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2010年1月31日 (日)

90才の悔悟

朝7時半起床、気温7度。雨は上がっているが庭先はしとどに濡れている。夜中にかなり降ったのか。
付けっぱなしのラジオのせいで雨音は全然聞こえなかった。

雨空はそのまま残り何時降り出してもおかしくない感じ。もちろん四周は霧が立ちこめて暁暗まだ続きありというところか。

税務署より早くも所得税の申告用紙届く。もうそんな時期かと心せき、また旅にでもと思い立ちし決心萎ゆ。

今年満90歳にとうとう到達してしまったが、10年前満80歳になった時、ハワイに夫婦で出かけ,祝福を受けたりしたことがあったが、あの時はまだ死を考えるいとまがなかった気がする。
しかし当日の日記を読むとそうでもないようだ。
ーーーもう先が無い今となっては、考えることは殆ど過去のことである。子供のころ、夏よく見かけた蜘蛛の空飛ぶ光景が思い出される。空を飛ぶといっても、羽のある昆虫のように羽ばたいて飛ぶわけではない。

尻を空に向けて糸を噴出し、風のまにまに流れ行く糸がどこかの樹の枝にひっかかり、固定されるとそれをつたって、するすると空中を移動するわけである。

人間の運命はどこかこの行為に似ているのではと思うのである。

人間もある時現状に慊らなくなり、ある決断をして、違う道に歩み出す。
確信がある場合もあれば、無い場合もある。ほとんどは後者の場合かと思われる。しかし人間はそれでも敢えて歩み出す。そして後返りは出来ない。いや行為そのものはやり直せても、時間は取り返せない。

この人間とは勿論私自身のことでもある。

今まで一口に運命だと云って、自分の人生を片付けてしまっていたが、運命の糸を空中に投げ出す行為は自分の意志に基づいている。人生の岐路を決めたのは、半ばはやはり自分であったかもしれないと、深い悔悟に捕われるこの頃である。

しかしこれすらも運命だといえば何も云うことは無いが。ーーー

茲に書いている悔悟の念は今も変わらない。が、もう万事終ってしまって、良いも悪いもなにもない。
私の人生が浮かび上がって歴然と見えている。その後余分ではあったが幸福に恵まれて、楽しい十年だったなあ、

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