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2009年9月19日 (土)

軍国の母の覚悟

気温19度とやや戻る。台風14号は小笠原から北東へ転向して影響はないのだが、熱気だけはもってきたのだろう。

鞠子からカメラを買い替えたいと相談してくる。以前私がくれてやったのが故障して使えなくなったという。最近富士山観光に行って使えなかったので残念で、買い替えたのを持って、また行くつもりだと云う。特に湖の水芭蕉が良かったのにと。富士山も曇って頂上は見えなかったと。私より二つ下だけなのに、元気のいい事である。
近所のカメラやとデオデオとどちらがいいかというので、どちらでも同じようなものだよと答える。

そのすぐ前に尾瀬ケ原に行くつもりで東京の娘を誘ったが、日光迄云って尾瀬にはつれて行かなかったと悔しげにいう。老人の足では無理だと娘が気を聞かしたのにと内心でつぶやく。

今朝から風がかなりきつい。
やはり台風の余波だろう。

私が世田谷の陸軍自動車学校にいるとき、この妹を連れて母が私に会いに来ていたということを、今朝妹の電話の中で聞き知って驚く。昭和21年12月の話である。もう63年も前のことである。
その翌月の元日に又学校に訊ねて来た。
この時はびっくりして急遽外出許可を貰って東京の街に一緒に出た。学校も休みの日だった。終日宮城前から初めて、市内を歩き回り門限迄に帰営したことを憶えている。

あの頃は東京迄は早い汽車でも15、6時間かかった筈である。
その前に大連から私は一市民に頼んでこっそり手紙を投函して貰って、大連を今から起って日本に帰るからと知らせた。母は門司に着くものと、はや合点して、妹をつれて門司に行き到着を待ったらしい。
軍用船だから(私は普通の連絡船だと思っていた)門司には着かないで、宇品に入港し、似島で検疫の後上陸して、市民の歓呼の中を広島駅迄歩かされた。もちろん別仕立ての列車で上京した。
こちらは広島市中を歩く間中きょろきょろと母の姿を捜したが、門司に行ってたのなら見つかる訳は無かった。
母の執念は恐ろしい。我が子の顔見たさに今度は東京までも出て来た。丁度12月初め頃は富士の裾野で演習があって、そちらに行っていて、学校の門ですげなく追い返された。そして又一月もしないうちにまたやってきて、今度は正月休みを狙って訊ねて来たのだった。

考えてみると運悪く私が戦死でもしたなら、今生の別れになったかもしれなかった。
出征の日でもしっかりやれよと涙も見せずに激励して送り出した気丈な母だったが、そんなに何度も遠路をいとわず訊ねてくれたかと思うと、こちらが暗然とする。

学校(幹部候補生隊)を3月卒業して帰宅すると軍刀をどこかでしつらえて待っていた。
父を入営の前々年に無くしていた。母のなみなみならぬ覚悟を今更思い知った。
立派な軍国の母だった。顧みて私の甘さ加減と意気地無さが無性に情けない。

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