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2009年12月 1日 (火)

師走においぼれも走る

朝は良さそうな天気じゃったがそのうち雲が出る。早朝の気温は5度。

昼前デオデオへ先般買ったHDMIコードが重複していたので、一つを交換してもらいに出掛けた。家内も下のスーパーで買い物をして、その後昼飯を讃岐やで食う事にしてついてくる。
いつもながら人が多いのに驚く。

午後はいつも通り昼寝。
師走のなったからといってまだ何事もない。年賀状の事がちらと浮かぶ程度。今年はどうするかな。
横山君が亡くなったのでこちらまで消えた感じである。
日射しが傾くと一緒でどんどん気持ちが沈んで行く。

出来る限り一人一人に手紙を書くつもりで年賀状を書こうかなと思ったりする。今からなら何とかなるだろう。
その気になるのが、ちと難しいかな。

来春早々には、次年度の町内会長を本班から選出しなければならない。考えてみると班長は私の所、少なくとも班を召集して会議を持たなければ始まらない。おちおちしては居れないぞと気を引き締める。
10年前私も突然班の集会に呼びつけられた。町内会長をやってくれとみんなに頭を下げられた。日頃お世話になっている皆に頭まで下げられては、どうにも断る訳にいかなかった。2年間なんとか無事に勤め上げた。こんどは選ぶ番である。

予定は早くから決めている。昔私と一緒の職場で働いた事のあるTさんである。近所の古老からも声が上がっている。ほぼ間違いないだろう。

今月末には運転免許証の交付を受けに行かねばならない。多事細々おいぼれも一緒に走るか。

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2009年12月 2日 (水)

排泄の便法発見

雲一つなき快晴、気温6度。
8時半大陽がまぶしくて目が開けられない。

朝4日ばかり又大便が出なくなったので、便秘かなと思って便所に入る。
肛門の所まで来て、気張ってもなかなか出ない。時々やる手だが、便器の水洗弁を開ける。
最強で肛門に吹き付ける。弁を閉じて、軽く気張ると溜まった便がドクドク出て来る。
二度繰り返すと排泄は完了したらしい。ヤレヤレ!
指で掻き出すよりは余程らくだし、汚くない。肛門も痛まない。今日はちょっと出血したが、水勢を少し落とせばいいのでは。
おすすめ方法として、恥を忍んでブログに公開する。

午前11時過ぎ広島駅のみどりの窓口に行き,東京行きのJRの予約をする。念のため指定席にする。
二人様の席はもうないので、3人掛けの席の二つになる。年末ともなると込むんだなあ。
12月8日(火)この日は私の忘れる事のない日である。大東亜戦争勃発の日。今では国民の3割ぐらいかな記憶しているのは。

昭和16年のこの日、富士の裾野から徹夜で世田谷まで帰った。こんどは広島からその日のうちに世田谷の隣り狛江市に行くのである。永い間には同じ様な事が起きるものだ。

昼は家内とアルパークの寿司屋で落ち合う。丁度正午だった。
この地方で唯一走っている動く歩道、老人には便利だなあ、息が切れなかった。ありがとうよ。

人間社会はもともと人間が生物というか一動物に過ぎない、自然淘汰が起って当たり前である。
民主とか、平等とか云う言葉に惑わされて、淘汰という言葉が忘れられているのではと、曾野綾子さんは新聞に書いて居られる。その自然淘汰すらなくしようとしても無理である。
自然淘汰は神の摂理である。人間社会のあらゆる場面でその弁えが欲しい。

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2009年12月 4日 (金)

友の位牌に弔う

家内が9時から広島の東広島記念病院に行くというので、送って行く。
福屋の前で降ろして、私は横山君のうちに仏参りに向う。
着いたのが10時半頃で、奥さんが丁度外出直前だった。
無理に御願いして拝ましてもらう。
まだ白木の箱と大きな彼の写真が安置してある。60才時代か英気溌剌とした写真である。
こんな時代もあったかと懐かしい。

明日法事をやるからと案内を頂いていたが、知らぬ人ばかりの中で、よろけまわる老人が不調法でも起こしたら迷惑をかけるからとお詫びをもうしあげる。
法要の永い読経、そして終った後のお斎、正座が出来ないし、あぐらも長時間は痛んで無理とあって、最近はどこの行事も遠慮申し上げている次第だからと正直にお断りして、さっさとお香をさしあげる。すこし雑談もあって20分ぐらいで辞去する。
奥さんの在宅が間に合ってほんとに助かった。

帰路はビッグアーチの方を迂回して帰る。車の多さに驚く。
奥さんは呆然とした日が続いているとおっしゃっていたが、元気そうでひどい気落ちはなさそうである。丁寧に奥さん門を出て、貸しマンションの前までたって送られる。
一安心して帰宅。正午少し前だった。
家内も医者から間もなく帰ってくる。さして問題はなさそうだ。例のごとくデパートを2、3廻ったらしい。
雲が出て午後は少し寒くなる。

昨晩からぼつぼつ年賀状の作成にかかる。とりあえずは友人などに文章だけの手紙みたいなものにする。

午睡から目覚めるともう4時、日は遥か西空に沈まんとしている。
何か一仕事終えた様な気分で、身体が重い。

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2009年12月 5日 (土)

上京の支度

快調に夜が明けたと思ったが、午前十時過ぎには突然真っ暗くなって今にも降り出しそうである。

朝起床早々東京行きの準備を始める.久しぶりだからあれこれと忙しい。
頭の回転が随分鈍くなった自覚があるから余計に忙しい。
持参する物ごとに別々の袋を用意して早々と箱に詰める。前日に送っておく必要があるからである。
電気剃刀まで先送りする。もう一つ古いのがあるからその点は抜かりはない。医者の薬も予定日数分は箱に入れる。ブログも続けるつもりだからnotebookも入れておく。lancableも要る。先方にもあるとは思うが念のため。着るものは何でも良い。風邪がはやってるから寒くなければそれでよい。
乗る列車、乗る時間、着く時間皆確定している。森羅万象何が起きるか判らない。その点だけは心配であるが。

午前11時とうとう降り始める。凄い霧だ。天神山も霞んでいる。
本日の友人の法要のお招きお断りして、昨日一足先にお参りしておいてよかった。お寺の寒さは修行の足りない凡夫には堪えられないからなあ。
昨日一分違いで奥さんに出会えた事、友人が段取りよく導いてくれたとしか思えない。

午后3時過ぎには雲間から日が射し始める。
不安定な天気である。

家内の側でコタツに足を入れながら、テレビの”坂の上の雲”を見る。そのうち寝込んでしまい、背中の辺りが寒い。鼻水もじくじく出る。風邪を引いたかな。
外はかなり風が吹いている。

夕方鳳陽会事務局に先般のさざん会の報告書を提出する。たった2名の大会で掲載されるのがはずかしい始末。読者は理解してくれることだろう。老兵は消え去るのみである。
我々の1期後輩の会は昨年解散したと発表していた、潔さが足りないと批判されるかも知れないな。

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2009年12月 6日 (日)

米国は甘くない

雲は多いが霧はなく、すっきりと沖の島々が見える。気温7度と暖かい方だ。
今度上京したら旧友神村君に又会いたい気もする。しかし相変わらず死期を論ずるばかりでは味気ないし、彼も幸福を謳歌している環境にはないらしいし、今回は遠慮して年賀状にさざん会の事、余の生き様など詳記することにしよう。
東京近郊にはまだ10名足らずだが同級生が生きている。しかし皆健康不安を訴え同窓会には殆ど出て来ない。こうなったらもう駄目だな。生きる値打ちがないと云ったら怒るだろう。

今シュタルケルのチェロがドボルザークの名曲を素晴しい音色で奏でている。
手を休めて聞き入る。正に法悦の境地。

沖縄の基地問題はどうやら政変に繋がりかねない状況に陥った。
米国を軽く見過ぎているのではないか、オバマになってもアフガニスタンに増派するという。
究極の時には戦争拡大を畏れない肉食の国民である。甘く見ると何がおきるかわからない、70年前の決断を繰り返さないでほしい。
平和をいくらお題目に唱えた所で単に絵に書いた餅に過ぎない事をしっかり自覚すべきだ。

午後3時まで熟睡。起きでて見ると、雲払われて青空からさんさんと陽光が部屋の隅まで注ぎ込み暖かい。山陽というだけあって、古来陽光には恵まれている。幸せな郷土である。

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2009年12月 7日 (月)

大東亜戦争開戦の日、私は一兵士だった

明日は大東亜戦争開戦の記念日である。
近年この日の反応は静かすぎるくらいである。68年も前のことだから仕方がない。
それでも線香花火のごとく時々思い出した様に新聞記事になる。
その一つを敢えて記しておこう。
天下の朝日が大きく半面を割いて掲げた記事だったからである。そして私の言葉が知らぬ間に載せられていたからである。

1998年12月当時niftyが運営する数百の会議室(通信フォーラムと総称した)の中に”戦前、戦中フォーラム”というのがあった。自由に戦前、戦中の体験を中心にああだった、こうだった、ああでもない、こうでもないと議論が白熱していた。私もその一員だった。盛んに一兵士としての体験を投稿連載していた。
そしてある日、たまたまこの日が12月8日であった。

1946年のあの日を思い出した。まだ明瞭に記憶していた。丁度富士山駒門の廠舎から自動車行軍数車両で伊豆へ向っていた。トラックの荷物台に満載された我々兵士に向って盛んに手を振る住民そしてみかんが沢山投げ込まれた。歓迎の意思表示と受け取った。
それにしても異常だなと微かな驚きがあった。

そして修善寺の温泉街の一角で正午の大休止となった。
一レストランに入り茶の接待を受けながら携行の飯盒の底をつついた。
折から店のラジオから景気の良い音楽と共に、東條首相の甲高い演説の声が流れた。
ハワイ奇襲を告げ、国民の奮起を促す正に雄叫びだった。
この時の私の感興を書いたのが下記新聞報道の”>以下の部分”である。

  __________________________
00059/00059 SDI00751 水城 雄     12月8日に掲載された朝日新聞記事全文
( 4) 98/12/16 08:50 00002へのコメント

 遅くなりましたが、朝日新聞社会部の記者のNさんから記事全文を送っても
らうことができたので、こちらで紹介します。
 写真はありませんが、新聞に掲載された記事の全文です。


 朝日新聞1998年12月08日朝刊社会面から

【パソコン通信「12・8」の会議室 戦前・戦中の記憶を残したい】

 戦後世代の冒険小説家らが、「戦前・戦中の記憶を残したい」と始めたパソ
コン通信の会議室がある。「戦前戦中フォーラム」の名で開いて一年。戦争体
験者をまじえ、歴史書からこぼれそうな話題を中心にユニークな意見交換を続
けている。歴史を善悪では評価しない、というのが基本だ。その会議室で問い
かけをした。
「十二月八日と聞いて、何を思いますか」。五十七年前のこの日、ハワイの真
珠湾などを日本が攻撃して太平洋戦争が始まった。

 ○「悲しい」英人教師はその朝去った 死、すぐそこに覚悟 戦争体験者

 ●ラジオで始まった

 〈八日朝早く、鉱石ラジオのレシーバーを耳に当てていた寮友が「始まった、
戦争が」と叫びました。「どことだ」、「米国、英国の両方とだ」〉

 そう書き込んだ男性は、当時、旧制高校三年生だった。一時間目は、在日四
十年で叙勲も受けていた英国人教師の講義だったという。

 〈(英国人教師は)「一生のうち今日ほど悲しいことはない」と悲痛な演説
をし、「グッバイ、ヤング・ジェントルマン」と教室を悄然(しょうぜん)と
去りました。その日の軍事教練の時、配属将校が「さっき英人教師に会ったの
で『あなたの国の軍艦はみんな沈めますからあしからず』と言ったよ」と昂然
(こうぜん)と話すので「なんて心ないことか」と憮然(ぶぜん)としました〉

 軍国少年だったという男性。

 〈やったぁ! 万歳! というのが素直な気持ちだった。米英を敵性国とし
て戦争をあおるような記事があふれていたから横暴な米国を実力でやっつけて
やる時が来たという感動が体中にみなぎった〉

> 富士山のふもとで演習していた二十歳の初年兵は同じラジオ放送を食堂で聞
>いた。

 >〈俺(おれ)たちはどうなるんだ……死すらすぐそこにあることを覚悟せざ
>るを得なかった〉

 >演習は即時打ち切られ、夜行軍で東京へ戻った。野戦用に着替え、実弾を携
>帯して警戒態勢に入った。

 >〈新聞もラジオも戦争を謳歌(おうか)していた。大陸でうち続く戦争の痛
>みを訴える一部の声はもはや届きようはなかった……〉

 ○戦争知らないのは教育も一因 平和、あの日があるから 戦後世代

 ●感慨わかず

 〈太平洋戦争の始まった日だと気づくだけで、それに続く思いや感慨はわき
ません。戦後二十年以上たって生まれた世代の正直な感想ではないでしょうか〉

 現在二十九歳の農林系団体職員は、あの日のことを自発的に考えることがで
きない理由を自問する。

 〈若者の気質というより、五十数年前に何があったかを、イデオロギー抜き
で説明する機会をつくらなかった現代教育に根本的な原因があるのではないで
しょうか……若者にも涙や温かい心はあります。でも、知らなければ何もでき
ません〉

 三十六歳の男性。

 〈戦争は国際法上認められている一外交手段で、軽々にその善悪などを論ず
るべきではないでしょう。戦争という外交手段を採用したという事実に対し、
その判断の是非や問題点を考える、というのが私のスタンス〉

 ●変わる「12・8」観

 一九五三年十二月十四日生まれの栃木の男性は「十二月八日」とのかかわり
方が時代とともに自分のなかでも変わってきた。

 〈小学生の頃(ころ)――父親が開戦記念日とよく言っていた/中学生の頃
――真珠湾を攻撃した日本軍は、悪いアメリカ人をやっつけ、強くかっこいい
と思っていた/高校生の頃――同じ飛行機好きの友達と、真珠湾攻撃の日を話
題にしていた/結婚後――小学生の子どもに、何の日か教えていた。嫁さんに
は言わない。むやみにかっこいいなんて言わなくなった〉

 自分が育った昭和三十年前後という時代について〈傷痍(しょうい)軍人が
アコーディオンをひいてお金をもらっていました……銭湯では大人たちが体の
傷をみせては戦争体験を懐かしそうに話しており……漫画も戦記物一色で零戦、
戦艦大和は憧(あこが)れでした〉と振り返る。

 だが、現在ではあの日を知らない人が増え、自分からは話さなくなったとい
う。

 〈あの日が無かったらと思います。あの日があったから、今の平和な日本も
あるんだとも思います。後者の方を、強く感じます〉

 

 <戦前戦中フォーラム> 昨年10月21日に開設された。旧満州や疎開先
での体験記や手記▽戦前の農山村での暮らしぶり▽旧日本軍の兵器や軍装の研
究▽フリートークのためのサロン――などの会議室に分かれる。パソコン通信
大手のNIFTYのGOコマンドで「FSENZEN」を入れる。約三百人が
ほぼ毎日アクセスしているという。戦争体験世代では、大陸からの引き揚げ者、
学徒出陣の経験者、元特攻隊員らの発言が目立つ。戦後世代では、戦略ゲーム
の愛好家や戦記ファン、祖父らの戦争体験を聞いて育った若者が多く、現職自
衛官もいる。開戦記念日をテーマにした意見交換は当分続く。
  _________________________Img041

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2009年12月 9日 (水)

田舎の誇り

予定通り上京できた。新横浜に途中下車して、迎えに来た娘の車で彼女のマンションに落ち着く。
結構疲れを感じない。
孫たちがみな大きくなって、もう昔の子供ではなさそうである。
大人の会話が弾む。

夜娘が腕によりをかけてご馳走する。圭さんは勤め先から9時ごろ帰宅。
改めて久闊を叙すことになる。

上京までの詳細を日記に記録したのだが、ノートブックのハードディスクがいっぱいになって保存できない。
容量が少ないということはこういうことだと改めて勉強させられる。

それにしても人や車が多いなあ。あきれる思い。
決して都心とはいえない元武蔵野の樹海がこんな変身をするのだから、年月のうつろいは凄い。

やはり広島ぐらいがいい。田舎といわれてもいい、その言葉に誇りすら感ずる。
海があり、島があり、スキー場があり、千古斧鉞の入らない樹林,沼沢もある。人並みのの市街も存在する。

着くとすぐ帰る準備を始める。
娘に言って、11日予定したNHK交響楽団の定期演奏会の観覧は取りやめにしてもらう。
10日に横浜を一覧して、京都まで行き、見落としている神社、仏閣を見物することに計画を変更する。

いつもながらの私の変心に娘も家内も呆れ顔。
老人の勝手な思いつき、もう止め処がないとだまって許してくれる。
堪忍な!

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2009年12月11日 (金)

横浜、そして生麦を訪ねる

上京目的は一日で終った感じだった。オペラ トスカを3時間かけて見て、こんな素晴しいものを見終わって、なおN響の演奏を聞くなんて贅沢だと思った。しかも今の印象が上に墨汁とまではいかなくても、うすい幕をかけられた感じにされるのではと、ふと帰りの車の中で思った。
この感動だけでよい、おまけはいらない。
婿の職場のある横浜は昔から関心のあった街だ。ここだけさらっと通りすがりに見たらそれでよい。
永くない人生、この辺で幕にしようと強く思った。
長居は無用、その足で帰ろう、いや京都の見残しているあれこれだけちょっと見て帰るかと、内心3問4答をする。

思ってた事を口に出した。もう止まらない。
朝目覚め、外を見ると快晴。チャンスと見て、皆に決行を告げ支度を急がす。
10時さよならをこの家に告げて出る。娘が新宿から横浜への新しい道筋を決めてくれる。特急並みの速く新しい路線だ。
昼前には横浜に着き、タクシーを拾ってマリンタワーに行き、昼飯を食った後、婿が心配してくれたタクシーで2時間の観光を始めた。

思った通り横浜の横からの眺めは悪くなかった。雲が陰ってかんかん照りでなかったのも却ってよかったかも。
運転手も親切でよかった。外人墓地も本牧も中華街も関帝廟も、そして白眉はベイブリッジの壮観だった。おまけの生麦の記念碑、運転手さんも私が言い出すまで知らなかった。江戸幕府瓦解の一里塚になった歴史上重要な場所である。
だが、現代となっては、余りにもみじめな路傍のたたずまいではあった。

予定を過ぎる事一時間、ベイブリッジでの休憩がたたったのかも知れない。
新横浜に横付けして貰って、そのまま新幹線で夜遅く我が家に辿り着く。
あわよくばと思った京都は今晩から明日に掛けて雨の予報で、無理すべきでないと言う皆の意見を入れて、後日ももしもあるならその機会に譲るとした。
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2009年12月13日 (日)

自分の身体は自分が一番知っている

今朝の気温7度。もうこの程度の気温は身体がなじんで寒くも何ともない。
一昨日内藤先生に足がむくんでいる、胸の動悸はどうかなと云われたが、別にどうもない、東京へ行き帰りして、長時間座りぱなしだったからでしょうかと答えると、それでかとうなずかれる。よく休むんだなと一言。
昨日はゆっくり休んだのでもうむくみは取れている。
私は大丈夫と思ってるんだが、先生は少し危ないなと感じているらしい。

東京へ小便しに行った様なものだったので疲れは残っていない。90年も生きてると自分の身体の調子くらい何とか読める。

小沢は角栄の子分だから、もっと保守的だと思っていたが、中国へ手勢を引き連れて遣唐使まがいの外交はやるし、朝鮮には迷惑を詫びなければならないと取って付けた様にしゃべってみたり、いつのまにか社民党に鞍替えしたらしい。
一波乱起きねば良いが。

昼寝が済んで、オペラ熱が再発した訳ではないが、午後2時からのベルリーニの”ザイーラ”に耳を傾けながら、今これを書いている。題名すら聞いた事のないオペラである。
筋立ては全然わからない。ただ曲は美しく、最初からコーラスなんかで盛り上がって面白い。
全部終ってないからわからないが、拍手を送りたくなる様なアリアはなさそうだ。

寒さが年々身体に響く様になって、緊張しているこの頃だが、全般に体調は随分よくなった。
この分なら来春には念願の五島にも旅行出来るかも知れない。
妹が前から行きたいから連れて行けとせっついているのだが。
ここは天候次第なので、うかつに予約は出来ない。

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2009年12月14日 (月)

気の利かないviefo

休刊日なのに忘れて新聞を取りに出る。今朝の気温は5度。
霞んだ空から柔らかい日射しが、じわりと部屋の中を暖めてくれる。
夜明けが遅いので、寝起きに躊躇し、夫婦二人の呼吸が揃わない。
用事があるわけでないから、何時起きようとかまわないのだが、食事が揃わないと後が進まない。

昨夜は圭さんから、疲れ出ていませんかといたわりの電話が入る。
こちらこそ勝手に伺い、勝手に帰ったりして、心ない行動を取り、傷つけたのではないかと、お礼とお詫びを繰り返す。

身体は云う事を利かないのに、気ばかり先走って、老人は厄介なものだ。
昔その目にあった事を忘れて、その愚を繰り返す。人間の成長とはなんだと腹立たしい。
やはり死ななきゃなおらない。

先日のトスカは凄かった。プリマドンナのアニシモヴァが病気で急遽代役マリア・トレグボーヴィチに変わったりしたが、そんなことはまるで感じない好演だった。難癖をつけるならもっと美人だったらまだよかっとと思う位なものだ。
歌う量から云えば、スカルピアを演じたニコライ・コビロフが主役だが、迫力のある声でなかなか好演だった。
最初の堂守役マトヴェーエフのバスも凄かった。ロシア人らしい迫力ある低音だった。
マイスラーゼの”星は光りぬ”もよかった。家に帰ってから、デステファーノの古いディスクを引っ張り出して聞き比べたが遜色なかった。

休憩時間、待ち時間を入れると優に4時間を超えた。
帰宅した時にはは5時間を超えていたので、圭さんも心配して駅まで迎えに出てくれていた。
迷惑をかけたものだ。翌日の仕事にこたえたのでは。

好意につつまれて、幸福な上京目的を果たす事ができた。
何度思い返しても嬉しい。

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2009年12月17日 (木)

寒くて嫌な日

病院の診療日。5時に目覚めて眠れない。とうとう起き出す。室内温が11度。
ストーヴを点火すると、間もなく暖まる。4畳半だから早い。
少し残していた年賀ハガキを作り上げる。
毎年この時期になると古いワープロが役に立つ。最初に買ったのはリコー・マイリポートで1985年だったが、これはとてもものの約に立つ代物ではなかった。しかしどんどんいいものが出て買い替えて立派に役立った。今も最後の品物がいざという時に手伝ってくれる。もう二十数年にもなる。

7時半家を出る。病院もまだ人がまばらで、電灯の消えてる部位が多い。
新聞を読みながらまつ。
私が一番先に来たのに、先生が順番を間違えてくれたので4人待って5人目になる。受付で一悶着やる。
女の先生が診察を終ると、いいお年を迎えてねと機嫌を取る。あなたもどうぞと言い返す。
最後は笑顔でのお別れとなる。

マスクを忘れて行ったのでしまったと思ったのだが、幸い人が少なく咳をする声は聞こえなかった。

街頭は小雪がちらつき、車の行列がつづく。
車の中は適当に暖房が効いて、寒くない。飛び行く粉雪も素知らぬ顔。
帰宅すると外販のおじさんが来合わせて、寒いですねと赤い顔を向ける。
商売とはいえ気の毒だな。

外に出た勢いで家内を促して買い物にスーパーまで行く。家に居るよりは車の方が暖かい。

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2009年12月18日 (金)

亡き友を憶う

初雪が屋根に薄く置いている。道路や庭の上は融けて濡れているだけ。気温0度。
日本海側や山奥の方はかなり積ったらしい。
朝は日本晴れで雲一つ見えない。

先月親友の横山君を失い、落胆の末思いつきで、刎頸の友とこのブログなどで使ったしまったが、今思うと首をはねてもいいという穏やかならぬ古い言葉を使って適切だったかなと悔やんでいる。

古来4千年の文字歴史を持つ中国には無限に近い言葉がある。
僧空海、阿倍仲麻呂は云うに及ばず、はるばる唐の都長安に赴いて学問を学んだ沢山の日本からの留学生のいたことは揺るぎない事実である。
そのおかげで今日の日本文化があると云って過言ではない。

私が常識で使っている言葉ももちろんその亜流だが、それだけにちょいちょい間違った使い方をするようだ。浅学菲才笑うべしだが、この友正に最高の言葉で遇したいとの思いからつい滑ってしまった。
彼との触れ合いは、18才正に成人の入り口の学校寮の同室だったという奇遇から始まった。毎日の寝食から始まって、勉学は勿論楽しい学校生活を一番身近く享受した。
戦争中はすれ違いの人生だったが、戦後事業の失敗から破産の憂き目に遭う所を、声をかけられて彼の仕事を手伝う事になり、着かず離れずともかくも50年一緒に仕事をし、或いは助け合ったりしてきた。

同窓会のお世話も二人一緒だったからできた、だから35回の会合のうち二人とも31回という出席率で全学友最多を記録した。
彼の死をもって、会も終了する事になるだろう。同窓の範だったともいえよう。

友との交わりを最優先に、何事にもその道の先達を行くものに声を掛け、教えを乞い、相談を持ちかけ、或いは赴いて紹介の労を取らしめた。
いつも彼の傍らに居たから、感心しながら彼の方式を眺めていたものだ。だから事を誤る様な事は殆どなかった。

彼は進む事はもちろん得意だったが、これは将来駄目だと察すると思い切り良く切り捨てた。
業種、店舗、人員配置、特にその管理者など。時には非情とさえ思えた。
私では出来ないなと思った事も二度や三度ではない。
一口に言っても大した事業家であった。

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2009年12月21日 (月)

古いパソコンを又買っちゃった

昨日ー1度、今朝は0度と少し戻した感じ、寒波襲来も峠を越したかな。
しかしアメリカといい欧州といい随分ひどい寒波らしい。
ドーバー海峡のトンネルの中で列車が何本も動かなくなったというのだからひどい。
子供を抱いて歩いた連中は大変だったろう。
文明の利器はこんなとき恐ろしい。

ロシアのソユーズは無事宇宙基地へ到着したらしいが、100%成功しなければならないのだから、これも大変だな。
日本の新幹線も永久に油断なく運行して欲しい。故障はまだいいが万一の対策を普段から絶えず心がけておく事だ。
民主党のマニフェストが少し危なくなって来たらしい。水物である景気が予定通り行かないから、何もかもおかしくなる。政治がマニフェスト通り行けば、誰も苦労はしないのだ。

アルパークに行き,昼飯を食う。
ヤマダ電機で古いノートパソコンを一つ¥17800で買う。もちろん安くなければ買う気は起きなかった。
安い割には快適である。容量が少ないから重いソフトは使えない。せいぜいpictureまでと思っているからこれで十分。
ブログには丁度良いと思って買ったのだがさあどうか。
マックの調子がときどきおかしくなる事があるので、緊急対策の意味もある。

最近"sinoman"で検索する人が急増しているようで、いいのか悪いのか気になるので、逃げ口を考える意味合いも兼ねる。
つまらん情報でも流せば捕まる。普段から覚悟していない訳ではない。

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2009年12月22日 (火)

師走の景気イマダシと見たが

昨日買ってきた富士通のパソコンで早速日記を書き始める。
昨日は手始めにインターネットに接続してブログを書き込んだりしたが、格別変わった感じはなかった。むしろ中古にしては画面がきれいだなと思った。再生の際悪い部分は更新したのかもしれない。

今日記を書いているのだが、変換もスムースだし、変な変換もないし常識的でよい。
安いのだから多くは望まない。これだけできれば上出来といえよう。
キーボードやマウスは新しいのがついているから、今まで使っているやつよりましなくらいである。ミス打ちがほとんどない。

もちろん老いぼれだから、キーを見ながら丹念に打つ。若い人のように感に任せて打つのとは当然違うのだが。
急ぐことは何もないのだからこれでよい。

夏に買ったノートブックは台湾製で、安くはあったが使い辛かった。
やはり本物のパソコンのほうが古くても使い勝手はいいようだ。
キーの動きがまことによい。

今朝の気温はー2度だったが、昼頃にはかなり暖かくなる。
年賀状を郵便局まで出しに行き、ついでにデオデオで買い物を少しして帰る。
昨日のヤマダ電機でも元気が無さそうだったが,今日のデオデオでも客足は鈍そうだ。
不景気風が吹き捲くっている感じがしてならない。
師走にこれでは日本は救えない。

DVDに録画したビデオなどが400に達したので、アルバム式のファイルに整理する事にして、始める。
テーマを書き写したり、番号を記載したりするのに結構時間がかかる。
年内に終るかどうか。
用事は作ればいくらでも出て来るものだ。

私がやたら寒い寒いというものだから,家内が古いジャケツを次から次へと引っ張り出して来る。
年月というものは恐ろしいもので、もうすっかり忘れていた様な昔のジャケツが出て来たりして懐かしい。
すり切れる程着たジャケツもある。さすがにもう見栄えが悪そうだ。さよならだな。

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2009年12月23日 (水)

天皇誕生日はナンセンスか

天皇誕生日の佳節である。

新聞のおとなしさはどうだ。象徴をも忘れたようだ。

天皇のために命をかけて戦った日本国民も忘れ去られたのか。

おおきみのへにこそ死なめと詠った万葉の昔から、脈々と民族の中心としてあがめ続けてきた先祖や私ら世代に、完全に背を向けられた思いでさびしくてたまらない。

バランスを失った凧のごとく、今日本は明日への方策に悩み苦しんでいる。政治だけの責任といえようか。重心を失った国民の意識の変化にこそ多大の原因があるのではないだろうか。

どこの国でもそれを構成する民族の真剣な努力と意識がなくては国は豊かに強く幸福にはなれない。

同じ人間でも、競争はするし、戦いもする、何もしないで勝てるわけがない。

久しく経済大国を謳歌したが、もう一場の夢と化しつつある。

ばらばらでは駄目だ、古来繰り返してきた民族自決の道を取り戻してほしい。

午後二時日が射し始めて気温が急激に上昇する。ベランダの寒暖計は22度を表示している。

暖かい。やっと寒気が過ぎ去ったか。

今テレビで”坂の上の雲”を毎日曜日にやっている。大きな時代錯誤ととれないこともない。

鎖国していた国が、やっと巨大な外国がいるということを知り、国を挙げて戦った人々の、いはばナンセンスである。

しかし浅ましいほど真剣であっただろう。

私たちが70年前、同じ轍を踏んで、大真面目に命を掛けた。あるものは弾丸となって敵艦に突っ込んでいった。

今中東アジアでは、日常茶飯のごとく、爆弾を抱いて自爆をくりかえしている。

やはりナンセンスのたぐいだろうか。

もしこれが仮に原子爆弾で自爆したらどうだろう。ナンセンスとあざ笑っておられるだろうか。

さらに今ひとつ温暖化がある。その自然破壊の脅威は原子爆弾に等しい。対策は人智を超えそうである。

真剣にならなくては人類全部が滅亡へまっしぐらとなりかねない。

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2009年12月24日 (木)

私の運転免許は軍隊に恩義

9時前家を出て,運転免許センターに向う。
相変わらず多い。前回の倍くらいかな。
見渡した所白髪の人は1、2名いたが、私の様なしわしわは見えない。
てきぱきといつも通り早い。あっという間に帰る頃には受付はまばらになっている。
あまり早く来過ぎても駄目なんだなと気付く。

一番心配していた目の検査もなんなく合格。新免許証をいただいてすぐ帰路に付く。
又帰り道を間違えたらしいが、却って近回りしたらしく、早く国道に出る。
インフルエンザはますますはびこって、この市も危ない。免許証も元気なうちにと思って急いだのだが,予定通り行ってよかった。

それにしても後3年の有効期限だが、ほんとにこれが最後となるだろう。
90を過ぎて運転するとなると、ますます少ないだろうから。
顧みると、自動車部隊に徴集されて、運転を習って約70年。途中捕虜とか、終戦時とか乗れない時期があったけれど、いつのまにかそのお蔭を蒙って乗り通して来た。車は私の足そのものである。
私が軍隊を悪者呼ばわりしないのは、この恩義があるからである。

沖合は霧が深く,天神山の向こうは何も見えない。気温が暖かいせいだろう。
日は中天に輝いているが,午後遅くなっても霧は消えない。

私にとっては今日で年末の仕事は終わった様なもの,ふっとためていた呼吸が戻った感じ。
正月よ早くこいである。まだ丁度一週間ある、待ち遠しいな。

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2009年12月25日 (金)

老いのくりごと

昨日と同じ様に霧が深い。宮島も能美も見えない。
今朝の気温は4度、昨日が5度だったから同じ様な案配。
しかし予報では午後には雨になるという。

昨晩の夕餉の話しでは、今度生まれる曾孫はどちらも男の子だと家内が言う。
娘から聞いたらしい。今まで女の子ばかりの我が家にもとうとう男の子が混じるらしい。しかも同時に二人も。
今度は騒がしくなるだろうよ、天の摂理に素直に従うしかない。
もっとも私を憶えてくれるところまで行くかどうか。珍しい場面を見て死ぬるのもいいだろう。

クリスマスの日とあってか、やたら合唱の音楽が昨日から続いている。あまり聞き過ぎると案外嫌になるものである。日本の昔で云えば朝から晩までお念仏といったところだろう。

スイッチを切り替えて落語にする。こちらは不謹慎でまことによい。

午前中内藤内科に行く。来客が多くて時間がかかる。別に悪い所は何もないと先生は云う。
医者に来るぐらいだからと思って先生は云うのだろうが、それほどこちらは気にしている訳ではない。
先生が聞けば何処がどうだぐらいは返事しないと困るだろう。
どんどん薬を追加されては困るから、この頃はここも良くなったあそこも良くなったと、まるで病人ではない。

霧は益々深くなるが、雨にはならない。もう家並もビルも霞んで夕暮れと見まごうばかり、まだ2時半というのに。

4時とうとう降り始める。

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2009年12月26日 (土)

民主とは時間がかかるということ

天神山も霞む程凄い霧、気温は6度と今の時期では高い方か。
昨日の雨はあまり降らなかったのか,庭先も道路も濡れていない。
今晩当たり降るだろうとは云ってるが。

朝から家内は薬を沢山飲んでいる。ひと事ながら大丈夫かいなと心配である。
私はだんだん減らす様医者にしむけているので、そんなに多くはない。
ただチガソンのせいで唇が荒れて、すっぱいものは滲みて痛い。しかしこればかりはやめられない。
今一番効き目があるのはこの薬らしいから。今年の前半に比べて随分よくなっているし。

年末年始は大変なラッシュになるらしい。故郷の墓参りもやめて、暖かい日を狙って行こうと家内が言う。宮島参りも3日の井上の招待も、電車で行く事に決める。
老人は人並の行動は避けなければいけない。若い人の邪魔をしてはいけない。

広島の秋葉市長はオリンピックを開催すると言い出したが、竹田JOC会長に長崎との共同開催は受け入れられないと断られる。
カープ球場を作るときあんなに苦労したのに、オリンピックスタジアムをつくるなんて出来るのかいなと,何をたわけた事をと思ったのだが、執念深く振り上げた手を下ろそうとしない。
永年市長をやってるとそれなりに自信がつくとみえ、あちこち飛び回って忙しい。そちらもただではすまないだろうが、東京ですら今回大損をした、早く見切りをつけることだ。

岩国の愛宕山跡地は結局米軍住宅用地に買い上げることになるらしい。
始めからその予定でかかったのではなかったか、小さな声に動かされすぎるから遅れて損をする。
民主主義というのは手間も暇もかかるものだ。
普通だったらアメリカの4,5倍も手間ひまがかかる筈の中国は,其処へ行くと全く手早い。
いずれ十年もすればアメリカを追い越して,世界の目を剝かすことだろう。
もたもたしている日本なんか歯牙にもかけぬと、云ってるそうだ。アフリカでも南米でも投資は日本の先を行っている。

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2009年12月27日 (日)

師走はやはり気ぜわしい

朝の気温0度、霧は相変わらず。昨日のテレビ報道では黄砂のせいだという。12月に黄砂がくるのは珍しい現象らしい。
そうすると今朝の霧も黄砂と混じり合っているのかもしれない。なんとなくそんな気がしないでもない。

芳邦さんが持ち込んでくれた大量の野菜、娘の所でほとんど食べてもらわないと、食の細った老夫婦ではどうしようもない。家内は早速交渉にいそがしい。
漬け物にしろと大根も沢山くれたが、漬け方もわからないこちとらでは、その勉強から始めなければならない。
一方今年大量に実をつけた柚子ははかし方に困っていたが,昨夜沢山貰ってくれたので、こちらはやっとめどが立つ。あとは大部分風呂に浮かべることになりそうだ。柚子湯というのだそうだ。
肌が綺麗になるというのだが、80、90の老いぼれに肌もあるまいと吹き出す。

昼前急遽娘の所へ野菜をもって行く事になり車に積み込んで出掛ける。野菜なんて重たいもんだなと改めて思う。実際は私の力がなくなったのだが。

帰りにスーパーに立寄りうどんを食い、しめ飾りなど正月用品の一部を買い整える。まだ間があるので全部という訳には行かない。おもちなどもまだ早い。
嵐の前の静けさで客足はまだ鈍い。

家内が目が悪いとしきりにこぼす。ちょっと心配である。来年早々目医者にまで通うということにならねばよいが。

インターネットでたくあんの漬け方を学ぶ。さすがに腕自慢の猛者たちが智恵をしぼっている。
参考になりそうなのを取りあげて、実行にうつすことにする。
とりあえず、日当りの良いベランダの下に、竿を渡して二個づつ束ねて吊るし乾燥する事にする。
義弟は20日くらいと云ってたが。

日が西に沈むも、霧か黄砂か、もやもやが四海を包んだまま暮れなんとしている。中天に僅かに青さを残しているが,夕焼けもなにもない。

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2009年12月28日 (月)

内外多難の年の暮れ

今朝の気温は5度、暖かい方だ。刺す様な冷たさというのが冬はよくあるが、それとは明らかに違うふんわりした冷たさだ。
新聞配達が気を利かせてくれないので、いつも雨の日に新聞を濡らせて仕方がない。専用のポストを門につけたのだが、黙っていては使用してくれない。仕方がないので雨天には上のポストに入れてくださいと貼り紙をして、やっと使ってもらえる様になった。
しかし雨というのも新聞配達に合わせて降るものではないので,時々はタイミング悪くびしょぬれになったりする。
とうとう人工芝をダイキで買って来て,ポストの底に敷き詰めた。こんどは大丈夫かしら。

今日は霧も薄く,島々は少し霞んでいるが遠くまで見える。海が光に映えて美しい。

普天間基地移設問題がああでもないこうでもないと,議論沸騰して船が陸に乗り上げている。
多数政党というものがこれほど御し難いのも珍しい。
亀井一人の方が余程良い。或いは社民党の何とか云う党首に総理をやってもらった方が早く解決するかもしれない。ノーというだけだから。アメリカに手を引かして、後がどうなるか、恐ろしい賭けだが。

綸言汗のごとき小沢の一言だが、壊す事は出来ても発展さす事が出来ない。
せめて毛沢東の亜流でも日本にはいないのか。

栄枯盛衰は世の習い、いつの日か亡滅寸前まで行って,国民の総力を結集して再度立ち上がらねばだめかもしれない。その時は現在の様な大きな政府ではだめだ。
その日が自然災害か人的災害か、同じ国民が血で血を洗うことだけは避けてもらいたいのだが。

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2009年12月29日 (火)

再会したき友

土田好治君から歳暮という小包が配達される。何事かと開いてみると山陰経済ウイークリー社が一昨年記事化した山陰経済人録という人名録みたいな冊子が入っている。
彼の写真入りでなかなか豪華なものである。
彼の先祖からの由来や彼の業績などが細やかに紹介されている。県会議長など永年の功績に報いられた勲三等瑞宝章授章記事で締めくくられている。

早速お礼の手紙を送ると同時に惜しみなく賞賛の声を上げる。同級生として誇り高く凄く嬉しい。
ふと思い出して、私が数年書き綴っているブログを毎年書籍化しているものうち、たまたま手元に残っていた3年前のものを礼文につけて謝礼のつもりで送る。正月の休みにゆっくり読んでもらいたくなって。

たまたまその中に松本君など同窓の思い出記事を沢山載せていてちょうど良かった。
読んで喜んでくれるかどうか、それは今問題ではない。

今功なり名遂げた彼でも、シベリア送りにあったり、くにでは火災にあったり,洪水に危うく救われたり,事業不振にあったり、波乱は免れ得なかった。その経歴を知って驚く事ばかり。
私も爆撃で家を失い、人の債務補償で全資産を失ったり、事業の倒産にも遭遇し二重三重の苦難に遭遇した。結果ヨシでなんとか辻褄はあってるが、平穏な90年を経過したわけではない。

人間誰でも生きて行くということは、簡単な事ではない事を知るべきである。
結果だけで推し量ってはならないものである。

もう同級生は指折るだけしか居ない。来年も是非元気で再会したいものである。

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2009年12月30日 (水)

粗衣粗食は美徳である

曇天で夜明けが遅い。もう9時というのに明るさがない。島々まで薄ぼんやりとして,黎明は見えない。或いはひょっとして又あの黄砂か。

今朝珍しく腹が少し痛い.昨日の午後突如下痢をした後遺症か。
パソコンに向ってもなんとなく落着かない。
体調良好で新年を迎えたいのに。

昼前少し下る。昼まで布団に潜る。

いつのまにかしょぼしょぼと音もなく降り出す。

テレビか何かで云ったらしく,日本だけがデフレだそうだと家内がいう。
アメリカの例の金融恐慌が、全世界にまき散らしたショックの影響での世界不況かと思っていた私はほんとかいなと驚く。
職がないと騒いでいるのはしってるが、外国から生きのいいのを何百万人も移入したのだから、それは仕方がないよと思っていたが,その人たちも職が無くなって故国に帰りつつあるという。

これは生活程度を戦後時代に引き下げるしかないなと経験者は思う。
若い人にはちょっと辛いかも知れないが、なんでもないことだ。丁度デフレなら願ってもない。
収入は安くてもいい、無理はしない,ボロをまとい、支出は収入を超えない。いくらでも暮らして行ける。余りは貯蓄する、以上である。
少なくとも私はそうして今日がある。

有り難い事に今は国が放っておかない。騒ぎ立てるのはよそう。
新聞なんかは粗衣粗食を美徳と讃えよう。
国民がその意識になったら忽ち国は蘇るだろう。
元々資源も金もない日本が、欧米の暮らしを求め過ぎた。因果応報である。

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2009年12月31日 (木)

歳末風景

朝起きると完全な雪景色、気温0度。8時半には猛烈に降り出す。あっという間に4、5cm積る。
元日にやってくれればいいのにと思うが、ままならない。
まあ、概ね正月支度は出来てるらしいから、いいか。
今朝は餅を焼いて、きな粉にして食う。我が家も変な具合。
平成21年(2009)も今日で終る。
親友横山君の死はどうにもたまらない。余生の少ない私の脳裏から去る事は勿論ないだろう。
元気な時の姿がまざまざと時折姿を現す。
孤独を痛く感ずる瞬間が交互に来る。
私にも茫然と老い朽ちることがあるのだろうか。

昼前から雲の隙間から大陽が顔を出す。
ばたばたと音を立てて融け始める。
10時過ぎまで0度だったベランダの寒暖計も、12時半には7度に上がっている。
やれやれ、この分では明日の元旦は楽しい朝を待ちわびてもよさそうだ。

一寝入りして起きてみると、外はすっかりいい天気で、さんさんと大陽が中天に輝いている。
ベランダの雪はすっかり溶けて、庭先の木々もあらかたもとの姿に戻っている。

先日差し出した年賀状が2通戻って来る。一つはマンションの部屋番号を書き忘れた為だが、もう一つは番号の号を八を六と書き違えただけなのだが、なんと器械仕分けの厳しい事。

灯油もあと少ないので買いに行く。年末とあって凄いラッシュ。スタンドの入り口から道路上に車の列。
やっと買ってついでにガソリンも補給して帰る。これで元日はゆっくりできるな!Img_1511
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