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2010年4月13日 (火)

今田君の初年兵時代

ここのところ天気と同じで,頭の働きが鈍く、ブログを書く気がしない。
親友今田君がくれた「ニューギニア戦記」の後記に初年兵時代の繰り言が並んでいる。
私も場所は違う関東軍で同じょうな経験をして来ただけに身につまされることが多い。
細かい事まで冷静によく覚えていて書いているので、人権を無視した教育の挙げ句、転ぶ様に敗戦の淵に導かれた我が皇軍の実体を後世に伝えんものかなと思い立ち、時間つぶしに掲載する事にした。
以下は同君の思い出の記である、(人名は皆仮名とした)

昭和16年3月31日午後岩国駅頭で広島市の各部隊に入営する者10数人は、駅前で多くの人々の振る日章旗と万歳の声とに送られて乗車、広島に向かって賑々しく出発した。
私は翌4月1日午前9時輜重隊の営門をくぐって兵舎に入り、先ず身体検査を受ける。体全体にわたって荒々しい各所検査の最後に、真っ裸になり四つん這いになって肛門の検査があった。この時軍医いわく「貴様は痔が悪くしかもその為脱肛をしている。酷く痛めば治療して来年来るが良い、今痛いんだろう?」という。
この言葉で一瞬頭の中をよぎったことは、岩国駅頭で盛大に振られた日の丸の旗と万歳の歓声。今更おめおめと帰るわけにはゆかないと考え咄嗟に「痛みません」と口走った途端、尻をパンと叩かれ「よし、合格だ」との軍医の一言でその後の長い5ヶ年にわたる私の軍隊での行く末が決まってしまったということになる。
輜重兵第5聯隊第2中隊第4分隊に配属され、その後3日目からこの分隊の部屋で無理編に拳骨の初年兵暮らしが始まったわけである。

検査の時に痛みますと言えば即日帰郷となったであろうと思うことしきりなるも既に手遅れであった。何とか義務の2ヶ年を辛抱して除隊になればよいのだと考え、このためには一兵卒で過すにしくはなしと考えた。
積極的な動作は出来るだけ避けて怒鳴られることしきりなりという所謂初年兵猛者と云われつつ過す。毎夕に古兵に怒鳴られ叩かれることしきりなり。
予定したとおり総ての動作緩慢、態度軟弱ということで幹部候補生試験は不合格、これで義務としての2ヶ年が経てば除隊だと心の中で密かに思う。

今にして思えば、張り切って率先躬行に勤め幹部候補生試験に合格していれば、或は又即日帰郷し翌17年入隊していたとすれば、戦争後半の熾烈などこかの戦場で名誉の戦死と遺骨の凱旋になっていただろうかと。振り返ってみると人間の運、不運は何時、何処でどう決まってしまうものか判らないものであるように思える。

入隊4日目起床ラッパと共に跳ね起きて毛布を畳んでいると、3年兵だが未だに蟹の目(二つ星)のままの一等兵の中山という男が、唾を飛ばして怒鳴る。「初年兵よー。お前らあ何をもたもたしちょるんだー、この3日間だまっちょったが今日から俺が気合を入れちゃるからよう覚えとれ」と奇声をあげ怒鳴る。
ここでこの兵舎の1階の4班(分隊)の部屋の様子を話して置くことにする。

入り口から一歩足を踏み込み2段の低い階段をトントンと上がると、その向こうに幅2mくらいのくすんだ板張りの長い廊下が伸びている。この廊下の左側の部屋との境は腰の高さの板塀で仕切られ、その上が銃架となっていた。ここに銃身の短い99式騎兵銃がずらりと並んでいた。左折して部屋に入ると左右に7台づつ寝台が並べてあった。そして両側の壁の手の届く高さに50cm幅の長い棚が吊ってある。そしてこの棚の上には一人一個の整理箱とその右側にきちっと幅ををそろえて長方形に丁寧に畳んだ一装用の軍服等の衣類が重ねてあった。
並んだ寝台には厚い藁布団の下に巻き込んだ毛布が掛けてあった。

ここで食事を取り兵器の手入れを行い又軍事操典等の読み書きや余暇に手紙を書くことなども総てこの机で行う。そうだ、ここで一つ付け加えておくことは軍隊で使っている食器類のことである。民間の陶器や漆器で作ったものとは違い、炊飯所から運ぶ食管から各人の食器に到るまで、壊れることの無い様にすべてアルミニュームで作られていた。
食管は厚くて頗る重く食器はなかなか口に馴染まず口当たりも悪く、食味が落ちてしまうのに弱ったものであった。飯は麦3分入りのものだったが頗る粘っこく、味噌汁は煮干だしで豆腐と白菜、ねぎを実としたもの、副食は脂濃いい青魚又は細切れ肉と野菜とのごった煮等が毎日続いていた。

1内務班は16人編成で下士官の軍曹を班長とし班付き伍長1人と共に個室の班長室で居住、そして内務班の部屋で寝起きする者は3年兵3人、2年兵3人の他新兵の私たち8人とあわせて14人が同居し寝起きしていた。
3年兵の相良という兵長は中隊本部勤務で班にいることは少なく、無口で班内の出来事には全く無関心。そして同じ3年兵の桐山上等兵は赤ら顔をした純情な性格らしく厭味の全くない性格。そして2年兵の3人には今の所全く発言権無しだった。

そこで4日目からの新兵しごきの中心人物は3年兵だが未だに1等兵のままでいる中山という男。彼は島根県堺の山村の農家育ち。一見したところ猿を思わす風貌をしてその話す言葉は少し舌足らずで聞き取りがたい所が多く、何となく彼の知能指数は少し低い様子1分くらいは足らなかったのではなかろうかと思われた。

この彼の初年兵いびりは決まって慌しい夕食が済み、引き続いてやっとのことで遅ればせに芋の子を洗うような入浴がすんだ8時過ぎ、皆がほっとした時を狙って始めるのが何時ものことであった。
寝台に胡坐をかいた彼が「初年兵よい。其処に整列せいや」と怒鳴る。続いて「お前らあ今頃少したるんどるぞ、俺が今からお前らあの精神を叩き直してやる」と舌足らずの甲高い叫び声を挙げる。そして毎度決まったように大声で「俺の今から言うことは中隊長、いや、気をつけえ、天皇陛下のお言葉だと思ってよく聞けエー、休め」との必ず天皇陛下の代理としての説教が始まる。そしてその後は話の筋は前後しつつ支離滅裂な説教がだらだらと続く。そして癇が高ぶって言葉に詰まってしまうと、「足を開け今からお前らの精神を叩き直してやる」と叫ぶや小男の彼は飛び上がるようにして順々に頬に鉄拳を見舞う。そして殴り疲れると解散と叫ぶのがお決まりの手順であった。何にしても阿呆らしいくらいの夜が3ヶ月癇毎週2回以上の割で続いたが、已む無きこととはいえよく辛抱したものだと思っている。

なおこの古兵たちの後日譚であるが、彼等はその後一旦は満期除隊したらしいが、戦局の悪化に伴って昭和19年にに入り再度召集されたという。そして彼らの半数は補充兵としてフィリッピンの戦線に、残りの半数はセラム島のピル駐屯の輜重隊に派遣されてきたという。特に私を目の仇にしていびった中山一等兵は相良兵長や桐山上等兵らと共にフィリッピン戦線に補充されたという。この激戦地のフィリッピン島では彼等は皆戦死したのではなかろうかと思っている。
この話はここセラム島ピルに補充兵としてやってきて、この戦地では不満だっただろうが、今度は戦地経験が浅いということで初年兵並みに扱われていた昔の古兵中たちの同期兵から聞いた話である。

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