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2010年4月15日 (木)

今田君の終戦

今は昔、このわれらがあめつちのもと”大東亜戦争”とぞ申しけるおぞましきいくさごと、往く年も行く年も続きしことありき。
銃弾に打たれ、飢餓に苦しみ、果ては原子爆弾などといえる人も物も一挙に破壊焼却する兵器も現れて、幾百万もの死者を発生せしめしといえり。
かろうじて死地を脱し、帰郷を果たせしものの一人、我が年来の友今田某ここにその手記を遺す。
ここにその最後の場面の一部を活写して残さん。

「さて、終戦の日昭和20年8月15日午後私は公用でシンガポール市内に出かける事となった。市内の雰囲気がこのところ何となくおかしいので、外出するときは小銃と実弾10発以上は必ず携行することになっていた。
この日も面倒だとは思ったが已む無く命令通り99式騎兵銃を肩にして衛門を出た.市内ですれ違う将校や下士官は拳銃を腰につるし、其の他の兵隊は小銃を肩にして歩いている光景は異様な雰囲気に包まれ何となく異常な感じを醸し出していた。

当日の用務の関係で已む無く支那人街を通ることとなったが、何となく私を見る行き交う住民の目が鋭く厳しく感じられ至極不気味な気配を覚えた。帰路は更に異常な感じが強く行き交う住民や、たたずむ人たちの目が突き刺さってくるように感じた。
急ぎ足で真っ直ぐに帰営して銃を銃架に置いて始めてほっと安堵の息を吐く。

翌16日午後高い空から爆音と銃声が響いてきた。見上げると空中戦が行われている模様で豆粒のような戦闘機らしい翼が反転してかキラッキラッと光っていた。
17日に入り全員外出禁止との触れが廻り、耳を澄ますと街の方から何となく歓声とおぼしき声のうねりが、響いているような雰囲気を感じながらこの日は暮れた。

翌朝8時前、庭に全員集合が掛けられ、ここで旅団長から始めて終戦になったこと即ち日本の敗戦となったことの経緯が伝達され、引き続いて副官から今後の終戦に伴う対応について指示があった。そして今後は各部隊長の指示に従って動揺しないようにとの訓示があった。
解散後の小隊の中では今後の我々の処遇の問題、捕虜として何処に移されるか、又どのように扱われるのか、又日本への帰還は出来るだろうか等々と不安げにひそひそと話が交わされていた。
この3日後英印軍がここシンガポール市に進駐すると即刻武装解除が行われ、ついで私の属する独立混成旅団の自動車部隊は英軍の指示に従い、このシンガポールに駐留している日本軍将兵を所定の捕虜収容所に輸送することとなった。
そして日本軍の将兵の終局の収容所はシンガポール島沖合いのレンバン、ガラム両無人島ということだった。ただ不安なことは詰まるところ、この島で生活する住居と食糧の問題であった。
約1ヶ月掛けて、日本軍将兵を、各地に分散していた仮収容所に送る仕事も終わると、直ちに私たち旅団の自動車を英軍に引き渡した。9月下旬埠頭で厳重な検査を受けた後に、シンガポール島の沖合いのガラム島の収容所に送られた。そしてこれからこの島で自給自足の生活を送ることとなった。

此処での生活状態は前に述べたように行動範囲はこの小さい島に限られたが、自由を束縛されることなどは全く無く、当初3ヶ月は英軍給与の僅かなレーションと各人が個々に靴下2本につめて携行した米を粥にして食いつないだ。
しかしこの食糧不足も手作りの芋類や野菜が収穫できるようになってからは飢えを感じることは全く無かった。
昭和21年5月に9ヶ月ぶりに日本への帰還命令が伝えられた。隣の島レンバンに移動しここで出国の検査その他の帰還手続き済ませて帰還船に乗った。

私たちが乗った船はその船名は不明だったが、総ての戦闘艤装を取り除いた日本の中型の改造空母であった。排水量は1万トン以上と大きく居住区の船室も広くゆったりとしていた。当時の引揚船はその殆どのものがアメリカ海軍から貸与されていたリバティという小型輸送船であった。そしてこの船は船足が頗る遅く日本までは約1ヶ月かかるというお粗末な船だったようだ。

しかし私たちが乗ったこの船はフィリッピン海峡を抜けた後は、台湾の東岸沖を日本に直行するコースを取り、8日間で広島県大竹港に到着したのには驚いた。しかし抑留者を出来るだけ多く日本に帰還させたいということで詰め込んでいたこの船では特に水の使用は極端に制限されていた。朝顔を洗う水まで制限されるほどであったので、風呂で身体を洗い流すなどはもってのほかであった。
蒸し風呂のような船室の暑さで全身に汗が吹き出し、べとべととなって気持ちが悪い。幸いにこの船は航空母艦だったので、上部には広い飛行甲板がそのまま残っていた。そして台湾を通過するまでは必ず日に1,2度はスコールの激しい雨が降ってきた。誰が考えたものかこのスコールの気配があると、誰もが急遽飛行甲板に駆け上がって、この雨水で身体を流す様になっていた。
誰かが遥か彼方に縦に煙る雨雲を発見すると「こっちに向かってスコール来襲」との大声が艦内に流れ、この声につられて誰もが褌一つになり、石鹸とタオルを握り締め、飛行甲板へのタラップを駆け上がる。
各人夫々に自分の位置を決めてそこに座り込み、身体に石鹸を塗りたくってスコールの来襲を今か今かと待ち受ける。
始めにザァーと降る雨シャワーで体全体に塗った石鹸を泡立たせる。次に来る本降りの激しい雨水で石鹸の泡と共に汗と垢とを綺麗さっぱりと洗い流す。そして丹念に体の隅々まで綺麗にし、すっきりとした気分でいそいそと船室に帰るのが決まりのコースであった。しかし時にこの手順が狂うと頗る困ったことになる、というのは最初の軽く塗った雨で全身に石鹸を塗ったところで、次にザァーと来るはずの強い雨脚が船や雨雲の方向転換であらぬ方向にそれてしまったときのことである。
既に薄日が差し始めた中で身体に石鹸を塗り捲った裸の群れが、甲板に呆然と立ち尽くしている滑稽な風景が眺められることが時々あった。
雨で流すことを諦めて船室に帰って暫くすると吹き出してくる汗で全身に塗った石鹸がぬるぬるになり何とも云えない悪い気分になる。これを我慢しつつ次のスコールを待つ情けない姿はうれしい日本への帰還船での懐かしい思い出の一齣であった。」

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