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2010年4月 1日 (木)

相変わらず甲子園に魔物が

また春雨からこの月も始まった。

家内は下痢が酷いと言って朝飯を抜いて寝ている。

酷いことになった。まだ大分先の話ではあるが花見旅行どころではないかもしれない。

老い先短いと言うことは明日の予定が出来ないということでもある。

家内の胃腸はこの時期になると毎年のごとく悪くなる。原因がはっきりしない。我が家の大黒柱だから全く困る。

明日はごみ当番だが、台公出でずんばなるまい。やれやれ。

昨日は地元選出の広陵高校が全国制覇最多の中京と対戦、投手の好投と出だしの速攻で勝ちをもぎ取り,ベスト4に進出した。

今日は強打の日大三高との準決勝、ほんとに手に汗を握る接戦が続きもつれたが5-4の1点差リードで迎えた8回裏思わぬ日大側の意標をつく攻撃に浮き足立ちエラーなども出たりして記録に残る1インニング10点全員得点と云う大量失点に万策尽きて9回表の雨天を利用しての加点も4点で終わり14対9という、思いもしない得点差で敗退した。げに甲子園は恐ろしい。この魔物に広陵は数年前の夏の決勝戦と同じく最後に逆転負けを喫しやられた。

医者に出かけた家内は点滴を打ってもらって帰宅する。うまく治ればいいが。

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2010年4月 2日 (金)

ミサイルの時代

夜遅くまでぱたぱたと降り続いていた雨も何とか上がったらしい。雲は未だビッシリ詰まってはいるが7時現在かなり明るさが違う。

昨夜のニュースで太平洋側は豪雨の所もあるとか警告していたが、まあここは其処とは違うからな。

気温は12度と申し分ない。やっと筋肉がほぐれた感じである。思い切り手を振り足を上げる。

午後になると薄い雲間から日光が強い光を注ぎ始める。

去年もブログに書いたことがあるのだが、もう世の中はミサイルの時代だと思っている。もちろんその道の人は皆そう感じているだろうが。

前世紀にあった大戦では航空勢力の優劣で勝敗が決まった。

日本も途中で気づいたが、生産力が違っていたし、何よりも乗員の養成が後追いになって、敗勢に輪を掛けた。

この経験に懲りたか、いまだに日本は飛行場問題とかアメリカの傘とか云って、わあわあ言って争っている。

其処へ行くとお隣の北朝鮮は賢い。どんどんミサイル技術の進歩増強に努めている。万一の時にはアメリカまでも原子爆弾を搭載したミサイルを飛ばすべく研究に余念がなさそうである。やるならやってみろと強気である。

止めることは誰も出来ない、国連でも駄目である。

勿論お金はかかるから其処は苦心しているようだが。

日本もその真似をしたらどうだろう。ミサイル基地全国に沢山作り、どこから攻められても対応できるように配置する。当分は原爆なしだがいざとなれば作れないことはないだろう。

戦の嫌いな国民を仕立てて飛行機乗りにするには、手間隙がかかりすぎて間に合わない。

ミサイルは準備するだけでいい。その時が来なければ使かわなければよいのだ。一旦設備を配置さえすれば、さして普段の経費がかかるとも思われない。

米軍の基地はお断りすればよい。日本の国は日本で守ると言って。

前大戦の経験はもう古過ぎるのと違いますか。

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2010年4月 3日 (土)

興南高校優勝

朝からいい天気、気温は4度。桜は宮島も平和公園も満開とか。

人ごみは嫌だから出かけるわけにはいかない。テレビで紹介してくれるからそれで満足することにする。

唯下旬に行く予定になっている”三春の滝桜”は一生の見納めだから何とか実現したい。樹齢千年というから人間様より遥かな先輩だし見物と言うのでなく、拝顔ということだ。

同じ旅行のコースに入っている千段の石段の立石寺は途中までと今から決めている。

内藤医師いわく”無理は禁物、人に迷惑を掛けることになる”が注射針のごとく効いている。

点滴が効いたらしく、家内が元気になった。

お粥かパン少しづつ摂り始めた。もう大丈夫だろう。

最近は私たちが元気でいることが、子や孫に安心を与え、彼等の活力になってることがよくわかり始めている。

寿命が尽きるまで何とか元気でいる。怪我をしない、無理をしない。金科玉条とすべき言葉である。

甲子園は激闘の末遠来の沖縄興南高校が初優勝した。

よく鍛えられた打力がものを云ったが、5試合連投した島袋投手の頑張りが最大の殊勲であった。

決勝、準決勝ともエラーがらみでの大差がつく試合が重なり、興を殺がれたが春先だし仕方の無いことだろう。

連戦の疲労が来て、流石に得点差の大きな試合が続いたが、実力は皆違わなかったのではないかと思っている。

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2010年4月 4日 (日)

パソコン談義

空は一面の灰色、曇り空なのか良く判らない。

昨日このパソコンの型番からネット検索してみると、どうやら6,7年前の製品らしい。安かったわけである。しかし詳しいマニュアルが80ページほどあるのをとりあえず取り込んでおく。何か起きたとき助かるからである。

私の流儀でワープロでもパソコン其の他どの機械でも皆マニュアルを読んで覚える。時には繰り返し繰り返し、それでもわからぬときにはメーカーに直接聞く。

昔は随分電話料を取られたものだ。今はIP電話だから時間も距離も関係ない。

しかしもう十年以上電話を入れたことは無いが。

二十数年も扱い続けると結構勘が働くものだなと思っている。

私が友人たちに勧めるのだが、一様にすぐ故障が起きて駄目だという。

そして折角買ったパソコンを投げ出してしまう。

取り扱いを間違えると駄目なことは良く判る。まことに精妙な正直な機械なのである,パソコンは。

二十年も昔、ワープロが動きを止めなくなって往生した経験がある。

一晩中掛かっても動作を止めない。結局最後に万策尽きて明日メーカーに聞くことにしようと配線を引き抜いて寝た。明くる日念のためスイッチを入れてみるとなんでもなく動作するではないか。

これは一つの故障対策の基本だと今でも思っている。

パソコンは寿命は仕方が無いが,簡単には壊れない。ただちょいちょい間違うと折角苦心して作ったファイルがパット消えてしまうことがある。

念のための保存には絶えず気をつけていなければならない。

大事なものは複数の場所に保存する。

これだけはどれだけ堪能になっても気をつけねばならないことである。

アップルがiPadを発売始めた。本が読めると言うのである。

私は既にパソコンでは沢山の本を読ませてもらっている。もっとも版権のないような古い本ばかりだが、今度は新しいのも出来るらしいということだ。ただお金はかかるのだろうが、今出た本いや作者から直接出される本まで読むことが出来るとは、一体どうなるんだといいたい。

そのほか沢山のメディアがインターネットで利用できるのだと言う。

アップルはやるなあ。

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2010年4月 5日 (月)

パソコン談義ー続き

朝11度と暖かい。もう間違いなく春だ。

何処もかしこもこの地方は桜は満開で、明日にでもどこかへ見物に出かけようと今朝の食事の会話がはずむ。家内もいくらか元気を取り戻したらしい。

パソコン談義の続きになるが、使用目的を決めて使える機種を選べばもう何も高機能のパソコンを望む必要は無いように思う。

弟のようにインターネットは利用しないと言うことなら、現在のパソコンは勿体ない。10年前ので結構である。最もムービーや音楽など容量の大きなものをやるとなると、別にハードディスクなど用意しなくてはいけないかもしれない。

私のこのパソコンは先般¥17800.で買ったものだが、2003~04製のものだから、昨日も言ったように6,7年前のものである。

立ち上がりは早いし、画面は綺麗だし、凄く便利で気に入っている。

ネットは使っているが、音楽やムービーはこの機械は使わない。だからそれようのソフトは初めから載せない。

人も物も使いようと古人は言ったが、正にその通りだと今しみじみ思っている。

ただ、2台、3台、4台と機械がどんどん増えて行き場所をとるのが難だが、それさへ可能ならこの方法が一番良い。私はパソコンの他にワープロも未だ使っている。十数年前の製造停止直前の製品である。10年位前に印刷部門の修理をしてもらったことがあるが、結構今でも使えている。

もちろん使用頻度は月に何度か位だから消耗の恐れはない。印刷用のテープも在庫で十分間に合ったいる。先般もデオデオに行ったついでにしらべたら、まだその販売は継続しているようだった。

テープが無くなっても、感熱紙というのがある。色が変わりかけたが在庫が未だ残っている。使わなくては勿体ないと思っているのだが、更正紙が最近は安いのでねえ。世はインクジェット時代で感熱紙もそのうち市場から消えるかもしれないが。

このパソコンにはフロッピー設備がついている。これが何より有難い。変換しさえすればワープロと兼用出来るのである。フロッピーをDOS初期化すればそのままどちらでも使用できる。

マックでもアダプターをつければ利用できているのだが、長年使い続けたのはその御蔭でもある。作り続けてきた記録も今ではどの機械でも見ることが出来る。保存方法としても最適である。

又最近はSDカードというのが珍しくなくなった。

ムービー、停止写真を問わず、カメラ類に取り付けられている。そのままパソコンに利用できる。今頃は4GB,8GBなども出来て保存も出来る。

ファイル移動に持って来いである。

ブルーレイは未だ使っていないが、メディアの最近の凄さには驚かされる。

まだまだ留まる所を知らないのだろうが、これではなかなか死ねないなと闘志が湧き立ってくる思いである。

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2010年4月 6日 (火)

我が家の花見

うじうじと逡巡してても埒があかないので、今朝の天気を見て、我が家の花見を決行する。
遠くは月末に奥州の三春の桜が予約済みである。今行くのは満開の同じ市内の宮島にと2、3日前から決めている。

今回は歩く事を主体に考えて、電車駅まで歩き、渡船場から船で渡り参道を歩いて、周りの山の桜を見歩く事にする。

つつじと違って全山というわけにはいかない。広島の平和公園、広島城,黄金山のごとく大規模でもないが、多宝塔付近は結構素晴しかった。
その他2、3ヶ所小さいのがあったが、歩くのが主体だからこれで十分目的を果たせた。

弁当は持参しなかったが、宮島では定番のあなごめしがある。
今日のは少し味が濃く甘過ぎたがまあまあ何時もの味である。

昼過ぎ辺りから混み始める。外人さんが目立つ。アジア系は此の混雑では見分け難いが、白人は直ぐ分る。多かったなあ。遠い所をありがとう。
十分堪能して4時頃帰宅する。足はもうパンパンである。Img_gojnoto


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2010年4月 7日 (水)

世の歩みに遅滞は無い


空は一面灰色のどん曇り。気温は毎朝の様に11度。しかし風が昨夜から強くガラス窓を叩いている。
昨日訪れた宮島もうすぼんやり煙って幻のようである。
昨夜はお蔭でぐっすりとよく眠れた。
今朝の気分は上々である。

宮島口桟橋手前のパン屋の食パンはおいしいので昨日の帰りに家内が買って帰ったのだが、今朝の朝のトーストはそれ、流石においしい。材料がどうも違うらしい。コーヒーもドロップ式のでいただく。
老人どものささやかな満足というところか。

ところで東京の孫共はどうしてるかな。忙しくバタバタしているのだろう。
気になるが、邪魔するといけないので、電話もかけられないと家内が毎日ぼやいている。
彼等親子は勿論花見どころではないだろう。
夏には皆一緒に元気な姿を見せて欲しいものだ。

午後2時やっと雲間から日がこぼれ始める。もう部屋に射し込んでは来ないがなんとなく暖かい。今の時期は外を歩いていた方が暖かな様だから、部屋に閉じこもりは却ってよろしくない。

こうして老人二人閑居している間にも、もう一人の孫から息子が生まれる予定になっている。日月は遅滞無く動いているのだ。
召されて私の消え去る日ももう近い筈だ。

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2010年4月 8日 (木)

錦帯橋のさくら

大型ゴミの収集日、その仕分けに馴れない私が手伝うので忙しい。
生協の来る日でもあるので、家内はそれも買う心づもりがあるらしい。
私は昨日から岩国の錦帯橋へ花見に行くつもりにしていたが、家内は余り賛成ではないらしい。

素直な家内はとうとう私の押しに負けて、弁当のおむすびを作り、魔法瓶にお茶も入れ、用意整ったところで出発。もう11時を廻っていた。

吉香公園の中に車を入れ、早速日当りの良い所を探して、ベンチに腰を下ろし、食事を始める。先客は正に多士済々、花の下は車座になったのも多い。二人連れも多く皆ベンチなどを探して同じ事をやっている。丁度正午のサイレンがなる。観光客らしい団体もどんどん増える。はずれ加減に良い場所が取れた訳だった。

食事を済ませた所で、車に荷物を戻し、錦帯橋の畔を咲き誇る花を愛でながら行きつ戻りつ散策する。

公園を一周して途中徴古館に立寄り、丁度城下町展をやってたので見学する。
一昨日の宮島の疲れも残っていたので、いささか疲れが倍加したかもしれない。
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2010年4月10日 (土)

核アレルギー

今朝気温13度。雨は止んでるが、夜中まで降ったらしい。
霧は相変わらず深い。

今頃になって沖縄密約論議が喧しい。裁判所も探し出せという。
日本はアメリカの核の傘の下で安穏と暮らしているのと違うのか。
持ち込む持ち込まない以前にその庇護の下にある。空中に浮かんでいる様なものである。論議する事がおかしい。

原子力発電まで目の敵にされているが、ガソリンを使うな,電気なら良いと矛盾したことばかり云う。電気も殆どが石油、石炭を燃して作られているのと違うか。
フランスの様に電気は原子力からと徹底している国もある。
これなら電気自動車の意義,脱CO2化がはっきり分る。

原子力でなくても、温暖化で次の世紀を待たずに地球はまるで違った世界になるであろう。良いのか悪いのかは神のみぞ知る。
嫌う国もあるが、喜んでいる国も沢山あるのだから。

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2010年4月11日 (日)

肥後の人

雨の朝,良く降るなあ。ポストの内部に人工芝を張ったのが当たって、昨夜届けられた雑誌も新聞も濡れずに済んでる。
ちょっとした思いつきなんだが。

今朝方雨のせいでもないのだが,4時に目覚めて何だかむしむしして眠れない。温度計を見ると22度もある。
布団を一枚剝ぐ。
CDを掛ける。ショパンの1番、美しい音色に却って目覚める。
そのうち何時とはなく寝入る。7時10分起床。
未だ外は雨音がやかましい。

体調相変わらず悪くない。死ぬ兆候などまるで感じない。
嬉しい様な,困った様な、朝っぱらから妙な気分。

今朝届いた文芸春秋に細川護煕元首相の寄稿が載っている。
未だ健在なんだなと気になり、ちょっと読ませてもらう。

幽斎から18代目、足利義満時代の管領細川頼之の弟頼有を始祖として26代目ともいう、永く続いた大名という家柄、さすがに我々とは桁が違うな。歴史に何度も浮かび上がってくる数々の代々の人物、よくぞ恵まれたものだと思う。

私が一番感心しているのは、信長が明智光秀に弑されたとき、その妹ガラシアを奥方に迎えていながら、その味方に加わる事を拒否し,主君の仇討ちに廻った秀吉方に付いたという一事である。
この時の決断は幽斎と忠興親子によってなされ細川家安泰の正に基盤となった。

本人が語られる様にDNAが余程すぐれていたのだろうな。
現代に生きている肥後人の独特の気魄の中にも繋がるものがあるのであろう。
私には同じ世代の肥後人の部隊の戦場での凄さに、なんどか驚嘆させられた経験が、未だに色濃く記憶として残っている。

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2010年4月13日 (火)

今田君の初年兵時代

ここのところ天気と同じで,頭の働きが鈍く、ブログを書く気がしない。
親友今田君がくれた「ニューギニア戦記」の後記に初年兵時代の繰り言が並んでいる。
私も場所は違う関東軍で同じょうな経験をして来ただけに身につまされることが多い。
細かい事まで冷静によく覚えていて書いているので、人権を無視した教育の挙げ句、転ぶ様に敗戦の淵に導かれた我が皇軍の実体を後世に伝えんものかなと思い立ち、時間つぶしに掲載する事にした。
以下は同君の思い出の記である、(人名は皆仮名とした)

昭和16年3月31日午後岩国駅頭で広島市の各部隊に入営する者10数人は、駅前で多くの人々の振る日章旗と万歳の声とに送られて乗車、広島に向かって賑々しく出発した。
私は翌4月1日午前9時輜重隊の営門をくぐって兵舎に入り、先ず身体検査を受ける。体全体にわたって荒々しい各所検査の最後に、真っ裸になり四つん這いになって肛門の検査があった。この時軍医いわく「貴様は痔が悪くしかもその為脱肛をしている。酷く痛めば治療して来年来るが良い、今痛いんだろう?」という。
この言葉で一瞬頭の中をよぎったことは、岩国駅頭で盛大に振られた日の丸の旗と万歳の歓声。今更おめおめと帰るわけにはゆかないと考え咄嗟に「痛みません」と口走った途端、尻をパンと叩かれ「よし、合格だ」との軍医の一言でその後の長い5ヶ年にわたる私の軍隊での行く末が決まってしまったということになる。
輜重兵第5聯隊第2中隊第4分隊に配属され、その後3日目からこの分隊の部屋で無理編に拳骨の初年兵暮らしが始まったわけである。

検査の時に痛みますと言えば即日帰郷となったであろうと思うことしきりなるも既に手遅れであった。何とか義務の2ヶ年を辛抱して除隊になればよいのだと考え、このためには一兵卒で過すにしくはなしと考えた。
積極的な動作は出来るだけ避けて怒鳴られることしきりなりという所謂初年兵猛者と云われつつ過す。毎夕に古兵に怒鳴られ叩かれることしきりなり。
予定したとおり総ての動作緩慢、態度軟弱ということで幹部候補生試験は不合格、これで義務としての2ヶ年が経てば除隊だと心の中で密かに思う。

今にして思えば、張り切って率先躬行に勤め幹部候補生試験に合格していれば、或は又即日帰郷し翌17年入隊していたとすれば、戦争後半の熾烈などこかの戦場で名誉の戦死と遺骨の凱旋になっていただろうかと。振り返ってみると人間の運、不運は何時、何処でどう決まってしまうものか判らないものであるように思える。

入隊4日目起床ラッパと共に跳ね起きて毛布を畳んでいると、3年兵だが未だに蟹の目(二つ星)のままの一等兵の中山という男が、唾を飛ばして怒鳴る。「初年兵よー。お前らあ何をもたもたしちょるんだー、この3日間だまっちょったが今日から俺が気合を入れちゃるからよう覚えとれ」と奇声をあげ怒鳴る。
ここでこの兵舎の1階の4班(分隊)の部屋の様子を話して置くことにする。

入り口から一歩足を踏み込み2段の低い階段をトントンと上がると、その向こうに幅2mくらいのくすんだ板張りの長い廊下が伸びている。この廊下の左側の部屋との境は腰の高さの板塀で仕切られ、その上が銃架となっていた。ここに銃身の短い99式騎兵銃がずらりと並んでいた。左折して部屋に入ると左右に7台づつ寝台が並べてあった。そして両側の壁の手の届く高さに50cm幅の長い棚が吊ってある。そしてこの棚の上には一人一個の整理箱とその右側にきちっと幅ををそろえて長方形に丁寧に畳んだ一装用の軍服等の衣類が重ねてあった。
並んだ寝台には厚い藁布団の下に巻き込んだ毛布が掛けてあった。

ここで食事を取り兵器の手入れを行い又軍事操典等の読み書きや余暇に手紙を書くことなども総てこの机で行う。そうだ、ここで一つ付け加えておくことは軍隊で使っている食器類のことである。民間の陶器や漆器で作ったものとは違い、炊飯所から運ぶ食管から各人の食器に到るまで、壊れることの無い様にすべてアルミニュームで作られていた。
食管は厚くて頗る重く食器はなかなか口に馴染まず口当たりも悪く、食味が落ちてしまうのに弱ったものであった。飯は麦3分入りのものだったが頗る粘っこく、味噌汁は煮干だしで豆腐と白菜、ねぎを実としたもの、副食は脂濃いい青魚又は細切れ肉と野菜とのごった煮等が毎日続いていた。

1内務班は16人編成で下士官の軍曹を班長とし班付き伍長1人と共に個室の班長室で居住、そして内務班の部屋で寝起きする者は3年兵3人、2年兵3人の他新兵の私たち8人とあわせて14人が同居し寝起きしていた。
3年兵の相良という兵長は中隊本部勤務で班にいることは少なく、無口で班内の出来事には全く無関心。そして同じ3年兵の桐山上等兵は赤ら顔をした純情な性格らしく厭味の全くない性格。そして2年兵の3人には今の所全く発言権無しだった。

そこで4日目からの新兵しごきの中心人物は3年兵だが未だに1等兵のままでいる中山という男。彼は島根県堺の山村の農家育ち。一見したところ猿を思わす風貌をしてその話す言葉は少し舌足らずで聞き取りがたい所が多く、何となく彼の知能指数は少し低い様子1分くらいは足らなかったのではなかろうかと思われた。

この彼の初年兵いびりは決まって慌しい夕食が済み、引き続いてやっとのことで遅ればせに芋の子を洗うような入浴がすんだ8時過ぎ、皆がほっとした時を狙って始めるのが何時ものことであった。
寝台に胡坐をかいた彼が「初年兵よい。其処に整列せいや」と怒鳴る。続いて「お前らあ今頃少したるんどるぞ、俺が今からお前らあの精神を叩き直してやる」と舌足らずの甲高い叫び声を挙げる。そして毎度決まったように大声で「俺の今から言うことは中隊長、いや、気をつけえ、天皇陛下のお言葉だと思ってよく聞けエー、休め」との必ず天皇陛下の代理としての説教が始まる。そしてその後は話の筋は前後しつつ支離滅裂な説教がだらだらと続く。そして癇が高ぶって言葉に詰まってしまうと、「足を開け今からお前らの精神を叩き直してやる」と叫ぶや小男の彼は飛び上がるようにして順々に頬に鉄拳を見舞う。そして殴り疲れると解散と叫ぶのがお決まりの手順であった。何にしても阿呆らしいくらいの夜が3ヶ月癇毎週2回以上の割で続いたが、已む無きこととはいえよく辛抱したものだと思っている。

なおこの古兵たちの後日譚であるが、彼等はその後一旦は満期除隊したらしいが、戦局の悪化に伴って昭和19年にに入り再度召集されたという。そして彼らの半数は補充兵としてフィリッピンの戦線に、残りの半数はセラム島のピル駐屯の輜重隊に派遣されてきたという。特に私を目の仇にしていびった中山一等兵は相良兵長や桐山上等兵らと共にフィリッピン戦線に補充されたという。この激戦地のフィリッピン島では彼等は皆戦死したのではなかろうかと思っている。
この話はここセラム島ピルに補充兵としてやってきて、この戦地では不満だっただろうが、今度は戦地経験が浅いということで初年兵並みに扱われていた昔の古兵中たちの同期兵から聞いた話である。

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2010年4月15日 (木)

今田君の終戦

今は昔、このわれらがあめつちのもと”大東亜戦争”とぞ申しけるおぞましきいくさごと、往く年も行く年も続きしことありき。
銃弾に打たれ、飢餓に苦しみ、果ては原子爆弾などといえる人も物も一挙に破壊焼却する兵器も現れて、幾百万もの死者を発生せしめしといえり。
かろうじて死地を脱し、帰郷を果たせしものの一人、我が年来の友今田某ここにその手記を遺す。
ここにその最後の場面の一部を活写して残さん。

「さて、終戦の日昭和20年8月15日午後私は公用でシンガポール市内に出かける事となった。市内の雰囲気がこのところ何となくおかしいので、外出するときは小銃と実弾10発以上は必ず携行することになっていた。
この日も面倒だとは思ったが已む無く命令通り99式騎兵銃を肩にして衛門を出た.市内ですれ違う将校や下士官は拳銃を腰につるし、其の他の兵隊は小銃を肩にして歩いている光景は異様な雰囲気に包まれ何となく異常な感じを醸し出していた。

当日の用務の関係で已む無く支那人街を通ることとなったが、何となく私を見る行き交う住民の目が鋭く厳しく感じられ至極不気味な気配を覚えた。帰路は更に異常な感じが強く行き交う住民や、たたずむ人たちの目が突き刺さってくるように感じた。
急ぎ足で真っ直ぐに帰営して銃を銃架に置いて始めてほっと安堵の息を吐く。

翌16日午後高い空から爆音と銃声が響いてきた。見上げると空中戦が行われている模様で豆粒のような戦闘機らしい翼が反転してかキラッキラッと光っていた。
17日に入り全員外出禁止との触れが廻り、耳を澄ますと街の方から何となく歓声とおぼしき声のうねりが、響いているような雰囲気を感じながらこの日は暮れた。

翌朝8時前、庭に全員集合が掛けられ、ここで旅団長から始めて終戦になったこと即ち日本の敗戦となったことの経緯が伝達され、引き続いて副官から今後の終戦に伴う対応について指示があった。そして今後は各部隊長の指示に従って動揺しないようにとの訓示があった。
解散後の小隊の中では今後の我々の処遇の問題、捕虜として何処に移されるか、又どのように扱われるのか、又日本への帰還は出来るだろうか等々と不安げにひそひそと話が交わされていた。
この3日後英印軍がここシンガポール市に進駐すると即刻武装解除が行われ、ついで私の属する独立混成旅団の自動車部隊は英軍の指示に従い、このシンガポールに駐留している日本軍将兵を所定の捕虜収容所に輸送することとなった。
そして日本軍の将兵の終局の収容所はシンガポール島沖合いのレンバン、ガラム両無人島ということだった。ただ不安なことは詰まるところ、この島で生活する住居と食糧の問題であった。
約1ヶ月掛けて、日本軍将兵を、各地に分散していた仮収容所に送る仕事も終わると、直ちに私たち旅団の自動車を英軍に引き渡した。9月下旬埠頭で厳重な検査を受けた後に、シンガポール島の沖合いのガラム島の収容所に送られた。そしてこれからこの島で自給自足の生活を送ることとなった。

此処での生活状態は前に述べたように行動範囲はこの小さい島に限られたが、自由を束縛されることなどは全く無く、当初3ヶ月は英軍給与の僅かなレーションと各人が個々に靴下2本につめて携行した米を粥にして食いつないだ。
しかしこの食糧不足も手作りの芋類や野菜が収穫できるようになってからは飢えを感じることは全く無かった。
昭和21年5月に9ヶ月ぶりに日本への帰還命令が伝えられた。隣の島レンバンに移動しここで出国の検査その他の帰還手続き済ませて帰還船に乗った。

私たちが乗った船はその船名は不明だったが、総ての戦闘艤装を取り除いた日本の中型の改造空母であった。排水量は1万トン以上と大きく居住区の船室も広くゆったりとしていた。当時の引揚船はその殆どのものがアメリカ海軍から貸与されていたリバティという小型輸送船であった。そしてこの船は船足が頗る遅く日本までは約1ヶ月かかるというお粗末な船だったようだ。

しかし私たちが乗ったこの船はフィリッピン海峡を抜けた後は、台湾の東岸沖を日本に直行するコースを取り、8日間で広島県大竹港に到着したのには驚いた。しかし抑留者を出来るだけ多く日本に帰還させたいということで詰め込んでいたこの船では特に水の使用は極端に制限されていた。朝顔を洗う水まで制限されるほどであったので、風呂で身体を洗い流すなどはもってのほかであった。
蒸し風呂のような船室の暑さで全身に汗が吹き出し、べとべととなって気持ちが悪い。幸いにこの船は航空母艦だったので、上部には広い飛行甲板がそのまま残っていた。そして台湾を通過するまでは必ず日に1,2度はスコールの激しい雨が降ってきた。誰が考えたものかこのスコールの気配があると、誰もが急遽飛行甲板に駆け上がって、この雨水で身体を流す様になっていた。
誰かが遥か彼方に縦に煙る雨雲を発見すると「こっちに向かってスコール来襲」との大声が艦内に流れ、この声につられて誰もが褌一つになり、石鹸とタオルを握り締め、飛行甲板へのタラップを駆け上がる。
各人夫々に自分の位置を決めてそこに座り込み、身体に石鹸を塗りたくってスコールの来襲を今か今かと待ち受ける。
始めにザァーと降る雨シャワーで体全体に塗った石鹸を泡立たせる。次に来る本降りの激しい雨水で石鹸の泡と共に汗と垢とを綺麗さっぱりと洗い流す。そして丹念に体の隅々まで綺麗にし、すっきりとした気分でいそいそと船室に帰るのが決まりのコースであった。しかし時にこの手順が狂うと頗る困ったことになる、というのは最初の軽く塗った雨で全身に石鹸を塗ったところで、次にザァーと来るはずの強い雨脚が船や雨雲の方向転換であらぬ方向にそれてしまったときのことである。
既に薄日が差し始めた中で身体に石鹸を塗り捲った裸の群れが、甲板に呆然と立ち尽くしている滑稽な風景が眺められることが時々あった。
雨で流すことを諦めて船室に帰って暫くすると吹き出してくる汗で全身に塗った石鹸がぬるぬるになり何とも云えない悪い気分になる。これを我慢しつつ次のスコールを待つ情けない姿はうれしい日本への帰還船での懐かしい思い出の一齣であった。」

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2010年4月16日 (金)

第6号潜水艇追悼式典

今朝8度、東京の温度と同じらしい。
昨日は呉で第6号潜水艇の追悼式典があったと新聞が報じている。
生前いつも式典に参加して居られた長谷川さんも、もう大分前に亡くなられた。今どなたか遺族の方が参加して居られるのだろうか。
艇の副長であられた長谷川中尉の甥に当たる人だった。
この4月15日は丁度沈没後満百年になる。

私には郷里の海での出来事、生まれる10年前のことだから、新鮮な事件であった。
毎年近くの記念碑にお参りしたものである。
この小さな潜水艇そのものにも幼いときから何度と無くお目にかかっている。潜水学校に存置されている時には内部に入ってつぶさに見学させてもらったこともある。

昔は夏の盆踊りに必ず歌われた岩国音頭のテーマの一つであった。

この潜水艇は敗戦後も廃材として処理される事無く、江田島の第1術科学校の校庭に置かれている。有り難い事である。
英霊の力が働いたのであろうか。

いつかブログに書いた不沈の駆逐艦”雪風”は中国に押収され、中国艦隊の主力艦として活躍したらしいが、今は廃棄されてこの世にない。
世界に冠たる大海軍国だった日本の遺品は私の知る所では”三笠”とこの”第6号潜水艇”のみであろうか。
(写真は中国新聞記事よりコピー)
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2010年4月17日 (土)

アイスランドの火山爆発

予報通りいい天気、気温5度。昼中には17度くらいになるらしい。
アイスランドの火山が噴火して、吹き上げられた砂塵が欧州を包み、飛行機が飛べないので大変ならしい。写真だけでは原爆もその比ではないようだ。
国中火山の国だから、噴火は当たり前と思ってはいたが、噴煙があんなに影響するとは思っても見なかった。

もっともここらでもゴビの砂漠の砂塵に毎年悩まされているのだが、飛行機が飛べない程ではない。
噴煙はエンジンに障害を起こし、墜落する事もあるらしい。
ちりの中身が違うという事のようだ。

中国の青海省で大地震があって千人以上も死んだ様だが、期を同じくして、地球上も騒がしい。
アメリカのオバマ大統領は火星に2030年中には人を送ると言っている。此の危ない地球から逃げ出す用意をするわけでもあるまいが、まことにタイミングがよい。

広島県が広島西飛行場から手を引くと同時に今度は岩国民間空港が山口県などの出資で設立された。
広島は鹿児島など2定期航路が廃止されて、定期便が一つもないのに、岩国は羽田に4便決まっている。
随分とおかしな話なのだが、私にはよくわからない。やはり政治力の違いだろうか。

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2010年4月18日 (日)

赤ちゃんに及ばないかな

午前中はいい天気だったが午後になって完全に雲に覆われてしまう。気温が上がったので、庭に出てチューリップなど今を盛りの花などを愛でる。

午後やって来た彩寧がチューリップの一輪挿しを目敏く見つけ、チューリップと大きな声で連呼する。
家内が抱いて庭に下り植わっているのを見せてやると、いろいろな色があったりして喜ぶ。
花が随分好きらしい。まだ1才数ヶ月なのに、よく分かるのに驚く。よくしゃべるし物わかりのよいのに感心する。
今の時代は皆こんなのであろうか、私自身の事はわからないが、昔は小学校に行く様になっても、花の名前もわからないのが多かった様な気がする。

テレビを見ない間にデイゲームでカープは中日に又逆転勝ちし、3連勝したと夕方のニュースで伝える。
急に強くなったものである。永年冷や飯だった赤松が連日の大活躍らしい。やはりうれしい。
好調な選手はどんどん使うというのがいい。

ネット用のPCが容量いっぱいにファイルを入れ過ぎて、動かなくなってしまっていたが、丁度来合わせた婿に治してもらう。
どうしても削除出来なかったファイルがかなり減ったお蔭で快適に動き始めた。やれやれである。
ウインドウズは不慣れで、まだ肝腎な事はわかっていないので仕方の無い事だが。

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2010年4月20日 (火)

老人の欲張り

雨がしとしと降り続いている。気温13度。春も春雨も正に酣である。
此の地方の桜はこれで花を打ち落とされて、終焉に向うという事になる。
ネットで調べてみると,三春の滝桜は18日現在咲き始め,若松城趾公園の桜は未だつぼみとある。明後日旅行に出掛けて丁度良いことになる筈だが、この雨がさてどなるやらである。

体調は今珍しく絶好調だから懸念無しなのだが、気候の方は全く手に負えないからなあ。
妹は飛行機が怖くて心配だと言ってるが、私はむしろ空の案配が気になる。見納めになりそうな富士山がまづ一番気がかりである。

今朝のハイビジョンテレビで偶々富士山の特集をやっていた。
古来からの信仰からの由来、絵画、写真、登山実況などなど洩らす所なく紹介してくれた。
空からの今度のお見えの参考になるだろう。

午後家内のお供をしてアルパークに行く。私は旅行用の折り畳み傘を買う。何十年ぶりだろうか。古いのが1本あるのだが、重くて頑丈なので老人には少し重荷、軽いのに買い替える事にした。

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2010年4月21日 (水)

手間のかかる旅行支度

一転して上天気になる。だが明日はもう悪くなる予報だ。
さくらも迷ってるだろうが,人間だって迷う。
明日から福島県の桜を見に行くというのだから、余程の物好きということなのだが、さて暖かくなるやら,寒くなるやら,全く予測が付かない。
家内も私もどれを着て行くべきか迷いに迷う。
ええー、ままよ。

カッちゃんが怪我したと言って旅行から脱落する。
費用を半分取られることになるが、金持ちだから問題は無いのだろうが。
わたしは先だっての天の橋立では、急に行けなくなって、大損をしたと思って今でも残念がっているのに。

もう2、3日早ければ,東京の娘に途中から参加さしても良かったのにと思ったが、明日の事だからもうどうにもならない。

雲を抜けて来る日射しは結構暖かい。
去年まで山形で暮らしていた姪が冬着でいいよと言ってくれるのでそのつもりだが、家内が外から帰って来て,年寄りでも皆薄着をしているよという。
そういわれたりすると又迷うのだなあ、馬鹿な奴は。

日記をつけるのに、ノートパソコンを持参する事にして,バッグの底にそしらぬ顔で入れておく。飛行機とバスだから余り持ち歩くことにはならないだろう。

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2010年4月25日 (日)

みちのく花見旅行

4月22日(木)雨
雨音の響く朝4時、とうとう待ちに待った東北への花見の旅の日がやって来た。
ラジオは大雨を伝え雷も頻繁に鳴るというし、うまく飛行機が飛んでくれるのか心配である。
折り畳み傘を買って来て丁度良かった訳だが、あまり嬉しいことではない。

6時半ごろ家を出れば良いのだから少し早すぎて、こうして日記を書いているのだが、ひょっとすると生前最後の言葉となるかも知れないなと思ったりする。

深夜便で元侍従長だった人が,現天皇の御日常を淡々と語って居られる。こんな話が聞けるのも妙な因縁だな。
もう間もなく5時になる,スイッチを切るとするか。

朝6時半。みーちゃんを廿日市に迎え、予定通り宮島SAから高速道路を空港に向う。
雨は降り止まないが、飛行機は予定時間を少し遅れただけで飛び立つ。添乗員を入れて42名の一行。波乱の出発になった。

羽田でも雨は益々ひどい。傘を指しての移動でやれやれと言いながら付いて行く。

東京も霧にすっぽり包まれて近くのビルが霞んで見えるだけ、夢幻の境地を行く。首都高速は相変わらず混雑する。
東北道に入ってからやっと予定のスピードに戻る。
那須の付近から吹雪に変わる。白河に入ると白一色。
天候の悪さが影響してか、三春の滝桜への接近は割とスムースに行ったらしい。
雨の中を傘さして歩いて坂道を上る。
銀世界の中に正に幽然と齢千年の老体木が満開の花を咲き誇らせている。なんと言う光景であろう。神秘とはこのために作られた言葉か。

今日はこの老樹と対面出来ただけで十分だった。
他の桜はもう目ではなかった。
6時半蔵王9百米のホテル松金屋アネックスに入宿。
温泉は強酸性とあって身体に滲みる。二度入る。

4月23日(金)雨
雨降り止まず。
7時50分宿を出て、田舎道を延々伊佐沢という所に所在する樹齢1200年といわれる久保桜を訪ねる。まだ咲き始めたばかり、輝きはない。立ち上がりが2本に割れ、なんだか哀れを催す。
次は烏帽子山の千本桜。まだほとんど蕾で、その壮観さは後日に譲る他はない。
全山桜一色は満開時は凄いだろうと想像しながらさる。

待望の立石寺参り。やはり老体には無理だった。
それでも半分くらいか仁王門まではなんとか登った。ゆっくりゆっくりだから若い者たちに付けるわけはない。
奥の院に登って、下って来る人たちに追い抜かれながらおそるおそる下る。下る方がよほど怖く、足の負担が強い。
終わり頃には膝が笑って、普通の道を歩くのもよろよろと難しくなる。

松島の遊覧船は私の強い要望で実現したのだが、思った程大層なものではなかった。
島が悪いとか、景色が駄目だとかいうのではない。
雨まじりの霞んだ海上を、しぶきに濡れた窓越しに見る風景はこれ又幻の世界を遊泳するごとく、まことに頼りない。
終始カメラは回し続けたが、恐らくそれを実証しているに違いない。生の迫力などかけらもなかった。

温泉宿の、マウント磐梯は横向温泉というのだそうで、磐梯の横裾にぽつねんとある。スキーヤー向けの宿らしい、
お湯に特色は見られなかったが、やはり2度入る。

4月24日(土)晴れたり曇ったり
やっと燦々と光る太陽の明るさに早起きさせられる。
7時半宿を出て、会津鶴ヶ城に向う。早い時間帯だからすいすい行く。
さくらは五分咲きといったところか。五層の大きな天守閣をバックに流石に見栄えがする。

飯盛山の白虎隊墓地は二度目だけにただ付いて上がるだけ。

本旅行コースの最後の”世界のガラス館”で思わぬ事故にあってしまった。
もうこれで終ったという気の弛みが原因だろう。そして、体力的には足の踏ん張りがもう効かなくなっていた。

少し段差が高かったところでよろけた挙げ句、顔から突っ込む形で緩い斜面の舗装の上に転んでしまった。
右目の下を擦りむいて、近くに居た人たちが急いで助け起こしてくれ、出血をとめたり、人を呼んだり一騒動させてしまう。
来合わせていた、別の阪急旅行社の添乗の方や同乗の方達がテキパキと処理してくださったようでまことに有り難かった。

懲りたので、次のバスの乗り降りからは杖を忘れない様にしたが、やはり先人はうまい事を言ったものだ。
”転ばぬ先の杖”、この心構えが一つ足りなかった。

羽田空港の出発時間が5時15分なので、急ぎに急ぐ。
幸い渋滞に巻き込まれることなく、3時半には到着。
余裕を持って搭乗手続きが出来た。

空港の掲示板では、空席4名と出ていたが、乗ってみると私の近所の席はがら空き、見渡しても半分以上空席だったが、予定時刻に遅れた人たちが大勢居たのかな。

雲が多く下界はまるで見えず、富士山もコースが違ったか、どこにも見当たらなかって残念だった。
雲上はるか上空を飛んだのだろうから、折からの西日も強く、雲からの反射光ばかりで見られるものは何も無い。
期待に反して面白くもなんともない空の旅だった。

人生の見納めがこれでは情けないなと、寝床に入っても悔いが残っていつまでも寝付かれない夜だった。Photo_3

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2010年4月26日 (月)

人間の本懐

2泊3日の長距離旅行(広島—東京往復空便、バスツアー1200km)はやはり私には無理だったようで、昨日は疲れが酷く何をする意欲も湧かなかった。腹の調子も少し悪い。特にガスの溜まりようが異常だ。
便通はさいわい別状は無いのだが。
家内も下痢気味だというから、食事が通常と違ったので過剰反応したのかもしれない。
家内の弁では”山菜料理ばかり食べたからだ”というのだが、そうかもしれない。

旅行中の日記も追書きしたし、ブログも纏めて送っておいた。
写真は数十枚取れているのでプリントアウトして家内に渡す。
ムービーの方はこれからぼつぼつやってみるかといったところ。
夕方までにはDVD1枚に収まった。

体のあちこちが痛いしだるい。特に打撲した肘や膝がひどく、立ち居にも難渋する。
もう長距離、長時間のツアーなどは、無理だとはっきり悟った。
私の怪我を見つけすぐ処置の手助けをしてくれた女性が、「百2歳で亡くなった父親と最後までよく共に旅行したものだ」と言われたが、こちらはそこまではとても及びそうには無い。


今朝のラジオでは、さくらは山形満開、明日以降秋田、青森に移動と伝えている。
しかし同じ県内でも、樹齢1200年の久保桜は未だ蕾みだし、烏帽子山公園の千本桜は未だ2、3分咲きのところなど変化の激しいのは報道泣かせだな。

各地のさくらも見せてもらったし、もうこの世におさらばしても悔いはない。

90年いろいろやったなあ。こんなにやって満足して死ねるなんて人間の本懐といえよう。

午前中に井上にささやかな旅行土産を家内が持参するを送り、帰路せいこうに顔の治療を受けに立寄る。
帰宅したところに折よく阪急旅行社大和さんより電話にて傷の具合を聞いて来られる。
全治1週間位かかるように言われたというと、東京海上保険から書類を送るだろうから詳細と費用領収書をつけて送る様にとのことであった。

午後2時間午睡。暑からず寒からず,良い気候なり。

井上から帰る途中、雅代が彩寧の手を引いて来るに出会う。
彩寧も昨日動物園に連れて行かれ転んで鼻血を出した由、怪我の痕が残っていていたいたしい。
同じ様に転ぶんだなあ。1歳児と卒寿翁。

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2010年4月27日 (火)

医者通い多忙

ざあざあ降りの夜明けである。
それでもそのうちに雨も止む。

午前中せいこうに顔の傷の治療に行く。化膿はしてないらしい。
明日も又来いといわれる。膝の具合がも一つなので湿布薬を貰う。多少は回復が早まるだろう。

顔の怪我というのは不自由なものだ。ヒゲも剃れないし,顔も洗えない,従って歯も磨かない。気になるのでガムを噛む。

夕方近く雲の切れ間からちょっとの間大陽が顔を出す。
今年は晴れ間の少ない日がまことに多い。
天候異変のうちに入るかも知れない。

ムービーのパソコンへのバックアップがどうもうまく行かない。
アナログ変換しての処理は既に昨日終ってビデオDVDも作成し終わっているのだが、デジタルコピーがうまくない。
一日中いじくり回す。
どうやらソフトが適合していないらしい。

東京から娘が来る事になってるので,食糧を私一人で買いに出掛ける。何しろ老人の一人前以上食量が増えるんだから。

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2010年4月28日 (水)

医者通いつづく

朝気温8度。7時に起床。
一人多く居ると心強い。賑やかでもある。
女二人が良くしゃべるから,取り付く隙はない。
新聞に目をやる。サンフレッチェは良く勝ったなあ。
韓国の”浦項”はダントツと思っていたがそれを新人ばかりで破ったのだからえらい。この勢いでリーグ戦を戦って欲しい。
午前中にせいこう外科を済ます。

昼前娘も一緒に食事に出る。壱番屋に行きカレーを食べる。
ついでに広電楽々園で買い物をする。
かねてから、建て替えを考えていた物置の一つに似た様なものを見て回る。工事費用ともでやはり10万円はかかるようだ。

午後4時内藤内科に行く。
貧血の疑いの血液検査を受け、別状なしとの診断だった。
歩行検査もしてくれ、膝が上がらずつま先から降ろす事が転ぶ原因だとの診断だった。心がけなければならないことになった。

東京海上から治療費請求の用紙などを送って来る。
大げさな事だ。
添乗員が現場に居合わせたから連絡を取ったのだろうが。

夕方霧が深くなる。明日は又雨かな。

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2010年4月29日 (木)

お呼びでない祝祭日

雲が多いが,晴れ間も覗いている。気温10度、雨になりそうな雰囲気ではない。
漸くこの老人にもやんわりとした,春の暖かさが伝わって来る。

昔天長節と呼ばれたこの日は今何というのだっけと新聞を見てみると昭和の日とある。何時変わったのか覚えがない。昭和64年に崩御されてからすぐ改元されたのだが、そのときはどうなったのか皆目覚えていない。

しかし思い起こしてみると、祝祭日などというのは毎年のように変更されるのだから、覚えておかれる様なものではなさそうだ。
特に毎日が休日の老人にはなくてもいい。当然覚える必要もないわけである。

予報によるとどうやらゴールデンウイーク中は好天気が続くらしい。人出が凄い事だろう。老人にはますますお呼びでない日々となる。
熱読して来た藤沢本も読み尽くしたし,何をするか目下考慮中。
庭の松の剪定でもするか。

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2010年4月30日 (金)

傷害保険

灰色の雲で覆われて、快晴には程遠いが、雨とは無縁の一日になりそうだ。
家内は広島までリウマチの記念病院へ、私はせいこう外科へ顔の傷手当にべつべつに出掛ける。煩わしい事である。

今朝どうかした拍子に肩甲骨の下の部分が肉離れかなにか起こしたらしく痛む。娘に湿布薬を貼ってもらう。事程さように厄介な年寄りではある。
もう我が家のダニ同様無益な存在、早く消えてしまいたい。

せいこう先生はもう治ったとはまだ言わない。明日は午前中に来なさいという。4日間の休みは余分にカットバンをあげておくから、自分で処理すればよい。もう間もなく治るだろうからとも。

午後霧が深くなり、島を隠す。
風は相変わらず強く窓を叩く。

今日東京海上保険から又手紙が来たので、ちょっと嫌な予感がする。
保険金請求条件などにいちゃもんが付いて、うるさい事言って来たのではと疑った。
開いてみると、逆にもし他の傷害保険などに入っているのではないか、だったらそちらにも相談したら別に保険金が出る筈だと書いてある。
掛けた保険金は皆貰えというおすすめ状である。

早速永年掛けている保険会社に言われた通り電話してみる。
用紙を送るから遠慮なく請求してくれという。

生まれて始めての旅行での怪我だったから、もちろん万一の事は考えないでもなかったが、予測などはしてなかった。
どうやら旅行代のお釣りが出そうな気配である。
そして軽い怪我でよかったと今は幸運を謝している所である。

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