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2009年9月 1日 (火)

鳩山内閣に期待すること

今月中には民主党政権が誕生するのではと思うが、公約どおりやってくれると結構騒がしくなるだろうな。
一番庶民に影響が太い高速道路無料はいつ始めるの、消費税は4年間は上げないだろうから、財源はどうするの。まさかガソリン税をもっと上げるというのではあるまいね。料金を上げなくても通行税を取るという方法もあるわけだし。
まあともかくやってみてもらわないと何ともいえない。

官僚のいうままにはさせないということは、具体的にはどうするのだろう。政府内にめくら判を押さないスタッフを大臣脇に揃え、上がってくる書類をチェックするとか。目が回るのと違うか。
ちょっとやそっとの勉強では年季の入った官僚の書き物にチェックが入れられるかどうか、知恵比べだが。
インド洋の自衛隊は早速帰還させるのか。家族は喜ぶだろうが、アメリカや国連はどうするかな。よもや黙って見過ごしはしないだろう。
中学生以下に給付金を出すというのもあった。
公約が生半可なものでないだけに見ものである。

地元の新聞は新しいねじれ現象が起きるといって心配している。
国と地方の政府の行政のずれのことである。
そういえば国の事業には地元負担というのが多いらしい。これなど早速ずれに巻き込まれそうだな。
圧倒的な多数に物を言わせて押し切ることにしてさてどうなることやら。

どしろうとの私がやきもきしたところでどうにもならない。若い人が多いからいい知恵が浮かぶことだろうな。
先に革命的現象などと早とちりしたけど、鳩山内閣が終わってみないとわからないことで、前言多謝。

今日は日本晴れのいい天気。防災の日なんて浮かばない程。
もっとも北国では11号台風が吹き荒れて、細長い国だから条件が違うんだよなあ。
まあサァーと通り抜けてくれてよかった。

「ニューギニア戦記」を書き写すのに毎日2,3時間はかかる。パソコンと6本指でにらめっこ。やはりおいぼれ、つかれて悪い夢ばかり見ることになった。

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2009年9月 2日 (水)

新型インフルのせいかなーさざん会

今朝気温21度、何だか寒い。今まで通りシャツ一枚ではいけないかな。
同じ21度でも夏と秋では人間の皮膚感覚は違うらしい。

オッ!ぐらぐらと来た。6時40分震度3ぐらいかな。
テレビでは47分に字幕が出る、マグニチュード4.0、震度2と出た。
小さくてもやはり気持ち悪いなあ。
震源は伊予灘という。

何年前だったか、1分近く揺れて本などがバタバタ落ちて来て、あわててベランダに抜け出し、さてどうして地上に下り立つかなと考えた事があったが、もうしばらくあんなのはないな。

標高7百米の後の極楽寺山の中腹には大昔海底だった証拠の貝殻なんかが散らばった地層が剥き出しになっている。こんな地震が来たら原爆なんか目じゃあ無い。もう絶対ないのだろうか。わからないぞ。
地球最後の日ということになるのだろうが。

さざん会が9月9日と言って来たのは水戸君だが、肝腎の坂口君からは未だに何の連絡も無い。
体調でも悪くなったのかなあ。俺がやると本人が昨年の会合で宣言したのだから間違いないのだろうが。無理に9日でなくてもよいが、場所でも決めかねているのならしかたがない。
どうせ集まるのは数名だろうから、早く決まりをつけて欲しい。寒くなってはこちらまで外出し難くなる。
もっとも新型インフルのせいで躊躇してるのかな。

もうどこからも何も聞こえて来ない。耳が遠くなっただけではなさそうだ。さびしいなあ。

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2009年9月 4日 (金)

志無き者は去れ

同じような日が続く。
近所のスーパーに食料品を買いに出掛ける。

考えてみると小売形態は戦後革命的に変わった。セルフサービスという言葉が随分喧伝された。
それも定着してみると、セルフサービスという言葉迄古語化してしまった。
個々の小売はこの界隈にはまるで見当たらない。ただクリーニング店、特別ブランドの菓子舗などが、細々と店員一人で客に応対している。

食糧に限らず電気製品、日用品雑貨、書籍、園芸用品、衣類迄大型店の支配下にある。
価格は当然ほとんど全国的に均一化しつつある。
この変化はもう久しい。
人間の智恵がもたらした現象である事は間違いない。
そして行き着く所まで行ったのであろうか。

今の大学で学ぶ経済學史などどんなものであろうかと、その辺あたり興味を引く。
当時随分退屈したもんだったが、変化の度合いから言えばはるかに現在の方が少ないのではと思ったりする。

古色蒼然たる教科書、参考書の類いが我が家の書架に立ち並んでいたが、最近もう読む事は無いと棚から間引き降ろした。これらの学者の後継者は今どうしてるのだろうと思って感慨は深い。
学問というものが、その後社会で役立っただろうかと思うと、頸を横に振らざるを得ない。
只素養として役立った事迄は否定出来ないのだが。

古来学問は志す者には黄金に匹敵するものだが、志無き者には無益に等しい。
現代の漫然たる向学風潮は殆どの若者に誤った指針を与えているのではないか。
それを憂えるものである。
学問に終わりは無い。ものすごく考究に時間を要するものでもある。
急いでもどうにでもなるものではない。
私自身も道を誤った事を自覚している。後悔は先に立たない。

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2009年9月 5日 (土)

長十郎梨

今朝の気温24度と変わらず。台風12号はまだ遥か南方だが、北方からー6度の冷気を含んだ高気圧が南下して来るらしい。昨夕雷鳴がつづき停電もあった。気候不安定は続きそうだ。

曇が続くかと思って植物園に出掛ける。ところがかんかん照りに見舞われ木蔭を探して伝い歩くことになる。それでも暑い。客のつぶやきが真夏よりも暑いと聞こえて来る。
とうとう熱射病にでもなると叶わないので、食事はしないで12時過ぎ帰途につく、

雷鳴が轟いていたが、降っては来ない。

シャツを着たまま風呂場に入ってシャワーを浴びる。瞬間ぞくっとしたが冷たくて気持ちがよい。数分で身体が冷えきる。もう暑くも何ともない。

食後快適に眠る。

午後になると日射しはなくなり、灰色の雲に覆われる。しまったなあ、今から出掛けるんだった。

おやつの時間に家内が昨日スーパーで買って来た梨を食わす。種の部分が小さくて食べる所が多いという。なるほどそんなものかなと改めて覗き込む。味も良い。改良されたのだろうな。
昔おなじ色をした長十郎という梨を、18歳の年の3月神村君と出雲への自転車旅行した時、益田の駅前の果物店で買って食った事がある。熟れ過ぎて柔らかくなっていたが、甘味が濃厚でおいしかった記憶がある。
今考えると、梨は今頃熟れる時期の筈だ。3月も下旬に食ったということがどうも信じられない。
当時でも保存方法がよければ食べられたのだろうか。食った記憶が私だけでなく神村君と先年あったとき、あれはうまかったなと言ってたから間違いない。直径が20cmくらいもあった、大きな長十郎だった。
もっとも西瓜などは正月によく食った憶えがあるから保存は出来るのだろう。

ついでの話で、家内にごうら道で随分難儀したと言うと、彼女はすぐ理解した。今の若い人にはわからないだろう。
現在は全くない道路だ。昔はハイカラにバラス道とも呼んだ。田舎のバス道路は河原から採取した石ころを敷いたのが多かった。自転車では全く走り難い道だった。舗装など無い時代の話しである。
Img_1445

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2009年9月 7日 (月)

贅沢な我が家の借景

台風12号がまたやってきているが、こちらはどうやら又外れそうだ。それでも風は結構強い。
おかげで昼中はむしむししそうだ。
朝の気温は21度だったが、予報は33度まで上がるという。

秋風は吹いているのだが、これも温暖化の影響かすっきり秋ですとはならない。
南極や北極の氷は半分ぐらい融けたそうだが、来年再来年当たりどうなるのだろう。
これも傷むのは小国ばかりで、大国は知らぬ顔。所詮国連は大国のもの、これも簡単には神輿が上がらない。

広電楽々園に行き又又文庫本など買って来る。ついでに中国新聞に出ていた戦後すぐの広島の写真集128枚というのも買う。別に根っからの広島っ子でないから思い出がつまっているというわけではない。
しかし戦後すぐからよく訪れてはいるから、中には懐かしい所、風景など見いだすことがある。
現在との変わりようの大きさは私とて感慨ふかざるをえない。

私の一家が広島に引っ越したのは昭和39年8月だった。1964年だからこの廿日市を含めて、もう広島在住45年になる。(廿日市と言っても100mも行けば広島市との境界がある、意識はもちろん広島在住である)
生涯最長の住まいであり、奇しくも生涯の過半数を過ごしたところになるようだ。
愛着がないなどとはとても言えるものではない。
表に厳島、後に極楽寺山を借景に、朝夕眺め暮らしている、何の不足などあり得ようか。

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2009年9月 8日 (火)

藤沢嵐子の歌

連日快晴がつづく。台風の影響らしきものは何も無い。気温22度、快適。
乾癬も軽く快調である。

政局は余りにも大差の政権交代で文句一つ出ようが無い。船出は順調に見える。
排出ガス削減2020までに25%と鳩山代表の公約宣言。
高速道無料は反対が多く難航しそうだ。
お手並み拝見で、国の内外からは格別のざわめきは聞こえない。

何の気無しに棚からCDを取り出してプレーヤーに入れる。藤沢嵐子の歌が鳴り始める。
若い一時期タンゴが好きになった、その原因になった歌手の一人であった。
町の百貨店の宣伝部長だった私は顧客を藤沢嵐子ショーのかかっている劇場に招待したことがある。
彼女の脂の載りきった時期で熱演だった。
CDの音が少し変だなと思ったりしたが,「ママ、恋人が欲しい」あたりになると完全にその声を思い出す。本人が今どうなってるか知る由もない。しかしCDがこうして私を楽しませてくれる。
良い時代だ。

日射しが長くなって、部屋の中に1m近くも入って来る。まだこの時期暑くてたまらない。カーテンを引いて遮断する。暗い部屋になったが寝たり起きたりだから、まあいいか。
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2009年9月 9日 (水)

医者通い多忙

今日は広島総合病院に行く日。今度は忘れていない。午後には内藤にも行かないといけない。薬が切れてしまった。どちらも目下病状には気づかないくらいだから、出掛けるのを忘れても仕方がないか。

気温21度、まったく天高く秋の気候。海上遠く島影やや霞む程度。

相変わらず病院の人の多さに辟易する。文庫本を携行して読みふけりながら待つ。
案外早く順番が来る。昼には帰宅出来る。

病院で頭の乾癬がひどいと言って、別の処方の薬をくれる。自分では見えない所なのでハイハイと素直に受ける。
マスクを着けて行ったが、着けた人は1割もいない。恥ずかしい。
何も触った居ないから、うがいも手洗いもしない。

藤沢周平の「小説の周辺」を読む。私より7歳も下なのに書いてるエッセイを読むと,こちらが学びたい事がぎっしり。偉いなと思う。幼年期は私とよく似て本の虫だったようだ。少年クラブ、譚海なんていうのも同じだ。只戦争に行かなかったのが違い,青年期によく勉強ができたようだ。もっとも結核で療養所に入ったりして回り道はしたが。結核は私もやった。ただ私はやけくそで自力で突破した。

その後の道のりが違った。まあ違う人間だから同じ訳はない。
勉強に仕方が良かったし向った方向もよかった。自分の能力を信じていたのだろう。
並の直木賞作家とは格段の違いを感ずる。司馬遼太郎と双璧か。
早く死んでしまってつくづく惜しい。まだ老いても居なかったのに。

本人は遅筆のような事をいってるが、私はよくあんなに沢山書いたと感心している。全部読み切るにはまだ間がある。一度読むだけではもったいない。ものによったら十遍も読み返している。
死ぬ迄何時果てるともなさそうだ。

内藤内科に行く。別に一人来患あり、すぐ終る。やや頻尿の気があるので前立腺肥大解消の薬をくれる。

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2009年9月10日 (木)

行き違い

放射冷却現象か気温17度と薄着では寒い。雲殆ど見えず。青空今日もすがすがし。

家内が墓の掃除に行こうという。
折から日射しが強くなり、墓迄言ってみると大変な暑さだ。
両隣の墓地はまだ墓が建ってない草畑だ。特に左側の墓地は永らくほってあるらしく,草の繁殖が並みではない。
5、60cmも伸びた草がうちの墓に覆いかぶさって大迷惑である。
引き抜こうとしたがとても私の力でどうにもならない。鎌でも持参していればと思ったが後の祭り。

草けずりで一生懸命叩いて何とか一部を切り取る。腰を屈めてふうふういいながらやってると,急にくらくらと目の前が暗くなる。こりゃいけない、倒れるぞと急いで通路の側の石垣に身を寄せる。
しゃがみたくなったが、しゃがむと起てなくなるのでそのまま石垣に縋る。
自分の墓の前で死んではあまりに都合が良すぎるなと思ったり。
暫くしていくらか良くなったのでまた作業にかかる。またふらふらする。暑いのがいけない。

家内は元気に草を抜いたり削ったりしている。20分もするとあらかた片付く。
私はただ傍観してるだけ。
こんなに暑い日は無理だ。
急いで帰り支度して,途中のスーパーに立ち寄る。
クーラーが効いてやっと人心地。

家内は昼飯を食おうと言ったそうだが,私には通じない。
食料品を買いに車をつっぱって行ったと思って,人が少なくて涼しい二階の売り場にエレベーターで上がる。
衣料や雑貨の売り場をぶらぶらと通り抜け,子供用品売り場のおもちゃなどを暫く眺める。
買う気はないので只眺め歩くだけ。
20分ぐらいして下の売り場に降りる。

家内を求めて売り場の中外を歩き回る。何処にも居ない。車の所に帰ったかなと行ってみるが、そこに帰った形跡はない。また店内に戻る。探してあちこちとうろつく。
疲れ果てる。どうも後追いして互いに捜し歩いている気がして来る。
もう1時間は経っている。
休憩所で座り込む。10分ぐらいしてやっと家内が車を突いて現れる。やれやれ。
先に一人で食事を済ませたという。
言われてみればこちらも腹ぺこに気づく。

大きなスーパーはやはり勝手が悪いな。

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2009年9月11日 (金)

我が身の秋

朝6時20分気温19度、少し雲が多いかな。青空も見える。
昨夜は早くからベッドインしたから、よく眠れて気分は爽やかである。
予報では曇時々晴、最高気温27度とある。過ごし良さそうだ、

DVDで録音した音楽を聴きながらのパソコン記帳である、今はラロのスペイン交響曲をやっている。バイオリンは松山冴花である。朝向きではないかな。
まあ、音楽なら何でも良いか,聞きながらなんだから。

今日から半袖を止めて長袖を着る。もう暑くはならないだろう。
やたら内出血して赤黒い斑点だらけの腕を人に見せないで済むし。

こうして毎日つまらないことを思いつくまま書き綴っているのだが、一月纏まると結構長いものになる。
習慣だからなんでもないのだが、今書き写している「ニューギニア戦記」となると大変だなあと毎日くじけそうになる。日記の3ヶ月分くらいだろうと思うのだが、間違いない様にと思うと結構しんどい作業だ。

しかしこれを書き残した吉田武中尉殿や編集した今田君もえらいなあと改めて感心しながら自身をむち打っているわけである。

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2009年9月12日 (土)

古い話

予報通り朝から雨。強くはないが小やみなく降り続く。

昨夜の下剤が効いて、食事前から激しく下る。
コーヒーだけ飲んで食べるのは止める。薬のせいか腹が張り食欲がない。
10時過ぎ迄また寝る。

先日白菊会から献体者の慰霊祭を10月21日に広島大学で行うので出席するかどうかと云って来ているので、改めて読み返し参考のために出席する事にする。

午後に入っても冷たい雨がふりつづき、気温も朝と変わらず20度と寒い。

DVDアルバムからの音楽が昨日からずーっと鳴り続いているのだが、今ハチャトリアンのバイオリン協奏曲が演奏されている。不思議な音色が奇妙に私の耳をくすぐる。ふと50年も昔、辻久子が家を売って手に入れたと新聞で報道された、ストラディバリウスを駆使して、市の東小学校の講堂で聞かせてくれた事を思い出す。
こんな曲があったのかなと新鮮な驚きがあった。

あの時一番前の席でカメラを向けたら「写真はやめて」と鶴の一声。彼女はもう憶えていないだろうな。

夕方近く突然空が明るくなって驚く。
便所に4度も駆け込む。むかし戦地に居た時長沙で赤痢に罹った。一日数十回下った。あの時は危うく死ぬ所だった。まるで違う話だが。

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2009年9月13日 (日)

第35回さざん会開催あぶない

空は灰色に包まれているが、良い天気になりそうだ、日射しが明るい。
気温は18度。
下剤の作用も治まって、今朝はお腹は快調だ。普通に食事をする。

西隣のお宅はもう十日以上も夜明かりが見えない。昼間もカーテンが閉まり放しだ。どうしちゃったのかな。班も違うし、通路はずーっと南を廻って何百米も行かなければいけない。家はブロック塀一つで遮られただけだが、声をかけるにも相手が見えない。近くて遠いお隣さん。変わった事がなければいいが。

昔当時東となりに住んでいた家の奥さんから、貸家の一軒が何月も家賃を払わないし、鍵をかけたまま留守だし、鍵を壊して取り替えて欲しいと頼まれた事があった。

鍵は開けたのだが、もう一つ中から掛け金がしてあって、中に誰か居る感じである。これ以上は戸を壊す以外に無い。
鍵穴から覗いても、中は格別変わった様子に見えないし、何の臭いもしないし、丁度そこへ郵便配達の人が来たので一緒に臭いをかいだり、中を覗いてもらったりした。
仕方が無いので奥さんに警察に頼まれたらと言ってさじを投げる。
結果はコタツに入ったまま何月も前に死んでいてミイラになっていたということがあった。
あの人は一人暮らしの若き女性だったが、このお隣さんは家族何人もいる家庭だからなあ。

布団をベランダに干したのだが、雲が大分出て来て油断がならない。
昼前になって干すのを止めて納める。

藤本の次女の結婚式には、家内一人出席にして、私は健康状態が今ひとつだからと、招待をご辞退申し上げる。

坂口君もさざん会のことは何も言って来ない。インフルエンザのこともあるし、勝手に取りやめにしたのであろう。まあ仕方がないな、私が幹事でもそうするだろう。

昭和20年代終わり頃だったか、まだ焼け野が原に近かった広島の当時広島カープの合宿所だった皆実寮(シーズンオフだった)を借りて、近くのものが連絡を付け合って初めて集まり、昭和32年、34年にやはり広島で、33年一度山口で準備会を開いた後、昭和35年5月21日に第1回全国大会と銘打って脇君が幹事で全国に呼びかけた。先生3名を入れ41名が湯田温泉の水野旅館に集まった。
爾来48年間、昨年の小郡大会で第34回となったのだが、今年予定の35回が来年に繰り延べられる公算が大きくなった。

幹事になり手が無ければ、終わりになるかもしれない。去年も出席者5名だったからもう年貢の納め時かな。
いや、浜田の土田君がガンを克服出来れば幹事をやってくれるかもしれないのだが。

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2009年9月14日 (月)

献体者の総会

気温18度(午前6時)。
来月の白菊会の総会に出席を予定していたが、役員選挙とか余り関係のない事が多く、1時間半も行事があっては体調が持たないかもしれないので欠席する事にして返事をしたためた。
2500人も会員がいて、例年出席者が千人近くいるらしい。私のようなよれよれが出る所ではないようだ。どうせ焼却場で焼く程ならと軽い気持ちで応募した献体だから、俗世間にしゃしゃり出る事もあるまい。

死んだら灰を海にでも撒いてもらったらいいと思ってるぐらいだが、たまたま市役所(まだ町役場だったかな)が墓地を作るから希望者は申し込めと言って来たので、いずれ死ぬのだからと申し込んだ所抽選が当たってしまった。何年か前になっていつまでも放っておくと没収するなどという噂があったりして、墓も作ってしまった。入らなければ仕方がなくなった。
家内は場所が遠くて不便だと機嫌がよくないのだが、今更どうしようもない。

葬式も大げさなのは嫌いだから、やらないで死んだらすぐ電話をかけて白菊会に引き取ってもらえば良いと思っているのだが、家内や子らが聞いてくれるかどうか、死んだ後では私の手ではどうにもならない。

毎日もう永くはないなと心待ちしながら寝起きしているのだが、考えてみると死ぬ前に後始末をしておかないと、困るだろうなと思う事がいろいろあって、自分で始末をつけるのが一番良いのだが、何時やるかとなるとなかなか決心がつかない。

日が経つのが早いのか遅いのかよくわからない。
あっという間に運転免許証の更新時期が迫って来た。生きてればまだ無いと困る。
もうやめたといえば切りがつくのだが、生きていれば、生きて行くのに困る事が多すぎる。決心のつきかねる所以のものだ。

今やってるこのブログにしてもそうだ。ニフティの会員登録を止めてしまえば一遍にかたがつくのだが、やりたくてやってる以上登録を抹消する訳に行かない。病気で倒れでもしないと止められない。
病気が重くて登録抹消が出来ないということになるとやはり困る。
自分で始末をつけるという事は考える程簡単では無さそうだ。
ガンにでもなってあと何日の命と宣告してもらうのが一番なのだが。

イチローが先程(10時半過ぎ)9年連続200本安打を達成した。テレビ中継でその場面だけ丁度見ることができた。
たまたまネットのホーム画面で後1本と出ていたので、いそいでテレビのスイッチを入れた。BS1で中継している。入れた途端丁度イチローの打席、内野ゴロ駄目かなと思ったら足の方が速かった。
取った内野手が間に合わないと判断して、一塁に投げるのを止めていた。

スタンドはがらがら、日本国旗を振ってるのが見える。こんなの生中継してるのは世界でNHKだけだろう。
俺まだこんなことを気にしている。とてもすぐには死ねないな。

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2009年9月15日 (火)

あじなのたくあん

雨は暗いうちに止んでいるが、雲が深くていつまでも夜が明けない。
7時を過ぎて目覚める。もっとも夜中に起きて2時間ばかり「ニューギニア戦記」をコピーした。

イチローが大記録を樹立した。百年ぶりという。
朝鮮にも、台湾にも優秀な大リーガーは目白押し。マラソンはもうアフリカ勢の独壇場。
大相撲などハワイ、蒙古からの外人に占領されっぱなし。
素材的には人間は地域人種格差はないことが立証された。

台風シーズン到来とあって、天候やや不順。ここ1ヶ月くらい8号から15号迄ひっきりなし。
直撃がないので助かってはいるが。

午後家内のお供をして近くのスーパーに食料を買いに行く。
けつについてうろうろしていると、私の好物の阿品のたくあんが目についた。早速取り上げて家内の籠に投げ込む。
このたくあんはどこにもある品物ではない。しかし私が幼少の頃から知っている名物のたくあんである。
これと同じ味のするたくあんを戦後間もない頃帝釈峡でキャンプした日の翌朝茶店で売ってた事があった。凄くおいしかった。
その後何十年かして観光で訪れた時、尋ねた所それを生産していた農家がなくなって今は出来ないとの事であった。これは鍾乳洞を利用して生産したものだとの事だった。

この阿品というのは、私の郷里の家から3里程山の中に入った所にある弥山という霊山の下にある部落の名前である。数年前に「あじなのたくあん」という名前で特定のスーパーでだけで売り出されているのを見つけて買い求め始めた。
ほとんどの店には置いていないので、当初は随分探しまわったものである。しかも時期が限られてほとんど夏だけの商品である。

最近は知ってるスーパーのうち3軒で売り始めた。ただすぐ無くなるので、何時もという訳には行かない。運が良ければ買えるという代物である。

阿品の弥山には小学生の何年だったか、遠足でつれて行かれた事がある。十人足らずだったから希望者だけのものだったろう。帰りはみんなへとへとになり、歩けなくなって泣き出すものも居た。暗くなって一人一人先生が家迄連れて行った事を憶えている。
山は20丁程度の高さの山で、今も知られた山だがその後行った事は無い。

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2009年9月16日 (水)

鳩山由紀夫内閣発足

朝7時気温16度と冷たい。雲は殆ど見えない、快晴だ。

最近目に見えて食事の量が減って来た。食欲がどうのということではないらしい。胃袋の老化で弾力性がなくなったのではないかと思う。膀胱にしてもそうだ。1、2時間に一度は便所に通うというと、内藤先生は前立腺のせいだと言って薬をくれた。1週間ぐらい飲んでるのだがいっこうに変わらない。これも老化のせいと思うのだが。

胃袋の方も今はおやつを入れると一日4回食事をしている。量は減っても、体重も変わらないし、少し便秘気味になる事はあっても胃腸の具合は悪くない。
ただ食べ残しが多くなり、調理したり、片付けたりする家内には気の毒なのだが、長年の習慣で急に調子を合わせる訳には行かないらしい。
外食するときなどは遠慮なく残せるから気が楽である。

そんなところへ、昨日は東京の娘が鳴門金時や豊水梨、わかめなど沢山送って来る。老夫婦では勿論消化不能である。幸い近所に子や孫がふえたので手助け頼めるから、まあいいが。

今朝パソコンにスイッチを入れると早速ソフトのバージョンアップを云って来る。iTunes,Quicktimeなどである。メーカーが気を利かしてのサービスなのだが、やりかけた仕事を中断させられる。
気短な老人には少し迷惑なのだがこれまた仕方が無い。

鳩山内閣が発足した。本県から亀井さんが大臣になった。郵政担当で早速民営見直しに取り組む訳だが、粘る西川社長との丁々発止はみものだ。強面の亀井の筈だが、大臣になったからと云って、やたら福笑いは止めてもらいたい。

高速無料化で33%一酸化炭素が増えるという。新総理の公約25%減は大丈夫だろうか。
電気自動車だけ無料とすればいいのだが、それでも公約違反になるのかな。

今日の国会で総理大臣が選ばれた訳だが、あらためて議員の多さにいささか飽きれる。
アメリカでもこんなにはいない。小さな日本で経費はかかるし、こんなに沢山は必要ないのではとつくづく思う。公務員の整理も必要だが国会議員も今の半分でよい。
実現は自分の首を絞める事だから、当然非常に難しいことだが。革命でも起きないと駄目だろうな。

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2009年9月17日 (木)

奇跡の不沈艦「雪風」

朝から青空いっぱいの快晴、6時半気温17度。

井上に東京から送って来たものをお裾分けして届ける。今日は孫や曾孫も顔が見えないので寂しい。長居しないで帰路に着き、アルパークに立ち寄る。
大して客があるようでも無い。
買い物と食事をする。食堂でくじをひけひけ云うので引くと一等があたる。もう一度なにか只で食えるらしい。

本屋に入って本を探していると”奇跡の駆逐艦雪風”というのが目に入る。
あ、これは今田君が編集したニューギニア戦記に出て来るあの駆逐艦だと気づく。
手に取ってみると、帯封に「神宿る」日本海軍屈指の強運艦と書かれている。
緒戦のスラバヤ沖海戦から最後の沖縄の大和特攻作戦迄戦い抜いて”不沈の航跡”を残したことで名高いとある。
そういえば私が書き写している戦記の始め頃ダンピール海峡で輸送船8隻を護衛した8隻の駆逐艦の中に入っていた。全輸送船と4隻の駆逐艦が撃沈させられたうち残った駆逐艦4隻の一つが雪風だった。
早速買って帰る。

戦後復員に従事したという、そういえば私は戦後上海から生き残りの駆逐艦で帰国した。武装は解除されていたがあれが雪風だったかもしれないなと懐かしい。

本のあとがきに、この船は昭和22年7月中国に引き渡され、中国海軍の旗艦として再就役したとある。私の帰国したのは22年6月6日だったのだが。

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2009年9月18日 (金)

脱官僚主導ということ

今朝も6時半気温17度、昨日の午後5時半からずーっと17度だったのだろうか。不思議な気がしたのでもう一度寒暖計を手に取って見直す。やはり17度だ。
夜の間13時間も同じ温度という事があるのでしょうか?お天気博士様。

子供の頃歳老いてから目の見えなくなった九一郎伯父さんがよく昔話をしてくれたことがあったが、岩国との町境にあった招魂場の山におさんという狐が居て、よく人を化かしたとその手口を聞かされたものだったが、今朝はもう2、30分も前から寝てるのか起きてるのか夢見心地で私もおかしい。
とうとうわたしもいかれたかな。

伯父は”和木の与三郎に岩国のおさん”と賢い狐の名前を呼んでいたが、時々聞くあちこちの民話でも同じような名前が出て来る。どうやら江戸時代からの日本の伝説を地域にこじつけたらしいのだが。

明日から5連休とあって、金が要ると困るので下の県道の交差点にあるATMにゆき預金を引き出す。交差点の車の往来が激しいのが気になったが、何とか簡単に済ませる。
他店の銀行のATMだから今迄は手数料を取られていたが、最近はそれがなくなり、だんだん便利がよくなった。
それにしても5連休というのは度が過ぎるのではなかろうか。

民主党政権の人気が上がっているらしいが、脱官僚主導というのがどうもよくわからない。
今度選ばれた代議士にしても、従来からいる代議士にしても、その道その道で、担当の職員に比べたら技能の差は歴然としている。一から学ばなければ何にも出来ない筈だ。
三権分立が最良というつもりは無いが、古来素人が口出しして物事がうまく運んだ試しはほとんどない。いやしくも国、いや国民の運命を左右しかねないことに運任せの政治をしてもらいたくない。
専門家に任せた方が良いのではないかと思ったり、やはり争点になるわけか。

やり始めたら、投げ出したりしてもらうとひどい目に遭うのは国民だから。こころしてやってほしい。
私自身官僚も信頼出来ないが、代議士もそれ以上に信頼出来ないので。

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2009年9月19日 (土)

軍国の母の覚悟

気温19度とやや戻る。台風14号は小笠原から北東へ転向して影響はないのだが、熱気だけはもってきたのだろう。

鞠子からカメラを買い替えたいと相談してくる。以前私がくれてやったのが故障して使えなくなったという。最近富士山観光に行って使えなかったので残念で、買い替えたのを持って、また行くつもりだと云う。特に湖の水芭蕉が良かったのにと。富士山も曇って頂上は見えなかったと。私より二つ下だけなのに、元気のいい事である。
近所のカメラやとデオデオとどちらがいいかというので、どちらでも同じようなものだよと答える。

そのすぐ前に尾瀬ケ原に行くつもりで東京の娘を誘ったが、日光迄云って尾瀬にはつれて行かなかったと悔しげにいう。老人の足では無理だと娘が気を聞かしたのにと内心でつぶやく。

今朝から風がかなりきつい。
やはり台風の余波だろう。

私が世田谷の陸軍自動車学校にいるとき、この妹を連れて母が私に会いに来ていたということを、今朝妹の電話の中で聞き知って驚く。昭和21年12月の話である。もう63年も前のことである。
その翌月の元日に又学校に訊ねて来た。
この時はびっくりして急遽外出許可を貰って東京の街に一緒に出た。学校も休みの日だった。終日宮城前から初めて、市内を歩き回り門限迄に帰営したことを憶えている。

あの頃は東京迄は早い汽車でも15、6時間かかった筈である。
その前に大連から私は一市民に頼んでこっそり手紙を投函して貰って、大連を今から起って日本に帰るからと知らせた。母は門司に着くものと、はや合点して、妹をつれて門司に行き到着を待ったらしい。
軍用船だから(私は普通の連絡船だと思っていた)門司には着かないで、宇品に入港し、似島で検疫の後上陸して、市民の歓呼の中を広島駅迄歩かされた。もちろん別仕立ての列車で上京した。
こちらは広島市中を歩く間中きょろきょろと母の姿を捜したが、門司に行ってたのなら見つかる訳は無かった。
母の執念は恐ろしい。我が子の顔見たさに今度は東京までも出て来た。丁度12月初め頃は富士の裾野で演習があって、そちらに行っていて、学校の門ですげなく追い返された。そして又一月もしないうちにまたやってきて、今度は正月休みを狙って訊ねて来たのだった。

考えてみると運悪く私が戦死でもしたなら、今生の別れになったかもしれなかった。
出征の日でもしっかりやれよと涙も見せずに激励して送り出した気丈な母だったが、そんなに何度も遠路をいとわず訊ねてくれたかと思うと、こちらが暗然とする。

学校(幹部候補生隊)を3月卒業して帰宅すると軍刀をどこかでしつらえて待っていた。
父を入営の前々年に無くしていた。母のなみなみならぬ覚悟を今更思い知った。
立派な軍国の母だった。顧みて私の甘さ加減と意気地無さが無性に情けない。

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2009年9月20日 (日)

高速道路無料化の是非

早朝からほとんど雲の見えない好天気、気温17度。
布団を日乾する家多し。
家内も洗濯物を欲張る。

テレビ報道では、高速道の大渋滞が各地で続いているようだ。5月の連休に匹敵するとか。
今後とも正月、盆、そして春秋の連休と大渋滞の年中行事となるだろう。

高速道路の無料化は議論が多いところだが、やはりすぐやるのは問題かもしれない。
また有料化に逆戻りする公算が少なくない。というのは却って交通不便化をもたらす懸念が多いからである。
高速道が今の倍以上にでもなれば、複線化し進路変更が容易になり、渋滞を避けられそうだが何時の日の事になるやらである
千円にしてみて、その利害は既に明らかである。
ガソリン浪費を助長し、温暖化現象に拍車をかける事になる政策は、世界から指弾を受けそうだ。

利用者に応分な負担を求める事は,世の正義に反しない。
料金の程度を経済事情に合わせて、上下させればいいのではと思ったり。
せっかくETCという制度があるのだから、頻度が高いもの或いは金額が多いものには割引があるとか、そう難しい問題ではあるまい。

更に云えば都会集中を避け,過疎地を少なくするにはまだまだ高速道路は必要である。むしろあり過ぎるぐらい作る方が良い。建設事業による経済活性化はもちろん雇傭の拡大にも繋がる。
亀井議員のいう郵便事業の不便地を無くするにも役立つだろう。
ただその財源を税金だけに頼るのはやはり公平の原則に反しそうだ。

日本全国どこにいても同じような暮らしが出来る理想郷つくりは目指せないものか。

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2009年9月21日 (月)

都市集中と地方過疎

灰色一色の空だけど雨になる気配はない。気温18度。
また今年も敬老の日だと云う。嫌な日だな。女子は25%,男子は21%がそれぞれ日本国民に占める割合とか。正に老大国だ。活気がなくなるのはしかたないな。
祝祭日なんて喜んでいる場合ではないのではないか。

昨日は午後1時頃山陽高速道路が広島ジャンクションから河内ICまでに34km、防府IC-熊毛IC間29kmの渋滞が続いたという。やはり早まった低料金下は考えものだな。休日だけというのもおかしい。

無理の無い,公平な低料金化というのは無いのか,智恵をしぼって貰いたい。

最近地方分権化の声がやかましい。かねがね私は東京一極集中は良くないと思っている。
もし大震災がまた起きれば戦争の被害と同じいやそれ以上の日本の大損害を招くだろう。
国家は起ちなおれなくなるかもしれない。少なくとも首都機能は早く移転させて置くべきである。

東京だけでなく大都市集中は抑制しなければ駄目だ。法的な規制をすべきだとも考えている。地方の過疎化は主原因は都市集中である。共産国家の中国でも同じである。
防ぐには強制力となる法的規制による以外は無いだろう。子供に給付をするように、地方に特典を与えたりするのである。
この際は人口比率で代議士を選出する制度では駄目である。少なくともアメリカのごとく参議院は一都道府県2人と固定すべきである。

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2009年9月23日 (水)

洞雲寺まで散歩

私たち夫婦は並みの人間と思っていないので,連休の行楽は勿論遠慮する。
それでも家内は一昨日の敬老会に出て、久しぶりに近所の人の目に触れ、声をかけられた由。
どこ吹く風と全国の交通機関の渋滞などをテレビで見聞きする。
こんなのを見ると景気は良くなったのではと錯覚するが,下には下があるとみえ、明日の糧にも苦しんでいる人もあるやに聞く。腹立たしいことである。

昼前妹の家に行き一緒に食事をしに出る。駐車場が凄いラッシュで一番空いているメルパルクに入り、そこの食堂で食事をする。
家内は哲郎君の娘の結婚祝いをことづける。
デオデオに行きデジタルカメラを妹が一つ買う、ヂスタンスが7倍あるというので気に入ったらしい。
妹が持参した音響補助装置を修理してもらうというので付き合ってるうちに家内も一つ欲しくなり、同じものを買い求める。
センターで別れて帰る。相変わらず妹は元気そうだ。

今朝家内が運動がてら洞雲寺あたりまで歩いてみないかという。曇り空で雨の心配はなさそなので出掛ける事にする。
家内の友達の角さんの裏を通り抜けて洞雲寺に一応お参りする。秋分の日だから門も大きく開きお堂の中を拝めるように手配がしてあるようだ。
参詣者はほとんどないが、ときどき車が入って来る。

洞雲寺から道路工事中のところを、幸い休日で誰にもとがめられる事無く,見て回ることが出来た。お茶の先生のお宅は既に立ち退かれて跡地は草ぼうぼうの野原になっている。

そのうち大陽が雲を通して日射しをなげかける。普段馴れない散歩だから足は何でも無いが身体がほてって汗びっしょりになる。途中からカラーシャツを脱いで,肌着だけであるく。
それでも途中蔭があれば隠れ,腰掛けられるところがあれば腰を下ろし、えっちら、よっちら我が家へ帰って来た。

行きには迫さんの老夫婦に声をかけられたが、帰りは誰にも会わない。1時間半の散歩だったがすっかり汗ぐっしょり,疲労困憊する、早速シャワーを浴びて着替えなんとか元気を取り戻す。

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2009年9月25日 (金)

鳩山首相国連で演説

昨日昼前内藤内科に行き診察を受ける。前回の血液検査結果はガンの恐れなく、異常なしと云われる。

立ちくらみは年齢相応で仕方が無い。血圧が108/60なれば低すぎて、なほひどくなる筈だとの事。
診断を待つまでもなく、今年の春頃からたちくらみが激しくなった。
何気ない立ち居がうまくゆかない。かならず何か二手をかけてするように心がけるしか無い。

家内は今朝9時に出て、予約してある記念病院に出掛ける。

朝から日射しが強く,気温20度と又暑さがぶり返した感じ。昼中には30度に達するかもしれない。
鳩山首相さすがに英語は達者と見えて、国連演説原稿棒読みながら無事やってのける。
日本の総理ではうまい方であろう。

オバマ大統領といい、どこやらの女性総理といい、顔ぶれも多様化して面白い。時代の移り変わりをしみじみ感ずる。若干小粒化したかな。

先般テレビで「白州次郎」をやってたが、近衛,吉田、白州などあの時代だから目立ったのだろう。
今の時代では、鳩山などはさだめし近衛の亜流で吉田にはとてもなりえないだろうな。

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2009年9月27日 (日)

集団自殺行為の脅威

昨日午後2時過ぎ、家内がアルパークに行くという。お供をして出掛ける。
次いでの29日に行く自動車学校を見て来ようと思って,下の国道を行く。
場所を勘違いしていた事に気づく。それでもこちらを来てよかったと思った。
3年前に行ったのだが、もうはっきりとは覚えていない事がわかったでもよかった。

他に用事はないのでぶらぶらと付いて歩く。
子供連れが凄く多く、すぐに酸欠状態のような気分になる。
心臓に悪いなと思いながらそろりそろりと歩く。

最後の食料品は歩くのをやめて、腰掛けて待つ。
二十分でも待っただろうか、結構永い。
やれやれという思いで車に乗る。家内が又待たせる、喉が渇いたと云って缶ジュースを買って来る。

楽しくはないものである。

疲れて帰ったその晩、訳の分からぬ夢を見た。青い制服の群れの中におさまり、最後は自分の所属が判らなくなり,迷い歩くといういつもよく見るパターンである。
驚いて目覚めて、ふとあの世とやらがこんな具合かなと思ったりする。
無数の魂がさまよい歩いていて、知り人に逢うなどは考えられない。
もとより来世を信じていないので、言ってみるだけだが、宗教家が来世のことを説くが、その通りとしても、夢のごとくどうにもならない世界にはちがいない。

地球上の動物が集団自殺するという話は時々見聞きする。
世界の首脳達もその恐れを実感し始めたようだ。一番手っ取り早いのが原爆による自殺テロである。
原爆はもう誰も,何処の国も持ってはならない。いや作ってはならない。
世界一の保有国であり、唯一の使用国であるアメリカの大統領が言い始めた。
イラク迄は強引に持たせない事にしたが、そのためには大変な犠牲を強いられた。
朝鮮も駄目,イランも駄目、次はもう出来ないと悟った。
保有しない方向に向かざるを得ない訳だ。

ロシア、中国が従うかどうか。問題はここにかかる。ここ1年みものである。実行はその先だ。

しかし何時の日か集団自殺的脅威は残るのでは、過剰人口を支える有効な手だてがあるとは思われない。

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2009年9月28日 (月)

久原房之助伝

今朝も気温は22度(6時)、雲多し。

久しく通勤路を走った事が無いので,明日の高齢者運転講習に行く早稲田自動車学校への道筋を朝8時に出て,どのくらいかかるか試運転をして見る。
五日市駅前迄は10分ほどで順調に行けたのだが、八幡川橋を渡ると左へ曲がれと表示がある。まっすぐ行かないと学校には行かれない。仕方なくバイパス迄1キロばかり引き返す。
暫く考えて,旧国道に出ることにして、川の左岸を下って国道まででる。鈴が峰学園前から左折して、また先程の一方向区間を過ぎた所から最初の道に戻り学校にやっと付く。それでも30分かかっていなかった。
一応ひと安心。
旧国道に始めから出ればいいのだが、JRと広電の線路を二度越えなければならず、渋滞がひどいのがいやなのだ。
やはり老いると事前準備が必要な事を改めて理解する。
これで明日は大丈夫だ。

家内は広島市民病院でリウマチの検査の電話が入る。明日の10時半と云う。
記念病院の紹介だとの由。
明日は二人とも朝から忙しい。

正午過ぎちらちらと降り始める。
南風も強くなる。
大した雨ではないが降ったり止んだりで暗くなる。

古川薫の久原房之助の伝記を書いた「夢はるかなる」を読む。
名前はよく知ってたのだが、政界で怪物と云われたことだけで、小坂鉱山、日立鉱山を立ち上げた銅成金だとは知らなかった。
昭和初期私の幼少期に既に名を成していた人だった。
226事件の裏幕とか云われて悪人呼ばわりされていた様に思う。この本により思ってたとは全く反対の人物だと良く理解出来た。父親が暗殺されたり,親戚に疎外されたりしながらも奮起して立派な実業家になったひとだった。
政治家としても井戸塀だったことが嬉しい。現代の政治家どもに爪の垢でも呑ましてやりたい。

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2009年9月29日 (火)

高齢者自動車運転講習

今朝6時の気温は24度と夏がぶりかえす。
天気予報で雨を覚悟したのだが,7時半まだ降っては居ない。しかし朝靄に包まれて島影一つ見えない。そのうち降り出して来るかもしれない。

高齢者講習に出掛けるので早く起きたのだが早すぎて時間があるので、こうして日記を書いたりしている。

8時10分に家を出てバイパスを行く、一番乗り。
一緒に高齢者運転講習を請ける人6名、うち私だけがこの制度が出来てから3度目,2度目の人一人、後4人は初めてというのだから,皆70台である。若くて溌剌としている。
兵隊にいったのも私一人、休憩雑談の時皆驚いている。

認知機能予備検査は-1796点で問題ないと言われる。
しかし運転適性診断は総合評価3でまあやっと合格点といったところ。
自分でも驚いたのは夜間視力61秒以上でもう夜間運転は要注意とある。
動体視力も0.2で平均以下である。
しかも視野角度に至っては117度とこれまた平均以下で余程ゆっくり走らないと危険だということだった。

運転実習も30年ぐらい軽自動車オンリーだから,大きな試験車のコロナには手こずる。車庫入れは一度では無理だった。然も初めてのオートマだから勝手が違う。感覚が鈍るばかりの3年先にはとてもまともな運転は出来ないだろう。

停止視力が0.8あるので辛うじて免許更新は可能だが、どうやら今回限りという事になりそうである。
齢90にして,70年に亘る自動車とのお付き合いもお別れしなければならない。
やはり死んだ方がよさそうだ。

家内も市民病院から午後3時頃に帰って来る。随分人が多くて待たされたらしい。
結果は大した問題は無くよかったようだ。
次の機会に簡単な手術で済むとのことだった。

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2009年9月30日 (水)

佐久間第6号潜水艇々長

昨日から降ったり止んだりが続いている。今朝7時の気温は22度。
暑気いまださめやらずといったところか。

昨日の高齢者講習の疲れがひどく今朝も7時迄ぐっすり眠る。よほど緊張したと見える。

今日の産経netviewを読むと,人物講座の欄に「佐久間勉 艇内で部下思う遺書」という表記で,私には懐かしい佐久間艇長のことが書いてある。
私の郷里のすぐ沖合で明治43年4月15日沈没して亡くなった第6号潜水艇の佐久間艇長以下14名の殉職事故の事である。

勿論私が生まれる10年前の事だから事実は知る由もない。
しかし子供の物心ついた頃から毎年行われる,新港の記念碑の前でのお祭りに母に連れられて約一里の道を何度かお参りのために詣でた思い出がある。
折から桜が満開で、海岸の岩こぶの頂上にある記念碑からつづく山に植わった花を見るのも楽しみであった。

江戸時代からあったらしい、新港と呼ばれる小さな港は岩国藩の上方や江戸に向う海上利用の関門であったらしい。
記念碑はこの新港の北の端に隣接していた。大小の舟が停泊していたのも子供には珍しい光景ではあった。
せいぜい帆船で、蒸気船のような大きなものはなかったし、港には入れなかっただろう。
港と言っても石を何段にも重ねた”がんぎ”に舟を着け乗り降りしていた。内海の島々に沢山あるスタイルの港である。

後年満州の会社に就職した時,同じ課にたまたま学校の8期先輩の長谷川さんが居られた。
兵隊に行く迄の8ヶ月間随分公私ともにお世話になった。入隊した後にも一度出張で新京に行った時,お宅に泊めて貰って奥様の手料理をご馳走になった事があった。

終戦後ある日突然その長谷川さんから手紙をいただいた。呉で第6号潜水艇の記念行事があるから出掛けるが,不案内なので案内して欲しいという事だった。
よく聞けば艇の次席の長谷川中尉が叔父さんに当たり、自分が一番近い係累だから招待を受けたという事だった。

記念行事は呉の記念公園にて行われた訳だが、潜水艇のその後の在処は知る人がなく、見たいという長谷川さんと一緒にあちこちと訊ね歩いた。
米軍が鉄くずとして処分したというのが大方の意見だった。

後日江田島の第一術科学校の校庭にある事がわかったが、宮崎県に住んでいた長谷川さんには訪れる機会はなかったのではないか。

こうした因縁のある第6号潜水艇だが、私自身は幸い2度艇に面会する事が出来た。小さな艇でよくも14名も入って勤務出来たものだと今でも不思議な気持ちである。私自身も中学生時代当時潜水学校に置いてあった艇の中に入った事があって、その窮屈さを実感していた。

佐久間艇長の沈勇さは教科書に載ったほどで、世界的に賞賛された行為だが、部下も当時の最優秀な軍人達だったらしい。長谷川中尉も兵学校卒業第2位の成績だったとある。

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