思い出すことができる。

さて、初めて乗ったプラオで先ず感じた事は、古い木造船独特の異臭が漂い、また寝起きする苫の中が狭く臭くその丈が低いことであった。一見してこれからカイマナまでの長い船旅に耐えられるだろうかと思った。しかし人間は環境の変化にはすぐ馴染むものらしく、2,3日経つと異臭など全く気にならなくなった。
恐れていた船酔いなどもどこ吹く風と昼間は舷側に足を支えて苫の屋根に寝そべり青い空や水平線に沈む大きな真っ赤な太陽を眺め、夜は満天にキラキラ輝く星を眺め、また船尾に尾を引いて流れる白い航跡を眺めつつ時が過ごせるようになっていた。

バボ桟橋を発って軽く波の立つベラウ湾の南岸に沿って西に向かって走る。ただ目に写るものは海中に深く根を張って密生している、マングローブに覆われた濃緑の海岸線がつづいているだけで、全く変化の無い景色だった。

なお、バラッツに逆らって西に走るためには常に後ろから帆に風を受ける必要があり、度々左右に方向を転じながら走る事となる。このため意外に時間を食って地図上では近いと思っていたカバス湾まで丸3日も掛かってしまった。
カバスの見えにくい狭い入り口を通り抜けると大きな湾が眼前に広がっており、この広い湾内には驚くほどの鮮やかな緑に覆われた無数の小島が存在していた。正に仙台の日本三景の一つ松島をここに見る景色であった。

湾の深く切り込んだ奥に入ってゆくと緩く湾曲し扇形に広がった白砂の浜がありこの真ん中あたりにココ椰子の林があった。
この椰子林周辺に椰子の葉で編んだアタッブで屋根を葺き壁を張った住民の部落があったが、上陸してみると戦争のためか部落には全く人影を見ることはできなかった。船員たちは良く知っているところらしく慣れた様子で何処からか飲料水や薪を提げて帰りプラオに積み込んでいた。

ここで丸一日プラオの点検をした後名残を惜しみつつこの美しいカバス湾を後にする。次いでサテータ島を遥か水平線に望むあたりから追い風に変わり、帆一杯にバラッツを含みかなりの速度でファダカル岬を左手に回りこんで順調に走る。

しかしカバルを発ってから4日目の夕刻風が全く吹かない凪となった。
深紅の大きくなった太陽が西の水平線に沈んでから翌日の午後までプラオは波のうねりに乗ってノックを繰り返すだけで全く前に進もうとせずうんざりする。
一昼夜この状態が続いた後その日の夕刻から陸のほうからの風が立ち、これを受けて走り出したプラオにほっとしやれやれと胸を撫でおろした。

バボを発ってから11日目に西部ニューギニア島ボンメライ地区の中心の基地ファファックの港に到着する。この町はこの地方の物資輸送の中継基地らしく石畳の広い埠頭の階段を上がると、右手に幾棟かの倉庫が立ち並びその合間を通して奥に向かって町並みが広がっていた。かなりの人が住んでいたと思われるも今は全く無人であった。
バボで時間をずらして出発した上にそれぞれの舟の速度が違うために、ばらばらになっていたプラオをこの地で纏めてその無事を確認し、船体、帆その他について点検、修理を行い、また船員の休息の為4日間をここで過ごす。

早朝ファクファク港を発ち順風に乗って帆走すること4日目カラヌ島向かいの深く切れ込んだ無名の湾に入る。素人の私たちの目にはこの湾の入り口は全く判らなかったが、船員たちは良く知っているところらしく全くためらうことなく狭い入り口に舳先を向けてするすると湾内に入って行った。

湾に入ってみるとぐるり四方が30mは越す高い絶壁に囲まれ、その上ジャングルに覆われて薄暗い。そして驚いたことには東の正面にこの高さの断崖から直接海面に向かって幅広い滝が水煙を揚げて滔々と海面を叩いている威容に驚いた。
船員たちの話ではこの湾の中でこの滝が落ちているところで淡水が海水と交わっている辺りは魚の宝庫となっているという。

彼らの勧めに従ってカヌーを降ろし魚つりを試みたところ、ちぬ、石鯛に似た中型の魚が面白いように釣れた。ここで丸2日魚釣りに励みこれを干物にして後々のためにとしっかりと蓄えておくことが出来た。
その後この湾を出てマンタウイトワ島を微かに右手に望みつつハイビノ岬を大きく左に迂回してカルフまで6日、目的地のカイマナの」師団本部野戦倉庫隊到着の申告をしたのは、バボを発ってから丁度1ヶ月余であった。

兎に角この1ヶ月の間ひどい風に遭うことは一度も無く、また何回か敵機の姿を見かけ遠くに爆音を耳にしたが、一度として攻撃されることもなく無事にこの航海が終わった事は、幸運だったとしか言いようが無いことであった。まあ、現地のプラオでの航海だったから敵機は案外この地方の民船と思ったのかもしれない。
その後カイマナから約5kmはなれた指定された箔地に上陸し、あらかじめ作ってあった隊本部の事務所(隊員、船員の休憩、宿泊所を兼ねる)に落ち着いた。

数日後無事全船が到着したが、隊員はこの事務所に集まり椰子の花芽を切って採った樹液を蒸留して作ったソビーという酒で乾杯をし,心から無事到着を喜びあった。なお今後こことカイマナとの往復は自動車のエンジンを付けたカヌーで行うことにした。

この航海中滝のある湾で釣りをしたと話したが、この航海中にはこれとは別にトローリングも試みた。この豪快なトローリングのことにちょっと触れてみようと思う。
このプラオで1ヶ月に亘って移動するに際して、船員たちはいつも忙しく立ち働いているが、ただ乗っているだけの私たちには飛行機の監視をする他には何もすることが無い。そこでいつもプラオに乗っている隊員が暇つぶしに教えてくれたのがこの帆走中のトローリングであり、その豪快さは言葉では言い表せないくらいという。
プラオが7,8ノット以上で走り出すと、大きな釣り針をつけた釣り糸を30m以上後ろに流してこの釣りを行う。このトローリングの仕掛けは現在と違って昔、いやここ戦地ではすべて手作りのものを使った。
これは先ず釣り糸だが白い軍用靴下をほぐして、これを2本づつ縒り合わしたものを更に3本縒りあわせ、出来上がったこの糸にマングローブの樹液で渋をかける。これを道糸としこの先に細い鋼の針金を3本強く堅く縒りあわせた60cmくらいの者をハリスとして結ぶ。釣り針は焼きを入れた手製のもので魚が外れないように切り返しをつけた4cm位のものを付ける。
そして、この釣り針を隠すように3,4本の白い鶏の羽毛と、その上に40cmくらいの芋づるの茎を縦に細長く幾条にも裂いたものを細い糸で釣り針の針の上に巻きつけるとこれが疑似餌となるのである。
帆走中にこの釣り糸を後ろに長く流していると、1から1.5mに及ぶ大物が食いつく。時にはプラオと魚が並行して走り魚が急に反転すると、プラオの速度と魚の反転した力が加わって鋼の釣り糸が折れてしまうこともあった。
この釣った魚の名はそのときはよくわからなかった、今考えるとかじき鮪か鰆の類ではなかったかと思う。

釣った魚を船に引き上げる際、物凄い魚の力で引っ張られるので手袋だけは嵌めて置かないと指を切られる恐れがある。やっとのこと魚を甲板に引き上げると、待ち構えていた船員が丸太棒で頭を殴って殺し,器用にすぐ魚の身を捌く。私たちに「トゥアン刺身か」と尋ね一部を刺身を作ると、大部分は大きく裂いてこの切り身に塩を塗り、天日で干して保存食とする。

カイマナへの航海は経理担当の矢吹上等兵と二人だったが、釣り果は1mぐらいのものが1匹だけ(後のセラム島では3匹)だったが、このトローリングの爽快な気分を味わった物である。と同時にこの生きの良い刺身や生しびの切り身を軽く焼いたものを肴に、船上で飲んだ椰子酒のソビーは特別の味で、今でも忘れられないものである。
(つづく)(今田君手記「西部ニューギニア戦記」より)
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2010年5月23日 (日)

西部ニューギニアのバボという街

昨夜から引き続いてかなりの勢いで雨が降り続いている。
終日雨の一日になりそうな気配、四面もやに包まれて,夜の明けるを覚えない。

昨夜遅くなって,畠中君から電話で「家内が具合が悪くなったので同窓会に出席ができなくなった」と言って来る。今更どうしようもない。

今田君の労作西部ニューギニア戦記を続ける。

次の話題は第5師団が基地とし,飛行場建設に当たった”バボ”という街だが、ニューギニアの西部、恐竜の大きな口見たいに開いた湾、即ちベラウ湾のその一番奥深いところにある街である。
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第5師団の主力の部隊は、昭和18年3月5日ジャワ島スラバヤ港を出港して、アンポン島、そしてセラム島の北側を経由し、3月11日西部ニューギニア島ベラウ湾中央の南岸に位置するバボに上陸した。此処は湿地と鬱蒼としたジャングルに囲まれた約40km四方に広がった台地であった。その北側に海中に突き出ていたのは、海中に浸かっていても永久に腐る事はないと云われる鉄木(アイアン・ウッド)で組んだ桟橋であり、ここがバボに出入りする船の唯一の波止場となっていた。そしてこの両岸に東西に伸びている海岸線は、海中に深く根を張っているマングローブの樹が繁茂していて、埠頭以外には全く出入りの出来ない台地であった。
この台地の住民は既に逃散して全く居なかったが、以前はこの地方の豊富な木材の集散地として、この奥のジャングルから切り出されたチーク材や鉄木等木材の集散地で、集積場、加工場、倉庫及び住宅等が数多く点在していた。師団の各部隊がそれぞれの建物を兵舎とし、やっと落着いた1ヶ月半ばかり経った4月末の夜、10時過ぎから約2時間余りに及んで始めての空襲に見舞われた。上陸間もない頃だったので近くに作っていた浅い簡単な防空壕か、個人用の蛸壺に避難して運を天に任した。幸にこの夜は大した被害はなかったが、今後堅固な防空施設は絶対必要であった。よく考えてみるとこのバボに対して10機以上の爆撃機が来襲すれば、これは東京都に大して200機以上の来襲に匹敵する激しいものではないかと思われた。その後この爆撃は月に2度の割で続いた。この為には避難施設は早急に作る必要があった。しかし、このバボは湿地帯の上にある台地、為に地下水位が高いため、掘るとすぐ湧水するので深く掘り下げることはできなかった。そこで誰が智恵をしぼったのか判らないが各隊に伝わって来た話は、各隊で貯蔵している米の麻袋を砂嚢代わりに壕の上に積み重ねてみたらという話しだった。早速壕の上に麻袋に入った40kgの米袋を、10段ほど積み上げこれにシートを掛けておいた。結果として米を積んだ防空壕は思いのほか頑強で、その後2、3回の爆撃では爆風や破片を完全に防ぎ、又たまたま直撃弾を受けた壕もあったが、壕内ではかなり強い衝撃を受けるものの、被害は上部の数段が飛散したに留まり、この壕に避難した者達は全く被害を受けなかった。

私はこの後この防空壕の安心感からその入り口に立ってそっと夜の空と陸との戦闘の様子を覗いて見た。
それはいつも敵爆撃機は上空に達すると同時に、暗い夜空に吊り星の様な照明弾を数十個ばらまいて、昼間の様に明るくなった空を敵爆撃機は次々に8の字を描きながら反復して爆撃を繰り替えす。爆弾は空を切り裂く様な音を立てて落ちる。下からこれに対応して5発ごとに曳光弾の混じった高射砲、高角砲そして高射機関銃を激しく打ち上げる。すさまじい爆発音の中で曳光弾の光が尾を引いて夜空に吸い込まれて行く。毎度の事ながら打ち揚げ花火にも似て美しくもあり、又凄ましくもある光景であった。

この師団を挙げてのバボでの飛行場建設に付いては,その後このバボを去る日まで,日の丸を付けた飛行機がここから飛び立った光景を見る事もなく、その爆音を聞く事もなかったことは残念であった。
次にここバボでの飛行場建設に付いて少しふれてみると、軍がこの造成の為に雇った労務者は、このニュウギニア島の土着のパプア族で,ここでは通称グヌン、オラン(山の人)と呼ばれる人たちであった。そして彼等が通常生活している集落は、このニューギニア島の中央を東西に走るスタンレー山脈の中腹で気候温暖な地帯に住む種族であった。その肌の色は真っ黒で頭の毛は短く縮れまた唇は反って太く常にビンロージュの実を消石灰をまぜて噛んでいるので、口元は真っ赤に染まり,衣服は木の皮で作った前垂れ1枚で局部を覆っただけ。その姿は正に人食い人種そのものといった恐ろしい風貌、風体をしていた。見かけは悪いが性格は穏やかで,力は強く従順でよく働くという事であった。彼等の宿舎はバボの片隅にあったが,引き続く爆撃に次第に恐怖を抱き,日が経つに連れて逃散するものが増えていったようであった。
飛行場の完成を見られなかったのは,この辺りに原因があったのではないかと思う。
なお、彼らの住んでいた山脈の中腹には、この地上に生息している美しい極楽鳥が飛び交っているという。
ところで、このバボに来襲した敵機は主として米国の双発ボーイングB25爆撃機であったらしいが、たまにはコンソリデーッテッドB24大形爆撃機も来襲していたようでもあった。特に後者の機体にははりねずみのごとく40ミリの機関砲のほか20丁にも及ぶ火器を装備している超大型機で、この機銃掃射の様を後々ゴロン島の湊で低空で日本軍の機帆船を襲う姿を間近に見たが,攻撃にもの凄い威力を発揮する爆撃機であった。
(つづく)(今田勇君手記「西部ニューギニア戦記」より)
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2010年5月24日 (月)

うるさい日本語

雨の朝。よく降るなあ。
午前6時半の気温20度、一瞬寒暖計を疑う。
外気はひんやりとして、疑うに足る。
左手のサイドが馬鹿に痒い。一寸かゆみ止めを塗る。

昨日のラジオで誰かが”さわやか”は秋の季語と云ってたが、外気はそれでもさわやかで、すっきりとはちょっと違うな。
同じ日本でも、場所によって暑さも寒さも感じ方が違うのでは。季語だからといわれても、詩人ではないのだから、牛や馬といっしょだ、こちとらは。

沖縄基地はへのこに決めたと鳩山総理はいう。地元の抗議活動は激しくなるばかりだな。バンコックのような流血の惨事を起こさないように祈るばかりだ。

午前8時、雨は上がり青空が早くも覗いている。
どうやら早くも天候回復と行くらしい。

午後になっても風強く、雲の去来が激しい。
吹き込む風で新聞も煽られてしまい、落ち着いて見られない。慌てて窓を閉めて廻る始末。

午後水戸君から何か自分がやる役目は無いかと電話がかかる。あったら連絡するからという。そして元気な顔が見たいから待っとれよとも言ってしまう。

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2010年5月25日 (火)

いつのまにか、又”さざん会幹事役”

雨雲と黄砂が入り交じった様な灰色の空が相も変わらずすっぽりと覆いかぶさっている。
風でも強く吹かないと青空は見えない。
空気環境はもう往古を取り戻す事は不可能と思わずにはいられない。
文明の進化とはこういうことかと今更の思い,50年100年先を考えると恐ろしい。
やはり人類は自滅への道をどんどん走っているのだろう。

今朝も気温は18度,初夏のそれに間違いは無い。さわやかにはちょっと遠いか。
8時半すぐ目の前まで靄っている。

11時半陽光がやっと深い霧を通り抜けて我が家までやってくる。
水戸君が孫の結婚式とぶっつかっていたのを忘れて鳳陽会出席を申し込んでいたが,出来なくなったと断って来る。早速鳳陽会にも電話を入れて先程照会のあった33期5名出席届けの件は4名出席に変更してくれと申し入れる。
やっぱり幹事役にひとりでになってしまってあちこち連絡に忙しい。

午後になって風が出ると、霧は吹き払われたが、雨雲がせり出して来て天候悪化の兆し。
お天気様はほんとにままならない。

午後家内と一緒に銀行やデオデオなどを回る。
デオデオでは携帯用のハードディスク500GBを一つ買う。¥10000.を切っているのに驚く。SDも2GB1個が¥700.である。DVD−Rも一枚¥20.の相場となっている。
市況がおかしくなるのも無理ないなと思う。
何にしても値下がりの速度が速すぎる気がする。
電気業会は大変なんだなあ。

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(5月23日の西部ニューギニア戦記のつづき)
カイマナ駐留の後、再び遠くセラム島へと1000kmを帆走することとなるのだが、このカイマナ駐留は半年と短かった。しかし、生活を共にしたプラオの現地人船員が病気で死亡するという悲しい事件があった。敵機の襲撃はバボと異なり散発的で平穏、東部ニューギニア戦線に比べると至極平穏そのものであったようだ。

時々早朝に敵戦闘機が定期的にカイマナ周辺を巡回、偵察をする程度でここでの話題は少ない。この偵察にやってくる敵機は確か米軍のグラマン戦闘機を主体に時折カーチスP38という双発双胴の偵察機であった。

そして昭和18年11月から翌年5月までのカイマナの隊の任務は、バボの時と同様に食糧物資等の蒐集と輸送とであった。ただバボの時と異なる点は駐留軍の為にのみ諸物資を集め輸送したということである。これは当時後方からの諸物資特に食糧の輸送は輸送船の激減に加えて伸び切った輸送路に対し敵機、敵潜水艦の攻撃が激しく、輸送は途切れ侭ならぬ様相になっていた。そこでこの濠北地区に展開している各部隊は已む無く自給自足を強いられていた。水上隊もこの各部隊の自給自足を補うよう今まで以上に激しい物資の蒐集と輸送が強いられたのであった。

夫々のプラオは東はモドウイ、ロア、西はカルフ、マンザウイトフ島、北はカイマナ湾奥のタマロメ、イモンバそして東はロボ、モドウイにと分かれて行動し、激しい往復輸送を繰り返した。船員たちにとっても不眠不休の激務となっていたのである。

この為か船員たちの中に足が浮腫み、そして痺れを訴える者が9人に及んでおり、その中の二人は重症で歩行困難になっていたのに驚き、急遽9人を本部事務所に収容し休養させることとした。他方島衛生上等兵をカイマナの野戦病院に派遣して,この病状の報告と共に、今後の対応について軍医の所見助言を求めた。

島衛生上等兵の報告によるとこれは疲れから来たものでなく、原因はビタミンb1不足による脚気症状だといわれたという。そして以後病人の食生活をよく検討して改善することが第一に必要だとのことだった。
この助言に基づいて船員たちのこの1ヶ年の食生活を振り返ってみた。彼らが軍に徴用されてからは水上隊から十二分に米が支給され、船員たちは白米の美味しさにかまけて、従来の混食をやめて米食一辺倒になってしまった。

以前日本でも白米一辺倒暮らしで、ビタミンb1不足から脚気にかかったものが多かったという。
この事例を思い起こしてその後は彼らに対して白米の支給を減らして、旧来のようにサゴ椰子澱粉とタピオカ澱粉の加工品を多くし、副食にはしっかりと野菜、豆類や魚肉等を食べるよう説得し実行に移した。予防として全船員に対してもこの食事療法をじっこうさせる事とした。

結果として新しく患者の発生は見られず、罹病した患者のうち軽い患者は徐々に快方に向かい一先ず安心をした。しかし重症の二人については病院から支給されたビタミン錠などを与え懸命に看護したが、足元に腫れが徐々に下半身に移り、残念なことに終に心臓に痺れが達し息を引き取ってしまった。
早くこの食生活の変化に気づいていればと今でも残念に思っている。

その後この死亡した船員については彼らの宗教によって葬ると共に、プラオ1隻に隊員2人を彼らの郷里に派遣して、その家族に死亡した経過を報告さし、哀悼の意を伝えると共に弔慰金を支給する事とした。カイマナで起きた痛恨の悲しい出来事であった。
(つづく)(今田勇氏手記による西部ニューギニア戦記より)
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2010年5月26日 (水)

南の国の果物の話

所々青空がのぞいてはいるが,黒雲も混じって天気はすっきりはしない。
朝気温17度はまあまあといったところか。
終日雲が垂れ込めて、何時降り出してもおかしくないままとうとう夕方になる。
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本ニューギニア戦記の著作者今田勇氏の経歴の一端を明かせば,昔の高等農林学校(後身は大学農学部)の卒業生であり、その道には興味もあり造詣も深い。その予備知識をもって以下の果物談義を読まれたい。

この南の戦線の駐留約4ヶ年半余の間に口にした果物の話。

南の果物の味は一口で言って甘味が強くこれに加え多少酸味を含み、その上に強弱はあったが異臭のあるものが多い。この中で強い異臭のあるものがドリアンで、何となく臭う物にマンゴーとジャック・フルーツ(通称パンの実)それにパパイヤ等が挙げられる。次に酸味が強く爽やかな味がする果物には、マンゴスチン、ランブータン、ノンナ・ピーサン(バナナ)にトレパン、レーシー(オランダ・ナンカ)等々が挙げられる。
先ずセラム島駐留中に食べた果物は11月頃からのドリアンと、私たちがオランダ・ナンカと言っていたトレパン、レーシーの他、大小のピーサン(バナナ)であった。11月中旬の夜中ドスン、ドスンと大きな音に目が覚めた。これは裏のドリアンの実が熟れて落ちたのだと思ったが、朝を楽しみにそのまま寝込んでしまう。
朝方早速に裏の林に入って見ると、案の定大きなドリアンの実が2個転がっていた。持ち帰ってパラン(なた)で割るとドリアン独特の異臭が部屋中に広がる。中の縦長のほうに5,6個乳白色の柔らかい果肉に包まれた種が並んでいる。これを各自勝手に抉り出し口に入れる。この果物独特の異臭がつんと鼻をつき、練乳の様な至極甘い味が口中に広がる。瞬く間に平らげてしまったが、一同また明日の落果が楽しみだと言いつつ唾を飲み込む。今ひとつこの地方ではトレパン・レーシーというのが別名のオランダ・ナンカを部落の住民がよく持ってきてくれ何時も美味しく食べた。大きな瓜位の細長い果物で全体が濃緑色で小さく柔らかい多数の突起のある皮に包まれていた。手でこの熟して柔らかくなっている皮を剥くと、繊維質の白い果肉が芳香を放ちつつ現れる。この白く柔らかい果肉を口に入れると蕩けるような甘酸っぱい、この果物特有の匂いと味が口中に広がってゆき爽やかな気分になる。
次に南方では何処ででも手に入るバナナだが、私たちは数段に重なって房のついた果柄をそのまま倉庫の片隅に吊るして置く。下の房から順々に黄色く熟してゆくので下から熟れた順に食べていったものだ。しかしこのバナナには種類が多く形も大小とりどりであるのでこのバナナの詳しい話は後に譲ることにする。
事はついでとこの南の果実の話を続けると、5ヶ年間の南の戦線で最初に口にしたものはパパイヤであった。マレー作戦の初期アロール・スター市の無人の英人宅に宿泊した時、庭の一隅に3本のパパイヤの木があった。樹高6,7mの喬木で上部に八手に似た葉柄の付け根に大小取り混ぜて14,5個の濃緑色の実が並んで吊り下がっていた。その実は長さ25cm、幅15cmくらいで糸瓜を短くずんぐりした形。これを縦に切り割ると薄い桃色の果肉が見え、中央に縦に空洞となっておりここから黒い小粒の種がぱらぱらと零れ落ちる。淡黄色の果肉を口に含むと軽く異臭のする甘い味が口内に広がる。食べ慣れるとこの異臭が更に味覚をそそるという。
次にパイナップルだがマレー半島のジョホール・バール市に入った時、この市の後背地のなだらかな丘陵地帯に、広大なパイナップル畑が畝って広がっていた。株の中央に直立した太い茎の上に大きな実をつけたパイナップルの列が、波打つように丘を越えて遥か彼方に伸びていた。手近にあった黄色く熟したパイナップルの実を切り取って、棘のある部分を斜めに切り離してその果肉の一片を口にすると、強い芳香と共に甘みの滴る果汁が胃の腑を刺激する。青いうちに採って缶詰にする人口の甘味に比べると、自然に熟れたこの果肉は驚嘆に値する美味しさであった。
次は前に一寸触れておいたが普遍的なバナナ(ピーサン)。この南の地方では何処でもお目にかかれる果物。太い柔らかな茎の上に芭蕉の葉に似た葉っぱが茂り、その間から下がった太い果柄に鈴なりにだんだんと重なってバナナhanasiwoの房がついている。
このバナナは収穫の適期になるとその幹は至極柔らかいので根元からバッサリと切り倒して収穫する。これはバナナが宿根性の植物であるので切り倒した幹の腋には既に次のバナナの芽が育ちつつあるので、切り倒しても何ら次の心配をすることは無いわけである。この収穫は適期になるとその房の色が青い時に花柄ごとに収穫し倉庫等に入れて置く。バナナはこの貯蔵中に熟れてゆくと、下の房から順々に黄色く熟れ行き、この果物独特の味が乗ってくるのである。
さてこのバナナには色んな種類の物があり、日本の店先で売られている普通サイズのものの他、小振りで味がまるやかで甘いというモンキー・ピーサンとかノンナ・ピーサンがある。
共に大きさは大人の親指大のもので、口に入れると甘い芳香が口いっぱいに広がってくる。また特大のものはブサール・ピーサンと称し、太くて長さ30cm以上に及ぶ。このバナナは果物ではなく青い時に収穫し、椰子油で揚げて主食または間食として食べるものである。そしてその味は芋並であった。
次はマンゴー。この果物は4,5cmに及ぶ大きな木になる果物である。その形は卵または長楕円形等といろいろ違った形のものがある。概ね実の大きさは15cm前後で扁平な種の周りにふっくらと着いている果肉を食べる。未熟のものは固いが熟してくると淡黄色または橙色となってくる。その皮を剥いて口に入れると多少繊維が口に残るが甘い果汁と果肉が口の中に溶ける。その際軽く異臭がするように感ずるが、この匂いがこの果物の特徴でこれで味が引き立てられ、忘れがたい果物になるのである。
ドリアン、前述のセラム島の果物で一寸触れたが、これは南国の果物の中で王様と言われている。一度口にして美味しいと思うようになると、次にはこの果物の匂いを嗅いだだけで何としても食べたくなるという濃厚な味の果物である。
樹高30mにも及ぶまっすぐに伸びている大木に生る果物である。
その果実の形は円形また長楕円形といろいろな形ものがあるが、その大きさは15から25cmくらいである。未熟のものの外皮は緑褐色をして厚くその表面は大きく鋭い棘で覆われている。この実は6週間余で完熟して、熟しきると自然に落果するので収穫期の11月から翌年2月にかけては、この木の下をうろうろする事は禁物である。
落果したドリアンは手で割ることは難しいので、バラン(鉈)等で縦の溝に沿って割ると、5つの房の中の大きな種を乳白色の柔らかい果肉で包み込んだ果実が、3乃至6個くらい並んで収まっている。その一つを指でえぐりだして口に放り込むとドリアン独特の異臭が鼻を突くが反面粘り着くような甘みが口中に広がる。
このドリアンの味は複雑で一口で言うと、コンデンスミルクの甘さに玉葱と大蒜との臭みを加え、更にチーズを混ぜ込んだと言う複雑な味であった。
初めてこのドリアンを口にする人は、先ずこの異臭に閉口して食べることを断念ししまう様だ。しかし、一旦この果物の味を覚えると遠くから漂ってくるこの匂いを嗅いだだけで食べたくなるとの事であった。しかしこの果物の異臭は万人に通用するものではないので、場合によっては人が集まるところ等には持込が禁止されることもあると言うことであった。
マンゴスチン、南の果物の王と言われているドリアンに対して、これは南の果物の女王と呼ばれているものでこれがなる木は余り高くない。この実の大きさは丸くテニスボールくらいで茶褐色の厚い皮で覆われている。丁度上部がはじけて口を開けて白い果肉が見える。割れ目が逆に着いた日本の柘榴といった感じである。
この厚めの果皮を手で割ると丁度蜜柑の実が丸く並んでいるように真っ白い果肉が6.7個丸まって綺麗に並んでいる。その一片を摘んで口に入れると上品な甘味に爽やかな酸味を加えた、シャーペット状の感触が口中に広がる。正に初恋の味だと称するがその喩えの通りの味だと思った。
次はランブータンという果物。赤色の棘のある不細工な外観と異なり、割ると中から半透明な丸まった白い果肉が現れてくる。果汁がたっぷりで甘酸っぱい味は何となくマンゴスチンに似ているが、これに比べると少し淡白であった。
最後にトレパン・レイシーだが、私は当時この果物はジャワ島またはセラム島でオランダ、ナンカと云っていた果物ではないか思った。この果物もドリアンの様に緑色の棘のある薄い皮に包まれている。ドリアンと異なり棘も皮も柔らかいので熟してくると手で皮を剥ぎ取る。真っ白いパルプ質の果肉が甘い果汁をたっぷりと含んで現れ、それを口に含むと爽やかな甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がる。正にパイナップルにミルクを混ぜたような爽やかな味であった。
南の国ではこのほかにアボガド、リュウガン、ジャック・フルーツ(パンの実)等いろいろと話は聞いていたが食べる機会が少なくその味に覚えはない。
(つづく)
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2010年5月27日 (木)

南の国のお祭り(1)

青空も見えるが雲も多い。気温15度とやや冷たい。
もう喜びが待っている歳でもないので、日々夜明けまでがうとましい。
折角決めた事だから来月の鳳陽会が無事済めが良いがとちょっぴり気がかり。
家内が手足が又痛むというので、ひと事ではない。
こちらの体調がいくら良くても、家内が悪いと何にもならない。ままならぬものである。

今日は戦前は海軍記念日と言って、日露戦争の終結をもたらした日本海海戦の大勝利の日である。この日がなかったら、日本は今次大戦を待たずに滅亡していたかもしれない。
天下分け目の一戦だった。ただ大勝の仕方があまりにも見事だったのが、後世のおごりに繋がった。
今次大戦の発生の遠因をなしたとも思われる。

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(今田勇著「西部ニューギニア戦記」よりつづき)
  住民の要望に応え、水上隊で回教の祭(ムニャリ)を引き受ける

昭和19年8月から9月後半頃というと敵の攻勢が激しく、吉田中尉が率いる船舶工兵隊が奮闘していた東部ニューギニア戦線では、連合軍がこの地方での日本軍の拠点であった、プラ、フィンシ、ラエ、マダン、ウエワークそしてアイタベと、激戦の末次々に占領しつつ北上、次はフィリッピン攻撃にかかる時期だった様である。+
しかし逆に西部ニューギニア島とその付近の島嶼に取り残された格好の私たちはその当時の東部地区の状況を知る由も無く、唯米軍のグラマン戦闘機が毎朝頭上に飛来するだけという至極平穏で半端な毎日が続いていた。
8月上旬にガアの部落に住んでいたラジャーが、彼の管轄している3地区のカパラ、カンポンを伴って事務所を訪れてきた。彼等は前田隊長に対して異口同音に次のことを申し出た。「殆ど総ての住民が回教徒であるこの島では昔から回教の祝祭日には先ず回教の祈祷の儀式を行った後、近隣の部落民総出でお祭り行事を行っていた。そして手分けしてお祭りの会場や料理を作りみんなで会食をした後夜を徹して賑やかに歌い踊ったものだ」といい「この戦争のためにこの祭りの行事が途絶えて終い寂しい限りである」とも云う。「トゥアンたちのお蔭で今は部落の者全員が我が家に帰り落ち着いた生活をしている。そして依頼されたサゴ椰子澱粉の仕事にも励んでいる。そこで是非お願いしたいことは水上隊の皆さんの肝いりで何とか私たちのこのお祭りが出来ないものだろうか」という願いであった。

確かに私たちがこの島に来た当時は何処の部落も無人だったが、今はバボ以来生死を共にして来た現地船員たちの仲立ちもあって、殆どの住民は部落に帰っている。
各駐在地でも隊員がそこの住民たちと親しく付き合っている様子も伺われ、ガアの本部でも日本兵を警戒してその姿を全く見せなかった若い娘たちも、ちょっとした手足の怪我や小さい腫瘍等の治療にやってくるようになっていた。ひょうきんな島衛生兵長が赤チンやヨーチンを塗るために、一寸サロンを摘み上げると奇声を挙げて笑い転げる等和やかな雰囲気に包まれていた。

その後前田軍曹を囲んでいろいろと検討した結果として、地区民一同がこの回教のお祭りを是非実現したいというたっての願いであれば、何とかこの要望を受けて祭りを行うことも必要だと決めた。そして、この行事の世話を行う効果として考えられることは、今より更に地区住民の水上隊への信頼も大きくなり、これから先の隊の任務も今以上にスムースに事が運ぶようになるだろうと考えた。
9月上旬に祭りを開催することをガアのラジーとカバラ、カンポンに伝えて、この実施について打ち合わせをした結果、祭りの開催日は9月上旬がよかろうということになった。毎月の上旬は丁度月初めの委託料等の支払日に当たるので、祭りの前日か、その日の午前中早々に、各地区のカバラ、カンポン達に前月の委託料等の代金の支払いを済ました後、ゆっくりと会食をし、引き続いて前の広場でお祭りの踊り等を始めたらということになった。

早速にガア地区近辺の住民の協力を求めてお祭りの準備にとりかかることとなった。
その手筈は先ず祭りの会場の設営はガアの奥山から切り出した木を使って、広場の前に横に長い大きい小屋2棟を並列して建てアタップの屋根だけを葺いておく。
この建設に5日間をかける。会食のための食器は70人位のものを各部落から持ち寄ることとなった。この集められた食器類を見ると彼らの粗末な家には不似合いな立派で大きなスープ皿から大皿、小皿及びコップそしてフォーク、ナイフまで総ての用具が集まったのには驚いた。祭りの料理の材料は総て水上隊が買い上げて用意することとし、山羊3匹、鶏20数羽、これに魚、卵、野菜とバナナ、パイナップル等の果物をかなり多い目に集めることとなった。

そしてこの材料で当日の会食料理を作る者は、日本の集会でよくやっている様に中年の腕自慢の女性6,7人を中心として、この指図に従って老若10数人の女性たちが作ることとなった。会場の飾りつけは若者の手で2日位前に緑の小枝や花を飾ることとした。そして最後の準備として夕食とそれに続く踊りの行事が夜半にかかることが予想されたので、この夜の灯火として平たい大鍋に椰子油を入れ、この中に灯心を12,3本差し込んだランプを3基用意して屋根の梁3ヶ所に吊り下げることとした。会食の机と腰掛を各地から持ち込み、机には白い新しい布それはプラオの新しい帆切れを掛けると、至極綺麗で立派な宴会場が出来上がった。
当日の祭りの会食に出す料理は前日に材料の下拵えをし、当日の早朝から腕自慢の女性たちの指揮で次々に作られてゆく。スープから煮物、焼き物、揚げ物そして蒸し物等々とセラム島の郷土料理が種々作られて行った。

さて祭りにつき物の酒はこの島の住民たちはあまり飲まないと聞いていたが、それでもと予めアルコールの少ない椰子酒のサゲールをドラム缶2本と酋長たちとの会食用としてアルコールの度数の高い椰子酒のソピーを15,6本用意しておいた。
祭りの前日この料理に掛かる前に私たちを吃驚させたことが一つあった。

それは山羊のとさつの仕方である、先ず山羊の四つの足をロープで括りこのロープを太い木の枝に引っ掛けてこの山羊を逆さに地面すれすれに吊るす。その山羊の背首のところには木枕が当ててある。やおら年配の男が進み出て山羊に向かって長々とお祈りを捧げ、これが終わると若い男が包丁で山羊の頚動脈を切り溢れる血を総て壷に取る。この血が出切ると頭部を切り離し次いで全身の皮を剥いで手際よく肉を外す。この一連の作業を見ていると胸が悪くなるようであった。後でわかったことであるがこの切り取った3匹の山羊の頭は、そのまま長々と煮込んでメイン料理となるスープを採り、また抜き取った血はいろんな料理の味付けに使われたようだった。
(つづく)   
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2010年5月28日 (金)

南国のお祭り(2)

高層に白雲が沢山浮いているが、どうやらいい天気になるらしい。朝の気温は12度と寒い。放射冷却といえるようだ。

昨夜は毛布1枚増やして寝たので、夜中に起きる事も無くぐっすり眠れた。
おかげで頭に曇がない。

内藤内科に行く。先だっての血液検査でBNP値が108となっていて、心臓が大分弱っているとのこと。無理をしない様にとの事であった。
しかし、もうどうしようもないな。

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(回教のお祭り その2)(今田勇著「西部ニューギニア戦記」より)

その祭りには地区のラジャー4人と26人のカパラ・カンポンに対して、夫婦同伴で出席するように案内しておいた。
祭り前日の晩から当日の早朝にかけて案内された者たちは夫婦二人連れで、そしてその地区の住民を多数引き連れてカヌーを連ねて続々とガアに集まってきた。
当日の朝から順々に委託料等の代金を受け取ると、どの夫婦もそろって近回りの家に入って行った。暫くして出てきた彼らを見て全く人が変わったのかと吃驚する。というのは朝方本部事務所に現れた時の彼等は、誰もが着古した汚れたシャツやブラウスに色褪せた古いサロンを纏い裸足であったが、今家から出てきた彼らの姿は、男性は新しい白シャツの上に立派な上下の背広を着込み、更にその上に新しいサロンを巻き、女性は少し肩の張った花柄のブラウスに花模様の美しいサロンを纏っていた。更に彼らの足元を見ると方や男性は黒の短靴、女性は白いローヒールの靴を履いていた。見違えるように様変わりした二人は腕を組んで会場の入り口で出迎えていた私たちに向かって「トゥアン、スラマット・シアン」とか「トゥアン・タペッ」とにこやかに挨拶をして会場に入ってゆく。これはオランダ統治時代の名残だろうと思ったが、少なからず驚かされた光景であった。

前田隊長の簡単な挨拶に続いて地元ガアのラジャーのお礼の挨拶と回教の祈祷の行事に続いて握手を交わし、第1回目の60人を越える会食が始まった。
このセラム島での会食の仕方は、シナ料理の宴会と同様にいろいろの料理を出来るだけ沢山作って置いて主賓の客の宴会で残った料理を2度、3度と階層を下げつつ全部平らげて行くという形式を取っていた。

所で机の上に並んでいた料理は、13,4種類にも及び総じて味は濃く油をたっぷりと使った上に、唐辛子や胡椒等の香辛料がよく効いている料理が多かったが、その味は至極良かった。年中暑さの続くこの南方ではマレー半島、シンガポールそしてジャワ島でも同じであったが。総じて料理の味は濃く油はたっぷりと使った上に香辛料がよく利いていたが、これは南の暑い夏を凌ぐために食欲をかきたてて、その体力を維持する必要性からでたもであろう。
さてだんだんと食事が中ほどに進んだ頃食卓の真ん中に大きな深い器にスープを満々と入れた料理が出された。手元の小さい器にこのスープを掬い飲んでみると食欲をそそるカレー味の美味しいものであった。
器の周辺の者がそれぞれにスープを掬って行くと、その真ん中に島のような物が浮き上がってきた。良く見るとなんとこれは昨日切り落とした山羊の頭であった。
臨席にいたガアのラジャーが指差してこれが本日の料理のナンバル・サトー(第1番)だという。そしてこの柔らかい脳みそと頭の肉が美味しく本日の最高の料理だというが、昨日のトサツの光景がま眼の前に浮かんで、一寸手が出し難くなりご遠慮申し上げることとした。
とかくするうちに机の上の料理もあらかたなくなりかけた頃、小屋の前の広場では既に参加した多勢の住民たちが歌声につられて踊りが始まっていた。
笛、鉦、小太鼓その他この地方独特の楽器を賑やかに鳴らし、数人の男が甲高い声で歌う。この歌にあわせてサロン姿の多数の男女が手振り腰振りよろしく輪になって踊る姿は日本の田舎での盆踊りを思い出させるものであった。
次から次へと歌そして姿、形を変えつつ踊りが続くうちにいつの間にか太陽は西の水平線に沈み辺りが暗くなってきた。小屋に吊るしてあった大きいランプに赤々と灯火が入ると、広場での踊りの雰囲気が一段と盛り上がって行った。
徐々に夜が更けて来るにしたがって彼らの歌も踊りも様変わりして行き,恋の物語らしい踊りに変わっていたようだった。というのは今は踊り場では数十組かの若い男女二人が向かい合って楽しそうに踊っていた。トォアンたちも一緒に踊ったらという娘たちに誘いにのってほろ酔い気分で踊りの輪に入る。見よう見まねで踊りの中に入り若者たちが対面の娘たちにしているように、私も前で一人で踊っている娘に対して踊りながら腰を落としゆくその所作を見習って、徐々に腰を落としてみた。その色白の若い娘もしゃがみつつある私に対して、恥ずかしそうに踊りながら徐々に腰を落として行った。
その途端に踊り場を囲んでいた観衆の住民たちから歓声と拍手、そして冷やかすような口笛や奇声が沸き起こった。踊りの輪から抜けた後其処にいた船員に踊りの意味を尋ねたところ、この踊りは所謂男性が女性に愛を訴える踊りということで、男性の踊りに合わせて女性が腰を落とす所作をすることはその愛の申し出を受け入れたいということになるのだという。冷やかしの歓声が沸いたのはこのためだと合点する。
この踊りで娘たちが取った所作は、私たちが相手では仕方がないと腰をおとしたのだろうと思った。
あれこれと続くこの祭りはなんにしても和やかな雰囲気に包まれつつ、なごやかに時が過ぎていったものである。
しかし、この夜を徹してのお付き合いはし兼ねると寝室に引き上げたのは既に朝方の2時を過ぎていた。酔いと疲れでうとうととしていたとき額から頬にかけてひやりとしたのではっと目が覚める。頭をもたげてみると私たちの部屋に3,4人の若い娘たちが入り込んで、軽く手先で水を掛けながら未だ眠るのは早すぎると手を引っ張って起こす。已む無く手を引かれて再び踊りの場に加わり眠い目を擦りつつとうとう朝日を拝むこととなってしまった。

ガアのラジャーが以前からこのお祭りは3日位ぶっ通しに行っていたが、この度ももう一日位続けられないかと、住民たちが言ってるがどうだろうかとの頼みがあった。しかし今は戦争中でのこと、朝にはグラマン戦闘機の偵察定期便もやってくることだし、万が一爆弾を落とされたり、機銃掃射でもされれば大変な事態ともなりかねないと説得にこれ努め早々に解散することとした。そして8時頃までにはカヌーに乗り又は徒歩で殆どの住民が姿を消していった。
前田軍曹以下一同やれやれ無事に祭りも済んだと棟を撫で下ろした。ここで一寸話を差し挟むとどこでも祭りのつき物になっているらしい博打のことだが、この島でもこっそりと椰子林の奥でこれが開帳されていた。というのは私が踊りの合間に息抜きにと裏の椰子林に入って見ると、小さなランプを囲んで数十人の男たちが円陣を作っていた。肩越しに覗いてみるとさいころ賭博の真っ最中であった。真ん中に白い大皿を置きこの中でさいころを回し、椰子の殻で作った椀で伏せてその中のさいころの出た目で勝ち負けを争う。一つは出たさいころの目が上か下かで、もう一つはさいころの目の数をずばりと当てることに賭け、数が的中した者には掛け金が倍になって戻る仕組みのようだった。ところでこの回すさいころは鰐の牙で作った6っ目のもので、さいころの角から角に斜めに細く削った真っ黒なカサワリ、ラウツ(海松)の心棒が差し込んであった。
そしてこの心棒を中指と親指とで摘んで、皿の上で回して賽の目を出していた。
この連中の中に知った船員の顔を見つけたので軽く声をかけたところ驚いたらしくランプを消し慌てて全員闇の中に消えて行った。だが、また場所を変えて開帳し空が白むまで続けたことだろうと思った。

さて、この回教の祭りは全く何一つトラブルも無く楽しく終わったが、この後この祭りの効果は計り知れないものがあったと思っている。
私たちが用務等で出かける時は、いつも白シャツに半ズボン姿で腰に図嚢一つ吊るだけで、武器等を携行したことは全く無かった。今まで事故一つ起きたことも無く過ごして来たが、この祭りの後は更に平穏そのもので、何処の部落を訪れても部落総出で歓迎されるし、一方では澱粉の委託生産や物資の買い入れの量も順調に伸びていったものである。
(つづく)
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2010年5月29日 (土)

セラム島を横行するバビー

昨日と同じ様な天気,気温も終日上がらず、4月下旬のそれだという。

昨夜は小指の爪が布団に引っかかって先の方が剥がれてしまった。あ,痛っと思ったがもう遅い。すぐ起きでて赤チンを塗る。テープでぐるぐる巻きにする。
副腎皮質ホルモン多用のせいらしい。皮膚に全く粘りがなくなってしまった。
又入浴が難しくなったなと悔やむ。

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(今田勇著「西部ニューギニア戦記」より)
セラム島を我が物顔に横行するバビー(野猪)に驚く

このセラム島はほぼ四国くらいの面積の島。大部分は未開地の山とジャングルで住民は海岸沿いに点在している平地に集落を作って住んでいた。彼等は漁業や農業をそれぞれに営んでおり、漁業ではいろんな手法で魚を獲り、農業では主食の澱粉を採るサゴ椰子の増殖と管理の他タピオカ芋、甘藷及びバナナ等の栽培とこの他に副食としての各種の野菜の生産をしていた。
なお、家畜としては山羊を飼育し、鶏を放し飼いしにしていた。高い木の枝に椰子の葉で編んだ籠をぶら下げておき、ご苦労にも木登りをして空高く飛び回る放し飼いの鶏のこの籠に生んだ卵を取っていた。なお付言しておくとこの辺りの鶏は野生に近いので、自由に空を高く飛びまわり夜は大きな木の枝にとまって寝ていたようだ。

この島の東端のカンポン村ガアの隊本部に住み始めた数日後の夜半宿舎裏にあったサゴ椰子林でがさごさ大きな音がした。そっと窓越しにのぞいてみると100kgにも及ぶ大きな野猪とぞろぞろとその後ろにくっついて餌を漁っている5匹の子猪の群れが見えた。親の猪が強靭な太い鼻先でサゴ椰子の切り株を突き破ると、子猪はこの切り株に残っている澱粉を含んだ髄を争って食べる微笑ましい光景が見られた。その後この猪の群れは夜だけでなく昼間でもサゴ椰子林の周辺で屡見かけることが多く、私たちが近寄って行っても全く逃げる気配さえ見せなかった。
この様にこの島で全く人を恐れない猪の群れが横行しているのはこの島の大部分の住民が信奉する回教から生じた現象であった。この島の住民の一部キリスト教徒もいたようだが、大部分の回教を信奉していた者にとってはこの宗教の戒律で角のない豚類は不浄な動物でこの肉に触れたりまた食べたりすると体が腐って行くと信じていた。
このためこの島では昔から猪は追わず、捕らえず、殺さずで増えるに任していたようで、野猪は全く人を恐れることも無く我が物顔に横行するようになったわけである。
当初私たちは回教にあらずといって一度こっそりとこの肉を食べたところ、紺の焼肉を入れた皿等は良く洗ったつもりだったが、これが何となく臭いが残っていたのか、私たちの食事その他の雑用をしていた船員たちが先ずこの脂が付いたと思われる食器等には全く触れようとしなくなった。このために食事の後始末等は自分たちでしなければならないことになってしまった。
また他方住民たちも何となく気配を感じたのか私たちを避けているようになり、これでは隊の任務にも支障をきたすのではないかと思った。そして、その後はこの肉には一切手をつけないことに腹を決めて実行したところ暫くして彼らとの仲も以前の姿に戻すことが出来、やれやれであった。
この僻地での蛋白源としては最高のものであった野猪の肉今にして思えば何しても勿体ないことだったと思っている。
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2010年5月30日 (日)

老人会

朝の気温16度、うす雲たなびくも正に快晴。
いい行楽日和なんだがなあ。
お昼に老人会の総会があり、家内が我が家を代表して出席する予定である。欠席して配り物を班長さんに配達してもらうのは迷惑だろうからである。
よぼよぼの老人だからそれくらいしか役に立つことは無い。

ちょっとそこら辺りまで出かけたい気にもなるのだが、折角の日曜日、ここは道を若い人に譲り閑居するのも又よかろう。
家に居ればすることは何も無いようであるが、探せば結構いろいろある。

物置小屋を建て替えないといけない。雨季になって雨漏りがし始めたらもうおしまいだ。
その時になってからでは遅い。去年から気になっていたことだ。
中の荷物を処分したり、かわしたり、結構準備の負担が大きい。
好天気の続く今を措いて好機はなかなかない。
そうだこれに着手しよう。

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(今田勇著「西部ニューギニア戦記より」)
夜光虫の光る夢のように美しい海峡をオランバイック(カヌー)で渡る

本部にいる私たちは大体月に一回の割で海峡を一つ隔てた中継基地ゲッセル及びゴロン島の倉庫に、その集荷物の収容状況を調べに行くことが一つの役目であった。この海峡を渡るには何時もオラン、バイック(7,8人で漕ぐ大型のカヌー)を使って渡っていた。

この二つの島は夕暮にガアの桟橋を発つと早朝東の空が白む時刻に到着する距離にあった。昼間は定期的に島伝いにやってくる米グラマン戦闘機に襲撃される恐れがあると、この海峡の横断は常に夜、特に月のある夜を選んで渡ることとしていた。

大型のカヌーオラン・バイックで日没ぎりぎりにセラム島南端のオンガルに行く。ここで一休みし、澄み切った空に月が昇って周りが明るくなってきた頃30kmくらい離れているゲッセル島に向かい,
眼の前の海峡にカヌーを乗り入れる。
約2時間位かけてどす黒い色をした深くはあるが穏やかな海峡を漕ぎぬけて、遠浅になっているゲッセル島の海域に入る。何時もの事ながらさざ波が月の光にきらきらと輝く美しい海面が目に映ってくる。透き通って見える海底には彼方此方と白い珊瑚礁で覆われており、この珊瑚礁の間の白い砂地に繁茂している海藻が潮の流れにゆらゆらとゆれている姿は譬えようの無いほどに美しい眺めであった。

さらに目を上げて海面を見渡すと月光に映えるさざ波が青白くきらきらと光り、この中で漕ぎ手の船員たちが漕ぐ調子に合わせて歌うセラム島地方の恋の歌。この歌にあわせて漕ぐ櫂の水音が夢のように響く。そして、後ろに尾を引いて砕ける櫂の渦巻きが夜光虫の光に輝きながら尾を引いてゆく景色は、ここが南の戦場だということを忘れてしまうほどに幻想的な夜の一刻であった。

白々と朝の光がさしはじめた頃に上陸して、朝飯を済まして一休みする。暫くると朝の定期便の爆音が近づき4,5機のグラマン戦闘機が頭上を掠めて通り過ぎると、現実に引き戻され慌しい一日が始まるのが何時ものことであった。
(つづく)
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2010年5月31日 (月)

バラの花を見て歩く

今朝6時気温14度。日の昇る空が、気付かぬ間にうんと左手に移動し,家の横に廻らねば見えない。西日は家の後ろの庭にいつも夕方強い日射しを注ぎ込む。もう完全に夏だ。
それでも陽気は春にも似てさわやかで気持ちが良い。

足ごなしに何時もの通り植物園に出掛ける。
天気に釣られてか割と入場者が多い。しかし花はバラの他には見るべきものは少ない。
山登りは避けたが、あらましすみずみまで歩き回る。

昼飯を食堂で食べて帰宅。

午後は概ね昼寝。
することはもう他には無い。

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(以下は今田勇氏手記「西部ニューギニア戦記」より)

 労作の手製の牌で長く退屈な夜を麻雀で楽しむ

軍隊にはあらゆる職業の者が入隊していた。そして中には物凄く手先の器用な者も沢山いた。戦闘が終わり駐留すると、隊の各内務班それぞれに室内での遊び道具が作られた。この中で一番多いのはなんと言っても花札とトランプであった。本物そのままに綺麗に色付けし、その上に蝋引きまでしてあった。
次は将棋の駒と将棋盤、そして白黒の碁石と碁盤等であった。
私たちも一応手作りの花札とトランプ一組づつ持っていたが、ここの本部には4人と人数が揃っていたので、何とか4人で卓を囲んでする麻雀、その牌は作れないものかということになった。
いろいろと頭を絞った末、次の材料で牌を作ることとした。牌の材料はチーク材を使いこれを四角に削り手分けしてナイフで4種類、136枚の記号を刻み込むこととした。さいころは鰐の牙で、点数には大中小の貝殻を使うこととした。
約1ヶ月かかって牌の種類が見分けられる程度のものを作り上げたものである。
さてこのゲームをする場所としては事務所裏の倉庫とし、現地住民に対する褒章物資の米、石鹸、布地、帆切れ等を片付けて此処を遊びの場所とした。
この所定期的に夜半から朝に掛けて沖の海上を低空で飛ぶ偵察の飛行艇らしい爆音を耳にすることが多くなっていたので、ランプの光が粗いアタップの壁から外に洩れないように、四周に黒い帆切れを張り巡らして置いた。
本部に4人が揃っている夜には倉庫の両隅のランプに点火してこの明かりの下で開帳する。何とか牌の種類の見分けもついて段々と勝負に熱が入ってくる。この麻雀と言う遊戯は千変万化で頗る変化に富んで頭を使う面白い遊びで、一巡の勝負はかなりの時間をとることも多く明け方に及ぶことも稀ではなかった。夜半に到って空腹を覚えてくると、この倉庫の片隅に吊るしてあり、下から順々に黄色に熟れて行くバナナをもぎ取って腹をみたしたものであった。
なお、この勝負にはこの僻地のバボからセラム島にかけて、全く使い道のなかった軍票を賭けることとしていた。勝負運の強い私はこのときに勝って、かなりの軍票を頂戴したが、その後セラム島から昭南島に転属になった私にとって、この時通過したジャワ島での2ヶ月と昭南島で過した終戦までの3ヶ月間大いに役立たせてもらったことについては、セラム島の本隊に残った三人に対して、この金を使う都度感謝したものだった。
(つづく)
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